Butterfly 4



「・・・ごめんなさい、お父さま」

 隣り合った後部座席で、そう呟いたきり項垂れた祥子にお父さまは苦笑いのように
言った。


「それはもう聞き飽きたよ」

 穏やかな声からは、怒りや不快の感情は感じられなかった。

 頻繁ではないが、高等部を卒業してからは、何度かこういったことがあった。お父
さまやお祖父さまと「お知り合い」の男性と一緒に食事やお茶をする。ただそれだけ。
顔を見知っている方もいれば、名前さえも初めて聞くような方もいた。


 それがどういう意味を持つのかは、祥子もわかっていた。

「付き合いとはいえ、祥子にも窮屈な思いをさせてしまったね」

「・・・いいえ」

 けれど、頭では理解できていても、応えることはできなかった。

 きっと、祥子に求められているのは、数字を上手く動かすことではない。収まるべ
き所へ早く収まることこそが望ましいのだ。


 マンションへと向かう車の中が、やけに重苦しい。沈黙は嫌いではないが、今は居
心地が悪かった。


 暗澹たる気持ちが湧きあがってくるようで、祥子は目を閉じて溜息をつく。

 それが沈黙の中にとけ込んだ頃、お父さまは祥子の頭をそっと撫でた。


                              


「おかえりなさい、祥子さま」

 祐巳が迎え入れてくれると、冗談ではなく足元から崩れ落ちてしまいそうになった。

「お風呂の用意、出来ていますよ」

 それを彼女に気取られないように、お腹に力を込めて廊下を歩いた。

「ありがとう。でも、喉が渇いているの」

「じゃあ、お茶を淹れましょうか」

 祥子から鞄を受け取りながら祐巳が微笑む。その顔を眺めていたら、胸に痛みが走
るようで、祥子は足早にバスルームへ向かった。


 冷たい水で手を洗いながら、うがい液を探す。口に含んだ水を吐き出してから鏡を
見返すと、ひどく青白い顔で。雑にならない程度に急いで化粧を落とした。


「良い匂い」

 リビングの扉を開けてすぐに鼻腔をくすぐった香りに、祥子は思わず呟いていた。

「この間、新しいお店をみつけたので買ってみたんです」

 ローテーブルへ置かれた二人分のカップからは、ほのかな湯気が立ちあがっていた。
ソファに腰かけると、すぐ隣に祐巳も腰をおろす。甘い匂いの紅茶は口に含むと匂い
とおそろいの風味がした。


「おいしいわ」

 喉を潤した紅茶が身体の中に沁みわたっていくのを感じながら、カップをテーブル
へ置く。そのまま視線を向けると、彼女は微笑みに少しだけ苦みを混ぜたような顔色
を浮かべていた。


「どうかしたの?」

「いいえ。玄関で窺った時よりはお顔の色が戻られているから、よかった」

 そう言って、彼女は慈しむように祥子の背中を撫でた。

 ゆっくり、ゆっくり、小さな手のひらが背中の上を上下する。それだけのことなの
に、そこから彼女の体温や、感情まで流れ込んでくるようで、喉の奥が狭まっていく。


 背中を撫でてくれる手とは反対の手が、祥子の肩を静かに引き寄せて、そのまま頭
ごとかき抱かれた。


 祐巳の髪が頬に当たる。

 狭まっていた喉元からこみ上げてくるみたいに、嗚咽が漏れた。

 別に、泣きたくなんてない。悲しいわけでもない。

 ただ、彼女の匂いと体温に包まれて、凝り固まってしまいそうだった胸の奥が解れ
て溶けだしただけ。


 わけもなく泣くなんて馬鹿みたいだ。

 けれど祐巳は、呆れたりすることもなく、ずっと背中を撫でていてくれた。


                              


 祐巳の寝顔を眺めてから、祥子はため息のように笑う。

(まるで私ばかりがはしゃいでいるように言っていたのに)

 その辺りの自覚はきちんとある。祐巳が母親のようにそれを窘めていたことも覚え
ている。でも、祐巳だってしっかりとはしゃいでいたのだ。カーテンを開けた窓から
差し込む、夜明け前の光にも、彼女はピクリとも反応しないのだから。


 旅行へ行こうと誘ったのも、行き先に遊園地を選んだのも祥子の方。元々、旅行先
でも日常と変わりなく過ごすのが当たり前だと思っていたけれど、ふと、非日常な旅
行をしてみたいと思いついてしまった。それ位、彼女と過ごすことが日常のありふれ
たものになっていたのかもしれない。


 昇り始めた朝日が、ベッドへ横たわる祐巳を照らしている。先ほどまで祥子が横に
なっていた方へ向いたまま、腕を柔らかく曲げた姿勢で眠っている姿が可愛らしいと
思った。


 ベッドへ戻ればすぐにでもその柔らかな身体を抱きしめることができるだろうけれ
ど、祥子は立ち上がらなかった。窓辺に置かれた椅子に腰かけて、じっとその姿を眺
めていた。


 私たちはこんなにも近くにいるのに、どこか遠い。

 きっと、運命の赤い糸があるのなら、今はたまたま絡まり合っている地点に二人が
立っているだけのことなのだ。


 触れて、結ばれて、解けない程に絡まり合って。けれどその塊を抜けた糸の先は、
離れて別々の方向を向いているに違いない。


 お互いとは別の誰かと結ばれる為に。

(・・・・・・幼稚ね)

 おとぎ話を夢想していたことに気が付くと、こみ上げてくる笑いを抑えられなくな
ってしまった。


 祐巳から窓の外へと視線を戻すと、先ほどよりも一層明るさを増した朝焼けが広が
り始めていた。


 また、一日が始まる。

 眩しかったり、寒かったり、その表情が違っていたとしても、朝は来る。

 その光の中に、彼女が立っている。

「?」

 不意に、衣擦れのような音がして振り返ると、祐巳が目をさましていた。

「あら、もう起きたの」

 先ほどまで穴が開く程に眺めていたくせに、今し方気付いたような顔をして振り返った。

「祥子さまこそ、どうしたんですか?こんな早くから・・・」

 気が付いてはいないのか、祐巳は時計を一度見てからこちらへ歩み寄った。

 見上げた空いっぱいに朝焼けが広がっている。

 すぐ傍に立った祐巳に擦り寄って、その色が変わるまで二人して眺めていたいと思った。

「こういうの、好きよ」

 髪を撫でられる感触が心地くて、思わず喉を鳴らしてしまったら、おかしそうに笑
ってから祐巳は抱きしめてくれた。髪に、彼女の唇が何度も触れる。


「・・・朝焼けも、青空も、それから夕日も」

 窓の外を眺めながら、包まれる感触にしがみつく。

「その中に、あなたと一緒にいられるのが、好きよ」

 別々の方向へと向いた糸の先を摘み上げて、自分の手で結んでしまったらどうだろ
う。抱きしめられながら、やっぱりおとぎ話を思い出して笑った。


 渡しそびれたいつかの贈り物を、差し出すことすら怖くてできないくせに、と。


                              


「もう・・・お姉さま、約束したのに・・・」

 手を繋いで歩く帰り道で、祐巳は拗ねたような口調でそう言った。

「約束通り、好き嫌いは言っていないわ。ただ、食べたいものを言っただけじゃない」


 けれど、祥子とて負けてはいない。そもそも祐巳が良くない。(思い立ったから)
一緒に買い物へ出かけようと言っているのに、(祥子が好き嫌いをするものだから)
自分だけで買い物を済ませてくる等と言うなんて。その上、開き直る祥子に、彼女が
めげずに挑んでくるものだから、思わず額に口付けてしまった。


 手を繋いで、はしゃいだ子どものように、笑ったり、ぶつかったりしながら家路を
歩く。無意味なかけ合いが、ひどく楽しくていつまでもこうしていたくなる。


 ふと、二人の後ろに伸びる影に視線を落とすと、その合間に彼女の横顔が見える。
先ほどまでの笑い声が、急に消えたように見えて、静かになった祐巳の視線を追うと、
車道をはさんだ向こう側の歩道を歩く男女が見えた。知り合いではない。かといって
特別その二人が奇抜な格好をしているわけでもない。


 ただ、遠目にみても恋人同士だとわかる雰囲気だっただけだ。

 祥子の通う女子大学の構内では見られることがないだけで、そんな光景は街を歩け
ばいくらでも出くわすもので、珍しくも何ともない。特に感想を抱くようなものでも
なかった。けれど、それを眺める祐巳の瞳に影が差したように感じて、まじまじとみ
つめてしまう。


 祥子の視線に気が付いたのだろうか、祐巳が顔を上げた。

 泣き出しそうな瞳だった。

「どうしたの」


 流すつもりで尋ねるのは卑怯だろうか。

「・・・いえ・・・」

 そのくせ、取り合ってもらえないと虚しくなるのは、傲慢だからだろうか。

「・・・かぜ、引いたのかも・・・二月はやっぱりまだ寒いですね・・・」

 祐巳は嘘をつくのが下手だ。今日ほどそう思ったことはない。慣れないくせに、平
気なふりをしようとする。


 きっと、祥子の為に。

 俯いた彼女が、どこかへ飛んで行きそうで、祥子は繋いだ手を強く強く握りしめた。
 繋いだ手のひらの中へ、彼女が薬指にはめている指輪が食い込むようにあたる。

『お姉さまが大学を卒業されるまでの間で良いですから』

 その日が終われば、祐巳は、通りの向こうを歩く女の子のように、大切な誰かと手
を取り合って歩いていくのだろうか。


『・・・いいわ』

 嫌だ。


                    *



 質疑応答の後の口頭試問を終え、椅子にかけた祥子は胸の中に溜まっていた重苦し
さを吐き出した。長い長いため息の後には静かな時間が待っている。残りのクラスメ
イト達全てが口頭試問を終え、各教授からの総評を頂いたら、祥子の卒業論文は終わ
る。結果は後日通知されるが、特に不安はなかった。付け加えるのなら、クラスメイ
トたちの前での発表にも、教授たちに囲まれての口頭試問にも程よい緊張以外は感じ
ていない。だから、ため息を吐き出したのは、緊張感から開放された安堵によるもの
ではなかった。


 もう、終わりの日は目の前だ。

 就職活動も、試験も、卒業論文の提出も、誰のためのものでもない、自分自身のた
めだ。けれどそれが一つ終わるたび、安堵するよりも前に塞ぎこみたくなる。


 乗り越えた先に待っているのは、独り歩く未来なのだ。

 自分の足で立つことも、自分の力で歩いていくことも、特別なことではない。そう
して然るべきであるとわかっている。そして、拙くとも自分もそうであろうと思うこ
とが出来た。


 けれど。

 これから先、例え誰と出逢っても、すれ違っても、寄り添いたいと思うことは出来
ない気がした。


 側にいて欲しい人はたった一人だけ。

 側にいたいと願う人もたった一人だけだ。

 その人が、自分から離れる日は、目前に迫っている。

 浅く腰掛けた椅子に背を預けたまま、祥子は天井を仰いだ。白すぎて眩暈がした。


                     *



 卒業式が近づいてくると、どうしてだかその言葉を口にすることを二人して避ける
ようになっていた。黙っていてもその日はやってくるのに。


『学生生活最後の思い出ですね』

 不意に、彼女が言った。

『本当にね。後は滞りなく終わってくれるといいけれど』

 滞りなく。そう、引っ掛かることも、間違えることもなく。きっと終わる。それを
望んでいるかのような自分の口ぶりに笑いたくなった。こんな所でまで強がりな性分
を発揮することもないだろうに。そんなことを思いながら。けれど、崩れてしまって
はいけないような気がして、笑い声を喉の奥へと押しやった。


『祥子さまは、やっぱり、小笠原グループの会社に勤められるのですか』

 尋ねる祐巳の瞳を見返しながら、そう言えば、将来のことについて口にしあうのは
初めてではなかっただろうかと思い当った。


 もちろん、何も考えていないわけではないし、何もしていないわけでもない。それ
は祐巳だって同じだろう。ただ、終わってしまう二人の間で話題に上げる必要がなか
っただけの話だ。


 祐巳は気が付かれていないとでも思っているのだろうか。

 使わなくなった教科書。

 季節違いの衣類。

 日常に使う些細な小物。

 少しずつ消えていく、彼女の私物。

 寝室へ脚を踏み入れると、どこか整理された部屋の中へしんとした沈黙が響いた。

 初めから、カウントダウンは始まっていた。けれど止める術なんてない。時間を止
めること等出来やしないのだから。


 それでも、気が付かないふりをしていられた頃はまだ良い。もしかしたら、この先
もずっと、一緒にいられるのかもしれないと、期待を膨らませることもできた。季節
が何度も巡って、そのどれもを彼女と過ごす度に、膨らんだ期待は限界のないまま大
きくなっていく。


 けれど、それは祥子の方だけだったのだ。

 もうきっと、姉妹でいられた頃にも戻れないだろうに。

 最初からわかっていたこととはいえ、こんな風に見せつけられると、思っていた以
上に堪えた。


 ベッドへ腰掛けると、シーツの柔らかな感触の中に身体が沈んでいった。いつも祐
巳が横になる位置をそっと撫でてみる。何のことはない。普通の布地の感触だ。


 掴んで、持ち上げて、引き寄せる。けれどやはり、変わり映えのない色身のそれに、
縋りつくように顔を埋めると、いつも自分を包み込んでいる匂いがして涙が零れた。



                               


「きちんと起きられるかしら」

 祥子の呟き声に、祐巳は苦笑のように眉を下げた。

 衣装の手配は済んでいるし、高等部の頃のように、式の中に役割があるわけでもな
いから、無事出席さえすれば、明日の式は問題なくこなせるはずだった。ただし、そ
の「無事」の部分に、いつもより相当早い起床時間が含まれているだけの話で。


「朝、少し騒がしくするかもしれないけれど」

 運よく起床できたとしても、余裕を持って活動することはできないような気がして、
祥子は最初に断っておくことにした。


「構わないですよ。在校生は休講日ですから」

 おっとりとした様子で宥められて、何だか力が抜けていく。高等部までのものとは
違い、大学の卒業式に在校生は出席しない。おかげで去年までの三年間、祥子は先輩
方の見送りもそこそこに、図書館や研究室に籠ってその日を過ごしていた。年度末は
何かと忙しい。祐巳も似たようなものだ。だから、明日も去年までと同じように過ご
すのだろう。否、もしかしたら、大学へ来ることもないのかもしれない。


 部屋の中から、祐巳の荷物はほとんどなくなっていた。

「・・・・・・手を繋いでもいい?」

「え?」

 祐巳も、知らない間にいなくなるような気がして縋るように言ってしまったら、シ
ーツの中で柔らかな手がそっと握りしめてくれた。


 指先が手首を出た後で、手の甲をなぞって、祥子の指の背をくすぐる。指が絡まり
合った後に、彼女はそっと離れていこうとした。


『私を、お姉さまの恋人にして頂けませんか?』

 始めたのは彼女で。

『ずっと、なんて言いません』

 終わらせるのも彼女で。

 それから自分は。

 一人傷ついたような気持ちになって蹲っているつもりなのだろうか。

「あ、の・・・?」

 何かに反発するように、離れていく指先を握り返した勢いでその手をシーツへ押し
付けると、彼女は戸惑うように声を上げた。


『あーあ。ずいぶん派手に転んじゃったわね』

『え、祥子の五十キロに押しつぶされちゃったの?悲惨ー』

『おーい。被害者、生きている?』

 祥子の髪が肩から流れて祐巳の頬へ落ちていくのを眺めながら、いつか聞いたお姉
さま方の声が耳元を掠めたような気がした。


 懐かしく、愛おしい光景。

 ひどく昔のことのようで、けれど鮮烈に蘇ってくる。

 あの時の彼女と来たら。大きな目をいっぱいに開いて固まっていた。そこに映しだ
されていたのは自分だ。


 今と同じように。

 その目元を指先でなぞってから、前髪を撫でる。覗いた額に口付けると、祐巳の喉
が微かに鳴った。それと一緒に、大きな瞳が瞼に覆われた。


 頬にも、唇にも、同じように口付けを落とすたびに、色付いた吐息が零れ落ちてくる。

 僅かに顔を離してみつめると、あの頃より少し大人びた彼女がいた。

 閉じられていた祐巳の瞳が、ゆっくりと開いていく。

 ずっと。ずっとこの人が好きだった。

 初めて出逢ったあの日から、腕の中に抱きしめることのできる今日まで。

 わかっていたはずなのに。

『・・・いいわ』

 本当に。何てことに頷いてしまったのだろうと、泣き笑いしたくなる。

 良いはずがない。

 彼女の始めた四年間よりもずっと前から。祐巳は祥子の大切な人だった。

 それを、ある日を境に終わらせることなんて、出来やしないのに。

「・・・・・・愛してる」

 答えが返ってくると思っていなかった祥子の背中を、祐巳の腕が力強く抱きしめた。


                              


「これで心地いい温室ともサヨナラだわ」

「本当。就活中はそんなことも言っていられなかったけれどね」

「四月になれば、毎日あの緊張感と疲労感よ、きっと」

「あら。それじゃ素直に卒業証書受け取れないじゃない」

 寝不足の祥子の頭の後ろを、クラスメイト達の談笑が通り抜けていく。

「あ、でも。小笠原さんは、在学中も忙しそうだったわよね」

 ふと名前を呼ばれて、沈みかけた意識を無理やり引き起こした。

 朝から騒がしくするかもしれないと伝えた祥子に、「構わない」と答えたはずの祐
巳は、どうしてだか祥子に合わせて起床した。


 いつもと同じように、朝の準備を慌ただしく済ませている祥子を横目に、軽めの朝
食を用意していてくれた。けれど、口数は少なかった。


「そうねえ・・・。でも、他の方々と一緒よ。忙しい時もあれば、そうでない時もあ
るし」


 名字の方で呼びかける彼女は、大学で知り合った友人だった。

「そうなのよ。その、「そうでない時」がかけがいのないものだったって、どうして
その時気が付かないまま遊んでいたのかしら、私はっ」


「どうしてそんなに悲観的なのよ、門出の日に」

 それぞれの笑い声が空高く吸い込まれていく。入場まで、まだしばらくは時間があった。

「いいじゃない。門出の日なんだから、湿っぽく別れを惜しむより、前を向いている
感じがするでしょう?」


「それはそうね。常に最悪の事態を考えて行動しろって、どこかで習った気がするわ」

「常にってところは省いといてよ小笠原さん」

 軽く肩を叩かれて、祥子も笑いを弾けさせた。

 高等部の頃には考えられなかった。別れの日に、負け惜しみでも、無理強いでもな
く晴れやかな気持ちでいられることが。あの頃に比べて、周囲への想いの質量が違う
というわけではない。


 ただ、気が付いたのだ。

 明日は今日の少し先にあって。未来はもう少し遠い場所にある。

 歩いて行く道すがら、近い場所にいる顔ぶれは変わっていくかもしれないけれど、
繋がりがなくなるわけではない。ふと顔を上げて見渡せば、同じように歩いていたり、
休んでいたりするその人たちがいるはずだった。


 そんなことを考えていると、春の始まりのような風が吹いて髪を揺らした。身体に
鞭打ち早くから起床して仕立てた髪が乱れていくような気がして、祥子はそこを整え
ようとした。その拍子に、左手に持っていた鞄へ手の甲が当たる。


(・・・ああ)

 鞄の中で、それが揺れて音を立てたように聞こえて、祥子は息を零した。

「どうかした?」

 唐突に口を噤んだ祥子をみつけた友人がこちらを覗き込む。

「いいえ」

 応えながら鞄の上から触れると、それがまたかさりと音を立てた。

 それは、渡しそびれたままの贈り物。

 彼女の左手の薬指に慎ましやかに填められているものとよく似たデザインのもので、
手元へ届いた時には、面白みや新鮮さに欠けるように思っていた。


 けれどそんな理由からではなく、差し出す勇気がなかった。

 誓いの証のように彼女の目の前に差し出して、首を横に振られたらと思うとどうし
ても二の足を踏んだ。


 明日は今日の少し先にあって。未来はもう少し遠い場所にある。

 それを、ある日を境に終わらせることなんて、出来やしないのに。

「・・・ただ、用事を思い出してしまって」

 鞄に触れる手のひらが、しっとりと汗ばんでいく。

 でも。

 今日は、何かを終わらせなければならない日ではないはずだ。

「式が終わるのを待っていたら間に合わないの」

 捨て去っていいものなんて、この手の中にはない。

「あら、大変」

 冷たくなっていきそうな指先をぎゅっと握りしめて踵を返そうとしたら、言葉とは
裏腹におっとりとした声が投げつけられた。


「でも学生生活最後の式典なのに、惜しくないかしら」

「謝恩会が最後のイベントでしょ。そっちの方が楽しいし」

 卒業式を今正にエスケープしようとしている祥子を宥めるわけでも、放っておくわ
けでもなく、それを肴に言い合う顔ぶれの中には、高等部もリリアンで過ごした友人
もいたりする。何と言うか、お互いたくましく育ったものである。


「きっと、それまでには終わらせて来るわ」

 式場とは反対方向へ脚を繰り出しながら、祥子はそれだけ告げた。

「じゃあ、小笠原さん、代返“1”ね」

 明日からでは返す当てがない、そう思って苦笑する祥子の背中に、友人たちは口々
に謝恩会の開始時間を浴びせかけた。


 走りだしそうな祥子に、追い風のように春の風が吹きつける。

 ふき上がっていく感覚に顔を上げると、桜並木があった。まだ、花は咲いていない。
固い蕾が並ぶ枝の間から見えるのは、柔らかな青色。


 どこかで出会ったような風景だった。


                               


「お待ちなさい」

 口にする度、なんて情けない言葉なのだろうといつも思っていた。相手を呼びとめ
たくて、けれど、止まってもらえないことが怖くて、必要以上に居丈高になる。おま
けに、走って来たせいで呼吸が乱れていて、力の加減がわからない。


 愛車でマンションへ一目散に帰ってきたまではよかった。けれど、祥子の駐車スペ
ースはエントランスからはかなり遠い。更に言えば公道を一つ挟んでいたりする。だ
からと言って、普段ならばその距離を走っていくなんて真似は絶対にしない。けれど、
どうしてだか一秒でも早くそこへ着かなければならないような気がして、車を降りる
と同時に駆け出していた。


 少しずつ部屋から消えていった、彼女の私物。

 今日、部屋を出る時にほんの少しだけ残っていた荷物も、今頃片づけられているの
かもしれない、そう思った。


「祥子さま・・・」

 荷台部分を大きく開いた軽自動車の側で、祐巳はそう言ったきり固まってしまった。
祥子がこの場にやってくるなんて思いもよらなかったのだろう。


「こんなことじゃないだろうかと思っていたけれど・・・」

 扉のあいた車の中には、部屋から運び出したのであろう荷物がこれでもかと言う程
に詰め込まれていた。


「どうして・・・」

 うわ言のように祐巳が呟く。どうして、ここへいるのか。もしくは、どうしてこの
状態を予想できたのか。そう言った疑問が、まとまりきらずに疑問符だけが口をつい
たのだろうか。けれど、少なくとも後者については、どうしても何もない。どうやら
祐巳は本気で気が付かれていないと思っていたのだろう。腹立ち紛れにそのことを教
えてやったら、祐巳は困り果てたように視線を右往左往させた。


 それが一段落すると、その愛らしい瞳をうっすらと濡れさせてこちらを見上げてく
る。それに流されてしまわないように、祥子は一度視線を落として深呼吸する。歩み
寄ると、彼女が尚も不安そうに眉を寄せているものだから、やっぱり挫けそうになった。


「それで、何なの。この、夜逃げするみたいな車は」

 抱きしめてしまいたい衝動を抑えつけようとしたら、低く唸るような声になる。

「だって・・・約束、したから・・・」

 怯えたように、心もとないように、彼女が小さな声で答える。

「祥子さまが、卒業するまでって・・・だから・・・」

 覚えている。

「だって・・・祥子さまも、あの時・・・卒業までだって約束した時に、頷いて・・・」

 ―――ワタシヲ、オネエサマノコイビトニシテイタダケマセンカ?

「・・・そうね」

 惨めだと思った。

 彼女からかけられた言葉にではない。

「本当に、あの時は馬鹿にされているんだと思ったわ」

 終わる日が決まっているとわかっていて尚、喜んでしまった自分自身に対してだ。

「どうして、卒業まででいいなんて言ってしまったのかしら」

 ずっと、ずっと彼女は大切な人だった。

 これから先も、変わることなく、愛しい人だとわかっていたのに。

「・・・・・・手放す気なんて、なかったのに」

「え」

 祐巳が、驚いたように声を上げた気がした。それが祐巳のものなのか、吹きつける
音なのかわからなくなるようなタイミングで、風が駆け抜けていったからだ。


 せっかく結わえてもらった髪も、もう目も当てられない状態なのだろう。自分で確
認できない所が不幸であり幸いでもある。申し訳程度に、頬にかかった自分の髪を払
いのけると、祐巳の髪も風に弄られてほつれているのが見えた。


 そのおくれ毛を耳にかけてやると、祐巳は何かを堪えるように唇を噛みしめた。

「・・・でも、あなたもあなたよ。私があれだけ気持ちを伝えているのに、全く気が
付かないで。最後まで「恋人ごっこ」だと思っていたってことでしょう」


 その表情を眺めていると、堪らなく愛おしい気持ちがわき上がって彼女の頬を手の
ひらで包んだ。それなのに、気持ちとは正反対に恨み言のような呟きが口をついて出
る。そんなことを伝えたいわけじゃないのに。視線を落とすと、彼女の左手が目に入
って反射的に持ち上げていた。


 祥子の手の中に収まった、彼女の小さな左手の薬指には、見慣れた指輪が填められ
ている。けれどいつもとは違って見えるのは、それが元の位置から随分と離れていた。
今にも抜け落ちそうな距離だ。


 祥子が声をかける直前に見た彼女は手を組んで俯いているように見えた。ちょうど、
マリア様のお庭で、お祈りを捧げている時のように。


 あの時に、外そうとしていたのだろうか。

「私も後先なんて考えられなかったのね、きっと。あなたを繋ぎとめることしか考え
られなくて・・・結局、遠回りになってしまったわ」


 言いながら、彼女をじっとみつめるけれど、呆然とした瞳はただ祥子を見返すだけで。

 いっそのこと、素知らぬ顔をして填めなおそうかとすら思った。

 黙ったままの彼女に、ちりちりと喉が焼けついてしまいそうだ。

「まだ、わからないの」

 問いただすように尋ねた自分の声は、思っていた以上に大きくて、目の前の祐巳が
肩を強張らせたのがわかってしまった。


 こんなことがしたいわけじゃない。

 彼女を試したり、詰ったり。疑ったり。

 そのくせ、何も聞かず、何も言わずに、期待だけを膨らませて自分勝手に落ち込む
のも。


 そんなことがしたいわけじゃない。

 繋いだままだった手を持ち上げて、額を押し付けると、彼女の体温が流れ込んでくる。

 終わりを始めたのは彼女。

 それならば。

 これからを始めるのは二人。

 それを告げるのは。

「・・・・・・側にいて、ずっと・・・」

 喉の奥から戦慄いていくみたいだ。声を吐き出すと、それと一緒に涙まで零れ落ち
そうになる。


 彼女からの答えはない。

 もしかしたら、震えすぎた声が空気にかき消されたのだろうか。

 それとも、切り捨てられてしまうのだろうか。

 どちらにしても、顔を上げられそうになくて、祥子は額を押し付けた彼女の左手を
ぎゅっと握りしめていた。


「本当に・・・?」

 鼓膜が塞がれたような感覚に穴が開いた。そこから、彼女の声と一緒に、周囲の風
の音や、枝の揺れる音まで流れ込んでくる。


 顔を上げて確かめると、確かに祐巳の声のようだった。彼女は言い終わった時の
ままの形で口を開いていた。


「生涯最後かもしれない卒業式をすっぽかしてまで、冗談なんて言いに来ないわよ」

 痛いほどの緊張感のせいだろう、うまく気持ちをおさめられなくてぶっきらぼうな
言い方になってしまう。けれど、彼女はこちらのそんな様子は全く気にならないのか、
というよりも、「生涯最後の卒業式」という件に過剰に反応してうろたえ始める始末。
おかげで、それを眺めている間に、身体の力が抜けていく。妙な高揚感と優しい温も
りが胸の中に満たされていく。


 けれど、顔を上げた彼女と目が合った途端、忘れかけていた緊張感が満たされてい
た気持ちを揺さぶった。


 ここから、胸の中から出してくれと、その気持ちが内側から叩きつけるように、心
臓が音を立てる。


「これを受け取ってくれる?」

 指先にまでその振動が伝わってくるかのように震えてしまう。それを抑えつけなが
ら、鞄から取り出したのは、渡しそびれていた贈り物。彼女がこちらを覗き込むのを
感じると、やっぱり震えが抑えられなくなりそうだった。


「・・・芸がないなんて言わないでね。あなたの好みがどんなものかわからなかった
のだから・・・」


 箱から取り出したそれを彼女の左手の薬指に填めようとして。すぐに先ほど外され
かけていたもう一つの指輪が見えた。


 その指輪をしっかりと填めなおして、その上から真新しい指輪を重ねた。

 かけがえのないこれまでと。これから重ねていく未来と。そのどちらにも誓う。

「私は、今までの四年間も、これから先も。全てを祐巳と一緒に在りたいの」

 彼女の薬指へと落としていた視線を上げると、彼女も同じように顔を上げた

 視線が絡まって、その先に彼女の澄んだ瞳が見える。


「あなたは?」

 語尾が震えてしまったけれど、取り繕うこともできないでじっと彼女だけをみつめ
ていた。


 祐巳が静かに頷いてくれたのが、やけにゆっくりと映ってから。

 両手のこぶしの内側で、彼女が何度も頬を拭うから、泣いているのだとわかった。

「・・・ばか」

 強く強く抱きしめた腕の中で声を上げて泣く彼女へ、そんな言葉しかかけられない
祥子に祐巳が言った。


「だいすき、さちこさま」

 確かなその声は、まるで鐘の音のようだった。



                               END



 そんなこんなで「あいをこめてはなたばを」祥子さま編でした。何と言うか、祥子さまも祐巳ちゃん
のこと好きすぎて、祐巳ちゃんの気持ちがわからないという、両想いの片思い感が私は大好物のよ
うです。タイトルはKえらさん。や、可愛い曲なのでつい妄想(殴)ではではごきげんよう。



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