Butterfly 1



 パッヘルベルが風のようにそよいでいる。見上げると、どこかぼんやりと柔らかな
青空が広がっていた。視線を下ろしながら、並木になっている桜の枝に目がとまる。
まだ蕾は固いのだろう。けれど、新入生を迎える頃にはそぞろに綻び、満開の淡色が
咲き誇っているはずだ。


 そよいでいた音色が、少し近くなった気がして祥子は腕の中にある花束を見た。
風が頬を掠めて、その拍子に手にした花の香りがしただけの話だった。


 この一年間付き合ってきた自分の通り名と同じ名前のものではないけれど、赤い薔
薇は気高いような香りがして祥子は少しだけ頬を緩ませた。


 だけど。

「あの・・・お姉さま・・・」

 自分を取り囲む景色が美しければ美しい程、その先には何もないような気がして祥
子は動けなくなる。


「どうかして?」


 写真を撮りあったり、雑談に興じている仲間たちを、少し離れた位置で眺めていた
祥子の元へ、彼女は小走りのように近づいてくる。


「その・・・」

 祥子の前まで来ると、その勢いは見る間に消えて、彼女は言い淀むように俯いた。

「・・・・・・」

 きっと、感傷に浸っている祥子に、考えるよりも先に何か声をかけようとしてくれ
たのだろう。


 彼女は。

 祐巳はそういう子だった。

 高等部へ上がるまで、祥子にとって、学校は単なる通過点だった。

 別段不満もないけれど、その分面白味もない。だからと言って、それ以上を求める
気すらない。


 もうすでに自分の行く道は決まっているのだ。平坦だろうが、起伏が激しかろうが、
過ぎ去った後に振り返ること等ない。繰り返される日常をこなす時間が途方もなく続
くだけ。それならば、一々心に波風を立てることも馬鹿馬鹿しい。


 本気でそう思っていた。

 それを、一番初めに突き崩したのは、お姉さまだ。

 お姉さまは容赦なく、祥子の閉じこもっていたクローゼットの扉を破壊した。斜に
構えたり、捻くれたりする暇すら与えずに、そこから祥子を引きずりだした。おかげ
で、繰り返されるはずの日常は、夜の中にリセットされて、朝にはまるで違う風景に
なっていた。


 彼女は、心に波風を立てることすら煩わしい祥子が、荒波にもみくちゃにされるの
を心底うれしそうに眺めていた。祥子のすぐ傍で。


 ただ、祥子が荒波だと思っていたのは、言ってみれば漣が少しばかり大きなものに
なった位の衝撃だったけれど。お姉さまの腕の中にしっかりと包まれて、ひょいと覗
かせた顔に少し強めの風がぶつかったようなもの。それに驚いた祥子が泣き喚いても、
お姉さまは放り投げたりせず、抱き上げて立たせようとしてくれた。何度でも。


 楽しげに、お姉さまはいつも笑ってくれていた。

 そのお姉さまにすら、見せなかった心の淀みがある。否、見せられなかった。その
淀みと向き合うことすら、祥子は恐れていた。


 それを拾い上げてくれたのが祐巳だった。

 それは汚くて。醜くて。触ると痛い。

 祥子自身ですら、胸の奥底に沈ませて、なかったことにしようとしていたその気持
ちを、祐巳は抱きしめて、大切な自分なのだと教えてくれた。


 だから。

 通過点であったはずの、この生活が愛おしくてたまらない。そこから羽ばたいてい
くことが、苦痛で仕方がない程に。


「お願いがあるのです・・・」

 意を決したように顔を上げた祐巳の表情は、らしくなく強張っている。

 向かい合う自分の顔も、それ以上に強張っているはずだった。

 彼女を、手放したくなんてない。

 卒業なんて区切りで、どうして引き離されなければならないのだろう。

 そんなことしか考えられない。

「ずっと、なんて言いません」

 声を発することすらできない祥子の前で、祐巳は思い詰めたように言葉を吐き出す。
それから、俯いて。眉を顰めて。おおよそ、今まで見てきた彼女には似合わない表情
ばかりだ。


「祐巳・・・?」

 耳に入ってきた情けない声は自分のものだ。けれど、今にも泣きだしてしまいそう
な祐巳を目の前にして、祥子はうろたえることしかできない。


 ああ、こんな時、祐巳ならどうやって宥めてくれていただろう。そんな風に記憶を
巡らせてみても、それを上回る勢いで頭に血が上って行って、何も考えられなくなり
そうだ。


 お願いだから泣かないで。

 そう祥子が縋りそうになった所で、祐巳はまた、顔を上げた。やっぱり、強張って
いた。


 だけど。

「私を、お姉さまの恋人にして頂けませんか?」

 吐き出された声は、流暢で、けれどどこかへ流れていくことなくはっきりと祥子へ
向かって飛んできた。


「え・・・?」

 手にしていた薔薇の花束がかさりと音を立てた。

 その次に、緩やかな風が悪戯に祥子たちの横を通り過ぎて、髪をなぶる。

 風の音。それから、風に揺られる枝葉の音。

 最後に、それよりもっと早い自分の心臓の音が聞こえてくる。

 ―――ワタシヲ、オネエサマノコイビトニシテイタダケマセンカ?

 煩わしい程の心音と混ざり合いながら、祐巳の言葉が祥子の身体の中を駆けていく。

「・・・卒業までで良いんです・・・次の・・・」

 ざわめく血流に気圧された祥子の前で、祐巳は目を逸らすことなく言葉を紡いでいく。

「お姉さまが大学を卒業されるまでの間で良いですから」

 じっとこちらをみつめながらそう告げる祐巳の瞳に、狼狽する。喧騒が、身体の中
だけでは収まらなくなりそうに落ち着かない。


『ずっと、なんて言いません』

『卒業までで良いんです・・・次の・・・』

 それは。

 ―――ワタシヲ、オネエサマノコイビトニシテイタダケマセンカ?

 その言葉が祥子への好意や恋情ではないことを告げる前置き。

 それなら、何の為に?

 いつもの祥子なら、それこそ自分が納得するまで祐巳を問いただすはずだ。それな
のに、前置きを取り払った言葉だけが祥子の中でいつまでも駆け巡っている。


 胸が痛いくらいに鳴っている。

 いつの間にか握りしめてしまった手のひらが汗ばんでいる。

 緊張で強張ってしまった喉元が痛い。

 でも、これは嫌悪じゃない。

 歓喜だ。

「・・・いいわ」

 馬鹿みたいな自分の身体の反応に、自制を掛けるよりも前に言葉が口から出てしまった。


                             


 停車をすると同時に、祐巳が玄関から飛び出してくる。きっと慌てた表情を隠せな
いまま肩で息をしているに違いない。確かめようと窓を下ろすと、祥子が予想した通
り、落ち着きのない顔のままこちらへ駆け寄ってくる祐巳が見えた。


「乗って」

 促されるまま祐巳は扉を開けて車内に転がり込んだ。勢いよくシートベルトを引こ
うとするものだから、中々上手い具合に装着できないらしい。祥子の車の横を、後続
の車が苛立たしげに走り過ぎて行ったが、別段慌てる気にもならなかった。その分祐
巳が慌ててくれているようだから、それを眺めている方が気分が良い。


 祥子が笑い声を漏らしてしまう直前に、ベルトの装着される音が車内に響いた。

「今日はどこに行きましょうか?」

「あ、はい」

 車を発進させてから祥子が尋ねると、耳まで赤くしてじっと俯いていたままだった
祐巳が、やっと顔を上げてくれたようだった。


「この前はケーキバイキングだったけど、今日は時間があるから、おやつは朝と昼に
分けたら良いと思うの」


「祥子さま、私が食べ物にしか興味がないと思っているでしょう」

「あら、とても幸せそうに食べていたじゃないの、ケーキ」

「うーっ」

 左折させる合間に盗み見ると、祐巳は頬を膨らませてこちらを睨んでいるようだった。

「今日は、ええっと、雑貨屋さんとか、お洋服屋さんとか、・・・」

「カフェとか、パティスリーとか」

「もうっ」

 言葉を被せて遊んでいたら、ついに耐えきれなくなったのか、祐巳が動いた。

 多分、それは今までの延長。薔薇の館や、廊下や、お互いの教室や、高等部の頃の
じゃれあいと同じように、彼女は祥子を軽く制止しようとしただけだ。


 祐巳の手が、ギアを握った祥子の手の甲に触れた。

「あっ・・・」

 それからすぐに、何を思ったのか素っ頓狂な声を上げて手を離す。

「どうして、余所余所しくなるの?」

 彼女の大きな動作を最後にして、車内にどことなく漂ってしまった沈黙に、祥子は
少しだけ眉をひそめてしまった。


「え、っあの、そうじゃなくて・・・すみません。運転の邪魔になっちゃうから・・・」

 祥子の様子に気が付いたらしい祐巳が、縮こまったようにしどろもどろで言う。こ
んな時、もっと柔らかく振る舞えたらどんなに良いのだろうと、いつも思うのに。


「なっていないでしょう?」

 願いとは反対に、祥子は淀みなく流れていく外の景色を指し示すように、心もち顎
を上げて見せた。何ともふてぶてしい。わかっているのに改められないものを、性質
だの気性だので片づけてしまうのは、改善に向けた努力を怠っていることを取り繕い
たいだけだ。そこまでの理解はできている。


 でも、ほんの些細な仕草でも、それが祐巳のものだと思うと、簡単に受け流すなん
てどうしてもできない。


 一瞬だけ祐巳の触れていった手が熱い。

 祐巳はそうではないのだろうか。

 盗み見た横顔は、こちらからは表情のわからない角度でもどかしくなる。

 じりじりと焦げ付いていくような感覚が胸のあたりにはり付いて広がって行く。あ
まり心地よくない感覚で、そのくせ手放すのはもったいないような気がする。


 自分でもどうしたいのかわからないまま、祥子はフロントガラスの向こうで流れ去
っていく景色を眺めていた。


 祐巳の気持ちがわからない。

 帰り際、悪戯に小さな手を取ったら、彼女は拒まなかった。

 わからない。


                              


「一人暮らし?」

 夕食の席で祥子がぽつりと漏らした呟きに、お父さまはぽかんと顔を上げて尋ねな
おした。


「どうして?」

 お母さまもおっとりと顔を上げて、祥子とお父さまの顔を見比べている。

「いえ。他の学科より早いですが来年度から所属のゼミナールが決まるので、それに
向けて忙しくなると思いまして」


 頭の中で取り留めなく流していた言葉が不意に漏れて問いただされても、それなり
の対処はできるものだ。ただ祥子の思い浮かべていたことは自分の願望で、理由を探
れば別のところにあるけれど、さしあたって必要になるものを後付けする方が妥当な
場面だっただけ。


「家に帰られなくなる程にかい?」

「そういうわけではないと思いますが。電車を乗りついで帰る分には少し遅くなると
思います」


「・・・うーん・・・」

 難しそうに眉を顰める様子が少し芝居掛っているように見えなくもないが、彼は本
気で悩んでいるのだろうと判断する。だからといって、口から出た言葉を今更撤回す
るわけにもいかない。けれどもが、是が非でも今すぐそうしたいと言うものでもない
はずだ。


 そう、ほんの少し思い浮かべてしまっただけ。

 今よりももっと一緒にいることができたなら。

 いつも柔らかく笑ってくれる彼女の側にいることができたなら。

 そんなことを考えていただけ。

 祐巳の気持ちは、相変わらずわからない。

(・・・わからない、と言うのは違うのかしら)

 ―――卒業までで良いのです。

 彼女は、そう言っていた。

 祥子が大学を卒業するまでの間、恋人になって欲しい。

 前後の言葉を組み合わせて導き出された答えは、多分正解で、それが祐巳の気持ち
なのだ。


 だから、わからない、と思うのは、祥子にそれ以上の期待があるからに他ならない。

 わからないのは祐巳の気持ちじゃない。これから自分がどうなって行くのか、どう
したいのか、わからない。


 祐巳が好きだ。

 冷静でなんていられない。

 これからのことなんて考えられない。

 ただ側にいたいだけ。

 だから、わからないのだ。

「女性の一人暮らしは何かと物騒だと思うな」

「・・・夜道を一人で歩いて帰るのも同等には物騒なはずですが」

「車を出させるよ」

「やめてください。それなら歩いて帰ります」

「いや、危ないじゃないか」

「結構です」

 次々と目の前に障害物を置こうとするお父さまに、むきになって反論すればする程、
我を押し通そうとしているようで居心地が悪かったけれど、どうしてだか譲れなくな
った。


「祥子、怒らなくても良いじゃないか。僕は何も絶対に一人暮らしをさせたくないと
言っているんじゃないよ」


「まあ、私が拗ねているみたいじゃありませんこと、そんな言い方」

「・・・いや、その」

「?」

 唐突に言い淀み始めたお父さまの様子に、祥子は首を傾げる。お母さまは特に変わ
ることなくいつも通り、ゆっくりと箸を動かしている。


「もしかして、ボーイフレンドができたのかい」

「・・・・・・は?」

 目を見開く祥子、の視界の端でお母さまは、やはり何事もなかったかのように口元
へ箸を運んでいた。


「一人暮らしを許さないわけじゃないけれど、男の子を連れこんだりする為なら、僕
は反対すると言っているんだ」


「嫌だわ、お父さま」

 きっぱりと言われて、祥子はやっと、お父さまがこちらの反論に逐一答えていた意
味がわかった。そしてそれは、強ち間違いではない。さすがはお父さまとでも言うべ
きか。もちろん、素直に頷けるほど、屈託なく育っていないのは祥子自身の問題である。


「そんなこと、するはずないじゃありませんか。第一、先ほど言いましたわ。大学の
授業が遅くなるからと」


 半分は建前だが、この際そこは割愛しても問題ない。とにもかくにも、今は彼から
承諾を得ることが重要だ。


「本当かい?」

「ええ、興味がありませんもの」

 ガールフレンドですからご心配なく。そう続けても良かったが、それでは尚更お父
さまの混乱を招いてしまうだろうと口を塞ぐ。とりあえず、この場にお祖父さままで
揃っていなくてよかった。騒ぎが二倍になるところだ。


「・・・それはそれで困るんだが」

「どっちですの?」

 真っ当な葛藤を示すお父さまを急かすのは少々気が引けないでもない。けれど、こ
こでこちらが退いてしまうのも癪だった。


 じっとみつめていると、お父さまはやっぱりらしくもなく視線を右往左往させてい
る。珍しい表情に、祥子が興味を示し始めた所で、何か踏ん切りがついたのだろうか、
ふと彼が視線を上げた。


「わかった。前向きに検討する。でもその代わり、物件は僕と一緒に探すんだよ。祥
子一人では駄目だ」


 過保護ぶりに肩をすくめたくなったが、そちらの方が話は早く進むだろうと気を取
り直す。高等部を卒業したというだけで、祥子が未成年者であることに違いはない。
それよりも何よりも不動産物件の契約に必要な手続きや順序すらわからないのだ。だ
からその申し出はむしろありがたいもの。スケジュールに余裕のないお父さまからの
ものなのだから尚更。何よりも、それは間違いなく了承の回答だった。


「ありがとう、お父さま」

 微笑みかけると、お父さまはこちらに負けない位爽やかな笑顔を振りまいてくる。
何となくうんざりとしたけれど、すぐに気にならなくなったのは慣れのせいだろう。


 お父さまと祥子がお互いに覚えている予定を確認していた所で、ずっと黙っていた
お母さまが声を上げた。


「私も一緒に行きたいわ」


                              


 二度目のチャイムが鳴って、祥子は慌ただしく駆けだした。意味もなく髪を整えな
がら、玄関へ急ぐ。


 実家のものよりも幅の狭い廊下を抜ける。手の触れた壁は目が覚める程白い。フロ
ーリングは艶やかだけれども、どこか重みのない印象。そこをスリッパで踏み鳴らし
ながら、次の一歩を踏み出すとすぐに玄関に到着した。


 お父さまからの承諾を得たまではよかった。お祖父さまも渋々ではあるが最終的に
は首を縦に振ってくれた。事務的な手続きも、お父さまの横で何だか小さくなりなが
らではあるけれど、滞りなく済ませることができた。それなのに、一人暮らしを決め
てから、季節が一つ変わってしまいそうな程の時間が経過してしまったのは、部屋を
決めることそのものにかなりの時間を割いたせいだ。


『でも、これじゃあ祥子さん。お風呂でゆっくりできないでしょう』

『キッチン周りの機能も、もう少し必要じゃないか』

 一つ部屋を訪れる度に繰り返されるステレオ放送に辟易とした祥子が、夕方にはぐ
ったりと自室のベッドに倒れ込む週末がかなりの長期間続いた後、やっとそれぞれの
眼鏡にかなう物件と巡り合えたのが数週間前。


 そこからの祥子の行動は早かった。物件探しと同じ轍を踏むわけにはいかない。具
体的には家具の搬入や小物の購入等にまで両親を伴っていたら、部屋に越してくる日
はさらに遠のいてしまう。業者の選定も連絡、交渉に至るまで、祥子一人ですること
に決めた。ただ。お父さまをそれとなく遠ざけることには成功したけれど、お母さま
にまでは隠しだてすることもできず、二、三度お買い物に付き合ってもらうこともあ
ったが。それから。


『男手があった方が何かと便利だと思うけれど』

 駆けまわっている祥子を楽しそうに眺めながらそう言った優さんに車を出してもら
うこともあった。癪ではあったけれど、車一台より二台の方が運べる量は増える。


 とにかく一日でも早く、祥子はここで新しい生活を始めたかった。

「あら」

 慌てた素振りを出してしまわないように慎重に扉を開けた。

「早かったのね」

 すぐ目の前に、彼女が立っていた。

 喜びを自覚するよりも前に、祐巳が困惑したような表情を浮かべたものだから、思
わず覗き込んでしまう。


「お姉さま、きちんとインターフォンを確認されましたか?」

「どうして?」

 呼んでいたのは祐巳だけだと答えた祥子に、祐巳はますます不安そうな表情を浮か
べ始める始末。


(嫌だわ、祐巳ったら・・・)

 どうせまた、世間知らずだの、警戒心が無さすぎるだのと好き勝手な感想を思い浮
かべているに違いない。靴を揃えて廊下に足を踏み入れるなり、防犯について話し始
めた様子を察するに、祥子の予想は間違ってはいない。けれど、祥子はその小言を適
当に受け流してリビングへと歩いた。もちろん、祐巳が心配してくれるのはうれしい
けど、お生憎さま、マンションのエントランスフロアを抜ける為の認証時には、訪れ
た部屋に割り当てられた番号を入力しなければならない。そこで確実にその人物の画
像もチェックされている。まあ、その後別の部屋の扉を叩く輩がいればあまり意味は
ないのかもしれないけれど。今回に限って言えば、祥子はきちんと確認した上で、扉
を開けているのだ。


「もう、祥子さま。ちゃんと聞いていらっしゃいますか?」

 祥子の背中にしがみ付きそうな勢いでそう訴える姿は可愛らしいけれど、天の邪鬼
で負けず嫌いな性格のせいで、その仕草を堪能することよりも、何だか見くびられて
いるような状況に澄まして見せるしかなかった。


「適当に座って」

 防犯講座にとり合わないまま促すと、諦めたのか、それとも呆れたのか、祐巳は大
人しくソファへ腰掛けた。


「あの、お片付け、もう終わったのですか?」

 カウンター越しに声が聞こえてきて祥子は顔を上げる。

「ええ」

 答えながらキッチンを出ると、祐巳は僅かに俯いて祥子から視線を逸らす。どこと
なく不機嫌に見えなくもないその表情に、慌ててグラスをテーブルへ置いてから、ら
しくもなく今日にいたるまでの経過を説明する。けれどそれが反って良くなかったの
か、祐巳は益々黙り込んでしまった。


 それを呆然と眺めてから、うろたえている自分に気が付いた。

 彼女の些細な仕草で一喜一憂するのはいつものことだ。その度に、平静を装おうと
躍起になることも。だから、今更そんなことに気が付いたからと言って、不思議に思
うようなことでもないけれど。


「これでやっと、少しは自分のことは自分でできるようになるわ」

 それがあんまりにも板についてきたような気がして少しばつが悪くなっただけ。だ
から殊更にお腹に力を込めて言ってみせると、何だかわざとらしいような気がしなく
もない。


「祐巳と一緒にいる時間も増えるしね」

 隣に腰かけて覗き込むようにしたら、彼女は視線を離して膝を抱え込んでいた。

「・・・・・・」

 祐巳は黙っている。最初に彼女を百面相に例えたのは聖さまだっただろうか。けれ
どこんな時、祥子のようにあからさまに眉を顰めることも、声を荒げることもない彼
女の表情は読みづらい。


「晩ご飯は、一緒に食べましょうか。送るから」

 こちらへ向けられることのない瞳に焦れながら、耳元近くでそう告げると彼女のお
くれ毛が一瞬だけ見えた。祥子が言い終わるよりも前に、彼女がこちらへ振り返った
からだ。弾かれたように跳ねた肩。強張った頬。少しだけ開かれた唇。


 視界に入ってくるすべてに引き寄せられて、抗えなくなる。

 触れてみると、揺らめいていた瞳も見開かれたまま固まってしまった。

「・・・付き合っているのでしょう?」

 拒絶される前に、念押しのように言った。

 赤く染まったままの頬で祐巳がこちらを眺めている。そこから目をそらさずに祥子
もみつめ返す。


 みつめあった最後に、祐巳が頷いた。

「・・・」

 頷いた後にもう一度こちらを見上げた彼女の唇が、その拍子にうっすらと開く。引
き寄せられたように感じたのは錯覚じゃない。ゆっくりと、でも確実に、身体ごと祐
巳に引き込まれるような感覚に、抗わなかっただけ。


 しっとりと柔らかな感触が唇に広がると、胸の奥が打ち震えた。

 重ねた唇を、角度を変えて押し付ける。何度か繰り返していたら、祐巳の吐き出し
た息にほんの少し音が乗せられて、止まらなくなる。


 こんなこと。ほんの少し前までなら、誰かと口付けを交わすなんて想像したことも
なかった。そうしたいとも思わなかったし、どこか避けて通りたいような気持ちだっ
てあったはずなのに。


 喉の奥から、声とも吐息ともつかない音が漏れてくる。口付けの合間に額を重ね合
わせたけれど、祥子と同じような祐巳の息遣いが間近に聞こえて、すぐに唇を寄せた。


 グラスの中で、溶けた氷が崩れ落ちて音を立てた。


                              


 ぎこちない。でも、心地よい。

 夏休みが終わる頃、祐巳は多忙を極めていた。山百合会の活動だ。リリアンで開か
れる学園祭の手続きに、花寺の手伝いに、学校へいる間はきっと息つく暇などないだ
ろう。


「・・・泊って行ったら?」

 祥子の腕の中で、何度か腕時計を眺めていた祐巳に、焦れたようにそう言った。

 ソファよりも低い位置に二人して座り込んでいるのは、この前新しく買ったクッシ
ョンを祐巳が気に入ったからだ。そこへうれしげに腰を下ろす彼女を、後ろから抱き
寄せる祥子が、フローリングへ直に腰をおろしていた。


 腕の中にしまい込むように抱きしめると、祐巳の背中が少しだけ強張る。祥子はと
いえば、どんなふうに力を入れたら良いのか分からないまま、祐巳のお腹のあたりで
手を組むしかできない。二人ともひどく硬い仕草で。ぎこちなくて。それなのに、こ
の上もなく心地よい。


「え、でも・・・」

 振り返りながらこちらを見返す瞳が微かに揺れた。

「明日も、学校?」

 忙しく駆けまわっている彼女には、平日も週末も関係ない。平坦に学校生活を済ま
せている祥子に合わせて、週末の今日、この部屋を訪れてくれただけの話だった。


「はい、午後から花寺との打ち合わせがあります」

 だから。早く家へ帰って、明日に備える必要がある。そう言いたいのだろうか。

「じゃあ、ここからの方が近いわよ」

「そうですけれど・・・」

「あなたのお家には、私が電話するわ」

「・・・・・・」

 言い募る祥子を持て余すように祐巳が黙り込む。

 当たり前だけれど。祐巳が部屋を訪れてくれたとしても、彼女は夕方には帰ってし
まう。もう少しだけでも側にいて欲しい、そんな願望を口に出そうとする度、夜遅く
彼女を帰らせることはできないと気が付いて祥子は口を噤んだ。もちろんそうなれば
なったで、祥子が車を出せばいいわけだけれども、祐巳がこちらの申し出に甘えてく
れることはあまりなかった。


 だから、こんな風に食い下がること等、今まではなかった。それならば今日も我慢
できただろうに。それとも、今日こそが我慢の限界なのか。どちらにせよ、この手を
離したくない。


 加減のわからないまま、抱きしめた腕に力を込めると、柔らかな身体がより一層近
くに感じられて溺れてしまいそうだ。


「・・・・・・帰らないで」

 呟いた自分の声が、不格好に掠れているようで慌てて取り消したくなる。

 けれど言い淀むしかできないでいると、一瞬のため息の後、強張ったままの身体が
振り返った。


『帰ります』

 そう念押しされるものだろうと俯いた祥子の頭が勢いよく抱きしめられた。

「っ?」

 唐突に揺れた視界に驚いて声も上げられずにいると、耳元に柔らかな感触が押し付
けられる。


 すぐ側に打ち付ける心音が聞こえて、触れている場所が分かると、喉がひりひりと
乾いていくようで。


 腕を回しなおして抱き返すとその感覚はもっと強くなる。

 耳に聞こえる心音が、少し強くなった。


                         


「やっぱりリリアン女子大に行くんだ。祐巳ちゃん」

 ローテーブルにノートを広げていた令が顔を上げて言った。

「由乃ちゃんも?」

「うん。私のところと、迷ったみたいだけど」

「そうなの」

 令の様子を眺めてから、祥子はページを捲る為に視線を落とす。文字を追いかけよ
うとしてやめた。カップへ手を伸ばして口へ運ぶと、慣れた香りが鼻腔をくすぐった。
令の淹れてくれる紅茶はいつも通りおいしかった。


「でも。『令ちゃんと学校でも一緒にいられたらうれしいけれど、それだけを基準に
すると選択肢は狭まるでしょう』だって。いつの間にそんなこと考えるようになった
んだろう」


 笑いながら呟く令はほんの少し拗ねているようにも見えたけれど、どこか嬉しげだ。

「だからって、祥子と同じ大学を選んだ祐巳ちゃんの視野が狭かったってわけでもな
いと思うけどね」


「そうね」

 答えながら、その方がもしかしたらうれしかったのかもしれないと思った。

『リリアン女子大に行こうと思います』

 ふと気が付いて尋ねた祐巳は、もうずっと前から決まっていたことのように言った。
きっと、否、間違いなく、志望校の選定について、そもそも祥子のこと等彼女の考え
るべき事項の中にはない。たまたま、自分の進む先に祥子がいた、それだけの話だ。


『でも、言って欲しかったわ』

 反発を覚えてそう言った祥子を、祐巳は苦笑いを浮かべて眺めていただけだ。

「本当に、いつの間にか自分で全部決めちゃうようになるんだよね。当たり前だけど」

 ほんの一、二年前までの妹たちの姿を思い浮かべたのだろうか。令は感慨深げに吐
き出した。


「だからって、由乃ちゃんは何も言わないわけではないでしょう?」

「まあね」

 頬杖をついて眺める祥子の前で、令は隠すこともなくうれしそうに笑った。その途
端に、彼女がうらやましい気がして、祥子は視線を泳がせる。


 自分で考えたことも、時に迷いあぐねることも、彼女たちはきちんと伝えあうこと
ができるのだ。だからこそ、令の浮かべる微かな寂しさですら、この上なく贅沢なも
ののように思えてしまう。


 他と自分を比較して羨ましがるなんて、素直にはしたないと思う。思ってはいるの
に考えついてしまうのは、自分の思慮が足りないからなのだろう。


 何よりも。

『卒業までで良いんです・・・』

 終わりを始めた二人には、これからを話し合うなんて、そもそも不要なことなのだ。

「祐巳ちゃんだってそうでしょう」

 何かに思い当ったように令は尋ねたけれど。

「どうかしら」

 投げやりな気持ちになってそう答えるだけで精一杯だった。

「そうだよ。祥子が聞き洩らしてたら別だけど」

 泳がせていた視線を元へ戻すと、令はやっぱり笑っていた。眩しかった。



                          NEXT

inserted by FC2 system