朝のまえ 2



「いらっしゃい、はるか」

 扉を開けると、彼女はそう言って、花の蕾が綻んでいくような笑顔を見せた。その
途端に、はるかは落ち着かなくなって、不格好にまごつきそうになる。履いてるジー
ンズは腿のあたりからズタズタに破けているけれど加工だし。履き潰したようなスニ
ーカーだってはるかのお気に入り。トップスはこの間お店でみつけて即購入したヤツ
を今日おろしたばかり。そりゃ、彼女の部屋のあるこのマンションだかコンドミニア
ムだかにはまったく不釣り合いだろうけれど。生憎はるかはそんなことで居た堪れな
くなるような繊細さは持ち合わせていなかった。だから、この落ち着かなさは多分、
もっと別の理由からだろう。


 佇んだままスニーカーの底を床に押し付けたけれど、絨毯の敷き詰められている廊
下は声一つ上げずに衝撃を吸収していく。


「ねえ、上がって?」

 いつまでももたついているはるかを不思議に思ったのだろう、みちるはこちらの肩
にそっと触れて中へ入るよう促した。


「ごめんなさいね、呼びつけるようなことをして」

「えっ?全っ然・・・、僕が会いたかったんだし」

 脱ぎ散らかしたスニーカーを揃えていたら、後ろから呟くような声が聞こえてきた
から、振り返りもせずにそう答えた。というか振り返られない。耳が熱い。


「・・・私も・・・」

 振り返られないまま背中を向けていたら、もう一度彼女の声がした。それと一緒に、
ふわりと空気の動く気配がして、背中から柔らかな彼女に包み込まれる。


「あいたかった」

 真後ろで零された囁き声が吐息のようにはるかの耳へと流し込まれて息をのむ。は
るかの短い髪を鼻先でかき分けるように擦り寄って、包んだ背中に柔らかな身体を押
し付ける仕草。胸の膨らみが殊更に、はるかの心臓を悲鳴が上がる程に圧迫する。


「・・・ん」

 何とかそれだけ吐きだして、息継ぎもしないまま彼女と唇を重ねた。

 何のことはない。長々と離れ離れになっていたわけではなく、彼女が二、三日実家
へ帰っていただけだ。そこでの家族団欒の結果、パーティを開催することになったと
か。テーマはお父さまの誕生日会。シンプルでわかりやすいな。愛娘のみちるからの
贈り物はヴァイオリン演奏。妥当と言うか王道と言うか。まあ尤もである。それが家
のリビングじゃなくて、紳士淑女の集う荘厳なホールである所に、庶民なはるかは疑
問でいっぱいになるだけで。おかげさまで、帰ってきてからのみちるは学校とお仕事
以外は部屋に籠りっ放し。


「・・・・・・」

 だからって、放ったらかしにされているわけでもないんだけど。反って意識しすぎ
て、彼女が恋しくなる。


「・・・はるか、部屋に上がって・・・」

「うん・・・」

 結果。はるかは玄関フロアに座り込んだまま、みちるを膝の上へ乗せて、可愛い唇
を飽きることなくご賞味中。会ったことはないけれど、みちるのオトーサン、オカー
サン、ごめんなさい。お宅から帰ってきたばっかりなのに、余韻に浸る暇も与えない
ままオジョーサンを食べちゃいます。


「ねえ、はるか」

 促されても、曖昧に答えるだけで動けない。

 まったく会えないわけじゃないんだ。どちらかといえば、毎日のように顔を合わせ
ている。それなのに。


 変に緊張しちゃうくせに、タガが外れると駄目なんだ。歯止めが自分じゃ利かせら
れなくなる。


「うん」

「・・・もう・・・」

 頷くだけで一向に動く気配も見せないはるかに、みちるはため息をついてから苦笑
したけれど、優しく頭を撫でながらそのままはるかの好きにさせてくれた。


 何度目か分からない口付けが終わって、ほんの少しだけ彼女から唇を離すと、鼻先
が触れ合う距離でみつめながら、みちるが頬を撫でて言った。


「・・・はるかって可愛いのね」

「は?」


                               


「いつもと違うから、寝辛いかしら?」

 何度目かの身動ぎの後で、彼女がそう問いかけたものだから、はるかはあわてて首
を横へ振り回した。何度も言うけれど、はるかはそんなに繊細じゃない。多分アスフ
ァルトの上だって眠れると思う。したくないけど。


 寝辛い、わけではないらしい。自分のことなのに「らしい」とつけるのも妙だけれ
ど、とにかくそわそわと視線を動かして、ついでにわからないまま頭を動かして、だ
けど身体はしっかりと休息の体勢に入り込んでベッドへ沈んでいるのだ。


 彼女の匂いがする。この部屋の中も、自分達を包んでいるシーツも。ふわふわの感
触とおそろいのように柔らかくて優しくて、ずっと埋まってたい。


「・・・ううん。何か、寝るのがもったいないかなって・・・」

 口に出してみると案外しっくりくるから、多分そう言うことなのだろう。

 いつもだったら。

 そう、いつもだったら。

 その柔らかな谷間に鼻先ごと埋まって、指を食い込ませて。シーツよりももっと心
地よい波間に入り込むんだ。


「・・・・・・みちるは?」

 思い出すと、途端に手のひらが汗ばんでいくほどに、身体の奥から熱が生まれてくる。

「私も、もっとはるかとおしゃべりしたいわ」

 向かい合った彼女は寛いだ様子と同じようなおっとりとした口調。はるかは静かに
脳天へ衝撃を受けるのを感じた。擬音にすればガーンとか、そういうヤツ。


「おしゃべり、だけ・・・?」

 でもめげない。顔色を窺うように尋ねながら、ここで手をひっこめる気なんてさら
さらなかった。


「僕、もっとみちると仲良くしたいな」

 シーツの中、手探りでワンピースの裾をみつけてから、ゆっくりと撫で上げる。徐
々に布地が上がっていく感覚に、みちるが腿を微かに擦り合わせるのがわかって、喉
を鳴らした。持ち上げた布地が脇にぶつかって、「いい?」って聞いたら、みちるは
「降参」するみたいに腕を上げた。


「・・・みちる、おしゃべりしないの?」

「え?」

 ワンピースを引き上げると、それと一緒に彼女の柔らかい髪が一緒に巻き上げられ
ていく。


「黙ってるから。さっきおしゃべりしたいって言ったのに」

「そうだけれど・・・」

 完全に彼女から抜き取ったそれを、そう言えば彼女のお気に入りのルームウェアだ
ったと思いだして、ベッドの下へそっと置く。あらぬ方向へ放り投げたりしたら後々
大変だし。


「・・・みちるの声、好きなんだけどな」

 身体を起こして自分のTシャツを捲り上げながら、思いついて裾を持ったままの両
手を彼女の方へ突き出して見せたら、困ったように笑いながらみちるが抜きとってく
れた。プールへ飛び込むように、眼下のみちるへ向かって抱きつくと、おかしそうな
笑い声が聞こえてほっとする。


 はるかの背中を抱きしめた手のひらが、今度はショートパンツのウェストに入り込
む。下ろされていく腕を手伝って腿を上げると赤ちゃんみたいな体勢になるから、は
るかも我慢できなくて笑ってしまった。変なの。何でこんなに子どもっぽくなっちゃ
うんだろう。


 二人を遮るものがなくなって、お互いにぎゅっと抱きしめあったら、やっぱり子ど
ものようにじゃれ合っているみたいでくすぐったくなる。隙間をなくして、ぴったり
くっついて。唇を押し付けて、離すようなキスを繰り返したら、端から抜けていくよ
うな笑い声が目の前で零されてうれしくなる。


 みちるの声、好きだな。

 髪を撫でてくれる時や、額に口付けてくれる時のように。みちるの声が聞こえる度
に、鼓膜を撫でられているみたいで蕩けそうになる。


 高揚したまま、白い肌のいたるところへ手当たり次第に口付ける。はるかの唇が触
れると、さっと染まっていく頬や耳元も、熱を帯びていく首筋も、全部好き。それで
もって、ついさっきまで思い描いていたふわふわの胸も大好き。柔らかい谷間に額を
押し付けると想像の中よりもずっと気持ち良かった。


「っ・・・・・・」

 白い胸に埋まったまま、指先で先端に触れると息をのむ音が聞こえて、はるかは顔
を上げた。唇を噛みしめるような表情。声を押さえつける手のひらの仕草。視覚の愉
しみとしてはかなりの高レベル。食べちゃいたくなるような可愛らしさ。実際食べて
るんだけど。


 でも。

(・・・・・・声、出したくないのかな?)

 そりゃ、ここ最近はるかをストーキングし続けているところの体育会系クラブじゃ
ないんだから、大声を張り上げる必要なんて微塵もない。というか最初から最後まで
わざとらしいボリュームの喘ぎ声なんか興醒めだろうし。だからそう言うことを求め
ているわけじゃなくて。ほら。こう、思わず零れちゃう吐息に乗せられた声とか。喉
の奥から漏れてくる猫みたいな甘ったるい呻きとか。はるかはそういうのが大好物だ
った。かなりピンポイントな嗜好だけど。もちろんみちる限定で。


(・・・というか、もしかして、こういうこと嫌なのかな・・・)

 かすんじゃいそうな頭の中でそんなことを考えるけれど、甘い匂いに誘われて、自
制もないままはるかは色付いたそこを口に含んだ。忙しなくなっていく彼女の呼吸に、
ほんの少し音色が乗せられる。その声に耳を澄ませてから指先を彼女の奥へと滑り込
ませたら、額から粒になった汗が滑り落ちた。


 突き上げるたびにしがみついてくる細い腕を感じながら、嫌悪している、ってわけ
じゃないと思う。


 押し出されてしまいそうな圧迫感。高まり過ぎた硬直の後の、溶けていくような柔
らかな熱さ。確かに一つになっていく感覚に、はるかを拒む要素なんてない。


 それなのに、弾んでしまった息を整える彼女の頬を撫でたら、やっぱり困ったよう
な顔をして、みちるが顔ごと視線を逸らしたから、居ても立ってもいられなくなって
はるかは言った。


「・・・・・・みちる、嫌?」

 意を決して、というわりには語尾がひどく小さい気もするけど。その声に紛らわせ
て指を引き抜くと、不可思議な言葉を投げかけられたとでも言うような表情を浮かべ
て、彼女がこちらへ視線を戻した。


「どうして?」

 声と一緒に零れ落ちた吐息がはるかの下顎を掠めていく。ひどく熱かった。

「だって、・・・・・・だから、僕がいっつもがっつくから」

 わかっているなら自重すると言う手もある、と、落ち着いた時にならわかるんだけど。

「だから、私が渋々応じていると思っていると言うこと?」

 しょんぼりと肩を落としていたら、どこか気色ばんだような声でみちるが言った。
心外だと言いたげな視線と共に。


「・・・そうだったら、嫌だ」

 咎められているわけでもないのに、みちるがほんの少し厳しい表情になるだけで、
途端にそうされているような気持ちになる。だから、つい不貞腐れたような声になっ
てしまった。


 むすっと視線を落としていたら、もう一度彼女からため息が零されて前髪をくすぐ
る。けれどその感触に素直に顔を上げることもできなくて黙り込んでいたら、みちる
の腕が音もなくはるかの頭を抱いた。


 額と額をそっと押し付けるように重ねた後で、みちるが鼻先に口付けて、こちらを
覗きこんだ。


『はるかって可愛いのね』

 そう告げた時のように、眉を下げて微笑みながら。



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