朝のまえ 3



「天王さん。一教員として言っておくわ」

「何デスカー?」

 はるかはセンセーの声に元気よく答えた。机に突っ伏したまま。

「これ以上ここでサボるつもりなら叩き出すわ。あなたの為に」

 よく通る声が文章を唱え終えると、保健室にはいつも通りの静寂が戻る。

「僕の為って言うんなら、休ませてくれる方が正しい判断だと思う」

「あら。甘やかして全て言う通りにしてもらうことがイコール愛情だと思っているの
なら、初等科からやり直して来なさい」


「僕はこんなに気持ちも身体も弱ってるのに。どうしてそれを受け止めてくれないかな」

「あなたの気持ちはわかったわ。その上で今後の方向性を示すのが私の仕事よ。次の
チャイムが退出リミットですからね」


「はあい」

 ノートの角っこを自分の手のひらに打ちつけながらこちらを見下ろす眼鏡の奥の瞳
に本気を見たはるかは、殊の外姿勢を正して返事をした。わからなくもない。誰の目
から見ても、はるかは健康体そのもの。つまるところ正真正銘のサボりなのだった。


(・・・・・・だってダルいしなー・・・)

 授業なんて必要日数さえクリアしていれば問題ないわけで。毎回出席していなくと
も、考査や進級に差し障りなんてない。だからこそこの体たらく。


(みちるがいたら、そうもいかないんだけど・・・)

 授業が終われば、二人してお仕事に勤しんでいるけれど、その間ずっと無言かと言
えばそんなわけがない。どうしてもお仕事関係に比重が傾いちゃうのは仕方ないにし
ても、彼女は何かにつけて、「はるかが今日したこと」を話題に乗せたがる。今日、
と言っても、朝は一緒に登校して、終業と共に一緒に下校するのだ。つまるところ、
彼女の聞きたがる「今日のこと」とは、クラスの違うはるかが、授業をきちんと受け
ているかどうかの確認なのだった。おかげで終日授業を受けて過ごす習性が身に着き
ました。まる。


 それなのに、今のびのびと教室を抜け出しているのは、彼女がいないから、と言う
理由に尽きる。


「後十分よ」

「・・・わかってるってば」

 ご丁寧なガイダンスを聞き流しながら、はるかは突っ伏していた顔を腕に乗せたま
ま横を向く。開け放った窓から入り込んでくる風がカーテンを揺らしている。その向
こう側には霞んだ雲が流れている青い空。


 お父さまの誕生日会、は結構大きなイベントらしい。おかげで平日なのに、彼女は
朝から実家へ帰っている。パーティ自体は遅くまでしてはいないってことだけど。演
奏を終えた彼女がそのまま帰ってくることはない気がする。おまけに週末だから、し
ばらく会えないかもしれないと思いついて、はるかは尚更鬱々とした気分になった。


『・・・・・・みちる、嫌?』

 そのせいだ。余った時間で余計なことばかり考えちゃう。

『だから、私が渋々応じていると思っていると言うこと?』

 僕のこと本当に好きなのかな。とか。そんなことを考えなくてもいい程に、彼女か
ら愛情を注がれていることはわかっている。


『・・・そうだったら、嫌だ』

 でも、嫌われたくないって不安に思う気持ち位、はるかだって持ち合わせている。

 好きだ。

 だから、いっぱい確かめたい。

 それから、たくさん喜んで欲しい。

 だけどそれを言葉でどんなに尋ねてみても、優しい彼女の返答は肯定以外にない気
がする。それを疑いたいわけじゃない。ただ、彼女の小さな仕草一つ一つが気になっ
て仕方ないだけ。


(・・・どうしよう、このまま不能になったら・・・)

 どうしようも何もそう言った機能を備えつけていないわけだけれども、気分の問題
である。はるかはがっくりとうなだれた。突っ伏したままどこまでも沈んでいきそうだ。


 思考のループに陥りそうになったはるかの耳に、無駄に大きなチャイムの音が覆い
かぶさった。向かい側の椅子が、センセーの立ち上がる動作に合わせて音を立てる。
それを聞いたはるかも同じように音を立てて立ち上がる。先ほどと同じように彼女だ
ノートの背を手のひらに打ち付ける音とはるかが出入り口に向かって走る音が交差す
る。


「次の授業はちゃんと受けなさいよ」

 扉が完全に閉まる前に投げつけられた声から、はるかは一目散に逃げ去った。この
際天気もいいから屋上で昼寝でもしよう、そんなことを考えながら。


「ん?」

 不意に、スラックスの後ろポケットに突っこんでいた携帯電話が鳴った。

「・・・・・・」

 マシンのことだろうか。テストのことだろうか。どちらにせよ、これで堂々とこの
敷地から出られると液晶を見下ろしたら、メールの差出人の欄には思ってもみなかっ
た名前が浮かび上がっていた。


 『急にごめんなさい。今夜はお手隙かしら?』

 いつもの口調そのままの本文は、みちるからのものだった。


                             


「せっかくのお誕生日だもの。お母さまと過ごすのに、お邪魔虫は退散よ」

 迎えに行った車の中、あっけらかんとした様子でそう言って彼女は笑った。

「ふうん?それで?演奏は楽しめた?」

 はるかの問いかけに、みちるは満面の笑みを浮かべて頷く。

「お父さまはとても喜んでくれたわ」

 それは、もちろん大切な父親だから、なのだろう。けれど、きっと彼女は誰かが喜
ぶことで、笑顔を浮かべることのできる人間なのだ。みちるが笑っているだけでうれ
しくなるはるかは、だからといって他の人が笑っているからと言って別にうれしくも
何ともないんだけど。彼女が楽しそうだからいいかと、つられて笑った。


 ウィンカーを出して左に出るといつもの道に戻ってくる。彼女のいる右側からは、
夜空の映る海が見えるはずだった。視線をそっと寄せると、案の定、彼女は目を細め
ながら夜の海を眺めていた。


「車、停めようか?」

「?」

 舞い上がりそうな髪の毛を手のひらで押さえながら、彼女がこちらへ振り向く。


「がんばったみちるにご褒美。夜の海も好きだろ?」

「ええ、大好きよ」

 じゃあ決まり。そう告げて、手近な脇道へと入る。さざめくような音に耳を澄ませ
るように、彼女は微笑んだまま目を閉じた。


「あ、でも眺めるだけ。水遊びはしちゃ駄目だよ」

 車が停車すると同時に、ドアを開けて砂浜へと駆け出していきそうな彼女にそう釘
をさす。いくら春でも、水はまだ冷たいだろう。


「・・・はるかのケチんぼ」

 サンダルの踵に指をかけていたみちるは、はるかの言葉を聞くとびくりと肩を震わ
せてから振り返った。むっと唇を尖らせた、拗ねた表情で。


「ご褒美だって、言ったのに」

 珍しい表情に思わず笑ってしまったら、余計にご機嫌を損ねてしまったらしい。彼
女はつんと顔を反らせて、こちらに背をむけてしまった。


 軽く羽織ったショールのはためく肩を背中ごと包み込むと、抱きすくめた腕に彼女
の手のひらが触れる。重なった場所に穏やかな熱が灯されて、はるかの胸の中にまで
広がっていく。


 嫌われたくないって不安に思う気持ち位、はるかだって持ち合わせてるよ。

 それを振り払うように抱きしめた腕に力を込めた。

「・・・もう一つ、お願いしてもいい?」

「海が駄目ならプールに行きたい、とか言い出さないんだったらね」

 ふんわりとした髪に顔を埋めていたら、彼女が思いついたように呟くから、目を閉
じたまま告げる。


 少しの沈黙の後、彼女は「あのね」と言った。

「ご褒美は、はるかがいいの」

 耳に入って来た言葉は。はるかが待ちわびていて、けれど、予想はしていなかった
もので。どうしていいのかわからない腕が力を緩めると、みちるは静かにこちらへ振
り返った。


 好きだ。

 だから、いっぱい確かめたい。

 それから、たくさん喜んで欲しい。

 取り留めもなくそんな言葉を頭の中で巡らせながらみつめあう。

 いつもは柔らかく微笑んでいる頬っぺたが、今日は緊張しているかのようにほんの
少し強張っていた。だけど。


『・・・・・・みちる、嫌?』

「はるかがほしいの」

 あの時に戻ってそう答えると、みちるはそっと瞳を閉じてくれたのだった。



                           END



 恥じらう姿も罠ですよはるかさん。そんなお話。(え)



                        TEXTTOP

inserted by FC2 system