ンセット 3



「・・・・・・おい」

「・・・・・・」

 躊躇いがちに掛けられたはるかの声に、みちるは静かな寝息で答えた。

 本棚や柱で入り組んだ壁際の席に、ブラインドの隙間から西日がうっすらと差し込
んでいる。


「・・・何だよ」

 彼女は待ち合わせの時間に遅れることなんてない。いつもはるかより先に待ち合わ
せ場所へ来て待っている。時間にひどくルーズなわけではないけれど、待ち合わせよ
りも早い時間に合わせるわけもないはるかを待つ間、彼女は翌日の予習や、譜面の確
認をしていることが多かった。今日もそのつもりだったのだろう。実際、ここを訪れ
るのははるかより早かったわけだ。


 教科書と辞書、それから開きっぱなしのノート。その脇でシャーペンを握ったまま、
彼女は穏やかに瞳を閉じていた。


(疲れてんのかな・・・)

 珍しい状況を眺めながら、机の角を挟んだ隣の席へと腰掛ける。

 わからなくもない。ヴァイオリンに、絵画に、それからもちろん勉学に。あらゆる
方向に伸びていく才能は、努力なしに築かれるものではないから。日々の戦いや緊張
の合間を縫うようにして、彼女がそれに打ち込んでいることはわかっていた。だから
って、その身体はサイボーグでも何でもない。はるかと同い年の女の子なのだ。


 肘をついてその寝顔をみつめていると、いつもの気丈な様子からは程遠いくらい、
彼女の顔は柔らかくあどけない造形をしていることに気がついた。


(・・・・・・普通に可愛いじゃん)

 いっつもこういう顔してたらいいのに。そう思ったけれど、それでは物足りない気
がして自分がわからなくなる。


 怒った顔に、泣き出しそうな顔。はるかの姿を見つけると、うれしそうに笑う顔。
優しげだったり、寂しそうだったり。


 その全部に、胸の奥が疼く。

 ―――私、ずっとあなたを見てた。

 ふいに思い出したみちるの言葉が静かにさざめきを立てる。胸の奥だろうか、それ
よりももっと深い場所からだろうか。それは瞬く間に広がって、そこに収まりきらな
くなった。


「・・・・・・僕が好きってことだろ、それ」

 なのに、何でこんな気持ちにさせるわけ。

 無防備な寝顔に、どうしてだか悔しい気持ちでいっぱいになった。

 それから。

 その頬に向かって、自分の指先が伸びていくのを、まるで人ごとのように眺めていた。

 彼女の寝息が、微かに肌に触れる。

「・・・はるか・・・?」

「っ!?」

 頬へ触れる直前に、まどろんでいるような声が聞こえてはるかは肩を震わせた。

「・・・ごめんなさい。眠っていたわ」

 腕に顎を乗せたまま、彼女は二、三度周囲を見渡してから、そう言った。自分が寝
入っていたことに驚いているみたいな声だった。


「起こしてくれたらよかったのに」

 身体を起こしながら髪を掻き上げると拗ねたみたいな声でそう言って、彼女はこち
らへ視線を向けた。


「声はかけたけど。眠り姫には届かなかったみたい」

 慌てる内心を覆い隠すように、明るい声で答えると、目の前のみちるは片方の眉を
下げて笑った。


「あら。王子様のキスがあればすぐに目覚めるわよ」

 斜に構えるような角度でそう告げる姿は、挑発的だと受け止める以外に他はない気
がした。


「・・・別に、急いで起こさなきゃいけないわけじゃないだろ」

 先ほどまで眠っていた彼女に、見透かされているはずがない。それなのに、なんで
早口になっちゃうんだろ。


 ぶっきらぼうなはるかの声に、みちるは唇の片側だけを上げてこちらから視線を外
した。


「意気地なしな王子様」

 短く吐き捨てるような吐息が笑い声みたいだ。それを聞いた瞬間に血液が駆け昇っ
ていくような音がした。


 彼女の腰かけた椅子の背に手を掛けると、力任せに壁際へ押した。椅子の脚が浮か
んでしまうと、彼女の身体が呆気ないくらい簡単に椅子ごと反転する。はるかが感じ
ている衝動よりもずっと、彼女の身体は小さくて軽い。けれど、それに気がついたか
らと言って、今更後戻りなんてできそうにもない。


「後先考えずに煽ったりするなよ」

 椅子ごと壁に押し付けながら告げる自分の声が、低くて重たい。それなのに、上擦
りそうな語尾に気がつくと余計頭に血が上りそうだ。


 唐突に訪れた衝撃に、当然のようにみちるは目を見張った。

 睨み合う沈黙の中で、自分の心音が耳にはり付いてうるさかった。

 みちるは。見開いた目を、困惑の形に変えた。それから、薄く眉をひそめて、視線
を泳がせる。


 その姿がより一層、はるかを昂ぶらせる。壁際に閉じ込めた身体と同じように追い
詰めたくて仕方なくなる。けれど。


 泳いでいたはずの視線がはるかの瞳を捕らえると、ふっと眉をひそめていた力が抜
ける。


 そのまま、瞳が閉じられて、長いまつげに覆われた。

「・・・・・・っ・・・?」

 顎を上げるような仕草がまるでスローモーションのように視界へ映ると、彼女の意
図することがわかって飛び跳ねそうになった。


 ああ、まただ。

 苦しくて、痛くなるくらいに、心臓が泣き喚いて暴れてる。身体中を盛大に駆け
巡っていくその音がつぶさに聞こえて、はるかは目を閉じたくなった。


「・・・・・・はるかこそ」

 凍りついたままの時間は、彼女の声によって溶けた。

「え・・・?」

 ゆっくりと開かれていく瞳は、揺れてなんていない。強くしなやかな光を放って、
はるかを見据えていた。


『後先考えずに煽ったりするなよ』

 つい先ほどの自分の言葉を引用されたのだと理解すると、目の前でみちるがその唇
で弧を描いた。


 ぎりっと、口の中で奥歯を噛みしめる音がする。拳を握りしめる音まで聞きたくな
くて、机に叩きつけると鈍い音がした。


 それに怯むこともなく勝気な瞳でこちらを睨んでいる彼女に動揺を隠しきれなくな
りそうで立ち上がる。


「本っ当、可愛くないね、みちるは」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。



                        BACK  NEXT

inserted by FC2 system