366days 3



『忙しいの?』

 耳に押し当てた受話器から聞こえてくるのははるかの声だ。

 久し振りだと感じるのは間違いではない。彼女が背を向けて去って行った日から数
えると、両手では足りないのだから。


 それぞれで見回りのようなことはしている。街を歩くくらいのものだけれど。気が
つくことがあれば連絡を取り合うのが常だ。それでも、様子を聞くためにとみちるの
方から連絡を入れることが多いせいだろう、こんなにも話していない日が続くことは
なかった。


『今どこ?』

「・・・前に言っていた展覧会の会場。初日だから、一日関係者の方に挨拶してまわ
るの」


『ふぅん・・・』

「どうしたの?何かあったの?」

 はるかから連絡をしてくると言えば、ほぼ間違いなく、急いで駆けつけなければな
らない事態である時だけだ。それなのに、上擦ってしまいそうなみちるの声とは対照
的に、はるかはおっとりとした口調で答えた。


『別に。みちるの声が聞きたくなっただけ』

「・・・・・・」

 瞬間、唇を噛みしめそうになる。悔しいからと言われれば違う気がするけれど、決
して遠くはない。勝手に恋々としているのは自分だけだときちんと理解している。そ
れでも、戯れにはるかが告げるこんな言葉に、時折とても傷ついたような気持ちにな
った。


『・・・お姫様のご機嫌を大分損ねちゃうようなことしたから。様子うかがい、かな』

 黙り込んだみちるの様子を受話器越しに感じ取ったのだろうか。はるかは苦笑いの
ような溜息とともにそう言った。そのことに、少なからず驚いた。怒っていたのは彼
女の方で。そのことを気に病んでいたとしても、率直に口にするとまでは思っていな
かったからだ。


 みちるが言葉を返すよりも前に、はるかは重ねて言った。

『会いに行ってもいい?』

 どうしてそんな風に言うの。

 思わずそう問いただしたくなるような、穏やかな声で。

 はるかと顔を合わせるのなんて、その声と同じくひどく懐かしい気がする。けれど、
どんな顔で合えばいいのだろうか。例え彼女があのことを気に病んでいたとしても、
怒らせたのはみちるの立ち居振る舞いに他ならない。けれど、その言動を改められる
のかと言われれば疑問に思わざるを得ない。向けられる気持ちがどんなものであった
としても、自分自身を考え直すことは難しい。つまるところ、はるかと対面するに充
分な構えができていないのが現状だった。それなのに。


「・・・・・・開場時間が終わってからなら」

 雑然とした心の中とは裏腹に、頭の中では簡潔に時間配分を行って、口が速やかに
そう告げる。心と身体が切り離されているのか。それとも不明瞭なだけで、本当はた
だはるかに会いたいだけなのだろうか。自分の声を聞きながら余計に気持ちがこじれ
ていきそうだ。


『わかった』

 時間の確認だけすると、はるかは短くそう告げて電話を切った。余韻も何もあった
ものではない。


 けれど。

 ―――みちるの声が聞きたくなっただけ。

 折りたたんだ携帯電話を、すぐに鞄へとしまえないまま、両手で握りしめる。そん
なことあるはずないのに、そこにまだはるかの声が残っているような気がして額に押
し当てると、こじれたはずの胸から素直に温もりがあふれて止まらなくなった。



                               


「今日は十九時頃には会場も閉めるから。懇親会もあるしね。それまでは好きに使っ
ていいわ」


「ありがとう」

 管理者の女性が事務所へと帰っていくのを、頭を下げながら見送ってからみちるは
部屋の扉を開けた。控室兼倉庫のその部屋には、ミーティングテーブルと数客の椅子。
その周りには雑然と段ボールや機材が置かれている。多分倉庫の意味合いの方が強い
のだろう。午前中のレセプションの際に他の作者たちと一緒に通された部屋とは違う
もの。けれど、そこも今頃はこの部屋同様に雑然とした様相になっているのだろうと、
みちるは笑みを零した。


(外で待ち合わせれば良かったかしら)

 扉がカチャリと音を立てて閉まる。美術品を取り扱うことの多い建物だからだろう
か。広く多数が使うような部屋以外は、全てオートロックになっていた。その機能と
目の前の乱雑さが不釣り合いで、みちるはまた、笑い声のような溜息を漏らす。


 先ほどの女性にはるかがここへ来ることは告げてあった。開場時間は過ぎているけ
れど、普段から建物自体には深夜近くまで管理の方が滞在しているから、完全に閉じ
ているわけではない。ただ、通用口から管理者の方に来場の旨を説明して、この部屋
までたどり着くはるかの手間を考えると、会場近くの公園で待ち合わせる方が正解だ
ったと、後になって気がついたのだった。


「・・・・・・」

 鞄をテーブルに置くと、胸から押し出されるように重く息が吐き出された。先ほど
までのどこか楽しい気持からではない。けれど気分が滅入っているから漏れてしまっ
たわけでもなかった。


 朝から一日、浮足立ったように過ごした自分を思い出したから。それとも、舞い上
がってしまいそうな気持ちを、何とか抑えつけようと落ち着かなかったから。色々な
理由が脳裏に浮かびあがってそのどれもにため息をつきたくなる。


 はるかに会える。

 落としたままの視線の先に鞄がある。けれどそこから携帯電話を取り出して、着信
履歴を確かめる気にはなれなかった。彼女が何度も連絡を寄こすような性質ではない
ことを知っているからだ。


 はるかに会える。

 まるで呪文のように、繰り返しそんなことを唱えては、足元から震えだしそうだ。

 はるかに会える。

 それ以外に望むことなんてきっとない。けれどそれが叶う間際になると、どうして
こんなにもかき乱されるのだろう。


『僕は君と友達ごっこなんてしたくない』

 突き刺さったままの言葉は、思い出すとまるで毒のように全身をめぐって、それ以
外の情景を思い浮かべることをできなくする。じくじくと膿んでいくような痛みが胸
から放射線状に広がっていくみたいだ。


 はるかの目の前に立つ構えなんてできていない。どんな顔をしていればいいのかす
らわからない。わからないまま、舞い上がっていた先ほどまでの自分がひどく惨めな
ような気持ちになる。


 例えば泣いて許しを請えば、はるかはその表情を緩めてくれるのだろうか。射抜く
ような視線は、優しげなものに戻ってくれるのだろうか。けれど、絶対にそんなこと
はしたくない。


 したくないのに、こみ上げてくる熱を感じて、みちるは慌てて鞄からハンカチを取
り出した。薄くではあるが化粧を乗せた顔に涙の跡がつくのなんてごめんだ。


 極力瞼を擦ってしまわないように注意を払いながらハンカチを押し当てていると、
遠く廊下から足音が聞こえてくる。


 ハンカチが涙を吸い込んでいくのをじっと感じて、その足音が部屋の前を過ぎ去っ
てくれることを祈った。


 けれど、足音は瞬く間に大きくなって、部屋の扉の前でぴたりと止まった。

「みちる」

 ノックも何もない。耳に心地よい声が一言聞こえたかと思うと、すぐにノブを回す
音がした。その音に気がついたみちるは思いだして扉に駆け寄る。オートロックにな
っている扉は、外からでは鍵を使わなければ開かないからだ。


 けれど、扉の前に立ってノブを回そうと上げた手は、そこに触れる前に動きを止め
た。


 扉を開けたら、目の前にははるかが立っている。

「鍵、開けてくれなきゃ、入れないんだけど」

 震えそうな指先を扉の木目に押し当てると、もうそれ以上は動けない。

「・・・ごめんなさい。やっぱり今日は帰って」

「は?」

 扉越しに、はるかが甲高いような声を上げた。板一枚隔てた向こう側で、はるかは
きっと、驚きと苛立ちが混じったような顔をしているのだろう。だけど、ノブを回す
ことなんてできない。


「何でって、聞く位いいよね?答えろよ」

 案の定、はるかは唸るような声でそうたたみかけてくる。

 その瞳は、あの日と同じような色をしているはずだ。

「・・・だって」

 はるかの声を聞きながら、片手にハンカチを握っていることを思い出したけれど、
間に合わなかった。


「私、今、ひどい顔しているもの。きっと」

 はるかに泣き顔なんて見せたくない。見せられない。

「お願い。帰って」

 とんでもなく理不尽なことを言っていると充分に理解している。こうなる予想はつ
いていたはずなのだから、最初から約束なんて取り付けなければいいのだ。けれどど
れだけその非を責められようとも、扉を開けて、彼女の目の前に立つことは憚られた。


 はるかが怖い。

「嫌だ」

 もう一度、はるかが低い声で言った。

 それから。

「!?」

 ひどく大きく、扉を打ち鳴らす音がした。

 耳に聞こえる音と共に、扉に押し当てた手のひらにもその衝撃が伝わってくる。何
度も何度も、扉が壊れてしまうのではないかというくらいに、大きな音がこちら目が
けて響いてくる。


 その振動を抑えつけるように扉に押し当てた手に力を込めたけれど、はるかは許し
てくれなかった。


「泣いててもいいからここ開けろ!」

 その声量に、思わず肩がすくむ。元々、みちるは大きな音が好きではない。楽器を
演奏している時に感じる音色とは違う、唐突に訪れる大きな音にはどうしても慣れな
くて、耳を塞ぎたくなる。


 けれど、今、震えてしまいそうになっているのは、その音のせいだけではない。

 はるかが怖い。暴力を加えられるような恐怖からではない。

 ただ、彼女の前にいると、自分が自分でなくなってしまうような気がして、怖くて
仕方がない。


 それなのに、逆らえない。

「・・・大きな声出さないで」

 大きな声で言われたからでは決してない。むしろこんな言われ方、通常ならば反発
しか覚えない。けれど、はるかの声は、みちるに扉を開けさせた。


「そうされなきゃ動けもしないくせに、何言ってんの」

 みちるがそっとノブを回して壁と扉の間にできた小さな空間に、はるかの腕が入り
込むと、乱暴なくらいの力でこじ開けられる。


「・・・・・・怒鳴らなくてもいいじゃない」

 眉間にしわを寄せたままこちらを見下ろしているはるかを見返しながら、声が震え
てしまわないようにそれだけ言った。


「今まで怒鳴られたこともないわけ」

 扉の開かれた部屋の中に入りこむと、はるかはぶっきらぼうにそう言い放った。

 怒鳴られるようなことなんてない。大きな声で誰かに指図されたことだってない。
もしもそうされることがあったとしても、受け入れられることと受け入れられないこ
との判別をするのは自分だ。他の誰にも決めさせたりなんてしない。


 それなのに、どうしてはるかはこんなにも簡単に入りこめてしまうのだろう。

「だったら覚えてなよ、お嬢様。君が泣いてる時に、宥めすかして甘やかすような奴
は、自分が可愛いだけだ」


 そんなことない。そう言いたいのに、喉が掠れて声が出ない。二人ともが手を離し
た扉が、ゆっくりと閉じられていく。


 人はそんなに強くない。寄り添える優しさだってあるはずだ。そう言い返したくて
仕方がないのに。


「だったら・・・はるかは、・・・」

 カチャリと鍵の閉まる音が響く。

 優しくないのよ。そんなこと悔し紛れでも言えない。怒鳴って、無理やり扉をこじ
開けてでも、自分からみちるに会いに来てくれた彼女に。


 みちるが欲しいのは、確かに甘ったるい言葉なんかじゃない。

 怒鳴られたっていい。乱暴でもいいから、彼女の腕に抱きしめられたい。

 糸が絡んで、ほつれて、また絡まるような気持ちの中で、そんな言葉が浮かんでく
ると、頬が濡れて行きそうで、手のひらに顔を伏せた。


「・・・僕はわがままなだけ」

 ハンカチなんて何の意味もない。片方の頬だけ涙を吸い取っていくそれを握りしめ
たみちるの耳に、先ほどまでの声量からは程遠い、小さな声が届いた。


「君の笑っている顔が見たいだけ」

 躊躇いがちに、はるかの指先が、顔を覆うみちるの手の甲に触れた。

「・・・だから、僕の為に傷ついたりするなよ」

 指先は手のひらになって、みちるの手を包み込む。みちるよりも大きな手は、高め
の体温で、少しだけ硬い。その手が静かな仕草で、みちるの頬から手を外させる。も
う片方の指が顎を捉えると、構える暇も与えずに顔を上げさせられた。


「僕の代わりに、泣いたりなんかするな」

 みちるを見下ろしながら、そう言ったはるかこそが泣き出しそうな顔をするものだ
から、胸が詰まった。


 きっと、はるかは知らない。

 気がついているはずがないと高を括っていた。でも、傍から見れば、みちるのそれ
は見え透いた言動だったのだろう。


 けれど、やはりはるかにはわからない。

 どうしてみちるが、そうしてしまうのかまでは。きっとわからない。

「・・・迷惑だから?」

 涙のせいだろうか、声が途切れてしまいそうになるのは。

「迷惑じゃない・・・」

 みちるの顎から指先を離したはるかは、言い淀んだように唇を噛むと、何を思った
のかその場にしゃがみこんだ。


「・・・・・・から、困る・・・」

 片手で髪を掻き上げるようにして、俯いたままのはるかが呟く。

「ありがとって、何で一番に出てこないんだろ」

 薄い色の髪がかき乱されていくのを眺めながら、小さな子どもみたいな声だと思っ
た。


「・・・・・・でも僕は、君が一人で傷つくのは嫌だ」

 その声を聞きながら、はるかにここまで言わせてしまった自分の過ちにようやく気
がついた。


 敵を傷つけることにすら戸惑うような彼女が、みちるの傷を痛ましく思わないはず
がなかったのに。


 抱きしめたくなったけれど、それは許されないことのような気がして、乱れてしま
った髪を、掠めるように撫でた。


 柔らかな髪だった。



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