366days 4



 河川沿いのブロックに腰かけて、テイクアウトした昼食を口にするはるかを眺めて
いたら、何かを思い出したらしくこちらを向いた彼女と目があった。


「こんな毎日来てたら、オイルの匂いが染みついちゃうよ」

 サンドウィッチを咥えたまま、はるかは腕を伸ばして、みちるの髪の毛先を摘まん
で言った。


 以前よりもずっと彼女と会う時間は増えていた。連絡をとる回数はあまり変わらな
いような気がするけれど。それだって頻繁だったのだから、そのせいではない。もち
ろん、どちらもみちるの方からという点においては変わりがないが。


「気にならないわ」

 はるかが毎日のようにこのモーターショップに入り浸っているのを知ったからだ。
暇さえあれば、ここへきて車をいじらせてもらっていると言っていた。学校の方はど
うなっているのかと気にならないでもなかったけれど、それ以前に彼女は没頭すると
食事すら忘れてしまうようで。差し入れと称してここへ会いに来るのが日課になって
いた。


「そう?香水とかの匂いの方が、似合うと思うけどな。みちるには」

 髪をくすぐられるような感覚に首をすくめて見せると、はるかは不思議そうな顔を
する。


「どちらも嫌いじゃないもの」

「ふうん?女の子って、大概嫌うけど?」

 自分もそうであることを棚に上げて、はるかはそんなことを言った。

 もちろん、気に入っているフレグランスだってある。けれど、彼女の言う、染みつ
くようなオイルの匂いも、みちるは好きだった。確かに好き好んで身にまとうような
ものではないけれど、ガレージを出てくるはるかから感じるその匂いが、たまらなく
好きだった。


 けれどそこまで伝えられるはずもなくて、曖昧に言葉を濁していると、はるかはこ
ちらをみつめていた瞳を悪戯っぽく細めた。


「それとも、そんなこと気にならないくらい、僕に会いたいとか」

 言いあてられると、途端に頬に熱が走った。こんなの、ただの戯言だ。わかってい
るのに、どうして一々反応してしまうのか。


「・・・はるかは時々とても無神経だわ」

 言われるがままなのも癪に障って、みちるはそれだけ言い返す。するとはるかはわ
ざとらしく眉を下げて項垂れて見せた。


「・・・ごめん。でも、どの辺が気に障ったのかな。後学のために教えてよ」

「・・・・・・」

 そういうところが。と言い返したくなったけれど、止めた。多分本当にわかってい
ないのだ。彼女は。みちるの反応に満足したのか、はるかはこちらから視線を外すと、
またサンドウィッチを頬張った。


 やり込められるむず痒さをもてあましながら、それでもそっとはるかを眺めていた
ら、パックのオレンジジュースをストローで啜っていたはるかがまたこちらへ視線を
向けた。


「明日って、何してる?」

「?」

 突然の質問に思わず首をかしげてしまった。彼女から次の日の予定なんて聞かれた
ことがあっただろうか。そもそも彼女は自分の予定でさえきちんと把握していないよ
うな気がする。


「両親に呼ばれているわ」

 不思議に思いながらも、みちるはそう答えた。スケジュール帳を開いたりしなくと
もわかる。それはかなり以前から決まっていた予定だ。


 明日はみちるの誕生日だった。別段はしゃいでしまうようなことではないが、普段
多忙に過ごしている両親が、みちるのためにその日の予定を空けてくれていることに
は、素直に感謝していた。


「?一緒に住んでないの?」

 ごく当たり前のことを答えたつもりだったけれど、言葉の意味に引っ掛かったのか、
はるかは尚も質問を重ねてくる。


(そういえばそうね・・・)

 ごく一般的に言えば、みちるの年齢で家庭から離れて暮らしているのは珍しい。自
分もそうだからといって、そこを不思議に思わないはるかの感覚の方が平均なのだろう。


「ええ。元々お互いに多忙にしていたせいもあるのだけれど。私の音楽や絵画の活動
のために、わがままを言わせてもらったの」


 ただ、それを実行させるきっかけとなったのは、覚醒したことが大きいけれど。音
楽や絵画に割ける時間が多少増えたのも間違いではなかった。


 それに、一人で暮らしているとはいえ、実家に帰る機会は実際には頻繁だ。音楽活
動のために送迎を頼むことだってしばしばある。だから今住んでいる部屋は、寝泊ま
りのできるアトリエのようなものだと考えられないこともない。


「・・・へぇ。それで、もしかしてお呼ばれして、お小言でももらっちゃうのかな」

「どうして?」

 ジュースを飲みきったらしく、パックを潰して折りたたんでいるはるかが、考える
ように視線を空の方へ向けた。


「そりゃ、一人暮らしさせてる娘に、悪い虫がくっつきそうだから」

「何なの?それは」

「素行のよくない奴と一緒に学校帰りにこんな所へ入り浸ってたりしたら、親御さん
だって心配するのかなって思って」


「そんなこと一々調べたりしないわよ。忙しい人たちだし」

 構ってもらえる時間は少なかったけれど、そう言ったことをする人たちではない。
愛情にからの信頼ではなく、長年の観察による分析の結果そう考える自分の冷静さは
何とも可愛げがないと思う。だけどそれと引き換えに、与えられた時間や物で愛情を
推し量るようなこともない。両親が注いでくれる愛情はきちんと感じている。ただ、
それをせがみ続けられるほど、無邪気ではいられなかっただけの話。


「・・・もしそうだとしても、叱られたって構わないわ。どうしてあなたと一緒にい
ることまで、制限されなきゃいけないの」


 こだわりなくそう告げると、パックジュースを弄んでいたはるかの手の動きが止ま
った。


「・・・みちるも時々すっごい無防備だよね」

「?」

 どこか不貞腐れたような声でそう言うと、はるかは道路を挟んだ向こう側のダスト
ボックス目がけてくしゃくしゃになった紙パックを投げた。


「・・・じゃあ、迎えいにいくよ」

 はるかの手から離された紙パックは、弧を描きながら、ダストボックスへと吸い込
まれていった。


「え?」

「お呼ばれしてるんだろ。だから送迎してあげる」


                              


 エレベーターを降りてエントランスホールに差し掛かると、ガラス戸の向こう側に
見慣れない黄色い車が見えた。


 コンシェルジュの目礼に視線で応えてから、開かれた扉を抜ける。もう一枚のガラ
ス戸を隔てて見ても、やはり見知った車ではない。


「?」

 けれど、その運転席のドアにもたれかかるようにして立っている人物は見知った人
間だった。


「時間ぴったりだね、みちる」

 ダメージを与えすぎたようなジーンズのポケットにだらしなく手を突っ込んだまま
のはるかが振り返って笑った。


「・・・・・・どうしたの、その車」

 見たところ、運転席に別の人物が載っている風ではない。さりとて、少し席をはず
しているわけでもなさそうだった。だとすれば、この車をここまで運転してきたのは、
他ならぬはるかであるということになる。


「え、だって迎えに来るって言ったじゃない」

 みちるの質問の要領を得ないのか、助手席が向いているこちら側まで回り込んだは
るかは、彼女こそが尋ねるような口調でそう確認する始末。


「言ったけれど・・・あなたのものなの?」

「うん」

 はっきりと頷かれても首をかしげてしまう。はるかもみちるも、彼女の言う所の
チューガクセーなのだ。いくら何でも、自力で購入することは不可能だろう。


(・・・・・・)

 だとしたら出資者にでも頂いたのだろうか。今一彼女の人脈まで把握できていない
けれど。


(親御さん・・・ということも考えられるし)

 はるかの家庭の事情も、あまり定かではない。親元を離れて一人で暮らしている程
度にしか知らない。時折両親に呼び出されるような大仰な場所で、ゴシップのような
揶揄を耳にすることはあったけれど、調べたことはなかった。それこそ、本人に直接
聞くことが憚られるようなことまで、調べたいとは思わなかった。


 そこまで考えてからはるかに視線を向けたけれど、頷いた時の穏やかな表情のまま
だ。


「そもそもあなた、運転免許証を所持できるの?」

「・・・・・・僕の出場しているレースを見てもらえばいいと思うけど」

「・・・・・・」

 純粋に顔が青ざめて行くのがわかって指先で額を抑えた。みちるにも、生に対する
執着くらいはある。人並みに。確かに以前、はるかの車で海辺の道をドライブしたい
と言ったことはあったけれど。


「あのさ」

 立ちすくんでいるみちるの上から、はるかが声をかけた。

「お呼ばれしてるのって本当に両親?」

「?そうよ」

「ふうん。それならいいけど」

 見下ろすような角度のまま、はるかは顎のあたりに手を添えて、こちらを眺めてい
た。


「どうして?」

「だって、他所行きな顔してるから。格好も」

「・・・・・・おかしいかしら?」

 別段奇抜な格好をしているわけではないと思う。化粧だってあれこれ並べ立てて悩
んで見たものの、実際には肌の上に薄く乗せているだけだった。けれど間近で眺めら
れながら、改めてそう言われると、何だか不安になる。その上、相手がはるかだと思
うと、間違いなく不安になってくる。


 はるかに指定された時間までの間、鏡の前で念入りに身繕いをしていたのは事実だ。

 もちろん両親がみちるを呼び出している理由のせいもある。せっかくなら、それに
応えてきちんとした身なりで出かけるのが正しい作法だろう。


 けれど手にする色合いの一つ一つに、いつまでも悩んでしまうのはそのせいではな
かった。


 身の置き場がなくなりそうに感じながら、そっとはるかを窺うと、こんな時に限っ
てすぐに目が合ってしまう。はるかの唇が綻んでいくのをみつめていたら、目を伏せ
たくなった。けれど。


「ううん。きれいだ」

 一瞬、はるかの声なのか、風のざわめきなのかわからなくなってしまったのは、そ
の声が流れ込むと同時に、身体中の血液が急速に駆け巡り始めたからだ。


 耳鳴りのような心音が、そのままはるかに聞こえているのではないかと、ありもし
ないことを考えて、袖口を指先で握りしめた。


「・・・・・・他の奴のために他所行きの格好してるのかと思った」

 うまくまとまらない思考のままみつめていたら、投げやりにもとれるような緩慢さ
で前髪を掻き上げてはるかがそう言った。そのせいだ、また、心音が高く大きくなる。

 はるか以外の人のことを考えて、舞い上がってしまうようなことなんてない。馬鹿
みたいに時間をかけて身繕いすることなんてあるわけないのに。


 そう言いたくてたまらなくて、それなのに唇を噤んでしまったら、声の代わりに涙
が零れそうになって、慌てて首を振った。


「そう。よかった」

 みちるの動作を否定の意味だと解釈したらしいはるかは短くそれだけ言うと、助手
席のドアを開けた。


「どうぞ、お姫様」

 恭しい仕草のどこにも不自然さがなくて反っておかしい。思わず笑ってしまった。
促されるまま車内に足を踏み入れてシートへ腰を下ろすと、慎重な速度でドアが閉じ
られた。



                              


 整えていた髪はすぐさま風に弄られて宙を舞っていた。時折頬へかかる毛先を指で
払いながら、それでもいいと思った。


(とりあえず、サーキットと公道の区別はついているのね・・・)

 滑らかに流れていく景色を眺めながらそう安堵する。何とも失礼な言い草だという
自覚はあるから口には出さない。けれど、みちるが息継ぎのような呼吸を落ちつける
までには、それなりの時間を要した。こういった怯えの緩和と本人に対する信頼とは
全く別のものなのだ。少なくともみちるにとっては。


「そういえば」

 普通に呼吸できる喜びを噛みしめていると、隣のはるかの声が風にまぎれて飛んで
くる。


「みちる、今日が誕生日なんだよね」

「!」

 はるかは知らないはず。そう思っていたことを覆されるのは、一体何度目なのだろ
う。


「話したことがあったかしら」

 けれど、動揺している内心を悟られたくなくて、言い淀むことなくそれだけ答えた。

「雑誌の特集で見たんだ」

「・・・・・・直接聞けばいいじゃない」

「次からそうするよ」

 どこかで聞いたことのあるような会話だと、視線を隣に向けると、横顔が笑ってい
た。


「でも、僕は当日に聞いたんじゃプレゼントを用意できないとか、駄々こねたりはし
ないよ」


 はるかもそのことに気がついているらしい。わざわざみちるの言葉を引用して茶化
してくる。


「・・・私が時間のかかるようなものを要望したらどうするの?」

 こんな受け答えをするから、いつも言いくるめられるのだとわかっているのに。止
める間もなく拗ねたような自分の声が風に乗って聞こえてくるのもだから、言った後
でみちるは自分自身に肩をすくめて見せた。


「みちるに聞かなくても、僕のあげたいものは決まってるから」

 もう一度その横顔を眺めようと視線を上げると、はるかの声と共に、どこか湿った
ような風が髪に絡みついた。


 横顔を超えたその向こう側に、きらめくような水平線が見えた。

『あなたの車で、海辺をドライブしてみたかったな』

 はるかは覚えていたのだろうか。

 風が通り抜けて、髪が弄られても、どこまでも続いて行く青色の中に、はるかがい
る。


「その席をあげるよ」

 その景色だけで、喉元が詰まってしまいそうになっているのに。はるかはもう一つ、
贈り物をみちるに差し出した。


「僕の隣の席を、みちるにあげる」

 これからはるかに送り届けられる家には両親が待っているはずだ。それぞれに、み
ちるを思って用意してくれた贈り物を持って。それがどんなものでも、きっと喜べる
に違いない。


「・・・それじゃ、私はここでずっとあなたを見てしまうわ」

 だけど、後にも先にも。

「いいよ」

「私が、鉛筆とスケッチブックを取りだしたとしても?」

「どうぞ」

 これ以上に。胸が苦しくなる程うれしくなってしまうような贈り物はないように思
えた。


「君の場所なんだから、好きにしたらいいよ」

 横顔をみつめていたら、はるかが白い歯を僅かに零して笑った。

 はるかは笑うと、とても優しい顔になる。

 その表情を珍しいと感じていたのはそう遠い日ではないのに。思いだそうとしなけ
ればわからないくらいに懐かしい。


 潮風がまた、無遠慮に髪を巻き上げる。

 弄られるまま、胸の中でまるで誓いのように浮かんだ言葉を告げたなら、はるかは
やはり笑うのだろうか。


 この笑顔をずっと守れたらいいのに。

 今は、声にはできない気持ちの代わりに、ありがとうと告げたら、彼女はみちるの
望んだ通りに笑ってくれた。




                           END



 チューガクセ―の頃のみちるも可愛かったなぁと、はるかさんは正座をさせられて延々とお説教
されている時にふと思い出してはにやついて更に怒られてたりしてたらいいと思う。そんなねつ造妄想。



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