366days 2



 胸が激しく上下する。息が上がりきってしまいそうになりながら、みちるは間近に
視線を走らせた。地面に崩れ落ちている異形が、取り込んでいたものを吐き出すよう
に分解していく。飛び散った血が薄れていくと同時にそこへぼとりと塊が落とされる。
人間だ。


「・・・・・・」

 みちるが散々に打撃を与えた異形から分離されたその人は、ひどく青ざめた顔色の
まま意識を失っていた。口元に手をかざすと、微かな呼吸が触れる。凄惨な光景と自
身に与えられたダメージに吐き気を覚えながら、手早く身体の状態を確認する。異常
があったとしても助ける術など持たない。だから、これは自分の為の確認にすぎない
のだろう。けれど幸いにも、みちるの理解できる範囲での異常は見当たらなかった。
腕に力を込めてその人を抱き起こす。その拍子に苦しげな声が漏らされたけれど、目
が覚めたわけではなさそうだ。道路脇の木立の陰にその人を横たえて、みちるは静か
に立ち上がった。


『殺していたかもしれない』

 全てが終わった後に浮かんでくるのは、いつも同じ言葉。急激に、瞼が熱くなって
いくのを感じて、みちるは慌ててその場を走り去る。


 私は何て、薄情な女なのだろう。

 少女の姿に戻ってからも、ざわめきを振り切るようにして走った。

『次はきっと殺すわ』

 平気なわけじゃない。誰かを切り付けて、傷つけて。打ち倒して。例えその人が生
きていたとしても、許されることではない。その光景を目の前にすると、心が折れそ
うになる。その惨劇を作り出しているのは他でもない自分自身だと思う分だけ、ばら
ばらに砕けてしまいたくなる。


 それなのに、涙がこみ上げてくるのはそのせいではない。

『殺していたかもしれない』

 はるかもその恐怖を感じているのだと思うと、溢れてくる熱を止められなくなる。
何の関係もない人々が危険にさらされてしまうことよりも、そのことに嗚咽を覚える
自分の感覚はどこまで軽薄なのだろう。


「・・・・・・っ、・・・」

 どれくらいの距離を走ったのか分からない程に呼吸を乱しながら立ち止まる。膝に
手をついて肩で息をしていたら、アスファルトに微かな雨粒のような染みができてい
るのを見つけて頬を拭った。


 連絡を取る余裕がなかったから。唐突に出くわしてしまったから。

 理由なんて後からいくらでも取り繕える。

 拭っても拭っても濡れていく頬を両手で抑えつけながら、みちるは自分を納得させ
た。自己満足だ、こんなことは。引き入れておいて、今更。浮かんでくる言葉を握り
つぶして感情にも蓋をする。


 呼吸が完全に落ち着くと、みちるは深くため息を吐きだして空を見上げた。橙色が
霞んで浅葱色と混ざり合うそこを眺めながら、隣に彼女がいてくれたなら、もっと美
しく感じられただろうにと思った。



                             


「展覧会?絵の?」

 何の気まぐれだろう。学校帰りの校門には、待ち伏せるように立っている彼女がい
た。


「ふーん・・・そういや天才画家とか言ってたよね、あの、陸上部の子が」

 差し迫った用件もないのか、みちるがそこへ着くと同時に彼女はゆっくりと歩き始
める。


 珍しいこともあると目を丸くしながらも、彼女に合わせて歩いた。

 頻繁に会ってはいるけれど、それは必要にかられてのことだ。それぞれの生活に立
ち入るようなことはあまりない。だからこそ、そこに彼女が立っていることに驚いて
しまう。初めて見るわけではないけれど、他校の制服を着たはるかが目の前にいると、
それだけで落ち着かなくなった。


「でもすごいな。だってまだ君もチューガクセーだろ。そっち方面全然わからないけ
ど、ホールとか貸し切って飾るわけ?君の絵」


「私だけのものではないわ。母の主催で開かれているものだから。同じテーマをそれ
ぞれの作風で描いたものを展示しているのよ。だから大勢の中の一人」


「へぇ」

 流されていくような会話だけれど、彼女がみちるのことを聞いてくることが珍しく
て、少しだけ頬が上気していくみたいだ。盗み見た横顔はそのことに特別、興味があ
るようには見えなかったけれど。胸が高鳴っていく感覚のせいだ、ヴァイオリンケー
スを持つ手に力が入ってしまった。


「・・・何か用事?」

「用事がなきゃ、会っちゃいけないの?」

「・・・・・・」

 どこかあてがあるのだろうかと、彼女の隣について行きながら尋ねるけれど、はる
かは何のこだわりもなさそうにそんな答えを返した。特にあてが行き先が決まってい
るわけではないらしい。


(・・・・・・もしかして、覚えていたのかしら)

 ふとそのことを思いついて、見上げたらはるかと目が合った。

「みちるこそ、僕に用事があるんじゃなかったっけ」

 瞳が優しく弧を描くのを眺めると、間違いなく頬が上気していく。はるかが向けて
くれる笑顔は少しずつ増えているのに。それがうれしくて仕方がないのに。どうして
慣れることができないのだろう。


「くれるんだろ、誕生日プレゼント」

 もちろん忘れてなんていない。今日は、はるかの誕生日だ。いくらなんでも彼女だ
って、自分の誕生日くらいは覚えているだろう。だからこそ、含み笑いに乗せてそう
言ったのだ。けれど。


「でも、何も用意していないわ。言ったじゃない、当日に言われたんじゃ用意できな
いって」


 その日が近づくにつれ、焦れていくのは自分でもわかった。けれど、彼女がそんな
ことで連絡をしてくるような性格ではないこともどこかでわかっていた。


 いっそのこと、何か彼女の嗜好に合うようなものを選んで送るべきかと考えても、
もしも見当違いだったらと思いとどまる。じゃあ食事にでも誘えばよいだろうかと思
いついても、彼女の時間にむやみに立ち入るなんてできなくて落胆した。


「んー、じゃあ」

 あてもなく歩いているようで、どこか座る場所でも探していたのだろうか、公園に
たどり着いていた。石畳の向こう側に噴水が見える。はるかの視線を追うと、真っ赤
な自動販売機が見えた。


「・・・缶ジュースとか」

「・・・・・・自分で買えば」

 どこまでもその場の思いつきなだけの発言に不貞腐れそうになっているみちるをお
かしそうに眺めてから、はるかは植木にそって設置されているベンチの一つに腰かけた。


「じゃあさ」

 隣に座るべきか躊躇していると、はるかがヴァイオリンケースを眺めて言う。

「ヴァイオリン弾いてよ」

 にっこりと笑い掛けられると途端に胸が狭まって仕方がない。

「それだって、思いつきじゃない」

「僕だけのために海王みちるが弾くんだぜ。かなり贅沢なんじゃない?」

 何てずるい言い方をするのだろう。みちるが何も言い返せなくなることを、はるか
は本当にわかっていないのだろうか。


「・・・リクエストはある?」

 頬に当たる風が冷たくて少し不安になったけれど、らしくもなく、言われるままに
ケースを開けた。


「え?ヴァイオリン用の曲名とかわかんないんだけど」

「別に、ヴァイオリンのための曲じゃなくてもいいわ」

 ケースから取り出したヴァイオリンを構えながら尋ねると、はるかは考え込むよう
に顎に手を当てて視線を泳がせた。どことなく幼いような仕草が可愛らしかった。


「じゃあ、誕生日の曲」

「え?」

「ほら。ハッピーバースディトゥーユーって歌うやつ」

 お誕生日会とかで歌うでしょと、その仕草同様に小さな子どもみたいな顔をしては
るかは言った。


「わかったわ。・・・じゃあ、はるかのために」

 その音がはるかに向かって行くようにと弓を引く。時折、ランニングや散歩で通り
かかる人々が物珍しそうにこちらへ視線を投げかけてくる。けれど、空に吸い込まれ
てしまいそうな感覚の中で、はるかの為にだけ演奏することに確かな喜びを感じてい
るみちるに、それは届かなかった。


 はるかはじっと目を瞑って、みちるの演奏を聴いていた。

 広いホールに立っている時よりも、彼女の間近に立っている方がずっと緊張する。

「・・・歌ってるのとは全然違うね。何か優しい感じ。みちるが弾くからかな」

 余韻が完全に消えてから、はるかはぽつりと言った。

「違うか。みちるが優しいからだね」

 閉じられていた瞳が開かれて、みちるを捉えた。先ほどと同じように、緩く弧を描
いているはずなのに、まるで射抜かれたように感じて足がすくむ。


 構えていたヴァイオリンを静かに下ろしながら、微笑みを形作っていた唇が表情を
消すのを眺めていた。


「優しいから、身体中ボロボロになってるのに、僕に隠れて一人でお仕事してんのか
な」


「・・・・・・!」

 どうして。その言葉が追いつかないまま喉が音を立てた。

 わかるはずがない。傷なんて見えているはずがない。もし彼女に気がつかれたとし
ても、取り繕う方法なんていくらだってある。あるはずなのに、声が出ない。


 頬が強張っていくのを感じながら立ち尽くす。まるで金縛りにでもあったかのよう
に身体が動かなかった。だから、目の前にいるはるかから、視線を外すこともできや
しない。


「・・・・・・だから、僕はお優しい人間って大嫌いなんだよ。自分が犠牲になって
りゃいいとでも思ってんだろ。ふざけんな」


 先ほどまでの面影は、もうどこにもない。はるかは怒りの色に燃えるような瞳のま
まこちらを見据えていた。


「僕は君と友達ごっこなんてしたくない」

 鋭く放たれた言葉を避けることも、受け止めることもできなくて、ただただ胸に突
き刺さるまま、みちるは呆然と彼女を眺めた。


 はるかは。

 みちるの視線を煩わしげに振り払うと、静かに立ち上がって踵を返した。

 それでも、振り返ることもないまま歩いて行く彼女を、引き止めることもできなく
て、みちるは霞んでいくその背中をみつめていた。




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