366days 1



 はるかが泣いている。

 白い頬は濡れてなんていないけれど。戦いの後、遠く空を眺めながら佇んでいる彼
女は、一言も発さない。


 そこに倒れ込んでいる人間や、地面に点々と掠れている血痕に、胸が痛まないわけ
ではないけれど、それにひどく恐怖を覚えてしまえる程には心の柔らかくないことを
自覚しているみちるは、それでも全てが終わった後に涙が零れることがあった。


 きっと、それは、はるかの代わりに。


                               


「そう言えば、もうすぐ誕生日ね、はるか」

「え?」

 向かい合って食事をしながらそう切り出すと、はるかは僅かに目を見張った。

「?」

 特に意識した話題のつもりではない。沈黙を避けたくて言っただけ。だからそんな
風に聞き返されると、その次の言葉を探すのに時間がかかってしまった。


 けれどはるかの部屋で、こうして向かい合って食事をする際には、大概こんな途切
れがちな会話しかない。きっと、自分たちのしていることに、お互い何の意味も見い
だせなくなりそうだからだ。はるかの手の甲や腕には結構な大きさの擦り傷ができて
いた。首元にも微かな引っかき傷。服で隠れているけれど、脚には幾つもの痣や切り傷。


『・・・・・・悪い』

 帰り道、みちるに肩を抱えられて歩きながら、はるかはそれだけ言うと、口を噤ん
だ。彼女の視線を左腕に感じると、敵に傷つけられた時よりもずっとそこが痛む。反
射的に彼女を庇ってできた傷だった。もちろん、みちるは恨み言を言うつもりなんて
なかった。むしろ、それではるかの身体に残る傷が一つでも減るのならば喜ばしいと
すら思う。けれど、そうすることで、はるかのプライドをひどく傷つけているだろう
ことも薄々わかっていた。


 彼女はまだ戦いに慣れていない。

 元々アスリートである彼女の身体能力には何の問題もない。経験値で勝るみちると
比べても互角以上の力がある。


 けれど、心がついてきていない。目の前に立ちふさがる敵が異形であったとしても、
彼女はそれを傷つけることを躊躇する。戸惑っている気持ちを必死に取り繕おうとし
て、動きにむらができる。だから、彼女は必要以上に自分の身体に傷がつくことを許
してしまう。


 例えばこうして、部屋を訪れたみちるが食事の準備等、自分の身の回りのことをす
るのを黙って受け入れなければならない程に、彼女の身体は傷だらけだ。その為か彼
女の部屋で向かい合って食事をすると、いつも以上に努力しなければ会話は続かなか
った。


「よく知ってたね。話したことあったっけ?」

 何に対してはるかが驚いたのかすぐには思いつけなくて、口ごもってしまったみち
るよりも前に、彼女がそう言った。眺めていた彼女の表情が、微笑を浮かべているよ
うな形になった。その瞬間に胸の奥が微かに音を立てる。


 はるかはあまり笑わない。一日中不機嫌にしているわけではない。ただ、笑顔に限
らず、彼女は感情を表に出すようなことが少なかった。遠巻きに眺めていた頃、はる
かはいつも誰かしらに向かって笑顔を振りまいていたのに。みちるの前では、それは
珍しい表情だった。それとも、慣れの問題なのだろうか。もしくは欲深くなっている
のかもしれない。出会ったころに比べれば、はるかがこちらへ向けてくれる表情は増
えているはずなのだから。


「・・・雑誌のプロフィールに載っていたもの」

「何、それ」

 小さなさざめきを感じながら素直にそう答えると、はるかは今度こそ噴き出して笑
った。それから。


「直接聞けばいいだろ。頻繁に会ってるんだから」

 おかしそうに笑っていた顔が、不意に優しげなものに変わる。透き通るような瞳が
こちらをみつめる。全身が締めつけられたような感覚と共にさざなみが一瞬だけ音を
止める。けれどそのすぐ後から自分の心音が耳障りなぐらいに熱を伴って身体中を駆
け巡っていく。


 頬が赤くなってしまっていないか気になってそこへ手を押しあてると、籠ったよう
な熱を感じる。頬なのか手のひらなのかわからないくらいに熱い。


「だって、あなたと話すようになる前に見たんだもの」

「そりゃ、光栄だな。お嬢様の気に留めていただいて」

「嘘ばっかり・・・。煩わしそうにしてたじゃない」

 恨みがましくそう言うと、はるかはくすくすと笑った。

「じゃあ、・・・」

 きっと、はるかは知らない。目の前にいるみちるがこんなにも落ち着きなく必死で
言葉を探していることなんて。スプーンを運ぶ口元に釘づけられそうな視線を当ても
なくさまよわせていることも。その理由も。だから、これは悔し紛れだ。はるかにも
少しだけ、頭をひねってもらうことにした。


「?」

「誕生日プレゼントはあなたに直接聞くわ。何か欲しいものは?」

「・・・・・・いきなり言われても」

 再び目を丸くしたはるかの様子に幾分か気が紛れる。

「はるかが直接聞くように言ったんじゃない」

「だから、すぐに思いつかないだけだよ。考えとく」

「・・・・・・いつまで?」

 こんな風に、はるかを困らせるのは好きだ。自分ばかりが戸惑ったり、揺れ動いた
りしていることはわかっている。だから、こうして言葉遊びの中だけでも、はるかが
肩をすくめて見せてくれるとひどく満たされた気分になった。


「誕生日までには思いつくようにしとくよ」

「当日じゃ何の用意もできないじゃない」

「んー・・・でも実際。欲しいものなんて、特にないしなぁ・・・」

 なおも食い下がると、はるかは投げやりに頭を掻いた。確かに、彼女はあまり物に
執着を見せない。というよりも、全てのことに対して興味が薄い。感情の読みとれな
い気だるげな表情は、むしろその心そのもののようにも思えた。


 もう一度同じことを言い募ったなら、はるかは苛立った表情を浮かべるのだろうか。
出会ってから今まで、それこそ穴が開いてしまうくらいに彼女をみつめていたけれど、
あまり多くの感情を向けられたことがないから、全ての心の動きがわかるわけではな
い。それでも、彼女が苛立った時に浮かべる表情はよく知っている。みちる自身にも
幾度となく向けられてきたものだからだ。


 取り留めもなくそんなことを考えながら眺めていたら、不意にはるかが柔らかな吐
息を零した。もう一度、彼女の瞳がみちるを捉える。


「君にお世話してもらってるだけで充分じゃない?今みたいに」

 白い歯が唇からのぞくのを眺めていたら、唐突に涙が零れそうになった。きっと、
はるかはそんなことに、気付きはしないだろうに。それを隠してしまうのに必死で、
何も言えなくなった。


「・・・あれ?」

「?」

 俯きそうになっていたら、こちらを眺めていたはるかが声を上げた。

「何?」

 外していた視線をはるかに戻すと、先ほどまでの微笑がなくなっていた。

「・・・その傷、今日の?」

「・・・・・・!」

 視線を外した拍子に首元の擦り傷が襟刳りから露わになっていた。髪をおろしてい
れば問題はないと判断して服装にまで気をまわしていなかった自分の不手際を責めた。


「何か、増えてない?」

「・・・一々覚えていないわよ。はるかだって、そうでしょう?」

 早口になってしまわないように慎重に言葉を紡ぐけれど、語尾が震えてしまいそうだ。

「・・・うん」

 納得できないように揺れている瞳を見返したけれど、見透かされてそうで怖くなる。
だけど、視線をそらしてはいけないとじっと耐えた。


「・・・それなら、いいけど」

 はるかの方が耐えきれなくなったのか、吐き捨てるようにそれだけ言うと、みちる
の視線から逃れた。


 重苦しい沈黙は、こうも簡単に引き出せるものかと思える程に、そこからは会話な
んてほとんどなかった。




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