Past is 1



「え?明日からだっけ?」

 冷蔵庫の前で、ミネラルウォーターのボトルに口をつけたまま、はるかは振り返った。

「ええ、伝えていなかったかしら」

 首を傾げては見せるものの、みちるの方もさしてこだわりのない口調だ。彼女が
コートを脱ぐ仕草にあわせて巻き毛が揺れる。つい先ほどまで外気に触れていたせい
だろうか、いつもよりも少しだけ硬質に感じられた。


「あー・・・、ごめん、僕が覚えてないだけかも」

 記憶をたどり寄せて見せるけれど、生憎はるかはつい二、三日前のことだって、
さっさと忘れ去ることの出来る性格なのだ。


「そう」

 一度だけ、穏やかな微笑を苦笑の形に変えて、みちるは自室の方へと歩いていく。
食事は済ませてくると言っていたから、バッグやコートを片付けた後は、着替えて寛
ぐかシャワーを浴びるつもりなのだろう。それとも楽譜とにらめっこでもするのだろ
うか。


「朝、少しうるさくするかもしれないわ。ごめんなさいね」

 扉を開けながらもう一度彼女が振り返る。 

「構わないよ」

 それだけ告げると、はるかも冷蔵庫へと向き直って、扉のポケットへボトルを差し
込んだ。後ろから扉の閉まる音がする。


 まさかこんな未来が訪れるなんて思っていなかった。みちるもきっとそうだろう。

 思い描いた形ではない、なんて言うつもりはない。

 この世界で生きて、普通に呼吸をしている。

 それがまるで奇跡のようで、少し前までの自分では予想できなかったというだけ。

(・・・普通、ねえ)

 諦めかけていた夢をもう一度、追いかけることが出来る。そのことに戸惑ったのは、
急すぎる安息に身体がついていかなかっただけだ。沢山の人を踏みつけて、傷つけて、
それを忘れていいわけなんてないけれど。それでも前に向かって歩こうと決めた時、
自分のなりたいものが何だったのか、はるかは思い出すことができた。


 扉の向こう側にいる彼女も。

 方向性は、そもそも望む場所が違うのだから図りようがない。出会う前の二人の行
く道は、きっとあの戦いの日々がなければ交わることなんてなかったはずだ。


 それなのに、二人は今も一緒にいる。

(惰性、かな・・・)

 一言で片づけてしまうのは癪で、頭の中で巡らせているはずの思考の最後に無理や
り疑問符をつけてみる。けれど、そう遠くはない現状。


 もう、この街に執着しなければならない理由はない。戦いが終わった後で、どちら
ともなくそんなことを呟いた気がする。それから。


『どうしましょうか?』

 差し迫った様子等全く見せることもなく、彼女はそう言って小首を傾げた。

『しばらくは二人でのんびりするのもいいんじゃない?』

 まったく慌てることのない彼女につられて、はるかもそんなことを答えた気がする。

 のんびり、そう、本当にゆっくりとした時間を二人して過ごした。みちるが呟きの
ように零した願い事をかなえたり。きまぐれにはるかの口にしたレースを二人で観戦
したり。


『ホテル暮らしも飽きたろ?』

 はるかが勝手に決めてきた部屋の前でそう言って鍵を渡したら、みちるは驚きの後
に、ふんわりと微笑を浮かべてくれた。


 一緒にいなきゃいけない理由なんて、もう二人にはなかったのに。

 それにやっとのことで気が付き始めたのは、努力しなければお互いの生活が重なら
なくなり始めてからだ。


『ごめんなさい。その日は先約があって』

 食事を一緒にとろうなんて約束もままならない。

『悪い。ちょっと抜けられない』

 電話越しの会話ですら、短く切り上げて。

『ええ、伝えていなかったかしら?』

 一緒にいられないことが当たり前みたいだ。

 長くなった前髪を掻きあげたら、蛍光灯に照らされた部屋の中が白々しい程に眩い。

(また、明日からいないのか)

 そう言えば、地方公演でしばらく部屋を開けると聞いた気がする。けれどそれも随
分前のことだったと思う。だから忘れてしまってもいた仕方ないと言いたいわけじゃ
ないけれど。


(・・・入れ違いになるな・・・)

 彼女が帰ってくる頃には、今度ははるかの遠征。どれくらい顔を合わせないことに
なるのだろうと数えてみたら両手では足りなくてため息が零れた。のろのろと灯りの
中に足を踏み入れて、殊更真っ白なソファへと腰を落とす。背もたれに上半身を預け
きって、天井を仰ぐと、眩しすぎて目を閉じた。


 親友?

 少し違う。

 じゃあ、恋人?

 多分全く違う。

 ただ単に、ルームシェアしているだけ。

 その割に、仲良く過ごす日が偶にあるだけ。

 四六時中一緒にいた頃があったなんて不思議に思える位。

 瞼の裏側にそんな言葉を並べ立てながら、あの扉の向こうで彼女は何をしているの
だろうと思った。


 もしも、まだ。使命が二人を縛り付けていてくれたなら、あの扉はすぐにでも開か
れるのだろうか。


 縋るような自分の視線に気が付いて、はるかは力なくソファへと身体を沈めていった。


                             


「おかえりなさい、はるか」

 鍵を差し込んで、静かに開けたつもり。それなのに、開いた扉の向こうに、彼女は
立っていた。


 部屋から出る時にはいなかった。もちろん珍しいことじゃない。けれど、彼女の気
配を漂わせたままの部屋は、一人でいた頃よりもずっと、出て行くはるかの足取りを
軽くさせる。


 ここに帰ってくる頃には、彼女もこの部屋に戻ってきている。そんなことを考えて
は、口元が緩みそうになって、何度もそこを抑えつけた。


 それなのに、あの日願った通り、彼女が目の前に立っていると、はるかはどんな表
情を浮かべていいのか分からなくなる。


 なんでそんな顔するんだよ。

 見下ろした先で、みちるは微笑んでいる。はにかんだり、それを取り繕うような仕
草なんて全くない。視線をこちらへ向けて、艶やかな唇で弧を描いて。はるかに微笑
みかけていた。


 そんなうれしそうにされたら、誤解してしまうじゃないか。

「ただいま、みちる」

 喉の奥が腫れぼったい。重いような味がして、詰まってしまいそう。そのまま声を
出そうとしたら掠れてしまったけれど、みちるは表情を崩したりなんてしなかった。


 多分、親友とは少し違う。

 絶対に、恋人なんかじゃない。

 例えるなら、それ以上なんてきれいな言葉にまとめることすら出来ない。

 抱きしめたくなったけれど、そんなことできなくて、からかうみたいに彼女の頭を
撫でて見せたら、その腕にみちるはそっと身体を寄せた。




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