Life 4



 自分の気持ちが伝わっているかのようなエンジンの音が耳に心地よい。ご機嫌よく
愛車が家路を駆けていく。


(思っていたより早かったから、驚くかな)

 予定よりは遅いけれど、予想していたよりは早い帰宅。予定がずれ込むのは別にめ
ずらしいことではない。けれど新しいお仕事がはるかの意思とは関係なく始まってし
まった今、海外のレースにまで出場するようなことは控えているから、ひどく長い期
間家を空けることも少なくなっていた。


(・・・なのに、長く感じちゃうのはやっぱり欲深くなってるからなのかなー・・・)

 何事にも執着のないはるかは、時間が過ぎるのが待ち遠しいなんて思うことがあま
りなかった。もちろんサーキットにいる間まで、ぼんやりと思考を飛ばしてしまうよ
うなことはない。けれど部屋に帰って、ふと一人でいることに気がつくと、考えるの
は彼女のことばかり。


 会いたくなっちゃうから、考えなきゃいいのに、思い浮かべるのはみちるの顔ばか
りだ。シーツに包まったまま丸まって、バカみたいに恋しくなる。


 大人になるってどういうこと?

 脳裏に思い浮かべた彼女が問いかける。

 それは多分、こんな姿のことじゃないと思う。

 だけど、何年たっても、彼女のことが恋しくならないことなんてきっとない。その
度に、はるかはこんな風に丸くなって、蹲って、何とか時間をやり過ごすのだろうか。
それとも、もっと他の方法がわかったなら、それがオットナーってことなんだろうか。


 青い空の下、あと少しではるかの待ち焦がれていた我が家が見えるところだった。


                             


 定位置に車を停めると同時に玄関の扉が開いて、そこから彼女が駆けてきた。

「はるか」

 遠く響いていたエンジン音を聞いて出てきてくれたのだろう彼女は、座席に座った
ままのはるかの首元に抱きついてくる。


(・・・オープンカーでよかった)

 いや、別にその為に今の愛車を選んだわけじゃないけど。でも、ずっと恋しく思っ
てた子に、じれったく思う暇もなく抱きしめられて、はるかは素直に心を躍らせた。

 はるかを抱きしめる華奢な腕。頬に当たる柔らかい髪と、彼女の匂い。心の底から
満たされていくのを確かに感じて、はるかは夢を見ているかのように目を閉じた。


「・・・ただいま」

 少し声が掠れたのはご愛嬌ってことにしときたい。ゆっくり目を開けると、みちる
の顔がすぐ近くに見えた。恋しくて、頭に思い浮かべていたよりもずっと、きれいで
可愛らしい笑顔だった。

 先ほどの言葉へ答える代わりに、みちるははるかの頬に手を添えて唇を寄せる。

「・・・教育に悪いんじゃなかったっけ」

 何度も繰り返されるおかえりのキスの合間にふと玄関を眺めると、ちっちゃな女の
子が、満面の笑みを浮かべてこちらへ駆けてくるのが見えた。


「愛し合ってる素振りも見せちゃいけないなんて。その方がよっぽど良くないと思わ
ない?」


「そうかな」

「そうよ。あの子を一人で生きていけるような人間に育てたいの?」

 普通は、そういう自立した子に育てましょうと言うようなものなんだろうけど。み
ちるはそれとは真逆のことを言った。


「・・・それもそうだね」

 けれど、はるかは彼女の言葉に、ひどく納得して微笑んだ。まあ、まんま行為を見
せるとかは完全にアウトだろうけど。というかしたくない。だから、みちるが言って
いるのは、多分そう言うことじゃないんだ。


 みちるの足元まで駆け寄ってくると、その子はうれしそうにはるかを呼んで笑った。
その姿を見ていると、自然に手のひらが小さな頭を撫でていた。


 この子よりは大きくて、今よりは少し子どもだった頃。はるかには誰も必要じゃな
かった。もちろん経済面では、誰かに依存しなければ生きてはいけなかったけど。誰
からも愛されていなくとも平気だと思っていた。誰かを大切だと思うこと自体が煩わ
しいと思っていた。誰にも縋り付けない代わりに、誰かのせいで、辛くなることも傷
つくこともない日々を、真っ只中で過ごしている時には普通のことだと思っていたの
だった。

 そのことを誰かのせいにするつもりなんてないけれど、お互いに慈しみあう人たち
を身近に眺めたことがなかったのも一つの事実だ。見たことも、向けられたこともな
い感情なんて、わかんないもんね。


「おかえりなさい」

 こちらへ向かって広げられた小さな両手を眺めていると、この子には、そんな風に
思って欲しくないと願ってしまう。お仕事のために一緒に暮らし始めたことも忘れち
ゃいそうなくらい、ただただ祈ってる。


 これから先、この子が傷ついたり、辛くなったり、悲しくなったり。そんな場面は
何度も訪れるに違いない。もしかしたら、他の子よりも多いかもしれない。一人で立
上らなきゃいけないことだって、きっとたくさんある。


 それでも、できるなら、誰も必要じゃないなんて、思えるようにならないで欲しい。

「ただいま」

 車から降りて小さな身体を抱き上げると、お菓子のような甘い匂いがする。

「もう一人、はるかの帰りを心待ちにしている人がいるから、早く家に入りましょう」

 そう言って、みちるがはるかの背中をそっと抱いた。

 一人じゃないから、強くなれることだってあるよ。

 本当はそんなきれいな言葉だけじゃ生きていけないこともわかっている。けれど、
優しい手のひらに抱かれていると、腕の中の女の子には他のどんなことよりもたくさ
ん、その言葉を贈ってあげたいと思った。



                              


「・・・・・・あれ?」

 不意に気がついて身体を起こすと、そこはソファの上だった。はるかの動きに合わ
せて、毛布が膝に引っかかりながら、床へ落とされていく。


(えーと・・・?)

 久しぶりの家での食事は、いつも以上に手のかけられたものだった。
 遠征中は義務的に極力規則正しい食事をしていたけれど(打ち上げとかは別)、
自分から何か食べたくなるようなことはなかった。元々食への関心自体が薄いことを
はるかはきちんと自覚していた。けれど、時と場合によってその性質は大きく変化す
るらしい。楽しいのとうれしいのとで箸が進む。はるかの姿勢やら食べ方へのお小言
が、ステレオ放送で聞こえてきたりはしたけれど、はしゃぐ気持ちは全然目減りしない。


(で、どうしたっけ・・・?)

 食後のお茶をソファに座って飲みながら、ねだられるまま、留守にしていた間のこ
とを上機嫌で話していたような気がする。


「あら。やっと起きたの、はるか」

 記憶を手繰りよせようと頭を掻いていたら、リビングの入り口から声が聞こえて振
り返った。


「・・・放置しなくてもいいじゃん」

 その姿を確認して、安堵する。それなのに、気持ちとは裏腹に、はるかはすぐに彼
女から背を向けた。


「少し席を外していただけじゃない」

 はるかの様子を眺めながら、彼女が苦笑いのように言う。

「起こしてくれればいいだろ」

 手持無沙汰になって、落ちかけていた毛布を拾うと、それはいつも彼女が使ってい
るものだと気がついた。


「夢かと思うじゃないか」

 その毛布を引き寄せながら言うと、懐かしい匂いがして、どうしてだか胸の奥が狭
くなった。


 一人に戻ったのかと思うじゃないか。

 毛布を抱き寄せて、座り込んだまま丸くなると、涙が出ちゃいそうだ。

「しばらく会えない間に、ずいぶんと甘えん坊になって帰って来たのね」

「・・・・・・うぐ」

 ゆっくりとこちらへ歩み寄ったみちるは、相変わらず柔らかい口調でぐっさりとは
るかを突きさした。何だよ。久しぶりなのに、優しくしてくれてもいいじゃないか。

 不貞腐れそうになりながら丸まったままで見上げると、みちるが静かに隣へ座ろう
としているところだった。彼女がソファへと腰を下ろすと微かに布地が沈む。ふわり
と髪が揺れて、握りしめている毛布よりもはっきりと、みちるの匂いがした。


 細い腕が背中にそっと添わされると、昼間帰って来た時の気持ちが蘇ってくる。だ
からだ。拗ねちゃいそうな気持ちをあっさりと手放すと、はるかはその腕に促される
ように彼女の肩に頬を寄せた。背中を抱くのとは反対の腕が、はるかの頭を抱き寄せ
ると、本当に涙が出ちゃいそうだ。だ け ど。


「寂しかった?はるか」

 はるかを抱きしめたままみちるがそんなことを言った。彼女は自分がそう言った質
問をされることは好きではないのに、はるかにはそれを聞きたがる。素直に答えてな
んてやらないけど。


「みちるが出してくれたなぞなぞのおかげで、考えごとして時間潰すのには困らなか
ったよ」


 布団かぶって悶々としてたことはこの際省略。

「そう?じゃあ正解はわかったの」

 はるかの髪の毛を指先で弄びながら、みちるが言う。

「んー・・・とりあえず、自分がどんどんそこから遠ざかって行っているのはよくわ
かった」


「そうかしら。あの子の前だととても頼もしく見えるけど」

「あ、もう寝てるの?」

「ええ。あなたよりよっぽどいい子に寝ついてくれるわ」

「ソーデスカ」

 頭をなでられながら、ご就寝中のお姫様のことを考えると、はるかも何だか眠たく
なりそうだ。ずるずると彼女の身体の線に沿って身体が落ちていく。


「・・・一人ぼっちじゃ寂しいとか、いかにも子どもでしょ」

 それと一緒に、自制心とか、意地とかも低下しちゃったのか、はるかは結局、
素直にそう告げていた。彼女の膝の上に頭が落ち着くと、気持ちよくって本当にまど
ろんじゃいそうだ。さっきまで寝てたんだけど。


「自分にあてはめるから、わからなくなるのかしら」

 明日はここで昼寝したいなーなんて考えながら見上げると、みちるがこちらを覗き
込んで笑った。


「みちるが?」

「私もあなたと一緒にいると、子どもの頃に戻ったような気持ちによくなるもの」

「エッチしてる時とか?」

「・・・・・・ばか」

 可愛らしくおどけたつもりなのに、鼻先をぎゅっとつまみ上げられた。照れなくて
もいいじゃないと言ってやりたくなったけど、「あなたこそ」と言われるに決まって
いるだろうから口には出さないことにする。


 じゃあ結局、大人になるってどういうこと?

 自分にあてはめても、みつめあった相手のことを考えてみても、よくわからない。

「考え方とかも変わっちゃうのかな」

 それなら前と比べて変わったところはどこよ、なんて考えていたら、そんな言葉が
口を突いて出ていた。少し前の自分を思い出して、それから、その頃よりは素直にな
ったかしらん、等と自画自賛。それが成長なのか幼児返りなのかはわかんないけど。

 頭を撫でていた手を取って、口づけてから見上げると、みちるは思いの外考え込ん
だ様子で口を開いた。


「そうねぇ・・・。年を取れば大切な人も増えるだろうけれど、守らなければいけな
いものもわかっているから。場合によっては切り捨てることも必要だと思う気持ちま
では変わりそうもないわ。だから、そこは性質の問題なのかしら」


 みちるはさっきまでと変わらず穏やかに微笑んでいたけれど、緩ませた目元が少し
だけ切なそうで、胸の奥がまた少し狭くなった。彼女の言うそれは、多分変わらない
んじゃなくて、変わっちゃいけないことなんだと、はるかも気づいているからだ。


「難しいなあ・・・。学校で単語詰め込んでる方が簡単だったよ」

 だけど、自分ひとりで背負いこんでほしくなくて、わざとらしいくらいに明るい口
調でそう切り返してみる。苦笑いを浮かべたみちるに、気が付かれてしまっただろう
か。


(あー・・・何でいっつもこんな軽いノリになっちゃうのかな)

 その表情のまま頬を撫でられて、はるかは少し落ち込みそうになった。確か、前に
もこんなことがあったような気がする。あの時は、その後どうしたんだっけ。


 思い出そうと頭を動かすと、浮かんでくるのはやっぱり彼女の顔で。目の前にいて
くれるのに、思い出すっていうのもおかしいなと、笑ってしまった。


「なぁに、急に」

 笑い出したはるかを咎めるような声。少し拗ねたような顔。全部見たことがある。
いつだったっけと考えていたら、不意に思いついた。


「あ・・・ねえ、思い出が増えるとかは?」

「え?」

 みちるが僅かに目を見開く表情を、何度見てもきれいだと思いながら、じっとみつ
めてしまった。


 思い出が増えていくなんて、多分ずっと続いて行くことなんだろうし、振り返って
ばっかりもいられないんだろうけど。


 うれしかったり、痛かったり、忘れちゃいたいことも、忘れちゃいけないことも。
それがなきゃ前に進もうなんて考えないんじゃないの。止まったままじゃ、大人には
なれないんだろうし。


(あ、でも・・・)

 色々なことを思い出しながら、はるかはあることに気が付いて、また笑ってしまっ
た。一度見咎められているものだから、口元を押さえるけれど、くすくすと漏れてし
まうのは抑えようがない。


「もう、一人で笑ってばっかり」

 案の定みちるはそう言って、膨れてしまった。

 だって仕様がないじゃないか。

 思い出そうとしたら、浮かんでくるのが君のことばかりなんだから。

「きっとみちるでいっぱいになっちゃうんだろうな」

 初めて出逢った頃は、顔立ちのきれいな子だなって感想以外には、あまり良い印象
ではなかったのに。今はるかの目に映る彼女はなんて可愛らしいのだろう。そんなこ
とを考えながらそう告げると、彼女はまた、言葉に詰まったような表情をしたけれど。


「そう」

 短くそう答えてから、次に「それは素敵ね」と続けて言った。今、側にいる彼女が
一番きれいだ。そう思えるような微笑と共に。


 大人になるまで、大人になっても、きっとはるかは覚えている。そんな笑顔だった。



                            END



 はるかさんは一生懸命考えますが、みちるさんの脳内は大概Temptationみたいなことになって
いると思われます。



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