恋におちたら 15




 激しい雨にかき消されないくらいに、喚くようにそう言い放つと同時に、祐巳は扉を開
けてそこへ入り込んだ。その勢いのまま、扉を閉める。


 雨音だけが響く温室の中は、激しい雨が別世界のことであるかのように、いつもと変わ
らず、緑に溢れていた。


 ここまで追いかけてくれただけで充分だから。

 もう、一人にして欲しい。

 何よりも、妹が自分に恋心を抱いていると知った以上、祥子さまも深入りはしてこない
はずだった。


 それなのに。

「待ちなさい」

 祥子さまは、躊躇うことなく向こう側から扉を開けた。

「聞いて、祐巳・・・そのままでもいいから」

 背を向けたままの祐巳に、祥子さまは静かにそう言い聞かせてから、ゆっくりと扉を閉
めた。


 二人の沈黙の間に、雨音だけが鳴り響いて耳に付く。

「・・・婚約を解消しようと思うの」

 凛とした声が、雨音をかき消した。

「まだ、本人同士の合意に過ぎないけれど・・・形だけの結婚なんてしたくないの。その
気持ちは一年前と変わらない」


 祥子さまは何を言っているのだろう。近づいてくる祥子さまの声とは反対に、雨音が小
さく消え入るように聞こえ始める。


 祐巳は何も言えなくて。

 祥子さまの足音だけが聞こえてくる。

「・・・だけど、今はそれだけではないの」

 耳元で、祥子さまが躊躇いがちにそう囁いて。背中に柔らかな温もりが触れると同時に
、小さな身体が再度締め付けられた。


「・・・・・・!?」

 抱きしめられたのだと理解するまでに時間が掛かったのは、ありえることのない事態だ
ったからだ。けれど、祥子さまは抱きしめた腕の力を緩めることなく、穏やかな言葉を積
み重ねた。


「全部清算したらきちんと伝えようって、それまでは抱きしめたりしてはいけないと思っ
ていたわ」


 小さくなっていた雨音が完全に消え入って。

「でも、それはただの逃げだった。資格がないと、拒絶されるのが怖かったのね、私は・
・・本当にあなたのことを思うなら、何よりも一番に伝えなければいけなかったのに」


 ガラス張りの温室に、雨上がりの柔らかな光が差し込み始める。

 たどたどしくそう言葉を紡いでいた祥子さまは、一旦抱きしめていた腕を離すと、祐巳
の肩を優しく引き寄せて、お互いの顔が見えるように向かい合った。


 雨に濡れたガラスに乱反射した日差しが、祥子さまの美しい顔を照らしている。

「祐巳が好き」

 祥子さまは。

 何が起こったのかわからなくて、呆然と立ちすくむ祐巳の前で、はにかんだような、恥
ずかしくてたまらないような真っ赤な顔をしていて。だけどまっすぐ祐巳をみつめながら
そう告げた。


「祐巳が好きなの・・・抱きしめたいし、キスしたい・・・それは優さんじゃない・・・
祐巳にしかしたくない」


 真っ赤な顔のまま、祥子さまはそう言って、ぎゅうっと祐巳を抱きしめてくれた。相変
わらず濡れたままの祐巳の頬に、同じように濡れたままの祥子さまの黒髪が掛かる。


 冷えかけていた祐巳の心を、濡れた祥子さまの身体が強く強く抱きしめる。

『全部清算したら、きちんと伝えようって』

 祥子さまはこんなにも祐巳の事を考えてくれていたのに。

『ただの逃げだった』

 つらい気持ちから逃げていたのは、祐巳の方なのに。

『祐巳が好き』

 そんなこと言ってもらってもいいのかな、そんな躊躇いと。現金なくらいにそれとは裏
腹の震えるような喜びが、全身を駆け巡る。


 それから。うれしくて、切なくて。熱い涙が頬を伝ったけれど。

 どうしよう。

 こんなにドキドキしているのに、頭のどこかで、どうして祥子さまはこんなにいい匂い
がするんだろう、なんて思ってしまった。


「あ・・・、で、でも・・・っ」

 あたたかい腕の中で、もてあましてしまいそうな感情のまま祥子さまの背中に腕を回そ
うとしたところで、祐巳は思い出したように声を上げた。


「?」

「この前は、その・・・キスしそうになったことを『ごめんなさい』って、どうかしてい
たって・・・お姉さま、言ってましたよね・・・?」


 おずおずと祐巳が尋ねると、祥子さま元々赤かった顔を更に紅潮させた。

「あ、あれは・・・だって、まだ婚約中なのに・・・祐巳を弄んでいるみたいで・・・そ
れに、祐巳は私のことを、そんな風には思っていないかもしれないし・・・だから、その
・・・」


 ごにょごにょと、言いにくそうに祥子さまは俯いて。

「・・・・・・嫌われたくなかったもの」

 消え入りそうな声で呟いた。
 だけど、祐巳はその言葉を聞いて、やっと、安心することができた。
 だって。

 同じだったんだって。

 世界中でこんなにもたくさんの人がいるのに。祥子さまと出会って、恋をして、同じ気
持ちになれたんだって。


 そう思えたから。

「だ、だからといって、いい加減な気持ちでしたわけではないわ」

 祐巳が眩しそうにみつめたのを勘違いしたらしい祥子さまは、急にしどろもどろで怒っ
たようにそう言ったけれど。その仕草が、うれしくてたまらなくなってしまった。


 とくんとくんと、心臓が軽やかにリズムを打つ。

 それは、切なくて、苦しいだけじゃない。大好きって気持ちがあふれ出てくるような、
優しくて、まっすぐな胸の高鳴りだった。


「うれしかったです」

「え・・・?」

 恥らうように口元を押さえたままの祥子さまにそう告げると、吸い寄せられるようにぴ
ったりと目があった。


「私も同じ気持ちだったから、うれしかったです・・・えっと・・・」

 幸せな気持ちのままそう口にしていたら、視線を合わせていた祥子さまが急に真剣な目
をして、息が掛かるくらいに顔を寄せてきたから、思わず口ごもってしまった。


「あ・・・あ、え・・・」

 形勢が逆転したかのように、祐巳はもう何もいえなくなってしまったけれど。

 息が掛かるくらい、吐息が触れ合うくらい近くでみつめ合うと、押さえ切れない気持ち
がどこへも行きようがないかのように、目元が緩んで、それから少しだけ滲んでしまった。


「・・・・・・キスしてもいい?」

 唇を合わせる最後の瞬間に、祥子さまが優しく目元を緩めてからそう聞いてくれたから。
 ドキドキ高鳴る胸のまま、それでもにっこりと笑って静かに目を閉じた。

 雨に濡れた祥子さまの髪が頬に当たって、くすぐったくて。

 だけどぴったりとくっついた唇が温かくて。

 触れ合った場所から、祥子さまへの気持ちが全部全部届きますようにって祈るように、
寄り添いあった身体をそっと抱きしめた。


「大好きよ」

 一瞬だけ触れるだけのキスの後、にっこりと笑ってこちらをみつめてくれた祥子さまは。

 ガラスの壁越しにきらきらと輝いて見える、雨上がりの真っ青な空のように澄んだ瞳の、
世界中で一番きれいな、祐巳だけのマリア様だった。




                                       END



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あとがき

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