君にあいたくなる  1



「ねえ、もう大丈夫だから・・・」

「駄目だよ」

 窓辺に腰掛けたみちるの前で、はるかはひざまずく様にして彼女をみつめた。月の
光を浴びた彼女の素肌が、青々と透き通って見える。彼女の身を包んでいた衣服は、
全てはるかに取り払われてしまっていた。


『傷を見せて』

 マンションへついてすぐそう言ったはるかに、みちるは困ったような表情を浮かべ
た。だけど、それを受け入れることはできなかった。


 孤島のようなあの場所で、あの時、確かにみちるの息は止まっていた。

 足元も覚束ない位に、傷だらけで。きれいな白い肌が、赤く汚れて。それでも彼女
は立ち上って言った。


 −−−はるか、死なせないわ。

「・・・お願い、・・・」

 恥ずかしいから、と口にしかけた唇を塞いでから、傷ついていた腕に、肩に、背中
に。羽のように唇を降らせていく。


「駄目だ」

 低く呻くようにそう告げると、みちるは戸惑いながら、そっと目を伏せた。

 その瞼にも口付けて、もう一度唇を重ねると、確かな温もりを感じて涙があふれそ
うになる。


 彼女が生きている。

 そのことを、誰にともなく感謝したくなった。


                              


 制服の下に隠れた身体に、生傷なんてほとんど残っていなかった。どうしてか、な
んてわかんないけれど。それを言うのなら一度ははるかもみちるも、呼吸から脈拍ま
で全部止まっていたのだろうから、その一連の出来事を奇跡とでも呼んで納得するし
かない。


「この部分は各箇所に別けて覚えずに、流れを理解するように」

 肘を突いて眺める景色はいつもの教室。

 例え制服の下が傷跡だらけであったとしても。その中にある気持ちがボロボロだっ
たとしても。はるか達の周囲の景色は変わっていない。何一つ。


 試験範囲の内容を説明しているらしい教諭の声を聞き流しながら、はるかはぼんや
りと空を眺めた。緩やかな雲が霞みながら停滞している。穏やかな空。


 朝起きたら、学校へ行って。授業をやっつけて。トレーニングに打ち込んで、パド
ックに入り浸って。興が乗れば適当に学校をサボる。それから、心が潰れちゃいそう
だろうがなんだろうが、「お仕事」をこなす。目的の変化が多少はあったけれど、い
つもと変わらない日常。忍び込んでくるような焦燥感をもてあましながら、それでも
何とか一日を過ごす。そんな日常。それから。


 不意にチャイムが鳴った。

 視線を上へ上げると、教諭がすでに教壇から下り、教室を出ようとしているところ
だった。


 昼休憩の始まりに、教室のざわめきが音量を上げる。

(・・・寝ようかな)

 そんなにお腹もすいてないし。それぞれが昼食を取りに立ち上る中で、はるかは投
げやりに、机の上へ突っ伏した。


「はるか」

 けれど、目を閉じて、ざわめきから自分を切り離し始めたところで、声がした。

 ゆっくりと顔を上げて後方の扉へと視線を向ける。

「みちる」

 穏やかな微笑を浮かべた彼女が立っていた。


                              


「今日はどうしたの」

 美術室でも、音楽準備室でもない、空中庭園のベンチに腰掛けながら、そんなこと
を尋ねてみる。最近では、学校の中でこんな風に過ごす時間なんてなかったからだ。
馬鹿みたいに、胸が高鳴っていた。


「・・・何もないわ」

 はるかの問いかけに、みちるは不思議そうな表情を浮かべてそう答える。

「それで?」

「お昼ご飯を一緒に食べようと思っただけ」

「どうして」

「・・・だから、何も、なくて・・・」

 しつこく食い下がるはるかの様子に、みちるが戸惑ったように言葉を詰まらせるか
ら。


「暇つぶし?」

 意地悪くそう尋ねた。その言葉に、みちるの頬がさっと気色ばむ。

「違・・・」

 言いかけたその唇に、すばやく口付けてやった。

 みちるが目を見開いて、それから閉じる。それを確認してから、一瞬だけ唇を離す。
はるかを遮るように挙げかけた彼女の腕を軽く掴んでまた口付けたら、止まらなくな
りそうだ。


 くっつけて、離して、またくっつける。その繰り返し。掴んでいた腕とは反対の手
が、はるかの手に重ねられる。膝の上で指を絡ませあうと、唇がくっついてる時間が
長くなった。


「・・・ちゃんと言ってよ」

 彼女の唇の端を猫みたいに舐めてから呟いた。

 額を彼女の額に押し当ててみつめあうと、自分の顔がひどく熱っぽく感じられてた
め息が漏れる。みちるの唇が、薄っすらと開いた。


「・・・・・・はるかに会いたかったの」

 胸の奥深く、深くどこまでも、みちるの声が沁みこんで行くみたいだ。言葉を待ち
わびていた心が震えてる。


「・・・・・・うん・・・」

 掴んでいた腕を離すと、彼女の手のひらが躊躇いがちに肩へ添わされて、柔らかな
身体がはるかの腕の中に納まった。きつく抱きしめると、離れていることの方が不自
然なくらいに、彼女の身体がはるかの身体になじんでいるように感じた。


「・・・ねえ、やっぱり、こんな所じゃ・・・」

 しっかりと腰を抱き寄せて、逃がさないくらいに抱きしめて、彼女の顔を上げさせ
ると、困惑の色を浮かべた瞳が視線をそらす。


「誰も見てないよ」

 それを追いかけるようにして、今度こそ深く口付ける。

 すぐ側にこそ、人通りはないものの、今の時間帯にここを利用している生徒は決し
て少なくない。木立や植木、花壇に溶け込むように配置されたベンチやテーブルセッ
トは程良く他の視線を遮ることができるけれど、近くの通路を誰かしらが通れば、そ
こを利用する生徒の様子は見えてしまう。


「でも・・・」

 だから、誰か近くを通ったら、見えちゃうかもね。

 不安そうに瞳を揺らめかせる彼女を眺めながら、心の中でそう呟くと、唇の端が上
がってしまいそうで。けれど、それを言葉にする余裕なんかない。


 彼女の髪をかき乱しながら、何度深く貪っても、全く足りない。

「・・・無理。止まんないから」

 少しだけ顔を離してそう告げる。その声が、彼女の唇に当たってはるかの唇に帰っ
てくる。それを押し戻すようにまた強く口づけると、柔らかな舌が絡みつくのを感じ
てより一層抱きしめる腕に力が入った。


 肩に添わされていた手が、滑り込むようにして背中に這わされる。その手が強くは
るかを抱き返すと、まるでこのまま結ばれていくかのように感じられて胸がいっぱい
になる。


 でも、満たされていく胸のどこかに、空洞があることにちゃんと気付いてる。

『僕を置いて行くなよ』

 みちるは一度だって、その言葉に頷いてくれたことがない。



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