Hello 1



「何よ。私があなたの為に、どれだけ苦労してると思っているの」

 目の前で泣き崩れる女を、はるかは割と冷静に眺めていた。

(何よ。このベタな展開は)

 スコーンと脳みそがどっか飛んで行っちゃいそう。

「うん。わかってるよ。いつもありがとう」

 努めて可愛らしい声を演出しながら、はるかは彼女にグラスを差し出す。ミネラル
ウォーター
100パーセント。

「ほら。どうせ鬱陶しいんでしょう、私のことなんて。だからこうしてあしらうんだわ」

(うん、正解。さっさと寝てくれ)

「あなたは、あの人そっくり」

(げげっ、なんつーこと言うんだ!それだけは嫌!)

 驚愕の言葉に青ざめるはるかからグラスを取り上げると、彼女はそれを一気に煽っ
た。空になったグラスをテーブルに結構な勢いで置く仕草。吐き出す息。


(・・・・・・酒くっさ)

 目の前の酔っぱらいに思わず「しっしっ」と手を払ってやりたくなる。

「・・・ちょっと、こんな所じゃなくて、ちゃんとベッドで寝てよ」

「放っといて!」

 親切にも忠告してやっているのに、テーブルに突っ伏したまま、何を思ったのか彼
女は盛大な声で泣き始めた。


(うるさいなー・・・近所迷惑じゃん)

 単なる酔っぱらいではなく泥酔者だと改めて認識しながら、はるかはそっと溜息を
つく。これでも彼女ははるかのマミー。ママン。おかん。・・・何でもいい、とりあ
えず母親である。彼女の言うとおり、その言動が鬱陶しくてたまらなくなって、はる
かは席を立ちあがる。そろそろ良い子は寝る時間だし。が。


「待ってよ。放っとくつもり」

(あんたが放っとけって言ったんだろうが)

 血中アルコール濃度の高くなっている方は、時々前後でまったく正反対の主張をす
ることがあるのは心得ているけれど、心の中で毒吐くぐらいは許されると思う。


「・・・まさか。毛布を取ってこようと思っただけ。寒いでしょ」

 なるべく穏便に済ませて自分を避難させる方が得策だということも理解しているは
るかは、できうる限りに優しい声でそう語りかけた。だけど、それがよくなかったら
しい。


「行かないで・・・」

(ウゼぇ・・・)

 つけ上がらせてしまったようだ。思わず顔が歪みそうになる。ついでに脳みそも。

 何となく、原因はわかる。鬱陶しいのは毎日のことだけれど、彼女はいつもこんな
風に泥酔しているわけではないのだ。


 テーブルに身体を預けるように伏せながら、彼女はうつろな目で顔を上げる。その
視線が近くのボトルへ伸ばされる気配を感じて、はるかは慌てて取り上げた。救急車
呼ぶことになったりしたら、めんどくさいじゃん。


 はるかの父親に当たる彼と会った日は、必ずこんな風に荒れる。何てわかりやすい
大人なんだろう。


「・・・本当は別れるつもりだったのよ」

(はいっ、うそー)

 帰ってきたのはいつなんだろうかわからないけれど、はるかが帰宅した時には既に
これに近い状態だったから、昼間にでも会ってきたのだろう。


「それなのに、会うなり「何も困っていないか」なんて言って・・・。だったらこの
生活を何とかしてよ!」


(・・・いや、隠し子作って放ったらかしているわけじゃないんだから、上出来だと
思うけど)


 リビングの豪奢な作りを眺めながらはるかはそんな感想を抱く。世間一般がどうい
うものかはわからないけど。生まれてこの方、はるかは生活が苦しくて困ったことな
んてない。父親と一緒に暮らしていないことが、どうやら他の家庭と少し違うらしい
と気が付いたのは、結構早い段階だったと思う。周囲の方々の温かい気遣いから、小
さめのボリュームでひそひそと揶揄されているらしいことに気が付いたのも、そのす
ぐ後。

 だけど、それが鬱陶しいと感じる以外に、生活に支障なんてなかった。むしろ、周
囲と比べて、好きなことを好きなようにさせてもらえているとすら思っている。少な
くとも、働きに出ている風でもない母親だけの力じゃない。顔もうろ覚えな程に、ほ
とんど会ったこともない彼は、はるかたち親子の為に、結構な額を継続して積んでく
れているのである。


 それで充分じゃないか。何が不満なわけ。

「・・・・・・子どもがいるのに、一緒に暮らしてくれないなんて」

 嗚咽に混じらせて、彼女が言う。

「・・・・・・」

 多分、それが彼女の本心なのだろう。幾度となく繰り返されてきた言葉を聞きなが
ら、はるかは唇の端が上がっていくのを止められない。


 二人で住むには広すぎる、マンションの一室。無駄な装飾に溢れかえった家具。

 これ以上、他に何が欲しいって言うんだ。

 愛なんて衝動じゃないか。自分の人生を振り返ってもまだ、気がつかないんだろう
か、この人は。


「・・・いかないで・・・」

 寝言のように彼女が呟く。残念ながら、はるかの腕力では寝室まで連れて行くこと
はできなさそうだから、代わりにその肩へと手近にあったブランケットを掛けてやっ
た。扉を開いてルームライトを消すと、部屋の中は真っ暗で。机に伏せる彼女がぼん
やりと揺れている。それを眺めながらはるかは心の中で吐き捨てた。


 嫌だな、女って。

 皆が皆そうじゃないこと位、もう理解できる年齢にはなっている。でも、生理的な
レベルで感じる嫌悪感に、そういう後付けの理性なんて無意味でしょ。


 廊下を歩きながら、酒気が絡み付いてしまった髪の毛をくしゃくしゃと掻きあげる。
お風呂に入ったばっかりなのに。気持ち悪いったらない。


 気持ち悪いったらない。

 同じ生き物だなんて。

 部屋の扉を開けると、先ほどと同じように真っ暗で、はるかは慌ててルームライト
を点けた。


 子ども用、と言ってしまうには、少し広すぎる気がしないでもないそこが、はるか
の部屋。物心ついた頃から、この部屋を与えられていたから、気がつくのにしばらく
時間がかかってしまったけれど。時折戯れに訪れる友人たちの部屋は、この半分あれ
ば上等で、ないことだって多い。


(猫に小判だっけ・・・。うーん・・・他には、・・・)

 分不相応。無駄遣い。色んな言葉が浮かんでくる。だけど、それが彼なりの贖罪の
つもりなんだろうから、ありがたく使わせてもらうだけ。


 ベッドに腰掛けると、真新しい制服が、箱から取り出されないまま床に放り投げら
れていた。


 今までは私服でよかった。だから、改めてそんな格好をする羽目になるなんて思わ
なかった。


 じゃあ、男子生徒用のものでも着用すれば満足なのか。少し違う気もするけれど。
何とはなしにあけて取り出したそれよりは、そっちの方がましかも。


 はるかはふっとため息をつく。

 別に、気持ちが重たくて仕方がないわけじゃない。生まれてこの方、そんな深刻に
思いつめるようなこともなかった。人とは少し違う環境を、周囲が哀れんで眺めてく
れるだけ。不思議そうな目で揶揄するだけ。そんなことで傷ついてしまえる程、はる
かは繊細にはできていなかったらしい。


 だから、ため息をつくとしたら。

 これから始まる楽しいニューライフに向けて、自分を切り替えるための、気分転換。

 制服の布地を手にしたまま、立ち上ってデスクへ向かう。

 チェストの一番上の引き出しを空けると、おあつらえむきなカッターナイフが目に
入る。


(・・・・・・絵面的にはおもしろいんだろうけどなぁ)

 やっぱり実用的な方がいいかと、奥にしまっておいたはさみを取り出した。おっき
な工作用ばさみ。最近ではあんまり使っていないけど。だから逆にシールなんかを
貼って遊んだ跡があったり。


 布地に刃を当てると、何とも言えないほどに、気分が高揚した。

(グッバイ、ガールズデイズ・・・アンド)

 拝啓 お母様、お父様。

 この間買っていただいた制服。とっても可愛くって、はるかも大好きなんだけど。
やっぱりちょっといただけないの。この、スカートが。脚を出すのなんて恥ずかしい
し。と、いうことで。


 思ったくそ切り刻んで、燃やしちゃいました。今とっても清々しいです。まる。

 はるかより。愛をこめて。


 ハロー、グローリィデイズ。



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