天昇り花乱れ咲き<前編>



「ごきげんよう」


  朝。澄み切った青空に冬の陽射しが眩しい。

 しばらく続いた雨模様の寒い日がようやく明けて、あちこちで交わされる挨拶
の声も今日はいつもより幾分弾んでいるように思える。お祈りを済ませて見上げ
たマリア様の白いお顔も朝の太陽に照らされて爽やかに温かい。


「ごきげんよう」

 背中の方から誰よりもはっきりと耳に届いた挨拶の声に、祥子は歩き出そうと
していた足を止め、ゆっくりと振り返った。


「ごきげんよう、祐巳」

 いつもと変わらないごく普通の朝の挨拶なのに、今朝は顔を合わせた途端、互
いに視線を逸らして、その不自然さを取り繕うようにもう一度合わせ、そしてま
た逸らす。頬を染めて、それでも曇りのない笑顔を浮かべた祐巳を見て、祥子は
少しだけ肩の力を抜いて微笑みを返した。


 並んで校舎までの道を歩く。いつもの道筋がやはりいつもと違って見える。

 祐巳が他愛のないおしゃべりをする。祥子は相槌を打って、時々祐巳の横顔を
見つめる。その白い頬に、薄い色の髪に、淡い唇の色に目を留めるせいで、時々
相槌を忘れるたびに祐巳が真っ直ぐにこちらを見る。ほんの数瞬、互いの目がぶ
つかって、また逸れる。


 まるで、初めてのデートみたい。

 好き合った男女の初めてのデートがどういうものかなんて知らないけれど、き
っとこんな風だと思う。そばにいると感じるだけで胸が高鳴って、頬が上気して、
嬉しくて、そしてほんの少し恥ずかしい。歩きながら僅かに触れた指先に熱がこ
もって、その感覚の大きさに喉が詰まるような心地がする。


 少し前までは手を繋ぐことなんて平気だったのに。

 昇降口の前で祥子は立ち止まって祐巳のタイを直す。大して乱れているわけで
はないけれど、ただ、何もしないまま離れてしまいたくなかったのだ。


「ありがとうございます」

 祐巳の態度は変わらない。きっと祥子も変わっていない。けれど、今日から二
人はただの姉と妹ではない。誰も知らないし、知らせるつもりもないけれど、な
によりも二人が一番そのことを知っている。

 二月がもう終わろうとしているある日の土曜日、祥子は祐巳を家に招いた。

 卒業を目前に控えて二人きりで話がしたいと思ったのか、それとも前の週に行
われた瞳子ちゃんとのバレンタイン・デートの様子を聞こうと思ったのか、今に
してみれば祐巳を誘った理由は思い出せない。泊まる予定で来るように言って、
前日に祥子から祐巳の両親に許可をもらっていたから、時間を気にしないで翌日
までのんびり楽しめるはずだった。そして確かに楽しんだのだ。のんびりと、と
はいかなかったけれど。

 おしゃべりをして、祐巳に乞われるままにピアノを弾き、夕食を摂って、順番
にお風呂に入って、そして休む前の貴重な時間、祥子の子供の頃のアルバムを二
人でめくった。一冊に収められた写真の数はその時間の長さに比べてとても少な
い。

 幼稚舎の制服を着た祥子は、固まって遊んでいる友だちから少し離れて絵本を
読んでいた。

 初等部に上がった祥子は、みんなの中に紛れ込むように立って、一人だけ違う
方を向いていた。

 中等部の祥子は、笑っている友だちに囲まれてなぜか硬い表情をしていた。み
んながどうして楽しそうにしているのかまるきりわからないという顔をして。笑
っている写真が殆どないことに気がついたのはごく最近になってからだ。何枚か
ぎこちなく微笑んでいる写真はあったけれど、心から笑っているものは一枚もな
い。

 
幼稚舎、初等科、中等部と続いて、なぜかアルバムの写真は昔に戻る。何かの
弾みでリフィルを重ねる順番を違えてしまったのだろう。中等部のあとに幼稚舎
に入る前の祥子がいて、そして順に年代を遡っていく。制服を着るようになって
からよりも、もっと幼い頃の写真の方がずっと多い。

 リリアンに入学するずっと前、歩くことを覚えたばかりの祥子は笑っていた。
父親に向かって精一杯に小さな両手を伸ばして。

 這うことがこんなに楽しいと知ったばかりの祥子も笑っていた。可愛らしい小
さな熊のぬいぐるみをその片手にしっかりと握り締めて。

 この世に生を受けたばかりの祥子は、白い産着にくるまれて穏やかに寝息をた
てていた。この世界に恐いものなどなにもないと信じて、心から安心した微笑み
を浮かべて。

 物心がついてからの自分と、その前の自分を比べて祥子は微笑んだ。笑うこと
ができなかった自分を哀しいとは思わない。むしろ今は、そんなふうに肩を張っ
て生きていた時代が微笑ましい。ずっとつきまとっていた周りと馴染めないとい
う感覚は、実は些細な自己不信に過ぎなかったのだと今はわかる。

「ごらんなさい。ほっぺたのお肉がすごくって、鼻が埋もれてしまっているわ」

 幼い頃の姿を指して祥子が笑うと、祐巳は愛しそうに写真の上を撫でて言った。

「赤ちゃんの頃、健康的にまるまると太っていた女の子は、大きくなると目鼻立
ちが整った美人さんになるんだって聞いたことがあります。やっぱりほんとだっ
たんだ」

「じゃあ、祐巳はどんな赤ちゃんだったのかしら」

「わ、私はパンパンに太っていて、ダルマさんみたいだって言われていましたか
ら。えっと、その割にはこんな程度で」

「ふふ。祐巳の写真も見てみたいわ」

「じゃあ、今度お見せします。でもお姉さま、絶対笑わないで下さいね」

「絶対、とは言えないわよ。だって見てみないとわからないもの」

「そんな、ひどい」

 笑い合って、もう一度アルバムの上に目を落とす。祐巳はページを戻して中等
部の祥子をじっと見つめた。柔らかな微笑みを口元に浮かべて、仏頂面をした祥
子を包み込むように優しく見守るその横顔を、今、心から笑うことのできる祥子
は見つめる。愛しさで胸がいっぱいになる。いっぱいになって溢れ出して、感謝
と愛情と喜びがごちゃ混ぜになった中に、いつの間にか切なさが入り込んで、な
ぜかはわからないけれど泣きたくなる。

「お姉さま、どっ‥‥」

 どうかなさいましたか、と言いたかったのだろう。祥子の顔を見るなり、祐巳
は言葉を詰まらせて目を大きく見開いた。驚いた祐巳に首を振って、祥子はアル
バム越しにその身体を引き寄せる。棒のようになって動かない祐巳の肩に顔を埋
めて、溢れそうなものを吐き出すように大きく息をつく。

「なんでもないの。あなたに触れたくなったのよ」

 祐巳の手が背中に回って、なだめるように優しく撫でた。顔を上げると、すぐ
目の前に心配そうに覗き込んでいる祐巳がいて、柔らかい唇がそこにあって、吸
い寄せられるように唇を押し当てた。

 祐巳は慌てて逃げるはずだと、どこかで思っていた。

 少女らしい声を上げて、顔を真っ赤にして、後ろにのけぞったままひっくり返って。

 そんな姿を想像していたのに、祐巳はぴたりと動きを止めて、静かに目を閉じ
た。それを見て、口づけている祥子の方が目を開いたままでいることに初めて気
がついた。

 祐巳の睫が一本一本数えられるほど近くに見える。ほんの少し身動きしただけ
で瞼が震えた。押しつけた唇の感触を味わうのに目を閉じると、世界のすべては
祐巳だけになって、そこから抜け出すことなど到底できないように思われた。

 唇を離して、もう一度試すように口づける。祐巳は動かなかった。それをいい
ことに何度も繰り返すうちに、次第に喜びよりもじわじわとした不安が広がって
いく。

 止められない、と思った。

 止められないことが恐かった。

 このまま祐巳が拒絶しないでいたら何をしてしまうのか、どこまでいってしま
うのか、その先を予感できて祥子は怖じ気づく。けれど、その恐怖さえ凌駕する
ほど強い、経験のない衝動が不安と同じくらいの速さでじわじわと祥子を浸食し
ていく。

 止めなければ、と思った。

 このままいってはいけない、とも。

 でもどうしたら止められるのだろう。祐巳が一言やめて、と言ったら終わるの
だろうか。言葉じゃなくてもいい。ほんの少し、身体を引いてくれさえしたら。

 祐巳が祥子の背中に回した腕をそっと引き寄せる。だから祥子は更にその肩を
強く抱き寄せる。衝動と不安とを交互に感じながら、結局は衝動に引き摺られて、
気がつけば抜き差しならないところにまで入り込んでいる。もっともっと欲しい
とこれほどに生々しく突き上げられる激しさに怯えながら、それでもその先に進
もうとしている自分がいる。

 絨毯の上に横たわって祐巳が薄く目を開く。自分の髪の上に手をつきそうにな
って、祥子は身体の位置を変える。パジャマの胸元の僅かな隙間から覗いた首筋
に誘われて顔を埋めると、自然に唇が肌を滑ってそのどこかに吸い付いた。薄い
布地を通して祐巳の身体が熱い。直に肌に触れてみたくなって、そして気がつい
た。落ち着かないような気がしていたのは場所のせいだ。初めてが絨毯の上だな
んて、それはあんまりだろう。

 祥子は身体を起こした。

「祐巳、立って」

 ゆっくりと目を開いた祐巳の手を取ってベッドに連れて行く。部屋の灯りを消
して、背の高いスタンドの明かりを小さく点けた。

「お姉さま、あの」

「なに?」

 祐巳の言葉を遮った祥子はそれを口にした途端に後悔した。今の言い方にはき
っとうるさい、という気分が混じっていたに違いない。けれど、祐巳は祥子から
視線を外し、なぜか壁の一点をぐっと睨みつけて、なにかに決意するように頷い
た。

「いえ、なんでも」

 それで心構えができたのか、自分からベッドの中央に上がって祥子が来るのを
待っている。不安は消え去り、留め金の外れたクローゼットみたいに欲望は全開
する。

 もう迷わない。

 だってもう離さないと決めたもの。

 寄り添い、抱き締めて、祐巳を傷つけることだけはしないように、ただそれだ
けを頭に残したまま、祥子は祐巳とひとつになるために全神経を集中した。



  翌朝は日曜日で、少しだけ寝坊した二人は遅い朝食をとって夕方までの時間を
二人きりで過ごした。

 祐巳は家族の前ではいつも通り普段と変わりなく振る舞った。部屋に戻ると、
夕べ置き去りにしていたいろいろなこと、お互いへの想いや、この気持ちが決し
て一時的な衝動ではないこと、卒業してからもずっとそういう関係でありたいこ
とをちゃんと言葉にして伝え合った。

 それから、夕べのようなことはしなかったけれど、何度も何度もキスをした。

 幸せだった。

 夢のように幸せで、この時はまさかそのあとに苦しい日々が続くなどとは思い
も寄らなかったのだ。

 将来のこと、となにもかも引っくるめて漠然と思い描くことはあるにせよ、最
初のうちはそんな現実的な事柄よりも新たに成立した関係の歓びや緊張に舞い上
がって、目の前にあるものを受け止めるだけで精一杯だった。祐巳、と一言呟い
ただけで、頭の中は祐巳一色になり、恐いくらいの愛しさに息が詰まるようで他
のことはなにも手につかない。祥子は受験のために人気の少なくなった教室で、
大きく「自習」と書かれた黒板をぼんやり眺めながら、組んだ手の上に顎を乗せ
て溜息をつく。机の上にはなにも乗っていない。祐巳を想うだけで何時間もただ
なにもせずに過ごすことができるのを発見して可笑しくなる。

 今までだってずっと祐巳が好きだった。ずっと可愛かった。愛しかった。けれ
ど、今は少し違う。

 切ないとか、恋しいとか、狂おしいとか、そうした経験のない想いが同時に湧
き起こって、まるで全身を駆けめぐる血に溶け込むように身体中を満たし、なお
溢れんばかりに渦巻いて祥子の胸を締めつける。

 これが、恋なのだ。

 小説の中でしか知らなかった。けれど、今ははっきりわかる。

 祥子は祐巳に恋をしている。

 どうしていいかわからない強い衝動に突き動かされてあのようなことになって
しまったあとで、ようやく自覚するなんて少し間が抜けているような気がするけ
れど、恋とはそういうものだ。

 もう一度溜息を落とした時、チャイムが鳴って昼休みを告げた。いつものよう
にお弁当を広げてみたけれど、なかなか箸が進まない。胸がいっぱい、というこ
とはそういうことでもあるのだ。実際にお腹は空いている筈なのに、満ち足りた
身体の内は食べ物がなくても不満とは思わない。まるで祐巳がその場に居座って
胃の腑の空隙を塞いででもいるみたいに。それでも食べなければ祐巳が心配する
だろうと、祥子はゆっくりと箸を口に運ぶ。

 お姉さま。ブロッコリーはお嫌いですか。

(いいえ。あなたが心配するなら私は好きになるわ)

 お姉さま。私、ミートボールが大好きです。

(あなたが好きなものなら、私もきっと好きなはずだわ)

 心の中の会話に祥子の口もとが自然と綻ぶ。

 お姉さま。私‥‥。

 ふと顔を上げると、なにか珍奇なものを見るようにこちらを窺っているクラス
メイトと目が合った。緩んでいた顔のままで微笑むと相手も引き攣ったような笑
いを浮かべる。そそくさと離れていく背中を見送って、祥子は顔を引き締め、お
弁当箱を片付けて席を立った。

 祐巳は薔薇の館にいるだろうか。三年生を送る会の準備で忙しくなるのはまだ
もう少し先だから、今頃は由乃ちゃんや志摩子とバレンタインに貰ったチョコレ
ートのお返しのことなんか考えているかもしれない。もちろん祐巳のことだから
きっといくつかは貰っているはず。どんなお返しを考えているのかと思うと、ほ
んの少しだけ妬ける。あの日、祐巳からは愛情のたっぷり詰まったチョコレート
を貰った。どんなお返しにも負けないくらい、ただ祥子にだけ向けた愛情たっぷ
り、だ。そう考えて少し気分をよくした祥子は、軽い足取りで校舎を出る。

 よく晴れて空には雲ひとつない。コートを着ていない身体に空気は冷たいけれ
ど、その凛とした清浄さに祥子は目を瞠る。校舎の裏庭に差した薄い陽射しに、
目に映るものはみな眩しく輝いて見える。

 祥子はその場に佇んで深く息を吸った。

(ああ、世界はなんて美しいのかしら)

 頬を撫でていく木枯らしさえ今は愛おしい。葉を落とした樹々の枯れ果てた様
子も、色のない風景も、そのひとつひとつが春を待ち望んで芽吹く一瞬前の躊躇
いに時を止めて、ただそこにあることがこんなにも美しいなんて。

 祥子はゆっくりと歩みを進めていつの間にか薔薇の館の前に来ていた。見上げ
た窓に灯りがついているのが見える。ぴったり閉ざされた窓の内を垣間見ること
はできないが、きっと中には祐巳がいて、友だちと楽しくおしゃべりに花を咲か
せているだろう。もしかしたら瞳子ちゃんも来ているかもしれない。先週ロザリ
オを渡して姉妹になったばかりの二人だから、今は幸せで、交わす言葉のひとつ
ひとつが新鮮なはずだ。

 祐巳と瞳子ちゃんがどんなに仲の良い姉妹であってもかまわない。むしろ仲の
良い姉妹であって欲しい。時には嫉妬することもあるけれど、祐巳に妹を持つ幸
せを知って欲しかった。そうして二人はまた一歩前進する。けれどもう、祥子は
瞳子ちゃんと同じただの姉妹ではないのだ。

 ゆっくりと薔薇の館の周囲をひと周りして、少し離れたベンチに座る。祐巳た
ちのおしゃべりに加わっても良かったけれど、今はただこうして美しい景色を眺
めながら祐巳のことを考えていたかった。

 お姉さま。私、後悔なんかしていません。

(もちろん私もよ)

 
お姉さまとずっとこうしていたい。

(そうね。朝なんかこなければいいのに)

 あの、でも、ちょっとくすぐったいです。

(ふふ‥‥そう?)

 お姉さま。大好き。

(祐巳‥‥)

 あの夜の祐巳の記憶をひとつひとつたどっていく。頭の中で繰り返される物語
は限りなく、何度思い起こしても飽きることがない。祐巳の声、柔らかい身体、
溜息やほんの微かな動きさえ、今そこにあるように生々しく思い出されて、祥子
はうっとりとあの夢のような時をトレースする。

 キスをする寸前の恥ずかしげに震える睫に、白いうなじに、可愛らしい胸に、
丸みをおびたおなかに、手を触れ、味わい、優しく愛おしむ瞬間の歓びは、今も
なお同じ感激を伴って祥子の全身を隙間なく満たす。

(祐巳‥‥)

 大好きです。お姉さま。

(祐巳‥‥)

 ずっと。ずっと前から。

(祐巳‥‥)

 ずっと前から、こうしたかった。

(祐‥‥)

「こんなところでなにしてるの、祥子?」

 不意に現実が、殆ど強引な強さをもって祥子を夢から引き戻した。

 どこへともなく漂わせていた視線を声のした方へゆっくりと向ける。

「‥‥令?」

 ベンチにずかずかと近づいてきて、令は心配そうに祥子の顔を覗き込む。

「いったいどうしたの?」

「‥‥景色を眺めていたのよ」

「景色?」

 令は不審そうに裏庭をぐるりと見回した。踏みつけた枯葉が足下でくしゃりと
音を立てる。

「眺めるほどのものがあるとは思えないけれど」

 その言葉を聞き流して、祥子ははあ、と熱い溜息を漏らした。幻想は消えたが
まだ半分、夢の中に足を突っ込んでいる。目元が熱い。何度か瞬きをして焦点を
合わせる努力をする。

「こんなところにコートも着ないで座っていたら風邪引くよ」

「そう? 今日はとても暖かいけれど」

「暖かいって」

 コートにマフラーと手袋で完全装備している令は、呆れたように親友を見つめ
た。今日の最高気温は摂氏八度。普段寒がりで低血圧の祥子の言葉とも思えない。

「あの、さ。見間違いかもしれないけれど」

 隣に座り込んで、令はなにか変なものでも見るように眉を寄せた。

「どうしてにやにやしているのか、聞いてもいい?」

 いい?、といい終える前に、祥子はにっこりと笑った。曇りひとつない究極の
笑顔は令でさえまともに見たことがないほど珍しい。笑いながら視線をあらぬ方
へと漂わせて、再び溜息を落とす祥子に、令はほんの少しベンチの上で後ずさった。

「祥子‥‥」

「ええ。どうかして?」

「一体なにがあったの?」

「なにもないわ」

「‥‥そう。ならいいけれど」

「なにも‥‥‥‥いえ、あったんだわ」

 そして再びうっとりとした溜息。どっちなの?、とあからさまに顔をしかめた
令を無視して、祥子は立ち上がった。

「もうすぐお昼休みが終わってよ」

 カサ、と踏み出した足の下で枯葉が鳴る。それを合図にするかのように薔薇の
館の扉が開いた。予鈴が鳴る少し前、教室へ戻る祐巳たちが出てきたのだ。最初
に乃梨子ちゃんと志摩子、続いて由乃ちゃんと瞳子ちゃん、そして最後に祐巳。

「あ、令ちゃん、来ていたの?」

 由乃ちゃんが嬉しそうに駆け寄る。令は変な顔を通常仕様に戻して破顔した。

「入学手続きが思ったより早く終わったから。由乃、今日はちゃんと起きられた
みたいだね」

「そうそう寝坊ばかりしていられないわよ。お父さんに新しい目覚まし時計を買
ってもらったし」

「はは。それは良かっ‥‥」

 何気なく投げた視線の先にあるものを見て、令は言いかけた言葉を途中で飲み
込んだ。

 祥子が一歩を踏み出したまま、前方を見て固まっている。その向かう先には祐
巳がいて、そちらも同じく固まっている。その場の空気が張り詰めたようにしん
と静まり返って、何事が起きたのかと不思議そうに見守る白薔薇姉妹と黄薔薇姉
妹の目の前で、祥子は愛しい妹に声をかけた。

「ごきげんよう、祐巳」

 丸い頬が一瞬朱に染まったように思う。そして祐巳は静かに微笑む。

「ごきげんよう、お姉さま」

 慎重に、愛の言葉を探すように、いつもと変わらない挨拶を交わす。祥子は少
しの間、祐巳を見つめて立っていた。祐巳もまた身じろぎもしない。次に交わす
言葉を見つけられないでいるうちに予鈴が鳴った。

「いけない。祐巳さん、早く!」

 呆然と二人を見ていた由乃ちゃんが我に返って祐巳の手を掴む。

「令ちゃん、またあとで!」

「ああ、うん」

 おざなりに令に告げて由乃ちゃんは走り出した。その腕に引き摺られながら、
祐巳は振り返ってもう一度祥子に微笑みかける。そのあとを乃梨子ちゃんと志摩
子が軽く頭を下げて校舎に向かった。

 祥子はしばらくそこに佇んで小走りに去っていく四人を見送った。祐巳の微笑
みが目の前から消えない。校舎の中に彼女たちの姿が消えてもまだそこに立ち続
けている祥子を、令は再びこの世に引き戻す。

「私たちも入ろうか。そんな恰好じゃほんとに風邪引くよ」

「そうね‥‥」

 横に並んで立った令は、そっと祥子の顔を覗き込んだ。肩に触れようとした手
が覗き込んだ途端、宙に止まって、弾けるように二人の間の空気が割れる。

「祥子‥‥。どうして笑っているの」

「笑って‥‥?」

 ああ、そう、確かに笑っている。

「笑っているんじゃないわ」

 うっとりとした瞳が時間をかけて令を捕らえた。けれど、祥子の目が見ている
のは令ではない。

「微笑んでいるのよ」

「悪いけど、私にはにやけているようにしか見えないけれど。目の焦点が合って
ないし」

「まあ、令。失礼ね」

 祥子はそこで本当に笑った。一緒に笑ってくれるものと思っていたのに、令は
ただ呆然と見返してくるだけだ。やがて、肩をがっしりと掴み、抱えるようにし
て教室へ連れて行ってくれるのを、祥子は遠く夢のように感じながらいつまでも
微笑み続けていた。


 雲の上を漂うような幸せな日が一週間ほど続き、その間、祐巳と廊下で擦れ違
うことはあっても、会話らしい会話を交わすことは殆どなかった。顔を合わせた
だけで胸がいっぱいになって、実のある話をするでもなく丁寧にタイを直し、リ
ボンを直ししているうちに休憩時間が終わってしまい、通りかかったどちらかの
クラスメイトに声をかけられたりして二人きりの時間は終わりを告げる。もとよ
り用があるわけではないから、なんとなく自然に「じゃあ」ということになるけ
れど、離れたあとも祐巳はしっかり祥子の心の中に住まっていて、今そこにいた
ままの姿で同じシーンを再現するのだ。

 祥子の中の祐巳はいつも笑っている。にこにこと弾けるような笑顔を浮かべて
いるか、見守るように静かに微笑んでいて、祥子が声をかけるとその表情は微妙
に変わる。それをただ見ているのが嬉しい。

「妄想ってやつね」

 このところ休憩時間のたびに顔を見せに来る令は、廊下の壁にもたれて素直に
感想を口にした。ぽつりぽつりと話す祥子の言葉を掬い上げて、自分なりに友の
様子を理解したようだ。

「まあ、妹のことを考えてるのなら実害はないからいいけれど」

「実害って?」

「免疫のない人がいきなりなにかに夢中になると恐いって言うじゃない」

「‥‥そうかしら」

 そうよ、と令は長い腕を天井に向けて大きく伸びをした。

「最初に見た時は、突然恋にでも落ちたかと思って驚いたけれど」

 令の言葉に祥子の頬が赤く染まる。祐巳の笑顔が再び目の前に浮かび上がって
自然に口元が綻ぶのを、動きを止めた令が訝しげに見つめてくる。

「恐い、なんてことはないわ。そう、むしろ」

 上履きの先に視線を落として、祥子は微笑んだまま首を傾げた。

「幸せ‥‥ね」

 ふらり、と背を向けて祥子は教室へ戻っていく。

「祥子‥‥?」

 腕を上げたままの間の抜けた恰好で、令は呆然とそれを見送った。

 

 放課後の薔薇の館。

 その入り口を見通せる校舎の非常階段の手摺りにもたれて、祥子は冷たい風の
吹く中、ただじっと裏口に目を向ける。そこに立ってまだほんの五分ほど。祐巳
が姿を見せるまでずっとそこで待つつもりはなく、ただ運良く出会えたらいいく
らいの気持ちで待っている。黒髪が風に靡いて、すぐ下を歩く生徒が視界の端に
映るそれに目を上げると、祥子は白い顔を優雅に傾けて微笑みを浮かべた。

「ご、ごきげんよう、紅薔薇さま」

「ごきげんよう」

 非常階段の無骨な鉄枠に大輪の薔薇は似合わない。けれど、背景を気にする隙
を与えないほど、薔薇は美しくそこにあって、高貴な方々がするように小さく手
を振ってみせた。

 紅薔薇さまがどうしてこんなところに突っ立っているのか、とか、この方がこ
んなに愛想の良い筈はない、とか、通りがかった生徒たちの胸に去来する想いは
様々にあるとしても、口に出してそれを問おうとする者はいない。祥子が再び裏
口に目を向けてぴたりと凝視し続ける様子に無言のまま会釈しつつ首を傾げつつ、
その場を去る。

 なんだか最近やたらまとわりついてくる令も家に用事があるとかで今日はいな
い。わざわざ昼休みにそれを告げに来るのも珍しいが、まるで念を押すように
「今日は祥子も早く帰った方がいいよ」と何度も言い置いていったのが気にかか
る。去っていく令の背中を眺めながら、由乃ちゃんとなにかあったのだろうかと
心配になったが、すぐに思いは祐巳に取って代わり、親友への憂いは数瞬で頭を
離れた。あの二人になにかあったところですぐに元の鞘に収まるのに決まってい
る。心配するのも馬鹿馬鹿しいというものだ。

 ふと腕時計に目をやって、ここに来てから二十分が経過しているのを確かめる
と、祥子は溜息をついて階段に背を向けた。教室に戻ろうとしてドアに手を伸ば
した時、待ちわびたその声はやって来た。

「お姉さま!」

 祥子はゆっくりと振り向く。祐巳が下からじっと見つめている。その目を意識
して祥子は殊更優雅に階段を一段ずつ降りていった。

「祐巳」

「ごきげんよう、お姉さま」

「ごきげんよう」

 当たり前のように手を伸ばしてタイに触れる。祐巳は満面の笑顔で祥子を振り
仰いだ。

「よかった。お会いできるなんて思っていませんでした」

「そう?」

「さっき令さまが、お姉さまは今日は早く帰るから、会えないけれど心配はいら
ないってわざわざ伝えに来て下さって」

「令が?」

「はい」

「変なことを言うのね」

「用事がおありになったんじゃないんですか?」

「用事なんてないわ」

 タイを結び直した手をそっと祐巳の頬にあてる。冷たい空気に冷え切った頬を
親指で撫でて、赤い唇が恥ずかしげに微笑むのをじっと見つめる。

 柔らかい祐巳の唇。

 もう一方の手を頬に添えて、祥子の顔はいつの間にか至近距離にまで近づいて
いく。祐巳の瞳が一瞬揺らいで伏せられるのと同時に身体ごと一歩退いて、祥子
の手は空に留まった。

「お姉さま。ここではちょっと‥‥」

「あ」

 自分がなにをしようとしていたのかに気付いて、祥子は両手を引っ込めた。急
いで周囲に目をやると、遠くに箒を持った生徒が二人、歩いていくのが見える。

「ごめんなさい。つい」

 祐巳はにっこりと笑って首を振った。

「いえ、嬉しいです」

 その笑顔に、今ここで抱き締めてしまいたいという想いが衝き上げて息が詰ま
りそうになる。祥子は拳を握り締めて辛うじて衝動を押し止めた。

「これから、会議でしょう?」

「はい」

「気をつけてお行きなさい」

「はい。あの、お姉さまは」

 祥子は深い息をひとつして、行き場を失った想いの塊を身体の外に吐き出した。

「特にすることもないし、今日はこれで帰るわ」

「はい」

 祐巳は屈託のないいつもの調子で「ごきげんよう」と言い、祥子もそれに返し
て「ごきげんよう」と言った。

 
薔薇の館に向かって歩き出す祐巳の背中を見つめ、それが扉の中に消えると、
祥子は胸に手を押し当てて高まった心臓の鼓動と身体が震えるような感覚が消え
去るまで、そのままの姿勢でじっと堪えた。

 祐巳に会いたかった。けれど、それはどうしても、というよりは、会えたらい
いという漠然とした想いだった筈なのに、いざ本人を目の前にしてしまうと、会
わないではすまされない、触れないですまされない激しい衝動に危うく自分を見
失ってしまいそうになる。

(本当に、どうかしているわ)

 校門への道を歩きながら祥子は溜息をついた。

 仮にも紅薔薇さまともあろう者が、前後の見境を一瞬でも見失いそうになるな
んて。仮にも小笠原祥子が、いくら祐巳愛しさといえ、校内で恋愛行為に耽溺し
そうになるなんて。

 本当にどうかしている。最近、祐巳とゆっくり話す機会がなかったから、その
せいで求める気持ちがつい行動に表れてしまったのかもしれない。

 祥子は気を取り直して門をくぐった。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと少
しだけ冷静さを取り戻したような気分になれたが、それからバスに乗っている間
も、帰りの電車の中でも、頭から祐巳の笑顔が離れず、夜になっても、翌朝目が
覚めた時にも、心を占めるのはただ祐巳だけで、あとはすべて取るに足らないも
ののように思えた。




< 後編へ続く >

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