天昇り花乱れ咲き<後編>



(どうかしている)

 次にそう思ったのは、マリア像の前で祐巳を見かけた時だった。いつものよう
にタイを直そうと伸ばした手をセーラーカラーの後ろに回したまでは良かったが、
そのまま首の後ろを引き寄せて思わず抱き締めそうになってしまった。祐巳が慌
てて飛び退いて、すぐ後ろからやって来ていた生徒には気付かれずに済んだけれ
ど、祐巳の驚いた顔と自分の所業に祥子自身が衝撃を受けて、結局その朝はまと
もにタイを直すこともできなかった。

 教室に入って椅子に座る。簡単なホームルームのあと、黒板の「自習」の文字
を眺めながら頬杖をつく。ただぼんやりそうしているだけの時間をしばらく過ご
したあとで、祥子はおもむろに鞄の中から文庫本を取り出して栞を挟んだページ
を開いた。数行だけ読み進んで、文字を追う目が止まる。なにかの単語をきっか
けにして、思考は祐巳に関わることへ飛んでいく。薔薇の館での様子や、お正月
にみんなと一緒に泊まりに来てくれたこと、バレンタインの宝探しゲーム、そし
て再びあの夜の出来事へと流れていった。そして気がつけば終わりのチャイムが
鳴っている。

 あの日からこんなことばかり毎日繰り返している。最初の一週間はただ幸せだ
った。けれど今は、幸せに酔っている自分を冷静に見つめる自分がいて、その自
分が幸せの中に小さな苛立ちを感じ始めている。幸せだけれどなにかが足りない。
それを補うように物思いに耽っている。

「最近、ぼーっとしているよね。祥子は」

 昼休み、お弁当を食べ終えた頃にやって来た令と廊下で立ち話をするのも恒例
になっていた。特別用事がない限り、お互いの教室を訪ね合うことは殆どなかっ
たけれど、令はあれから毎日のようにやって来て祥子を教室から連れ出していた。

「美奈子さんが紅薔薇さまの放心について調べ回っているそうだけれど」

「放心ですって?」

「ものの例えよ。自習時間中、本も読まないでぼーっとしているそうじゃない?」

 祥子は背を向けて歩き出した。令がのんびりとあとを追って来る。

「なにか悩みがあれば相談に乗るけれど」

「悩みなんてないわ」

「そう?」

 断られても令は気にする様子もなく、突然立ち止まった祥子の前に回って壁に
背中をもたせかけた。

「祐巳ちゃんとまた喧嘩しているようには見えないけれど、喧嘩じゃないとした
らいったいなんだろうって思ってた」

「喧嘩なんてしていないわ」

「それならいいんだ。詮索するつもりはないけれど、なにかあったら言ってみてよ」

 令は笑って手を振ると、そのまま自分の教室へと入って行った。いつの間にか
三年菊組の教室の前まで来ていて、祥子はくるりと回れ右してもと来た道を引き
返す。

 親友に心配させるほど今の自分は心ここにあらずに見えるのだ。だからといっ
てどうしたらいいかわからなかった。相変わらず一人になれば祐巳のことばかり
考えるし、そうすると何故かいてもたってもいられなくなる。

 放課後、祥子は再び薔薇の館へと足を向け、乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんが早足
で扉の中に消えるのを見て引き返した。祐巳に会いたければ二年生の教室を訪ね
ればいい。そうする気になれないのは会う口実が見つからないからだ。

 溜息をついて、校舎に戻り、昇降口から外に出たところで書類を持って足早に
歩いていく祐巳を見かけた。

「ゆ‥‥」

 声をかけようとその方に手を伸ばしたところで一人の生徒が祐巳に話しかけ、
二人は祐巳が持っていた書類を一緒に覗き込んで立ったまま話し合いを始めた。
そろそろ「三年生を送る会」の準備に入る頃合いだ。去年祥子たちがそうだった
ように山百合会は多忙な時期に突入する。

 祥子は伸ばしかけた手を下ろしてその場をあとにした。



 夜、ベッドの中で、帰り際に見かけた祐巳の横顔を思い出す。朝、マリア様の
前で、抱き寄せようとした祥子から慌てて飛び退いた祐巳を思い出す。それから
遡って、あの夜の祐巳を思い出す。

 素肌を合わせて強く抱き締めた感触を、甘い唇の味わいを、薄く瞬いて時々震
えた瞼を、行為の間に苦しそうにしかめられた眉を、そして小さな可愛い声を思
い出す。

 もう一度、この手で、この身体で、この唇で感じたいと願うだけで、あの時と
同じように鼓動が早くなる。

(祐巳‥‥)

 祥子はたまらずに枕を強く抱き締めて顔を埋めた。それまでにも毎晩のように
祐巳を思い浮かべていたが、それは大抵無邪気な笑顔だったり、友だちとおしゃ
べりして大笑いしているところだったり、なにかをじっと見つめる優しい横顔だ
ったりした。高校生として過ごしているごく普通の毎日の中で、誰もが見かける
ことのできる祐巳の姿だ。

 けれど今、祥子が思い浮かべるのは祥子だけしか見たことのない祐巳だった。
誰にもあからさまに打ち明けることのない秘め事。そこにいた祐巳と自分の姿を
思い出すとあの時と同じように身体が熱くなる。


 抱き締めたい。

 今まで感じたことのない焦燥感に祥子は身悶えた。身体の奥から湧き上がるも
のの激しさに理由をつけようとして何度か深く呼吸をする。

 誰かを求める想い。少しも穏やかではなく、なりふり構わずただひたすらに求
める攻撃的な想い。

 これに名前をつけるのが恐かった。少し前の感情が恋愛に基づくものだと納得
するよりも、遙かに認めがたいどす黒い感情の渦だった。こんなものが自分の身
体の中に渦巻いているなんて。

 祥子は枕から顔を離してベッドの上に起き上がった。

 欲望という単語が今はっきりと頭に浮かんで、流されそうな心を一時的に押し
止める。その言葉の持つ意味に愕然としながらも、どこかで予想していた通りの
ものであったことに戸惑いを覚えた。

 身体を重ねたのは一度だけ。でもその経験が、祥子の内側から今まで気づきも
しなかった熱い塊を引きずり出して、意志とは無関係に燃え盛る行為に掻き立て
るのだ。

 人には言えないじりじりとした焦燥、何をしてしまうかわからないほど激しく
衝き上げる想い。

 祐巳を愛していると認めた上でもなお認めがたい性的な欲望を、恥ずかしく汚
らわしいものとして仕舞い込み、できるだけ気付かないふりをしてやり過ごすこ
とがもっとも正しいやり方に思えた。

 この悩ましく手に余る熱いものが、名前をつけられて頭のどこかにあるクロー
ゼットに整理される。一度仕舞い込まれたものはあとで自由に取り出しがきく。
けれど、これは意志とは無関係にクローゼットから飛び出してきて、出てきたが
最後、祥子を再び止めようのない欲望の渦の中に巻き込む類のものだった。

 仕舞い込んだ途端にわかったことがある。

 中に押し込めば押し込むほど、それは外に飛び出そうとして暴れ回る。たとえ
気付かないふりをしようとも、それが奥深いところで暴れていれば、胸の内はも
やもやとしたやるせない想いでいっぱいになる。それをどうすることもできずに
祥子は再び枕に顔を押しつけた。

 冷静に分析して収まるところに収めれば楽になるというものでもない。

 このままでは眠れない。

 だから気付かぬふりを諦めてそれを解放する。そして両手いっぱいに祐巳を抱
き締める。一度放ってしまえばもう押し留めることなどできやしない。

 危険だ。あまりに危険すぎる。

 頭の隅に点滅するシグナルを意識しながら、もはや自分ではどうにもならない。

 身体の内側で小さな爆発がいくつも起こって、そのどれにも対処できずにただ
呆然と見つめている自分を祥子は恐ろしいと思う。

 恐ろしい。けれど、欲しい。

 深く息を吐いて身体を丸めた。疲れ切り、諦めて、理性では御しがたいもっと
も強いものへと自分を明け渡す。そうして頭も身体も心も祐巳で満たされたまま、
枕を抱いて眠りに落ちた。

 明日、祐巳に会おう。

 短い時間でもいい。言葉を交わしたい。

 
その瞳が自分をじっと見つめる、その瞬間を持たずにはいられない。


 けれど、翌日も祐巳と二人きりで会うことはできなかった。

 志摩子と二人、廊下を急ぎ足で歩いている背中を見かけてから、薔薇の館の見
えるあたりで待っているところへ令が来たのだ。心配してくれるのはありがたい
が、今日ばかりは放っておいて欲しかった。

「こんなところで待っていないで中に入ろうよ」

 令が指したのは校舎ではなく薔薇の館だ。

「三年生を送る会の準備をしているのでしょう。今は行かない方がいいわ」

「祐巳ちゃんに会いたいんじゃないの?」

 会いたい。けれど、それは山百合会の仲間たちが揃っているところでではない。

「今は放課後も昼休みも忙しいだろうからね。休憩時間だってバタバタしているし」

 その通りだ。休憩時間に祐巳の教室へ行っても、どこかのクラブの誰かに捕ま
っていてとても呼び出せる状態ではない。私的な用事は後回しにしなければなら
ない時期なのだ。

 令は祥子のそばに佇んだまま、一向に帰る様子はない。俯いてぼんやりしてい
るところへ、肩にそっと手が置かれた。

「あのさ。うまく言えないけれど、祐巳ちゃんを想う気持ちは私にもわかるよ。
でも、最近の祥子はなにかに浮かされているみたいに見える」

「浮かされている?」

「なんとなく落ち着きがないっていうか。今までとはちょっと違うような」

「‥‥そう」

 肩から手を離して、令は薔薇の館を見上げた。

「話したくないならそれでいいし、無理に聞こうとも思わないけれど、伝えたい
ことがあるならちゃんと伝えた方がいいと思う」

 祥子は溜息を落とした。こんなことを祐巳に伝えていいものだろうか。伝えら
れないからこそ、ただ会って話をしたいのだ。それだけでもこのどす黒く渦巻く
ものがすっきりと晴れてくれるかもしれないから。

 いつまで待っても祐巳はやって来ない。クラブハウスかどこかで足止めを食ら
っているのだろう。だとすれば、もし会えたとしてもゆっくり会話を交わす時間
は取れないに違いない。ましてや二人きりでなんて。

「‥‥帰るわ」

 令の返事を待たずに門に向かう。あとからぶらぶらとした足取りで令がのんび
りとついてきた。

 いつものようにマリア様の前で足を止める。祥子は僅かに逡巡したあと、手を
合わせずに通り過ぎた。

「祥子?」

 あとから来た令が不思議そうに背中に呼びかける。急いで手を合わせると足早
に追いかけてきて隣に並んだ。

「お祈りは省略?」

「ええ。今日はちょっと」

「珍しいね」

 問いかける視線から逃れるように祥子は足を早めた。令は難なくついていきな
がら、それ以上はなにも聞いてこなかった。バス停で令と別れて、ちょうどやっ
て来たバスに乗り込み、一人掛けの椅子に座って溜息をつく。

 今朝、登校してマリア様の前に立った時もそうだった。一度は立ち止まって手
を合わせようとしたものの、注がれる慈愛に満ちた眼差しの前に、遂に祈ること
ができなかった。

 今の祥子になにを祈れと言うのか。祈ることそれ自体が冒涜のように思われ、
祥子は逃げるようにその場を去った。

 マリア様はきっと許してくれない。




 翌日も、その翌日も祐巳を捕まえることはできなかった。通りすがりに姿を見

かけることはある。けれど祐巳はいつもなにかに追い立てられるように忙しくし
ていて、声をかけるのも憚られる。祥子の焦燥感は日に日に募っていき、終いに
は目の前に祐巳がいないということに怒りさえ覚えるようになっていった。

 祥子が想うほどには祐巳は想ってくれていないのではないか。

 こんなに会いたいのに祐巳の方からなんの連絡もないのはどういうわけか。

 毎夜毎夜、満たされない思いで枕を抱き締めている自分が情けなく腹立たしい。

 幸せの淵からいきなり泥沼に叩き込まれたような息苦しさで祥子は機嫌が悪か
った。日常の些細なことですぐにかっとなる。反省しても長続きしない。コント
ロールのきかない自分を持て余して常に苛立っている祥子に、令は益々心配の度
を深めていく。

 まるで蟻地獄だ。

 それもこれも祐巳が祥子と会おうとしないのが悪いのだ。

 
普段の祥子ならそんなふうに独断的に決めつけたりはしないけれど、今は頭の
どこかが壊れてしまって、思いもつかない感情や思考が乱れ飛ぶ。

「祥子。顔が恐いよ」

「失礼ね。いいから離してちょうだい」

 腕を掴んだ令を振り解いて、祥子は前に進む。どこへとあてがあるわけではな
いが、その行く先は校門ではない。

「祥子ってば」

 もう一度肩を掴まれて祥子は立ち止まった。前に回り込んできた令が眉を寄せ
て覗き込む。

「祐巳ちゃんに会いに行くの?」

「祐巳は打ち合わせよ。そのあと職員室に行ってから薔薇の館で会議ですって」

「じゃあどこへ行くのよ」

「どこだっていいでしょう」

 けんもほろろに令を追い返して、祥子は苛々と校内を歩き回った。三十分ほど
うろうろしたあと、その行動の無意味さ加減に嫌気が差して、肩を落として校門
を出た。

 小笠原祥子は不機嫌である。

 一時期、幸せな夢を見ているかのような上機嫌な日が続いたというのに、ここ
最近はまなじりが険しくなり、眉の角度がきつくなった。

 クラスメイトから囁かれ始めた噂はすぐに三年生の間に広まって、あっという
間に一、二年生に飛び火した。休憩時間、ふと振り返ると教室の窓の端に隠退し
た元新聞部部長の顔が半分だけ覗いていたり、薔薇の館に足を向ければ誰かが繁
みの陰に潜んでこちらの様子を窺っている。それがまた祥子の苛々に拍車をかける。


 祐巳が接触してきたのは噂の広まった翌日の午後だった。

 昼休みが終わる頃、呼び出されて行ってみると、教室の前の廊下にお弁当の袋
を提げた祐巳が立っていた。忙しいのを押して、早めに仕事を切り上げてきたの
だろう。申し訳ないと思ったが同時に嬉しかった。けれどゆっくりしている時間
はない。あと五分で予鈴が鳴る。

「最近、お会いしていないからちょっとお顔を拝見したくなりまして」

 噂を聞いて駆けつけてきたくせに、祐巳はそんなことはおくびにも出さないで
にっこりと笑った。祥子は反射的にタイに伸ばしかけた手を、セーラーカラーに
触れる寸前でぴたりと止めた。

「放課後、待っているわ。時間ができたら来てちょうだい」

 それだけ言って、祐巳には触れずに教室に戻る。

「あ、はい」

 戸惑ったような返事のあとで、慌てふためいた「あの」という言葉が付け加わ
ったが、祥子は聞こえなかった振りをして、振り返らずに扉を閉めた。

 
どこで待つ、とは言わなかったのだから当然だ。けれど、言わなくても祐巳に
はわかるはずだった。

 ここ数日の内で初めて気が晴れる思いをした祥子は、再び力の抜けた微笑みを
湛えるようになり、クラスメイトはその新しい変化に戦々恐々とする。

 小笠原祥子はいついかなる時にも話題の人だった。



 放課後、ホームルームが終わると同時に祥子はいそいそと帰り支度をして旧い
温室に向かった。誰もいない温室に入り、ロサ・キネンシスの株の前に立つ。

 祐巳はまだ来ていなかった。室内は暖かく、祥子はマフラーと手袋を取って鞄
と一緒に木棚の端に置いた。

 一年と半年の間、この場所で何度祐巳と一緒の時間を過ごしただろう。

 入学したての頃から、ただ薔薇を見るためだけに何度もふらりと立ち寄った場所。

 二年生の学園祭の前日、みんなの前で優さんの頬を叩いて、逃げ込んだのもこ
こだった。

 ヴァレンタイン・イベントのあった日、掘り返された紅いカードにびっくりし
て、「ここは探しました」と主張する祐巳に「あなたを信じる」と言ったのも。

 祐巳に詰め寄った可南子ちゃんを叱りつけたこともある。あの時、祐巳がたと
えどんな姿になっていてもきっと見つけてみせる、と宣言した。証明する機会は
すぐにやってきたけれど、あとになって本当にわかってしまったことに我ながら
驚いたものだ。それは決して夢のような出来事ではなく、分析しようと思えば、
あのぬいぐるみの中身に見当がついた理由なんていくつも挙げることができる。
けれど、敢えて口にするには及ばない。わかるのだという事実が重要で、理由な
んて些細なことだ。

 旧い温室は誰にとっても思い出の場所だ。ここに立ち寄って、一度でも誰かと
言葉を交わしたことのある生徒にとっては。高等部で過ごした日々に紅い点を落
としたように、どこかのポイントで足を踏み入れる、だからこそ温室の出来事は
心に残る。残ったものを確認するために祥子はぐるりと室内を見渡した。置いて
いくもの、もらっていくもの、それらがきちんと収まる場所に収まって、だから
心置きなく巣立っていける。

 今はもう未練はない。


 ぼんやりと花を眺めているうちに、いつの間にか温室の扉を開ける音がして祐
巳が立っていた。

「ごきげんよう、お姉さま。お待たせしました」

 急いで来たのだろう、リボンが片方曲がっている。

「ごきげんよう」

 手を伸ばしてリボンを直し、ついでにタイを直した。さっきは周囲の目が気に
なってできなかった。

「忙しいのに、悪かったわね」

「いいえ。私もお姉さまとお会いしたかったですから」

 祥子は微笑んだ。この数日でもっとも優しく、もっとも朗らかで慈愛に満ちた
微笑を浮かべ、祐巳の手を取って鉢棚に並んで座った。どうということのない近
況報告、山百合会の仲間のこと、瞳子ちゃんのこと、ぽつりぽつりと思いつくま
まにおしゃべりをする。

 心は穏やかだった。毎夜苦しんだあの焦燥感はどこかに消え失せて、楽しそう
に話す祐巳と満ち足りた想いで視線を交わす。

 こんな風に安らかでいると、あの時感じた心のうちがなんだか信じられない。
あれはなんだったのだろう。あのどす黒い感情の渦は。心がこんなにも清浄に澄
み渡っているのは、祐巳がそばにいてくれるからだろうか。

 ぼんやりと気持ちの行方を追っていた祥子の前で、おしゃべりをしていた祐巳
がふっと時計に目を落とした。

「ごめんなさい、お姉さま。私、そろそろ」

 気がつくと三十分ほど経過していた。正門が閉まるまではあと一時間ほどある。
それまでに、薔薇の館に戻って放り出してきた仕事をこなさなくてはいけない
のだろう。

「いいのよ。久しぶりにあなたに会えて楽しかったわ」

「私もです。お姉さま」

 祐巳が笑う。立ち上がって右手でスカートの裾を軽くはたいた。左手はまだ祥
子の手の中にある。その手がそっと指の間からすり抜けそうになった時、右手が
反射的に動いて、ぎゅっと強く握り締めた。

 顔は見なかった。突き上げてくる何かが祐巳を離すまいとして突然に動き出し
た、そんな感じだった。祐巳がもう一度ゆっくりと手を引く。祥子は離さない。

「お姉さま」

 祐巳の掴んでいない方の手が、力の入った祥子の手に重ねられた。宥めるよう
にもう一度「お姉さま」と言う。少しだけ切なさを含んだその声と同時に祥子は
立ち上がり、掴んだ手を引き寄せて祐巳を抱き締めた。

 その瞬間から何も考えられなくなった。祐巳を感じるだけでいっぱいになって、
二人のいる場所も、祐巳が仕事を残していることも、なにもかも頭から抜け落ち
てしまった。柔らかい祐巳の感触、温かい祐巳の匂い。抱き締めるだけでは足り
ず、祥子は胸を離して祐巳に顔を近づけた。

 息を飲んで祐巳が離れようとする。それを力で引き寄せて更に強く抱き締める。
祐巳は二度ほど肘を突っ張って抵抗したが、やがて力を抜いてぐったりと祥子の
腕の中で大人しくなった。頬に手を添えて顔を上向け、その表情を確かめもせず
に唇を重ねる。思った通りの感触に祥子は満たされ、夢中でむさぼった。それを
受け止めようとして祐巳が必死でしがみついてくるのがわかる。口の中までも十
分に味わい尽くしてから祥子はようやく唇を離して祐巳を掻き抱いた。

 どれくらい経ったか、祥子の胸を押して祐巳が二人の間に隙間を作った。

「お姉さま」

 問いかけるような、非難するような複雑な色を湛えた眼差しが、真っ直ぐに祥
子の目を覗き込む。祐巳が今の行為を許容していないと知って、祥子は自分のし
たことを理解した。胸に渦巻いていたものが急速に静まっていく。代わりに激し
い後悔と自責の念がきりきりと心を締めつける。 

 
睨み合うような時が続いた。

 きつく見据えるような目は祐巳らしくない。引き締まって噤まれた口元がなに
か言いたげに微かに震える。滅多に見せることのない祐巳の怒りの表情に、祥子
は思わず後ずさった。

「ここは学校ですから」

 聞いたことのない厳しい口調が祥子に追い討ちをかける。

 祐巳に触れたいとずっと思っていた。抱き締めて口付けたいとずっと願ってい
た。邪魔な服を通してではなく、素肌を重ねて愛し合いたいと思っていた。そん
なことばかり考えている自分自身を責めながらも、祐巳もまた同じ気持ちでいて
くれるとなんの不安もなく信じていた。それが祥子の罪悪感を軽くしてさえくれ
ていたのに。

 眉を顰めて祐巳が首を振る。祥子は言葉を失って、けれど何かを伝えずにはい
られなかった。だからもう一度、祐巳に向かって手を伸ばす。その指先が祐巳の
袖に触れようとした時、祐巳は今度こそはっきりと拒絶の意志を示して後ろに飛
び退いた。
 
 ああ。もう。
 
 行った行為は取り返しがつかない。その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪
えながら、祥子は呆然と祐巳を見ていた。

「お姉さま」

 祐巳の表情が困惑と戸惑いに取って代わる。大きな目が哀しみの色に沈んで真
っ直ぐ祥子に注がれた。拒絶されるよりも、祐巳のそんな顔を見ることの方が余
程こたえた。自分の行いが大切な人を苦しめている。触れられないことよりも、
二人きりの時間が持てないことよりも、失ってはならないものを見落としてしま
った自分の愚かさの方が遥かに深刻だ。

「私、これから仕事があって」

 祐巳は視線を足元に落とした。これ以上、祥子の顔を見ていられないとでもい
うように。鉢棚の近く、祥子の足元に置かれた小さな植木鉢の上で視線が止まる。
葉も花もない植物が一本顔を出していた。丈が低く、枝のように細い幹にかさつ
いた木肌が弱々しくて、それでも祐巳はじっとそれを見つめている。

「ごめんなさい」


 謝らないで。


 声に出して言いたかったけれど、祥子は身動きできなかった。

 もしも今、祐巳がすべてを許して笑顔を見せてくれるなら、もう二度と抱き締
めたいなんて思わない。口付けたいなんて思わない。それが簡単にできるほど生
易しい衝動ではないかもしれないけれど、たとえ触れることができなくても、祐
巳がそばにいて笑ってくれさえしたらどんなことでも我慢できる。どんなに辛い
ことも自制してみせる。祐巳のこんな顔を見るくらいなら、きっとどんなことだ
って。

 突然、祐巳はぺこりと頭を下げた。一度だけ祥子の顔を見て背中を向ける。


 待って。

 喉が引き攣ったように動かない。もともと乏しい表情も顔の筋肉が麻痺したよ
うに固まっている。伸ばそうとした腕にさえ力が入らずに、祥子はただそこに立
って、去っていく祐巳の背中を見つめるだけだ。


 祐巳。

 心が張り裂けそうなのに声が出ない。

 お願い。

 もしも思うように身体が動くなら、祐巳の足に縋って、行かないでと懇願する
ことができるのに。

 祥子の目に、俯いてゆっくり遠ざかっていく祐巳のお下げの片方が曲がってい
るのが見えた。歩く度に不恰好に揺れている。さっき直したはずなのに、また崩
れてしまったのは祥子が強引に抱き締めたからだろうか。


 祐巳。

 こんな時なのに、そのリボンをもう一度直したくて、祥子は心の中で祐巳を呼
んだ。声に出そうとして必死で喉を動かしてみる。口の中が渇ききって思うよう
に開かない。代わりに意識した指先がぴくりと動いて、それを合図にするように
肺に空気が満ちてきた。そう、肺に空気がなくては声は出せない。普段気にしな
いでやっていることを、ひとつひとつ確認しなければならないほど、運動神経が
凍りついている。

 祥子の声を聞いたかのように、温室の扉に手をかけようとしていた祐巳がその
場にぴたりと立ち止まった。

 それに勇気を得て口を開こうとした瞬間、祐巳は飛び上がるように向きを変え
て、祥子に向かって突進した。

 どん、と重く鈍い衝撃に一歩後ろに下がって、自分と祐巳を同時に支えた。右
足になにかがぶつかってごとんと倒れる音がした。

 祐巳はしっかりと抱きついていた。しがみつくその力強さに、固まっていた運
動神経がいきなり動き出したように感じる。恐る恐る祐巳の背中に手を回す。頬
に触れる癖っ毛の感触と髪の香りに、失っていた世界の色が戻ってきた。

 祐巳は強く強く祥子を抱いて、それこそ痛いくらいに強く強く、そしていつか
力を抜いて、祥子の肩の上に頭を乗せた。

「祐巳」

 力を抜いた祐巳の体重を半分くらい支えることになって、祥子は足に力を入れ
る。支える身体が重い。けれどこれは幸せの重みだった。今確かにここに祐巳が
いると確信できる、なにものにも代えがたい心地良い重みだった。

 腕のあとが残るに違いないと思えるくらい、身に食い込んだそれが剥がれ落ち
て、祥子は微かに息をついた。頭を起こして上目遣いに見上げてくる祐巳の頬が
ほんのりと朱い。

「三年生を送る会が終わったら」

 先ほど見せた困惑の色は消えて、力の入った目がすぐそこにある。

「また、おうちに行かせて頂いてもいいですか」

 祥子は随分と時間をかけて口を開いた。

「‥‥いいの?」

 不思議そうに首を傾げる祐巳に、祥子は急いで言い添える。

「また、うちに泊まってくれるの?」

「はい。お姉さまさえよろしければ」

 祐巳の頬だけじゃなく、耳まで真っ赤に染まっていた。それを見ている祥子の
頬も熱くなる。

「さっきみたいなことするかもしれないわよ」

「して下さい」

「それだけじゃないかもしれないわよ」

「それだけじゃない方がいいです」

「‥‥え?」

「あ、いえ‥‥」

 祐巳が顔を背けると、首まで赤く火照っているのがわかる。祥子はそこに自分
の冷たい手を押し当てた。

「伺ってもよろしいですか」

「もちろんよ」

「じゃあ、それまではお預けですね」

 祐巳が笑顔を見せる。祥子もつられて微笑を浮かべた。それから自分の足でし
っかりと立って時計を見る。

「大変。戻らなきゃ」

「そうね」

「お姉さまは?」

「私はあと一時間くらい、ここにいるわ」

「はい」

 言うなり踵を返して駆け出した祐巳の背中を、視界から消えるまで追いかけて、
祥子は足下に目を落とした。転がった植木鉢から突き出した細い幹が乾いた地面
を擦っている。屈んで植木鉢をそっと起こし、鉢棚に座って目を閉じた。

 もう、迷わない。

 だって、愛することも、祐巳を欲しい気持ちも、きっと同じなんだもの。

 開いた祥子の引き出しから溢れ出るものはどす黒い汚いものなんかじゃなく、
火傷しそうに熱くて真っ直ぐな祐巳への全力の愛情だった。

 暖かい季節になって、葉を繁らせ、きっと愛らしい花をつけるであろう細い枝
に祥子はそっと手を触れた。


 祐巳が欲しい。

 心も身体もすべて丸ごと祐巳が欲しい。

 私には、こんなにも激しく誰かを想うことができるのだ。



                             



 今日の仕事を終えて、由乃は図書館で待っていてくれた令ちゃんを拾って校舎
を出た。冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。手をとって心持ち身体を寄せ合
い、今日あったことを簡単に報告し合う。

「ほんと、なにがなんだか」

 しばらくして令ちゃんは歩きながら首を傾げた。

「なんのこと?」

「祥子よ。心ここにあらずって感じでぼんやりしていたかと思えば、急に校内を
歩き回ったり。祐巳ちゃんに会いたければ会いに行けばいいと思うのよ」

 祐巳さんも最近はたまにぼーっとしてることがあるけれど、概ね幸せそうだか
ら由乃は心配していない。

「姉妹なんだから別に遠慮することないんだし」

 さっき薔薇の館を出る時、祐巳さんは温室にいる祥子さまを迎えに行くと言っ
ていた。無事合流したのだろう。二人のずっと先を、祥子さまと祐巳さんが並ん
で歩いているのが見える。

「会ってはいるんでしょ。ほら」

「あれ、ほんとだ」

 手こそ繋いでいないけれど、時々目を見交わしては微笑み合う。ごく普通の仲
の良い姉妹の姿がそこにある。

「いったいどういうこと?」

「祥子さま、そんなに変だったんだ」

「うん。祐巳ちゃんのことで頭がいっぱいみたいでさ」

「祐巳さんの?」

「ある日突然、雲の上を歩いているみたいに幸せそうにしていたかと思えば、そ
のうち落ち着きがなくなっていつまでも薔薇の館の前に立っていたり。中に入ろ
うって行っても聞かないし。なんていうか、会いたいのに会えない、そんな感じ
でさ」

 祥子さまの手が祐巳さんのリボンをそっと撫でる。これ以上ないほど幸せそう
な祐巳さんは溢れんばかりの笑顔を向けた。

「ほんと、どうしちゃったんだろう。喧嘩してたってわけじゃないみたいだけれど」

「令ちゃんって、ばかじゃないの?」

 由乃にいきなりばかと言われて、令ちゃんは驚いた顔をした。令ちゃんは優し
くて親友想いだけれど、時々信じられないほど鈍感だ。

「な、なんで?」

 祥子さまと祐巳さんがマリア様の前に立ってお祈りしている。遠くからそれを
眺めながら、そろそろ令ちゃんにも恋の経験くらいさせた方がいいかもしれない
と由乃は思った。

 お祈りを終えて、祥子さまが祐巳さんの手をそっと握った。令ちゃんはしきり
に首を傾げている。

 ほんとわかってないんだから。

 由乃は、ばかな令ちゃんの手を握り締め、少し早足にマリア様に向かって歩き
出した。



< 了 >







 志音さまより素敵ssを頂きました〜!
 ちょっと、一言・・・いえ一叫びさせてください。
 ぬわぁぁぁぁぁぁぁぁ………愛!!!!!!
 (中断)
 ……すみません。ああ、もう、もう・・・祥子さまが、祥子さまがー!好きだー!!!(落ちつけよ)
 祐巳ちゃんが好きすぎて落ち着かなくて、乙女心全開で、もう、可愛すぎです。祐巳ちゃんもパニックで、
二人してそわそわドキドキしてるところがたまりませんー。
 志音さま、本当にありがとうございました(平伏)

 みなさま、ご感想は是非に志音さまへ♪


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