With you 1



「手の甲が、尊敬?」

「そうね」

 はるかのシャツを羽織っただけの姿でベッドに座ったみちるに、猫のようにじゃれ
ついて先ほどの彼女の講義を復習する。我ながら優秀で勤勉な生徒だと思う。


「手のひらがお願いのキス」

 柔らかな腿の上に頬を寄せながら、彼女の手のひらにキスをして見上げると、髪を優
しく撫でてくれた。


「じゃあ、唇は・・・」

 伸びあがって、そこへキスをする。

「唇にキスしたら、その相手とずっと一緒にいるんだろ」

 何世紀前の話だかうろ覚えだけど。でも、これだってみちるの話に耳を傾けていた
からこそ覚えているわけだ。話してもらってる間中、膝に甘えていたんだけど。


「だから、みちるは僕とずっと一緒にいなきゃいけないね」

 確認するように言うと、みちるはただ穏やかに微笑む。
 それじゃ物足りなくて、もう一度手のひらに口付けると、みちるは笑い声を漏らし
ながら、そっとはるかの頭を抱き寄せてくれた。


 彼女の甘い胸の中で、ため息が漏れる。

 何でこんなに好きなんだろ。


                             


 でも、どれだけ好きでも、ずっとくっついていられるわけではないし。それじゃ鬱
陶しい。適度な距離のある方が、ずっと相手のこと考えていられる場合だってある。

 だからって、現実にそれが起こってしまえば、そんな風には考えられない。

「放課後にずっと残るわけじゃないわよ」

 石膏像や、イーゼルや、それらが多分使う人間にとっては整然と並べられている教
室で、みちるが苦笑いのように言った。


「そんなの、わかんないじゃないか」

「・・・そりゃ、気にかかることがあれば、そうでない時もあるけれど・・・」

「ほら、結局ずっと学校に残ってるのと同じじゃん」

「毎日じゃないわ。そんなに拗ねないで」

 はるかの言葉を軽くあしらうようなみちるの口調にイライラする。

 美術科の手伝いをするのは入学後間もなくだった。それがいつの間にか、音楽科の
方にも出入りしてるなーって気が付いたのは最近。それを問い詰めたのが今日。
まあ、画家にしてヴァイオリニストっていうのが、彼女の素顔なんだから。周りはほ
っとけないのだろう。

 泣き落されたのか何なのか。とにかくみちるは教諭や同級生から頼まれたことを、
あまり無碍には断れない性質らしい。それがほぼ週五日のボランティア活動という素
晴らしい結果として実を結んでいるわけだ。


「それに、私だって得るものがたくさんあるわ。だから引き受けているの」

 不貞腐れて、窓辺に置かれたロッカーの上に座り込んだはるかを、宥めすかすよう
に彼女が言う。


「・・・週末は、絵画の教室にも行ってるし」

 その上、そこに同じく通ってるクソガキ・・・えーっと、・・・男の子にもしょっ
ちゅうじゃれつかれている様子だし。


「平日はレッスンに行くし」

 彼女がヴァイオリンケースを抱えている日は、一緒に過ごす時間なんてほとんどな
い。それなのに、残ったわずかな時間も、課外活動に充てるなんて。だから。つまり。


「・・・・・・全然一緒にいられないし」

 何だこのバカっぽい呟きは。体育座りがいけないのか。

「はるか・・・」

 しっかりとはるかのつぶやき声を聞きとったみちるが呆然と目を丸くする。当たり
前の反応なんだけど、ムカつく。腹立つ。嫌いになんてなれっこないけど、こういう
時のみちるの反応が、たまらなくはるかを苛立たせる。


 はるかがこんな風に、独占欲をあらわにすると、みちるは決まって驚いた表情を浮
かべる。思いもよらなかった、とでも言いたげに。


 もちろん、原因ははるかの理不尽で幼稚な言動にあることはわかってる。

 それでも、苛々が積もって膨れて仕方がない。そのくせ、普段の言葉遊びの延長な
んかでかわされたくもない。


 何で、わかんないの。そう喚き散らしたくて堪らなくなるんだ。

「別に。みちるが良いならいいけど」

 うわー。最大級にかっこ悪いな、この捨て台詞は。何か自分で言っといて涙目にな
りそうだ。


 それに考えてみれば。はるかの方こそ、好き勝手にみちるを放っておくことがある。
それもしばしば。レースや企画イベント、その他諸々の前後には、学校はサボるし。
家には帰らないし。電話だってその存在すら忘れてる。心配したみちるが差し入れに
来てくれたりして初めて、事情を説明するのがほとんどだ。


(・・・な、なんか最低だな、それ・・・)

「・・・・・・そういうわけじゃないけど・・・」

 情けないことこの上ない自分の姿に落ち込み始めたところで、みちるがため息交じ
りに言いながら、こちらへ近づいた。


「どうしたら、機嫌を直してくれるのかしら・・・」

「・・・・・・」

 困り果てたような声。けれどうろたえているわけではない声。みちるは自分の決定
したことを覆すつもりはないのだ。その上で、はるかを納得させるのに手を焼いてい
ると言ったところか。


 その余裕すらも感じる立ち居振る舞いに、自分の日ごろの行いも棚に上げて、苛立
ちが膨れ上がる。


「・・・・・・なんだよ、その言い方」

「え?」

「仕方ないから、ご機嫌とってくれるってわけ」

「・・・・・・」

 突っかかってくるはるかに、今度こそみちるは、戸惑うように瞳を揺らめかせた。
その姿に、少しだけ気分が軽くなった。


 でも、本当は、今に始まったことじゃないんだ。こんな風に苛立つのは。

「・・・はるか」

 みちるの声を無視してロッカーから飛び降りる。

「じゃあ、ご機嫌とってもらおうかな」

 すぐ目の前に着地したはるかに、少し身を引こうとしたみちるの腕を捕まえて引き
寄せた。


「はるかっ・・・」

 小さな身体が腕の中に納まると同時に、肩を押し返されてはるかは眉をしかめた。

「何?」

 はるかの腕のから逃れようと、それでも乱暴にならないように身をよじるみちるを、
それよりも強い力で抱きしめた。


「人が来るわ・・・」

 柔らかい髪に顔を埋めるように口付けたら、また、彼女は首を振ってそこから逃れる。

「だから、何?」

 その頬を捕まえて、むりやりこちらへ向かせると、先ほどよりもずっと、揺れてい
る瞳が見えた。


「困るわ・・・こんなところ、誰かに見られたら・・・」

 どうするのと言いかけた彼女の声は、はるかの唇に覆い隠されてしまった。

 夕焼けに変わる前の日差しが、部屋の中に柔らかく差し込んで、暖かい。熱くうだ
るような季節が間近に迫っていた。


 みちるの手のひらが、はるかの肩を押す。それから今度は腕全体を使って身体を押
す。そうされる度に、それよりも強い力で彼女を抱きしめる。キスがどんどん乱暴に
なっていく。


 諦めた彼女が、そっとはるかの背中に腕を回すと、制服の布地が擦れる小さな音が
した。


 扉の向こう側から、行きかう生徒達の喧騒が聞こえてくる。擦りガラスに映る、通
り過ぎて行く影。


 唇が離れると、みちるはそれらから逃れるように、肩を震わせて俯いた。その姿が
一層、胸にくすぶる感情を煽りたてる。


「何で、そうやって理由つけて逃げようとすんの」

 はるかの声にみちるがはっと顔を上げる。まるで痛みを与えられたかのような表情だ。

「僕は困らない」

 喧騒が遠くに聞こえる教室の中で、もう一度、彼女にそっと唇を寄せると、もう抗
う力は感じられない。


 こんな風に苛立つのは。

『これから先、何があっても。もう私を助けたりしないで』

 耳の奥に、彼女の声がずっと残っていた。



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