あいをこめてはなたばを




 桜の蕾はまだ固く、春の息吹さえその時の私には感じられなかった。

 パッヘルベルが遠くから聞こえてくる。

 芽吹いてすらいない桜の下、それでも今日が祝福すべき日だという事位は理解
していた。


 門出の日なのだと。

「え・・・?」

 目の前のその人は、紅い薔薇の花束を手にしたまま目を見開いた。

 その祝うべき日に。祝福されるべき人を。困らせてしまう自分の浅はかさに、
恥じ入りたい気持ちでいっぱいになった。


 それでも。

「・・・卒業までで良いんです・・・次の・・・」

 俯いてしまうことだけはしたくなくて、はっきりとその人をみつめた。

「お姉さまが大学を卒業されるまでの間で良いですから」

 軽蔑されてもいい。

 馬鹿な女だと罵られたっていい。

「お付き合いして欲しいのです、その・・・恋人として」

 もう、妹としてなんて見て欲しくなかった。



 祥子さまに。



               *

 もう時間がない。

3

 慌てて腕を通した袖の乱れを急いで直して。

2

 どうがんばっても跳ねてしまうくせっ毛を無理やり押さえつけて。

1

 転げ落ちるようにして着地した玄関で、パンプスにつま先を押し込めた。

0!)

 玄関のドアを開けると同時に耳慣れたエンジン音が響いた。目の前でダーク
グリーンのセダンの窓が静かに開く。


「え・・・あ、えっと・・・」

「乗って」

 目の前の光景にあたふたと慌てる祐巳に、祥子さまは笑い声を漏らしてから
短くそう言った。


「お、お邪魔しますっ・・・」

 硬い動作で車に上がりこんで、とりあえずはシートベルトを締める。その間、
祥子さまがじっとこちらを見ている気がして、顔が上げられなかった。


「今日はどこに行きましょうか」

「あ、はい」

 シートに腰掛けてようやく落ち着いた祐巳の様子を見届けてから、緩やかに車
を発進させると、祥子さまはそう呟いた。顔を上げてその横顔を伺うと、祥子さ
まは柔らかな表情を浮かべていた。


 あの時、祥子さまはどうして首を縦に振ったのだろう。


                     *


「大荷物になってしまったわね」

 紙袋を抱えた祥子さまと並んで歩く。祐巳の方もなんだかんだと小物を購入し
たせいで荷物がかさばっている。


「一旦荷物を置いてから、昼食にしましょう」

 祥子さまの提案に素直に頷くと、華やかな笑顔と一緒に思いがけない言葉が返
ってきた。


「そういえば」

「?」

 祥子さまの声に応えるように、斜め上に顔を向けると自然に視線が重なった。

「付き合うってどういうことかしら」

「え?」

 悪戯っぽい笑顔に身構えるまもなく、右手を取られた。

「こんな感じかしら」

 繋いだ手をぎゅっと握ると、祥子さまは祐巳の耳元で笑い声でそう言った。

「さ、祥子さま・・・っ?」

 不意打ちのような触れ合いに慌てる祐巳を、祥子さまはおかしそうに見下ろし
ている。繋いだ手を離したりなんてしない。


 祥子さまはからかっているだけなのかもしれないけれど。胸が高鳴って仕方が
ない。


 だって。

 それは祐巳がずっと望んでいた距離だった。


                    


 日差しに温かさよりも、暑さを感じるようになった頃。祥子さまは一人暮らし
をはじめた。


『せめて家事くらいは自分でできるようになっていた方がいいでしょう』

 そんなことを言ったあと、

『できれば金銭的にも早く自立したいものね』

 そう付け加えていた。

 その話を聞いて、意外だと思う一方で、妙に納得した。

 事実お嬢さまである祥子さまは、家事やその他身の回りのことのほとんどを家
の人にしてもらっていたはずだ。それは自立できていないというよりは、家庭環
境が大きく影響していたに違いない。だから、祥子さまを知っている人であれば、
そのことを特別意識したりするはずはない。むしろ当然のこととして受け止めて
いた。だけれど、祥子さまはそれを良しとは思っていなかった。高等部時代から
“普通の女の子”に一種の憧れのようなものを抱いていたことも、祐巳は知って
いた。だから、大学への進学を機に、思い切って一人暮らしを始められたのかも
しれない。もちろん、それは突発的なことではなくて、本人なりに熟考した末の
決断だったのだろう。だけど。


 祐巳がそのことを知らされたのは、引っ越し当日。それも、ほとんど荷物を運
び終わり、まさにそこへ住み始めるその日だったのだ。


(・・・それならそうと、もう少し前に教えてくれてもよかったのに)

 マンションのエレベーターの中でそんなことを考えてちょっとだけむくれた。
仮にも三月の末から恋人として付き合っているのだ。思いついたその日ではなく
ても、部屋が決まった頃には教えてほしかった。


 滑らかに目的の階で止まったエレベーターが、停止を告げる音を一つ立てて、
扉が開いた。


 フロアに足を踏み出しながら、「でも」と思った。

 仮にも、ではなく、実際に自分と祥子さまは仮の恋人同士なのだ。

 誰に偽っているわけでもないから、正しく言えば期間限定の恋人といったとこ
ろか。どちらにしても本当に“お付き合い”としての関係であることに違いはな
い。そう考えると、祥子さまの今回の行動には何の非もないことに納得して、そ
れからひどく自虐的な気持ちになった。


「あら、早かったわね」

 チャイムを鳴らしてしばらくすると、無警戒なほどの短時間で扉が開いた。

「お姉さま、きちんとインターフォンを確認されましたか?」

「どうして?呼んでいたのは祐巳だけなのだから、他の人なんて来ないでしょう」

「・・・・・・・・・」

 靴を脱ぎながら、祐巳は背中に冷や汗が流れ落ちるのをはっきりと自覚した。
だめだ、家事云々よりもまずは防犯対策から覚えていただかないと。ただでさえ
女性の一人暮らしで不安はいっぱいあるのに。


「適当に座って」

 リビングに着くまでの間、こんこんと説明する祐巳の声を適当に受け流しなが
ら、祥子さまはそう告げてキッチンへと向かった。


「あの、お片付け、もう終わったのですか?」

 引っ越し直後の雑然さがまったく感じられないほど、整理の生き届いた部屋を
眺めてそう尋ねる。祐巳の予想では、家具類が設置されただけで、荷物は手つか
ずの状態であるはずだった。


「ええ。少しずつ自分で運んだの。お祖父さまやお父さまは手伝ってくれると言
ったのだけれど、せっかく車の免許も取ったのだから、自分でできると思って」


 キッチンから出てきた祥子さまは、両手に冷やした紅茶の入ったグラスを持っ
ていた。


「さすがに家具なんかは業者に頼んだけれどね」

 祐巳の腰かけたソファの前にあるボードへグラスを乗せると、そう言って悪戯
っぽく笑った。それから。


「それから、新しくそろえるようなものは、お母さまと一緒に買いに行ったわね。
優さんにも何度か付き合ってもらったかしら」


「・・・・・・・・・」

 祥子さまの声を聞きながら、自分がどんどんと落ち込んでいくのがわかった。

 結局、祥子さまの動向を知らなかったのは、自分だけなのだ。

 勝手にいじけているだけだとわかっている。でも。一人ぼっちにされたような
気持ちになった。


「でも、これでやっと、少しは自分のことは自分でできるようになるわ」

 そんな風に落ち込んでいる祐巳とは対照的に、祥子さまは張りのある声でそう
言った。それから。


「祐巳と一緒にいられる時間も増えるしね」

 はにかんだようにそう付け加えた。

 きっといつもなら、それだけで舞い上がってしまうのだろう。だけど、今日の
祐巳はそれを素直に喜ぶことはできなかった。


 ―――うそつき。

 それどころか、心の中でそう小さくつぶやいてしまった。いつから、こんなに
ひねくれてしまったのだろう。


 いつの間にか膝を抱えて俯いていた。

「晩ご飯は、一緒に食べましょうか。送るから」

 耳のすぐそばでそう告げられて、顔を上げると、思ったよりも近くに祥子さま
の顔があった。反射的に後ろへ引こうとした瞬間に、そっと唇に何かが触れた。


「え・・・?」

 また、すぐそばに祥子さまの顔がある。

 つい数秒前に起こった出来事だろうに、すぐには頭の中で整理できなかった。

 間近にある瞳。唇。柔らかな感触。

 それを不器用につなぎ合わせてからやっと、何が起こったのかわかった。

 祥子さまと、キスをした。

 それは今までに想像していたような、甘い予感とともに訪れたわけではない、
唐突な感覚。


 突然のことに、すべての動きを停止してしまった祐巳を、じっと見返しながら
、祥子さまは言った。


「付き合っているのでしょう?」

 澄んだ瞳にみつめられて、何も言えない。

 先ほどの行為をようやく理解した頭が、これ以上の思考を拒否している。

 顔どころか全身が真っ赤になってしまうような熱さを感じながら、馬鹿みたい
に首を縦に振った。


 ほどなくして、祥子さまの柔らかな手のひらが頬と、首の後ろに添えられて、
そっと引き寄せられた。

 唇が触れ合うだけのキスだったけれど、おずおずと向かい側の肩へ両手を回す
と、より一層きつく押し付けられた。


 すごく、ドキドキした。


                     


「大学はどこを志望しているの?」

 願書も提出し終わった十二月、祥子さまは突然そんなことを尋ねた。

「え?」

 自分としては、当たり前のようにリリアン女子大へ進学するつもりだったから、
改めてそんなことを聞かれるだなんて思ってもいなかった。むしろ言ったつもり
でさえいた。


「リリアンです。優先入学の願書を提出しています、けど・・・」

 なんだろう。祐巳がそう言った瞬間、祥子さまの周りの空気が一度くらい温度
を下げた気がする。


「ふぅん」

「・・・・・・」

 もしかして、追いかけてくるみたいにして同じ学校へ来られるのが嫌だったと
か。そんなことを考えてしまう。


 だけどそんなことを真正面から尋ねるなんてできなくて、祐巳はソファの上で
膝を抱えた。その目の前のボードに、甘い香りを漂わせるココアが静かに置かれ
た。


 祥子さまのマンションへは割と定期的にお邪魔していた。お互いに学生で、そ
の上祐巳に至っては高等部へ在籍しているものだから、生活パターンはあまり一
致しない。そのせいで毎週末のように逢瀬を重ねるなんてことはできなかったけ
れど、それでも家族以外でこんなにも一緒に過ごしているのは祥子さまだけだった。


「・・・言っていませんでしたっけ?」

 何となく嫌な空気にかき消されそうになりながらそう尋ねる。

「聞いていないわ」

 祥子さまは祐巳の質問を受け止めると、思いっきり顔をしかめた。どうやら、
祐巳が進学について何も言っていなかったことが不機嫌の理由のようだった。


「ごめんなさい。その・・・リリアンってエスカレーターで進学できるから。他
校を受験する以外は入試するという意識があまりなくて・・・」


 祐巳にとっては、リリアン女子大に進むことはあまりにも当たり前のことだっ
たから。進級するのと同じ、とまではいかなくても、はっきりいって世間一般の
受験生たちほどの危機感や気概のようなものはなかったのだ。だから、それこそ
進学についてなんて、両親にすら「このままリリアン女子大に進む」なんてこと
しか告げていない。

 でも、そんな漠然とした気持ちをすべて言葉にするなんて、極めて難解な作業
だ。今さら「どうして言わなかったのか」なんて問われても、それ以上の説明な
んてできそうにない。

 そんな気持ちのまま祥子さまを見上げると、よっぽどおどおどしていたのだろ
う。祥子さまの瞳からふっと力が抜けた。


「・・・でも、言ってほしかったわ」

 隣に腰かけながら、祥子さまは小さく呟いて、そのまま手近な雑誌を手にとっ
て広げた。


「・・・祥子さま・・・」

 胸の中が苦くて、甘くて、少しだけ苦しい。

 どうしてだかわからない。

 それは、甘えたい気持ちと、小さな反発、虚しさや期待が一度に詰め込まれた
ような味がした。



                    


 四月、祐巳は無事リリアン女子大へ入学した。

 余裕の合格とはいかなかったけれど、それでも志望校へ通えるようになったこ
とは、新鮮な喜びだった。

 その上、学部は違えど、祥子さまと同じ学校なのだ。これ以上の望みなんてな
い。まさに心が弾むような春だ。


 それまで、都合の合う週末にだけだったお泊まりも、いつの間にか、平日にま
で及んでいた。少し授業が遅くなってしまった夕方、ついつい話し込んでしまっ
た夜、結局どちらともなく離れられなくなる。そんなふうに、二人過ごす時間が
日増しに長くなっていった。最初は祥子さま一人分とお客様用の少量だけだった
食器も、いつの間にか祐巳のものが増えていた。食器だけじゃない。着替えも、
タオルも、歯ブラシも。部屋に置かれる生活雑貨のほとんどに祐巳のものがあった。


 それから。

 祥子さまと、当たり前みたいにキスするようになっていた。

「ただいま」

 玄関の扉を開けると、大きな段ボール箱を抱えた祥子さまが立っていた。

「おかえりなさい。どうしたんですか、その荷物・・・」

 時々、祥子さまはお帰りがとても遅くなる時がある。夕食を作って待っている
間中、気が気ではない。祥子さまは遅くなるからと言って、逐一連絡を入れるタ
イプれはなかった。


「ゼミで使うの。来週の検討会までに資料を作らないといけないから」

 ため息交じりにそう呟きながら、玄関のわきにその段ボールを置くと、祥子さ
まはよろよろとその段差に座り込んだ。


「大丈夫ですか・・・?」

 本当は、もっと違うことが聞きたかった気もするけれど。目の前で憔悴してい
る人を見れば誰だってそう声をかけるだろう。それが愛しい人ならばなおさらだ。


「・・・・・・疲れたわ・・・」

 そう吐き出すと、祥子さまはついと唇を寄せた。

「ん」

 祥子さまの首に腕を回しながら、ためらうことなく受け入れる。目を閉じると、
祥子さまも優しく祐巳を抱きしめてくれた。


(ま、いっか・・・)

 目くじらを立てても仕方がないし。そう納得する。作って待っていた夕食は、
明日の食事に再利用すればよいのだから。


 その時は、本当にそう思っていたんだ。


                    


「祐巳」

 初夏の日差しの中で呼び止められて振り返る。

「由乃さん」

 振り返った先に、由乃さんが立っていた。同じくリリアン女子大に入学してい
た由乃さんとは、学部も学科も一緒だ。長かった髪を短く切っていたけれど、小
さなみつあみにしているから、高等部時代とほとんど変わらない印象だ。


「今日は祥子さまのところ?」

 改めて、祥子さまとお付き合いしていることを伝えたことはない。だけど、同
じ学校へ進学して、休日やそれ以外も一緒に過ごしている祥子さまとのことを、
由乃さんはそう言うものだと理解してくれている。そういえば、令さまとのこと
も改めて尋ねたことはないけれど。会話の端々にその名前が出てくるのだから、
やっぱりそういうことなのだろう。祐巳の方もそう認識していた。


「特に約束しているわけじゃないけど」

 ただ、何となく、授業が終わると祥子さまのお部屋に足が向かう。合鍵をもら
っているから、部屋の前で待ちぼうけなんてこともない。もちろん、その都度実
家には連絡をしている。最初の頃は祥子さまにも電話口で代わってもらっていた。
その度に電話の向こうでお母さんが恐縮していたのだけれど。最近では「祥子さ
まのところでしょ」等と軽く流される程度になっていた。慣れとは恐ろしいもの
である。


「じゃあ、夕食、一緒に食べよ」

「帰らなくていいの?」

 由乃さんだって祐巳に負けないぐらい、毎日いそいそと令さまのアパートに通
い詰めているのに。


「今日は特別。たまにはお友達と親睦を深めないと。クラスの子も誘うから」

 ・・・・・・喧嘩中か。

 特に問題はないと思う。通常往復するのは実家と大学と祥子さまのお部屋位だ
から、こういうお誘いはうれしいもので。ただ、夫婦喧嘩には巻き込まれたくな
いなぁ、なんてことしか懸念事項はない。


「それじゃ、お店探索に行きましょ」

 まずはそこから。すっごく効率が悪い気もするけれど。その合間合間のウィン
ドウショッピングも楽しいだろう。


 祥子さまにメール、送っておかないと。


                     


「遅い!」

 大きな声でそう言われて、祐巳は一瞬にして固まってしまった。

「何時だと思っているの」

 ソファから立ち上がった祥子さまが続けざまにそう言い募る。
 確かにいつもより少し、帰りが遅くなったかもしれない。お酒も少し、入って
いた。普段はお茶くらいしか一緒にしない友人たちと、遅くまでじゃれあって、
いい気持になっていたと思う。


 でも。

「ごめんなさい・・・でも、その・・・連絡は、したと思うんですけど・・・」

 一緒に暮らしているわけではないのだから、今日は実家に帰ってもよかったの
かもしれない。だけど。遅くなるとメールした祐巳に、遅くてもいいから部屋に
帰ってくるようにと言ったのは祥子さまの方なのに。


「言い訳なんて、聞きたくないわ」

 ぴしゃりと吐き捨てて、祥子さまは顔を背ける。

 怒らせてしまったと怯える気持ちと同時に、いつだったか感じた苛立ちがわき
上がった。


「・・・・・・お姉さまだって・・・」

 そんなこと言うはずじゃなかった。でも、口の中で呟いたら何かがはじけたみ
たいに止まらなくなった。


「え?」

「お姉さまだって、遅く帰ってくるじゃないですか・・・っ・・・」

 思っていた以上に大きな声が出て、我に帰った。

 向かい合った祥子さまが、驚いたように目を見開いている。

「・・・すみません」

 怒鳴り散らしたいわけじゃないのに。そう後悔すると同時にいてもたってもい
られなくて。祥子さまの前に立っていられなくて。慌てて寝室へと駆け込んだ。


「何なの・・・」

 扉を閉める直前に、呆れたような祥子さまの声が聞こえた。


                    


 祥子さまはきっとシャワーを浴びているのだろう。

 普段と変わらないペースで、いつも通りのことをしているに違いない。
 自分はと言えば。子どもみたいに喚き散らした揚句、その祥子さまのベッドの
上で丸くなっている。どうせ啖呵を切るのなら、部屋から出ていけばいいのに。
何とも潔くない。だけど、出て行ってしまったら、そこで二人は終わりになる気
がして、惨めたらしく仲直りの機会を探している。


 だって、祥子さまには祐巳を追いかける理由なんてない。

 期間限定でもいいからとお付き合いをお願いしているのは祐巳の方で。その本
人が勝手に腹を立てて出て行ったとしても、祥子さまにはそれをなだめすかさな
ければいけない義務はないのだった。


 秒針の音が、耳にまとわりついてくる。

 でも、それではどうすればいいのだろう。

 声を荒らしてしまった非を詫びて、捨てないでほしいとでも嘆願すればよいの
だろうか。まるで犬みたいだ。


 頭を抱え込みそうになったところで、静かに寝室のドアが開いた。

「・・・・・・」

 丸くなったまま息をひそめて、ただ祥子さまの気配をうかがった。もう怒りは
解けているのだろうかと、そんなことばかりを考えながら。


「・・・ゆみ・・・」

 小さくベッドがきしむ音と一緒に、祥子さまの声が聞こえた。

「祐巳」

 もう一度、静かな声が聞こえたけれど顔は上げられなかった。

 涙がにじみそうになりながら、ギュッと目を閉じた。

 だけど、次に聞こえてきたのはそんな祐巳の予想に反した言葉だった。

「ごめん」

 閉じていた瞳が、勝手に見開かれる。真っ暗な部屋の中のはずなのに、目を見
開いた瞬間、光が飛び込んできたかのように眩い感覚がした。


「・・・心配だったから・・・でも、祐巳の気持ちを考えていなかったわ・・・
ごめんなさい・・・」


 祐巳の耳元近くまで屈みこんで、祥子さまが囁いた。

 おずおずと振り返ると、泣きはらした子供みたいな顔をした祥子さまがいた。

「・・・・・・うん・・・」

 祥子さまが怒っていなかったことに安心して。何も言わずにただ謝ってくれた
ことに、申し訳なさでいっぱいになって。涙がこぼれた。


 仲直りのしるしのように、祥子さまが優しく祐巳にキスをした。

 それから、祐巳と同じように横になると、力強く引き寄せて抱きしめてくれた。
 それは、馴れ合いからだろうか。それとも、同情なのだろうか。

 恋人ごっこなのに。

 祥子さまの腕は優しくて。わからなくなってしまいそうだった。


                    


「春先の海なんて、まだ寒いわよ」

 年度末、そう言って、心底面倒臭そうな表情をしながらも、祥子さまは祐巳の
お願いに付き合ってくれた。


 海に行きたいな。

 唐突にそんなことを思って、それが脳内を通過せずに口を衝いて出た。

 ただ、海水浴なんて気候ではないから、海沿いの街道を車で走るだけ。それで
も、車窓から見える視界いっぱいの海と空は、輝いて見えた。


「お姫さま、これで満足していただけたかしら」

 浜辺の近くに車を停車させながら、祥子さまはそう言って笑った。なんて返し
たらいいのかわからなくて、祐巳も笑った。


「ほら。やっぱり寒いわよ」

 車を出た途端、祥子さまが苦笑する。吹き抜ける潮風が確かに冷たい。まっ青
な海は深い色で、どこか寂しさを感じさせた。空だけが、穏やかに霞んでいて、
一層強くそう感じさせる。


「春だから、ちょっとした水遊びくらいはできるかなと思ったんですけど」

 ミュールのつま先を浸すだけでも辛そうである。

「馬鹿ね。“まだ”春なのよ」

 強調してそう言う祥子さまに、やっぱり曖昧に笑い返した。

 祐巳にとっては、“もう”春なのだ。それも二度目の。

 もう、約束の期間の半分が過ぎたことになる。

 潮風に巻き上げられる黒髪を、わずらわしそうにかき上げる横顔をそっと盗み
見る。制服を着ていた時よりもずっと大人びて、あのころの美しさにさらに磨き
がかかっていると思う。


「・・・寒いの?」

「へ?」

 ぼんやりと祥子さまをみつめたまま黙り込んでいたら、その人が不意に振り返
った。


「そういうわけでは・・・」

「・・・こっち」

 言い淀んでいる最中に、祥子さまが祐巳の腕をとって強く引いた。すぐに、全
身が暖かい感覚に包まれる。


「さちこさま・・・」

 そこは祥子さまのコートの中だった。

「・・・これなら、もうしばらくはここにいられるでしょう?」

 コートの襟をつかんだ両腕で、祐巳を強く抱きしめながら、祥子さまがそう呟
く。小さな声の後に聞こえてくるのは、祥子さまの穏やかな吐息と、波の音だけ
だ。


 鼻の奥がつんとして、泣きたいのかもしれないと思った。


                    


『せっかく遠出したのだから、ドライブだけではつまらないでしょう』

 祥子さまはそう言っていたのに。

「こんなに混み合っているなんて、思わなかったわ」

 今は心底けだるそうにそう言ってため息をついた。

「休日はどこもこんな感じですよ」

 大型ショッピングモールの中に二人はいた。
 特に何か目的があったわけではない。海沿いから大きな道へ出ると、その
ショッピングモールは程なくして現れた。寄り道を提案したすぐ後だったから、
祥子さまはためらいなくウィンカーを出したのだ。


「祐巳は、何か見たいものとかないの?」

 映画のポスターを二人して見上げていると、祥子さまがそう尋ねる。せっかく
だから、映画でもみて時間をつぶしてもかまわない。今日の予定なんて、「祥子
さまとお出かけ」ってこと位しか決まっていないのだし。


「えっと・・・」

 意味もなく視線を泳がせると、すぐそばのカートが目にとまった。ショッピン
グモール内に構えられた店舗とは違う、個人が出店するためのブースである。一
定間隔で設置されているそれらは、アクセサリーを売っているところもあれば、
似顔絵を承っていところもある。


 祐巳が惹かれたのは、女性向けのアクセサリーを並べてある、可愛らしい
ブースの一角だった。


「どうしたの」

 祐巳の視線を追って、祥子さまが身を乗り出した。

「買いたいものがあるの?」

 すぐに祐巳の見ていたブースを見つけた祥子さまは、不思議そうに首をかしげ
た。


「そういうわけでは・・・」

 言いながら歩み寄って、その一角の前で足を止める。

 小さな陳列箱に所狭しと並べられていたのは、指輪だった。

(可愛いなぁ)

 おもちゃよりはしっかりした作りで、本物程の輝きはない。それでもそれらが
たくさん並べられた箱は、小さなころに想像していた宝石箱そっくりだ。


 一つ一つを眺めながら視線を動かしていると、あるところで止まった。何だろ
う、別に他の物とさして変わった印象ではないのだけれど。女の子が身につける
にしては、少し大きめのリングの中心に、色のついた小さな石が埋め込まれる形
で、円を描くように並べられていた。


「欲しいの?」

「ふえっ?」

 手に取る勢いでしげしげと眺めていると、後ろから声をかけられて飛び上った。

「あ、や・・・」

「これ?」

 戸惑っている祐巳をよそに、祥子さまは軽く確認をすると、有無を言わさずそ
れを二つ手にとってレジへと向かった。


「はい」

 会計を済ませると、祥子さまはブースから少し離れた場所で、さっそく包装紙
を解いて、その中身を祐巳に手渡した。


「え・・・っと・・・」

「付けて・・・もちろん、薬指」

「・・・・・・」

 楽しそうに笑う祥子さまに促されて、祐巳はまたしても戸惑う。薬指というか
らには、左手の方につけたらよいのだろうけれど。なんだか気恥ずかしくて、右
手の方にはめようとした、その瞬間。


「ばか」

 祥子さまは不貞腐れたような顔をしてそう言うと、祐巳の手から指輪を取り上
げて、左手の薬指にはめてくれた。


「普通はこっちでしょう」

 ぶつぶつとそう呟きながら、自分の左手の薬指に同じものをはめる。手の甲を
表にして、次に手のひらを表にして。最後に祐巳の左手と自分の左手を重ねて、
祥子さまは満足そうに笑った。


「おそろい」

 冗談のつもりだろうか。それとも気まぐれなのだろうか。上機嫌でほほ笑む祥
子さまに、祐巳は曖昧に頷いた。きっと、店内を歩く人たちの目には、友達同士
がふざけてじゃれ合っているだけに見えるのだろう。祥子さまも、その感覚に限
りなく近いはずだ。


 だけど。

 指輪をはめてもらった左手を、光にかざすようにして見上げると、胸が締め付
けられてしまう程に輝いて見えた。


 おもちゃよりも精巧で、本物には遠い。

 自分には、それ位がちょうどいいと思った。

 それから。どんなものでも、祥子さまから送られたものだという事実だけで、
胸がいっぱいになった。


 帰りの車の中で、祥子さまは手を繋いでくれた。

 祥子さまの薬指にはめられている指輪が、自分の手の平に当たるたびに、心拍
数が上がって仕方がなかった。



                    


 ソファがあるのに、ついついそれを背もたれにして、フローリングの床の上に
座ってしまうのは、多分に夏の暑さのせいだと思う。


 祐巳が眺めていたカタログの、一つの写真を指さして祥子さまが言った。

「これがいいと思うわ」

 祐巳を後ろから抱え込むようにして祥子さまは座っている。空調が効いている
から、暑苦しくはないのだろうけれど。祥子さまの膝の間で、祐巳は茹であがっ
てしまいそうだ。


「・・・子どもっぽくないですか?」

 顔の火照りを隠すようにして俯くと、思っていたよりも声が小さくなってしま
った。


 二人が見ているのは、着物などをレンタルするためのカタログだ。

 今年は、祐巳が成人式に出席する年だった。

 去年は、モノトーンでまとめた祥子さまの姿に隠しようもないくらいにドキド
キしていたのを覚えている。


「子どもじゃないの」

 あっけらかんとした調子で祥子さまはそんなことを言う。

「もう・・・」

 わざと唇を尖らせて見せると、祥子さまは笑いを噛み殺しながら、祐巳をぎゅ
っと抱きしめてくれた。




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