あいをこめてはなたばを 2



 急ぎ足で家路を歩く。


 装飾品を乗せた頭が重かったり、着物の帯に締め付けられるのが限界だったり。
理由はたくさんあるけれど。一番は、祥子さまに早く会いたいからだった。


 朝早くから美容院へ行き、そのまま成人式会場へ向かったから。美容院まで送
ってくれた祥子さまには、まだこの姿を見せていないのだった。


「ストップ!」

「へっ!?」

 玄関を開けると同時にそんな声が耳に飛び込んできた。

「写真を撮るから、まだ脱いでは駄目よ」

 見ると、そこにはデジタルカメラを片手に仁王立ちしている祥子さまの姿があ
った。


「そ、そんな大袈裟な・・・」

「どうして?お祝いごとなのだから構わないでしょ。お料理だって、今日は奮発
してしまったのよ」


 言いながら、祥子さまはシャッターを切っている。後でディスプレイを見せて
もらったら、思い切り間抜けな顔をした子狸が、祥子さまの選んでくれた薄紅色
の着物を身にまとって立っている画像がたくさんあった。



                   


 友人と食事を一緒に取ってから帰ることは告げてあったから、用意されていた
料理は軽めのものだったけれど。「奮発した」という言葉通り、まるで美術品の
ように美しく並べられていた。そのテーブルの真ん中に置かれていたシャンパン
が、今夜の主役のようであった。


「乾杯」

 グラスが軽く重なり合う音がダイニングに響く。

 実際のところ、アルコールの類を口にするのは初めてではなかったけれど、積
極的に口にすることはほとんどなかった。鼻から抜けていくような浮遊感が、ど
うしても慣れないのだ。


 けれど、祥子さまが選んでいてくれたシャンパンは、祐巳でも眉をしかめずに
いられるくらいの甘さで、アルコールも極めて低い、飲みやすいものだった。


「祐巳が成人式に出席する、だなんて、なんだか信じられないわ」

 すでに空になってしまった祥子さまのグラスにお代わりを注いでいると、不意
にそんなつぶやきが聞こえた。


「すぐそうやって子ども扱いするんですから・・・」

 ボトルを抱きかかえながら、祐巳はぷくっと頬を膨らませた。確かに、祥子さ
まに比べれば、いつまでたっても顔から幼さが抜けない自覚はあるけれど。それ
でも、こうしてお酒を飲んでも誰にも咎められない年齢に達しているわけで。


「違うわよ」

 そんな祐巳の憤りを軽く流して微笑むと、祥子さまは片手をこちらへ差し出し
た。


「・・・もう大人扱いしても構わないんだと思っただけよ」

 そう囁いて、祐巳の頬をなでる。

 アルコールのせいなのだろうか。その唇が、いつもにも増して艶やかに見えた。


                         


「もう大人になったのだから、別々のベッドにしましょうか」

 シーツの中、祥子さまの隣に潜り込んだと同時にそう言われて、祐巳はしばら
く固まってしまった。


「ねぇ、祐巳」

 きっと、からかっているだけなのだ。それ位わかっている。だけど、祥子さま
の声を聞いた途端、寂しくて仕方なくなった。


 それを追い払うように、祥子さまに抱きつく。

「ちょ、ちょっと、祐巳?どうし・・・」

 唐突に甘えてこられた祥子さまはと言えば、珍しくあたふたと慌てている。自
分の冗談に、ここまでの反応を示されるとは思っていなかったのだろう。


「別々はいやです・・・」

 訴えかけるうように吐き出した声が、泣きだしそうで、自分でも驚いてしまっ
た。


「冗談に決まっているでしょう・・・」

 祥子さまも、焦った様子でそう答えると、祐巳を抱きしめてくれた。でも。

「・・・ずっといっしょがいいです」

 温かい胸の中で、思わず零してしまった言葉は、まぎれもなく本心からのもの
だった。


 ―――ずっといっしょがいいです。

 祥子さまが卒業するまでの間だけでいいと、そう言ったのは自分の方なのに。
それは、すぐそこまで迫っているのに。


 ずっと、一緒になんていられるわけがないのに。

 わずらわしいと思われてしまうのが怖くて、取り繕うように顔をあげた。持ち
上げた視線に飛び込んできたのは、予想していた困った表情ではなかった。


「・・・・・・」

 怒ったような。感情を抑えているような。そんな表情で、祥子さまが祐巳を見
ていた。その瞳だけが、強い光を放っていた。


「さちこさま・・・?・・・」

 まるでスローモーションのように、祥子さまの顔がこちらへ近づいてくる。

 唇が触れ合ったのは一瞬だったと思う。

「・・・あ・・・」

 でも、離れたのも一瞬だった。

 しっとりとした唇の感触を、こんなにも長い時間、感じているのは初めてのこ
とだった。


「っふ・・・・・・」

 息継ぎをする間も与えないように、祥子さまの唇が強く押し付けられる。少し
だけ冷たい唇がうっすらと開かれると、無意識に自分も唇を開いていた。水音が
響いて、鼓膜に張り付いてくる。


 長い口付けが終わると、祥子さまは祐巳の顔の横に両手をついて、こちらを見
下ろしていた。


『付き合っているのでしょう?』

 もうずいぶんと前に言われた言葉が、真新しく耳元で蘇っていく。

 目を閉じて祥子さまを抱きよせると、涙がこぼれた。

 どうして、律儀にそれを守ってくれるのだろう。

 そうで在ろうとしてくれるのだろう。

 優しい指先に自分を委ねながら、そんなことばかりが頭を巡って、尚更涙が止
まりそうになかった。



                    


「ねぇ・・・」

 抱き合った後の心地よい疲労感の中でまどろんでいると、祥子さまが吐息のよ
うに耳元で囁いた。後ろから抱きすくめられると、素肌がぴったりと触れ合って
くすぐったかった。


「ん・・・・・・」

 振り返ると、おとがいを捕まえられた。そのまま、柔らかく唇が押し付けられ
る。


「もう少しだけ・・・」

 額をくっつけて、唇を少しだけ話して。目を閉じたまま祥子さまはまた呟く。
指先がおへそのあたりから、胸元へ向かって撫で上げられていく。シーツは既に、
ベッドの下に落ちていた。初夏はもう目の前だった。


「ご飯は・・・?」

「後で」

 後ろから抱きかかえるようにして、胸に触れてくる手のひらの持ち主に尋ねて
も、曖昧な声でそう答えるだけだ。


 そこに至るまでの時間が長かったせいなのだろうか。抱き合うと、中々そこか
ら他の行動に移せなかった。終日をベッドで過ごしたことさえある。


「・・・っあ・・・」

 指先で先端をはじかれて、思わずのけ反る。その首元に祥子さまが猫みたいに
噛みついた。できれば、服で隠れないところに痕をつけるのはやめてほしいのだ
けれど。


 祐巳が呻くようにして首を振ると、祥子さまは顔をあげて、唇に触れるだけの
キスをした。唇が離れると、優しく微笑む。その表情を見ると、つきんと胸が痛
んだ。


 どうしてと、いつも思う。

 どうして、抱いてくれるのだろう。そんな風に。

「祐巳」

「?」

 入り込んでくる指先を感じながら、手の甲で顔を覆って目を閉じていると、祥
子さまが呼んだ。


「・・・嫌い?・・・こういうこと、するの・・・」

「え」

 指先をゆっくりと動かしながら、祥子さまはひとりごとみたいに呟いた。

「そんな、こと・・ない・・・ど、して・・・?」

 強すぎる感覚のせいで、きちんとした言葉にできないまま尋ねる。長めの前髪
が顔にかかって、その表情までは見られなかったけれど。


「いつも、辛そうな顔をしているから・・・こういうこと、あまり好きではない
のかと思って」


「・・・・・・っ・・・」

 そんなことない。

 そう言いたかった。でも、言葉にはできなくて唇をつぐんだ。

 抱き合うのが、嫌なのではない。祥子さまと触れ合うことが嫌なんてこと、絶
対にない。


 ただ、申し訳なさでいっぱいになる。

 ―――どうして抱いてくれるのだろう。

 そんなことを考えているから、難しい顔になるのだろう。

『付き合っているのでしょう?』

 その答えにたどりついてしまうから、落胆しているのだろう。

 恋人として付き合っているから。たとえ期間が限定されていても、そう約束し
ているから。だから、そのように振舞ってくれているのだ。


 手をつなぐことも。抱きしめることも。キスも、それ以上のことも。

 すべてが祐巳にとっては初めてのことで。その相手が祥子さまだったなんて、
他には何もいらなくなってしまうほど幸せなことだ。


 だけど。

 きっと、祥子さまにとっても、そのほとんどが初めての行為に違いないのだ。
その相手が、祐巳でよかっただなんて、到底思えなかった。


「・・・今日はもう」

 押し黙ったままの祐巳にため息をつくと、祥子さまが指先を引き抜こうとした、
だから。


「やめないで・・・っ」

 絞り出すようにそう言うと、祥子さまは驚いたように息をのんだ。それから、
また強く抱きすくめてくれた。

 祥子さまの呼吸を感じながら、自分のみじめさに涙がこぼれた。

 ―――やめないで。

 行為に対してなのか。それとも関係についてなのか。

 どちらにしても、縋りつくしかできない自分が、あさましい人間であるとしか
思えなかった。



                    


 卒業論文の仮提出が終わった頃、祥子さまは思いつきのように祐巳を旅行に誘
った。


 お出かけの定番、ネズミの遊園地。

 人込みは嫌いなくせに、祥子さまはそう言った場所が好きなのだ。日帰りも可
能な距離だったけれど、祥子さまたっての希望で一泊二日の小旅行である。宿泊
先も同リゾートのオフィシャルホテルにするほどの熱の入れよう。


「祥子さま、何も初日でそんなに買い物をしなくても」

「だって、なんだか可愛いじゃないの。それにこういったところで買うからいい
のよ。こういうものは」


「・・・・・・」

 まったく答えになっていない言い訳を口にしながら、祥子さまはそれらを宅配
便の段ボール箱に詰めている。一日で箱二つということは、単純計算で合計四つ
の段ボール箱が、近日中にマンションに届くのだ。その上に祐巳が買ったものま
で届けられると。しばらくは部屋中が、この旅行の名残でいっぱいになるのだろ
う。


「シャワーを浴びたら、夕食にしましょうか」

 荷物整理が終わったのか、祥子さまは達成感を漂わせながら立ち上がると、そ
う告げた。


「・・・キャラクターの顔が書いてあるスウィーツなんてものは却下ですからね」

「・・・・・・」

 祐巳の言葉を聞き流すように黙ってお風呂の準備をする祥子さま。普段はしっ
かりした大人の女性なのに、こういう姿は幼い子どものようだ。もちろん、その
どちらの姿も、祐巳は好きだった。


「ほら、祐巳も早く支度をして」

「え、祥子さまから先に入っていただけば良いですよ」

 当たり前のようにそう言った祥子さまに、慌ててそう返す。だけど祥子さまは
不思議そうに首をかしげて言った。


「一緒に入るのだもの」


                    


 朝、目が覚めると、天井の色がどことなく違う。隣に手を伸ばしても、柔らか
な素肌に触れることはなかった。それでも、そのシーツの上には微かに体温が残
っていて、祥子さまと一緒に旅行に来ているのだということを思い出した。


「あら、もう起きたの」

 窓辺の椅子に腰かけた祥子さまが、気配を感じたのか振り返った。

「祥子さまこそ、どうしたんですか?こんな早くから・・・」

 時計を見ると、まだ五時過ぎだった。

「喉が乾いて。水を飲んだのだけれど、それからなんだか目が覚めてしまったの」

 そう言って、祥子さまはまた、窓に視線を戻した。

 シーツから抜け出てその傍らに立つと、黄色と水色の間の朝焼けが広がってい
た。


「きれいですね」

 毎日毎朝、訪れる景色が、それでも胸に響いた。

「そうね・・・毎日繰り返されていることだけど。同じ景色はないって言うしね」

 小さく笑って、祥子さまはすぐそばの祐巳に寄り添った。

「こういうの、好きよ」

 二の腕のあたりに、祥子さまの頭が当たっている。

「・・・朝焼けも、青空も。それから夕日も」

 その髪をなでながら、そっと抱き寄せると、祥子さまは祐巳の身体に腕を回し
て応えてくれた。


「その中に、あなたと一緒にいられるのが、好きよ」

 朝焼けに照らされた祥子さまの黒髪が、金色とオレンジ色に輝いて見える。そ
の光の中に顔をうずめると、本当に二人して朝焼けの中に漂っているような気持
ちになった。


 朝が来て、空の下を歩いて、また夜が来て、寄り添って眠る。

 いつまでも続く夢のように。覚めないでほしいと、心から思った。


                        


「炭酸飲料が飲みたい。今すぐ」

「・・・・・・」

 祥子さまは時々、今のようなことを口走る。唐突に思いついたことをすぐに実
践しないと気が済まなくなるのである。


「ペリエなら棚に置いてありますけど」

「違うもの。私が飲みたいのはもっと、甘くて、きつい炭酸が入っているものだ
もの。コーラとか、サイダーとか」


「・・・・・・」

 こうなると、祥子さまはてこでも動かない。だからと言って、祐巳に使い走り
をさせるかというとそうではなくて。


「買い物。買い物行きましょう」

 自分で買いに行く気はあるのだけれども、一人では嫌なのだ。「一緒に行って
くれなきゃいやだもん」なんて、普段の祥子さまからは想像もできないようなセ
リフを本気で吐き出すのだ。一分に一回の間隔で。


「わかりました。わかりましたから、足をバタバタさせるのはやめてください」

「うん」

 諦めた祐巳がため息交じりにそう告げて鞄を手に取ると、祥子さまはとたんに
にこにこ顔になる。それから。


「夕食の買い物もするでしょう?」

「え、ええ・・・」

 目を輝かせながら祐巳の手を取る祥子さま。次の行動は決まっているわけで。

「ピーマンは買っては駄目よ」

「無理です」

「どうして。他の緑の野菜を買えば問題がないでしょう。ああ、ほうれん草も入
れないで」


「・・・・・・」

 一緒に買い物に行くイコール祥子さまの偏食をいかにして防ぐかといったこと
を常に考えなければならないのだ。買い物の間中ずっとである。


「・・・じゃあ近くのコンビニで飲み物だけ買って帰りましょう。夕食の買い物
は夕方私がしてきますから」


「嫌」

 祥子さまのおねだりに、祐巳も負けじと応戦する。軽い口喧嘩をするなんて少
し前まででは考えられないことだった。


「祐巳と一緒に買い物するのがいいのだもの」

 祥子さまはきっぱりとそう言いきると、祐巳の腰を引き寄せた。

「・・・・・・食べ物の好き嫌い、しないでくださいね?」

 至近距離で見つめられながら、祐巳はなんとかそれだけを伝える。その途端に
祥子さまは、不貞腐れた子どもみたいだった顔に、満面の笑みを浮かべて頷いた。


 一緒にいたい。

 祥子さまもそう思ってくれているのかもしれない。そんなことを考えてしまう。
こんな距離。


 でも、もしも本当にそうなのだとしたら―――。

 考えかけて首を横に振った。

 かなわない夢を願うのはもう嫌だ。

 だから、祐巳はいつもの通りに祥子さまの微笑みに笑顔で応えて玄関に向かっ
た。


 春先の底冷えに立ちすくんでしまいそうだった。


                           


「もう・・・お姉さま、約束したのに・・・」

 お互いに荷物を持っていない方の手を繋いで歩く帰り道で、祐巳は頬をふくら
ませて見せた。


「約束通り、好き嫌いは言っていないわ。ただ、食べたい物を言っただけじゃな
い」


「祐巳が野菜を手に取るたびに、カートを遠くへ押しやろうとしていたのはどこ
の誰ですか」


「それは、たまたま同じタイミングで私も探していたものを見つけたのよ」

 一歩も譲らないその態度に半ば感心しながら肩をすくめると、どうしてだか祥
子さまは宥めるように祐巳のおでこにキスをした。


「んなっ・・・」

 顔を慌ててあげると、祥子さまは楽しそうに笑っている。いつの間にかつない
だ手と手の指まで絡み合っていた。


「今日は私が作るから。機嫌を直してくれる?」

 歩きながら、祥子さまは器用に祐巳の顔を覗き込む。どうして祥子さまは、い
つも祐巳をこんなにも簡単にどきどきさせるのだろう。自覚がないのかな。


「そんなこと言って、ご自分の嫌いなものを全く入れないつもりでしょう」

「あら。そこまでは考えていなかったわ」

「・・・・・・」

 あっけらかんとしたを覗かせて見せる仕草に、思わず吹き出してしまった。

 笑ったり、からかったり。そんなことを繰り返しながら、夕暮れの小路を帰る。
手を繋いだ二つの長い影が二人の後ろに長く延びていた。


 ふと、視線を上げると、道を挟んだ向こう側に、同じように寄り添って歩く男
女が見えた。


 どんな会話をしているのかなんて全くわからない。だけど、二人とも、一緒に
いられることが幸せなのだろうと、一目でわかる表情だった。


 視線をすぐ隣に戻すと、祥子さまはこちらを眺めていて、祐巳と目が合うと優
しく微笑んでくれた。


 それが、向こう側の二人の表情と重なって見えて、唐突に気が付いてしまった。

 祥子さまにも。心通じ合える誰かとともにある時間があったかもしれない。

『お姉さまが大学を卒業されるまでの間で良いですから』

 それが、どれだけの長い時間だったのか。どうして気がつこうとしなかったの
だろうか。


 四年間も、ただ、自分の未練たらしいわがままに、祥子さまを縛り付けて。

 大切な誰かと出会う時間まで、奪ってしまっていたのだと。

「どうしたの」

 急に黙りこんだ祐巳を不思議に思ったのか、祥子さまはまた祐巳の顔を覗き込
んだ。


「・・・いえ・・・」

「・・・・・・?」

 何とか首を振って見せたけれど、こみ上げてきそうになって鼻を鳴らしてしま
った。


「・・・かぜ、引いたのかも・・・二月はやっぱりまだ寒いですね・・・」

 苦しい言い訳かなと思ったけれど、それ以上のことは浮かばなくて。もう何も
言えなくて、俯いた。


 祥子さまの手が、痛いくらいに強く祐巳の手を握りしめていた。


                         


 夢の終わりは、静かにやってきた。

「これでやっと、統計地獄と別れられるわ・・・」

 卒業論文提出証明書を握りしめたまま、祥子さまはダイニングテーブルに突っ
伏した。


 論文自体はもうだいぶ前に提出していた様子だけれど。祥子さまの学科では、
それを同級生全員の前で発表しなければならないそうで。そのためのプレ発表会
やら、資料作りで、結局は年度末まで祥子さまは慌ただしく過ごしていた。発表
会の質疑応答までの経過を見てから評価が行われるため、提出証明書が祥子さま
の手元に届いたのは卒業式まで残り一週間という今日になってのことだった。


「学生生活最後の思い出ですね」

 紅茶を差し出しながら労いの言葉をかけると、祥子さまは突っ伏した姿勢のま
ま、視線だけを上げた。


「本当にね。後は滞りなく終わってくれるといいけれど」

 何となく、二人とも「卒業」という言葉を避けていた。

 卒業式の日が、約束した期限だった。

 もう、あと数日もすれば、二人はただの先輩と後輩に戻るのだ。でもきっと、
高等部の頃の関係には戻れない。姉妹として過ごしたあの日々にも、もう戻れな
い。確証はないけれど、想いを打ち明けたあの時に、何となくそう気づいていた。


「祥子さまは、やっぱり、小笠原グループの会社に勤められるのですか」

 ふと思いついて、そう尋ねた。将来について尋ねたのは、これが初めてかもし
れない。


「ええ。関連企業に」

 特に抵抗もない様子で、祥子さまはさらりと答えてくれた。

「祐巳は・・・」

「え・・・?」

 小さな呟きが聞こえてみつめ返すと、ほんの少しだけ、切ないような表情を浮
かべた祥子さまと目が合った。


「・・・祐巳も、忙しくなるわね。これから・・・試験も、就職活動もしなけれ
ばならないし」


 眉を下げたまま、祥子さまは微笑んだ。

 泣き出してしまいそうな。そんな表情だった。


                    


 ―――きちんと起きられるかしら。

 祥子さまは先ほどからそんなことを言いながら、目ざまし時計とにらめっこを
していた。袴の着付けは自分でできるけれど、頭の方はプロに任せるとのことで、
早朝から美容院に予約を入れているのだ。


 明日が、卒業式だった。

「朝、少し騒がしくするかもしれないけれど」

「構わないですよ。在校生は休講日ですから」

 高等部までとは違い、大学の卒業式には、在校生は出席しない。式場に入りき
らないからだ。だから、式場の外で、学部やサークルの先輩をお見送りするのが
通例だった。


 祐巳は、式場外での見送りにも行かないつもりだ。それよりも、しておかなけ
ればならないことがあった。


 何よりも。

 祥子さまの門出の日を、平常心で過ごせる自信がなかった。

「・・・・・・手を繋いでもいい?」

「え?」

 耳元で小さく囁かれて視線を隣へ向けると、祥子さまが迷子のような顔をして
こちらをみつめていた。


「もちろんです」

 頷いて、シーツの中で、自分から祥子さまの手を探し出して握った。

 柔らかくて、甘くて、少しだけひんやりとした、細い手。何度自分に触れたの
かわからないくらい、その手は祐巳の肌になじんでいた。


 軽く握って、指先でなぞって。指を絡める。そんなことを馬鹿みたいに繰り返
す。何度も祐巳を抱きしめて、包み込んでくれた優しい手のひらに、赤ん坊のよ
うな気分で甘えた。


 だけど、絡めていた指をほどこうとした瞬間、強い力で握り返されて、シーツ
に押し付けられた。


「あ、の・・・?」

 戸惑う祐巳の手の平をシーツに押し付けたまま、祥子さまは上半身を起こした。

 繋いでいなかった右手が、パジャマの釦に延ばされて、祐巳は祥子さまの意図
を理解した。


 髪を撫でられて、額に口づけられる。頬に吐息を浴びせかけてから、唇を啄ば
む。それは、いつもと同じ始まり。いつもと同じ、柔らかな触れ合いだった。


 徐々に乱れていくと息の中で、ふと視線を感じて目を開けると、祥子さまがじ
っとこちらをみつめていた。


「・・・・・・?」

 涙がうっすらとにじんだ瞳のまま、ぼんやりと見つめ返すと、祥子さまはいつ
かと同じ泣き出してしまいそうな表情で囁いた。


「・・・・・・愛してる」

 耳に飛び込んできた囁き声に、目を見開くと、祥子さまは静かに唇を寄せた。

 深く深く口付けあいながら、祥子さまの背中に腕を回すと、止めようがないほ
どに涙があふれてしまった。


 もうそれが、祥子さまの本心であっても、そうでなくても良かった。

 縛り付けて、振り回して。大切な時間を奪い続けた自分に、祥子さまは最後ま
で恨み言をもらさなかった。優しい言葉だけを贈り続けてくれた。その誠実さに、
ただ涙がこぼれた。


 それから。

 今になってやっと思い出した。

 私はこんなにも祥子さまが好きだったのに。一度だってその気持ちを口にした
ことがなかった。ただ一言を告げることすらしなかった。


 ばかだなぁ。

 苦笑いをするみたいに、やっぱり涙が出た。


                    


 朝が来て、昼が来て、夜が来る。

 その繰り返しの延長に、別れの日はやってくるのかもしれない。

「よしっ」

 運転免許を取ってから早数年。車を運転できることがこんなにも役に立つこと
だなんて今日まで知らなかった。パステルカラーの軽自動車に荷物を積み終えて
からふとそんな感想を抱いた。


(意外と入るものなのね)

 ハッチに詰め込まれた自分の荷物を眺めながら、その容量に感心する。それと
も、意外と少ない荷物だったのかもしれない。


 祥子さまの部屋で過ごした四年間は、この軽自動車に収まりきるくらいの荷物
だった。


 家具類は祥子さまが使っていたものだから、祐巳の荷物と言えば洋服と生活雑
貨くらいのものだ。食器なんかは来客の時に使うかもしれないと少しだけ迷った
けれど、整理した。一緒に過ごした時間を、目に見える形で祥子さまの前に置い
ておくのは、気がひけた。


 もう、充分だった。

 誰よりも側にいたいと、それだけしか考えていなかった祐巳に、祥子さまは望
んでいた以上の愛情で応えてくれた。いつまでも独り立ちのできない妹の面倒を
見ているに他ならなかったのだろうけれど。


「後は・・・」

 後は、整理した荷物を実家に運んで、卒業式を終えた祥子さまに挨拶をすれば、
それで終わり。退散するべく、ハッチを閉めようと腕を上げる。その際、視界の
端に光る何かが見えて手を止めた。


(ああ・・・)

 左手の薬指に光るそれは、祥子さまに買ってもらった指輪だった。

 おもちゃよりも精巧で、本物には程遠い。それでも、祥子さまにもらった大切
な指輪。


 まるで祐巳の四年間そのもののようだ。

「これも・・・もう、いらない、かな・・・」

 もちろん、捨てることなんてできやしないだろう。祥子さまにお返しすること
も、できない。だけど、それをつけたまま過ごすことは、とてもじゃないけれど
できないような気がした。


 左手の薬指に手をかけると、四年間の思い出が、大げさでも何でもなく、脳裏
を駆け抜けていくようで。目の奥が熱くなった。


 ぎゅっと力を入れて、指輪を引く抜く。すべてが外れてしまうその瞬間に、凛
とした声が辺りに響いた。


「お待ちなさい」

 あり得ないことだと思った。そんなこと絶対ないと思った。それなのに、顔を
上げると、その人がいた。


「祥子さま・・・」

 袴姿の祥子さまは、朝一でセットしてもらったであろう髪の毛を振り乱し、肩
で息をしながら、立っていた。


「こんなことじゃないだろうかと思っていたけれど・・・」

 呼吸を整えるように腕を組みながら、呆れた声で祥子さまが言う。

「どうして・・・」

「朝からどんなに話しかけても上の空だったじゃないの、あなた。一つのことを
考え始めると、他のことまで気が回らなくなる癖、ちっとも変っていないのね」


 ようやく落ち着いたらしい祥子さまは最後に長い溜息をついてから、こちらへ
歩み寄った。


「それで、何なの。この、夜逃げするみたいな車は」

 きつい視線で、祥子さまが祐巳を見据えた。こんな表情の祥子さまを見るのは、
久しぶりだった。


「だって・・・約束、したから・・・」

「・・・・・・」

「祥子さまが、卒業するまでって・・・だから・・・」

 こんな予定ではなかった。こんなにうろたえるはずではなかった。祥子さまの
顔を見てもきちんとお別れしようと決めていたのに。目の前にその人が表れた途
端に、頭が真っ白になった。


「だって・・・祥子さまも、あの時・・・卒業までだって約束した時に、頷いて・・・」

 覚えている。あの時の、祥子さまの驚いた顔も。頷いてくれた時の、虚しさと、
それ以上の喜びも。


 だから、それ以上はもう何も、いらない。

 祥子さまからこれ以上何も、奪っていいものなんてない。

「・・・そうね」

 祐巳の言葉を聞いた祥子さまは、視線をゆるめて呟いた。それから。

「本当に、あの時は馬鹿にされているんだと思ったわ」

 吐き捨てるように言った。

「何故あの時に、首を縦に振ったのかしら」

「・・・・・・っ」

 自問するような呟き声に、喉が焼けつくような痛みが走った。同時に、それ位
の言葉を浴びせられても仕方のないことをしたのだという気持ちがわき上がる。


 むしろ、迷惑なことだったと言ってほしいとすら思った。

 それなのに。

「どうして、卒業まででいいなんて言ってしまったのかしら」

 困ったような表情を浮かべて、祥子さまは深く息を吐いた。

「・・・・・・手放す気なんて、なかったのに」

「え」

 春の風が、ざあっと音を立てて駆け抜けていった。

 その風になぶられて乱れてしまった祐巳の髪を耳にかけながら、祥子さまが不
服そうに言う。


「・・・でも、あなたもあなたよ。私があれだけ気持ちを伝えているのに、全く
気付かないで。最後まで「恋人ごっこ」だと思っていたってことでしょう」


 頬に添えていた手を下すと、祥子さまは祐巳の左手をそっと握った。

「でも、私も後先なんて考えられなかったのね、きっと。あなたを繋ぎとめるこ
としか考えられなくて・・・結局、遠回りになってしまったわ」


 祥子さまの言っている言葉の意味がわからなくて。

 ううん。

 言っていることが信じられなくて。

 胸の奥から突き抜けてくる激しい心音に、ただ茫然としていると、祥子さまが
怒ったような顔で言った。


「まだ、わからないの」

 大きな声に驚いて肩を震わせると、祥子さまははっとしたように顔を強張らせ
て、それから、うなだれる様に祐巳の左手を持ち上げて、額をこすりつけた。


「・・・・・・側にいて、ずっと・・・」

 ずっとずっと、薄い氷の上を歩いているみたいだった。いつ壊れるのだろうと、
そんなことばかりを考えていた。


 それが、祥子さまの言葉で一瞬にして壊された。

 でも。

 足もとは崩れ落ちて行ったりなんてしなかった。

 私はしっかりと立っていて。

 目の前には、祥子さまがきちんと立っていた。

 繋いだ手は、離れてなんていなかった。

「本当に・・・?」

 ばかみたいに思わず確認してしまうと、祥子さまは涙目のまま不貞腐れた表情
を作って言った。


「生涯最後かもしれない卒業式をすっぽかしてまで、冗談なんて言いに来ないわ
よ」


「ああ・・・!!卒業式・・・っ・・・い、今ならまだ・・・っ」

 このまま天にのぼって行っちゃいそうだった気分が、一気に撃ち落とされた。
そうだった。忘れていたわけじゃないけれど、普通ならば今はまさに、卒業式真
っ最中なのだ。


「構わないわよ。それに、途中入場なんてできないでしょう」

 出席しなければ、証書を貰えないわけではないからと、祥子さまは軽い調子で
そんなことを言う。


「でも・・・」

「それもこれも、あなたのせいでもあるのだから、責任をとりなさい」

「ふえっ!?」

 怖い顔でそう凄まれると、瞬く間にそんな気持ちがしてくる。だけど、責任と
いうと。目の前の軽自動車で、大学まで送って行くこと位しか思いつかない。証
書を貰うにはどちらにせよ大学へ行かなければならないし。式の後には謝恩会の
段取りだってあるだろう。そんなことを考えながら見上げると、祥子さまはいつ
の間にか優しい微笑みを浮かべてこちらをみつめていた。


「これを受け取ってくれる?」

 鞄の中から取り出した箱を開けながら、祥子さまが囁くから。舞い上がってし
まいそうになりながら、覗き込んだ。


 それは、以前お揃いで買ってもらったものとそっくりの指輪だった。

「・・・芸がないなんて言わないでね。あなたの好みがどんなものかわからなか
ったのだから・・・」

 
唇を尖らせてそう言うと、祥子さまは箱からそれをとり出して。

 祐巳が外しかけた指輪をしっかりとはめなおしてから、その上に、新しい指輪
をはめてくれた。


「私は、今までの四年間も、これから先も。すべてを祐巳と一緒に在りたいの」

 今までを捨てることなんてできない。それ位祐巳にとっては大切なものを、祥
子さまも同じように思っていてくれることがうれしくて。


「あなたは?」

 穏やかな問いかけに、声にならないままに頷いた。

 桜の蕾はまだ固くて。

 だけど、祥子さまの腕の中で、確かに春の息吹きが感じられて、泣いた。

「・・・ばか」

 腕の中で泣き喚く祐巳をしっかりと抱きしめながら、祥子さまは照れている時
のような声で呟いた。


 本当に。なんて馬鹿だったのだろう。恥ずかしくて、うれしくて、安心して。
いっぱい涙が出た。


 馬鹿な自分ごと抱きしめてくれる祥子さまが大好きで。

「だいすき、さちこさま」

 それは、生まれて初めての心からの告白だった。



                          END




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