サンセット



(・・・・・・何だっけ・・・?)

 更衣室やシャワールームのあるクラブ棟の裏手で、コンクリートの壁にもたれたま
まはるかは気だるく目を閉じた。どうしてこうなったのか思い出すのも面倒で、こち
らへ身体を押し付けている女の子を抱き返したりすることなく、ジャージのポケット
へ手を突っ込む。


(ああ・・・)

 カサリと音を立てて、右手に当たった袋のおかげで思い出した。ポケットの中には
ビスケットならぬクッキーがたくさん。叩いたら増えて粉々になっちゃうよね。どう
せ捨てちゃうんだし、この子の目の前で試してみようかな、と思いつくよりも前に握
り潰してしまった。布地越しにぐしゃりとつぶれる微かな音と、細かな破片が突き刺
さるような感覚。


 僅かに首を傾けるはるかにしがみ付くようにして唇を寄せるその子の名前なんて知
らない。


 すぐ側にある首筋から。はるかの髪をかき乱す手元から。甘ったるい臭いが漂って
きて、うんざりする。振りまきゃいいってもんでもないでしょ。


(・・・・・緩いなー・・・)

 時折押し付ける角度を変える唇は僅かに綻んでそこから吐息が漏れている。

 きっと、どこもかしこも簡単に開くんだろうな。

 冷えていくような感覚の中で、薄く目を開くと、女の子の髪の毛がぼんやりと映っ
た。


 突っ込みたくて仕方がなくなるような衝動を持ち合わせているわけでもないはるか
に、それは心地よくも何ともなく、湿っていくような唇が煩わしい。粘着質な音を立
て始めた行為に飽き飽きとして、押し付けられた唇の上辺を軽く挟み込んで見せた。


「・・・っ」

 その瞬間に女の子は弾かれたように顔を後ろへ退く。焦点が定まる距離で眺めたそ
の子の頬がひどく上気していて笑い出しそうになった。


「・・・差し入れ、どうもありがとう」

 突き放すように肩へ軽く手のひらを触れさせると、どうしてだかその子がはにかむ
ものだから、馬鹿馬鹿しくなって一瞥も送らなかった。



                              


「はるか」

 遠く籠ったような声が聞こえて、はるかは車の下から顔をのぞかせた。

「そろそろお腹がすく頃だと思って」

 急に広がった視界のまぶしさに目を細めながら眺めた先に、紙袋を掲げてこちらへ
屈みこんでいるみちるがいた。


(・・・・・・人の世話が好きなのかな)

 彼女の持って来てくれたパンをかじりながらそんなことを考える。河川沿いのブロ
ックの上へ座り込むはるかの横に、彼女はお上品に腰をかけてストローを口に含んで
いた。


「あのさー」

 パンにはさみこまれたレタスを齧りながらちらりと視線を向けると、しばらくして
から彼女と目があった。


「毎日めんどくさくない?」

 ぼそぼそと呟いてまたパンをかじるはるかを、彼女は不思議そうに眺めていた。

「・・・部活とか、習い事とか、忙しいんだろ、君」

 ジュースのカップを持つのとは反対の手が、膝の上に乗せたヴァイオリンケースに
添えられている。この前は大きなトートバッグを肩から提げていた。いいところのお
嬢様みたいだし、暇じゃないよな絶対。とりとめもなくそんなことを考えながら見返
すと、彼女は一瞬だけ目を丸くして、すぐに苦笑の形に眉を下げた。


「そんなこと言っていられないでしょう?今は」

 優しく緩められた目元が一瞬だけ切なそうに揺れる。それをみつけてやっと、自分
の無神経さに気がついた。


『私にだって、ヴァイオリニストになる夢があるわ』

 はるかにだって、モータースポーツへの夢がある。けれど、自分の努力や挫折なん
かとはまったく関係のない理由で、それは停滞している。彼女もそうだ。自分に置き
換えてみるまでもなく、それがどんなに口惜しいことか、口に出すよりも前に気がつ
けばよかった。


「そうだけど・・・」

(・・・でも)

 疼くような心臓の音は、傷みに似ていた。でも、それは彼女への申し訳なさからだ
けじゃないような気がする。


(それって・・・)

 みちるの痛みには鈍感なのに、自分のことにはどうしてこんなにも過剰に反応して
しまえるのだろう。


「それじゃあ、僕の世話焼いてくれるのは、お仕事だからなんだね」

 おまけに、それを心にとどめることもなく口に出してしまった。

 一秒も考えることなく発せられた言葉をまともに浴びせられたみちるはもう一度、
今度は大きく目を見開いた。


「はるかに食事をさせるのが?」

 それから、はるかの顔と、はるかが手に持ったパンとを交互に眺めながら首をかし
げてみせる。視線を注がれると何となく居心地が悪くなるように感じて、手にしたパ
ンに齧り付いてから、彼女から顔を背けた。


「違うわ」

 はるかの仕草にため息交じりに笑い声を零してから、みちるはそう言った。

「だったら何?」

 何でこんなに食い下がってんだろ。義務感からじゃないよって言って欲しくて仕方
がないみたいじゃないか。それよりももっと別の、はるか自身への執着があるからだ
って期待しているみたいじゃないか。


「・・・趣味、かしら・・・?

 ちらちらと盗み見ると、視線をそらせたままのはるかを眺めることに飽きたのか、
前へ向き直ったみちるは少しだけ考えるように視線を上へ向けてから、そう呟いてス
トローを口に含んだ。


「どんな趣味だよ、それ」

 曖昧な返答にぶっきらぼうな声になると、彼女はおかしそうに笑った。

 はるか達の前を、時折自転車やバイクが駆け抜けていく。何とはなしにそれを眺め
ていたら、唐突にみちるが言った。


「・・・はるか、香水付けてるの?」

「え?ううん」

 飲み終わったカップを脇に置いた彼女が、前へ屈むようにしてこちらの顔を覗き込む。

(そう言えば、なんかすっごい香水の臭いさせてたよな、あの子)

 頭痛を引き起こさせるような臭いを思い出すと、胸やけがした。でも、香りがいつ
までも残る程くっついてたつもりもないんだけど。


「・・・ふうん・・・?」

 グロス付いたりしてないよな、と親指で唇を軽くこすっていると、みちるはどこか
怪訝そうに首をかしげた。


(・・・別に知られたからって何もまずいことなんてないけど)

 そのはずなのに、みちるの僅かな仕草に焦ってしまいそうになる。それに気がつく
と、尚更動悸が絡まりあってこみ上げる。彼女にどう思われようが構わないのに。


「・・・みちるは付けてるよね」

「え?」

 気持ちを落ちつけようと息を吐きだしてから向き直ると、みちるが驚いたように目
を丸くした。その様子のおかげで少しばかり持ち直す。


「だって」

 だって、ほら。相手がうろたえたりすると、冷静になれることって多いでしょ。彼
女が身構えるよりも前に手を伸ばしてその髪に触れた。


「いっつも、いー匂いする」

「・・・・・・っ・・・」

 からかうだけのつもり。みちるだって、はるかのふざけた行動に、眉をしかめて適
当に受け流すはずだと思ってた。それなのに。


 目の前で、華奢な肩が大きく跳ねる。瞬く間に白い頬に朱色が走る。言葉を探して
唇が震えている。


 その光景に、焦りとは違う、大きな音が身体のどこかから聞こえてくる。打ち付け
られる鐘のような音だった。


「・・・・・・」

 はるかの指から逃れるように、みちるが顔をそらせて俯いた。その動きに合わせて、
指先から髪が滑り落ちていく。その髪が元の位置へ戻る一瞬、耳元も赤く染まってい
たのが見えた。


 手のひらが汗ばみそう。息が苦しくなる。

 でも。

 みちるも多分、同じくらい戸惑っているのだと思うと、少しだけ頬が緩んだ。



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