きよしこのよる




「あ」

 薔薇の館に向かう道中、祐巳はずっと自分を抱きしめるように縮こまって寒さに
耐えていた。


(寒すぎる・・・)

 それはもう思わず泣き出してしまうくらいに、身体の芯から冷たい。裸の枝葉も
寒々しく揺れている。木枯しが吹くとはうまくいったものである。『今年の冬は暖
冬だ』なんてここ数年毎年聞いているけれど、一度だって今年の冬は暖かいななん
て思ったためしがない。地球規模で見れば温暖化だが、祐巳の個人レベルで考えれ
ば冬は寒いと言う結論に達するだけだ。


「あ」

 突き刺さるように冷たい風が耳の横を吹き抜けていくと、どこかからの歌声まで
も一緒に運ばれて通り過ぎていった。


(聖歌隊の練習かな?)

 微かだけれど吹き抜けていく風に乗って讃美歌が聞こえてくる。小さい頃から聞
いているからどこか童謡のような感じもするけれど、本当に奇跡が舞い落ちてきそ
うな荘厳な旋律のそれは、この時期になるとどこへいっても聞こえてくるような定
番のクリスマスソングだった。


「・・・・・・あ」

 そよぐ歌声にしばらく耳を傾けていた祐巳は、そこまで考えたところで今度は寒
さのせいではなく硬直した。


(クリスマスって・・・うわ、うわ、うわ・・・)

 今年こそは忘れないって熱く決意していたのに。

 絶対の絶対に覚えておこうって決めていたのに。

 今の今までスコーンとすっぱりさっぱり忘れていた。でも、その期日が迫ってい
るだけで、過ぎてしまったわけではない。だから、取り返しのつかない失敗ではな
いけれど、それでも目前まで手を付けていなかったのはかなり痛い。いやいや、こ
こで落ち込んでいる暇はない。祐巳はぐっと拳を握り締めて決意を新たにした。


 何をって。

 ―――今年こそ、祥子さまにクリスマスプレゼントを贈るのだ。


                    *


 最早リサーチ期間はない。何より小笠原祥子さまへのプレゼントなのだから、下
手に高級なものを探しても、かえって陳腐に見えてしまうだろう。


「・・・で、手編みのニットでも作るわけ?」

 祐巳の前側の席に腰を掛けた由乃さんが気だるそうにおさげ髪の先をいじりなが
らそう呟く。


「まさか」

 手を動かしたまま、祐巳は思いっきりため息をついた。
 確かに編み棒と毛糸は用意しているけれど、ニットなんて作っている時間はない。
自慢ではないけれど、生まれてこの方、きちんと編み物をしたことはないのだ。
そんな人間がいきなり衣服を作るなんて高度すぎる。その上祐巳は器用な方ではな
い。ニットやセーターにチャレンジして、連日涙目になっている自分が簡単に想像
できるってものだ。


「ふぅん・・・じゃあ、マフラーかしら?四角いし」

「はずれ。もっとささやかなもの」

 編み始めの裾をつまんでひらひらさせている由乃さんにとりあえずは首を振って見せ
たら、「じゃあ、何?」なんて更に突っ込まれたものだから、祐巳は素直に白状した。


「ブックカバー」

「ぶっくかばぁ?」

「うん」

 マフラーでもいいかなと思ったけれど、祥子さまはもうお持ちのようだし。同じ理由
で手袋も却下。そうなると、毎日使うものと考えて考えてやっと出た結論がブックカバ
ーだった。

 読書家の祥子さまはいつでも鞄に何かしら本を携帯している。ブックカバーなら、た
とえ持ち歩く本が変わったとしてもいつだって持っていてもらえるだろう。そう思って
のことだった。


「なるほどね」

 納得したという風に、由乃さんはにやりと笑ってから指先でつまんでいた毛糸布の裾
を離した。


「じゃあ、今年のクリスマスは楽しく過ごせそうね」

「へ?」

 机に肘をついて手の平に顎を乗せた由乃さんがいたずらっぽく微笑んでそんなことを
言うから、祐巳はおなじみの間の抜けた声を上げた。


「だって」

 由乃さんは祐巳の反応に目を瞬かせると、手の平に顎を乗せたまま首を傾げた。

「祥子さまと過ごすんでしょう?クリスマス」

 その時に渡すんじゃないの?って由乃さんは不思議そうに尋ねたけれど。

 そうか。

 クリスマスだもの、大好きな人と過ごさなきゃ。

 目からうろこが落ちると同時に、一瞬にして祐巳の胸に闘志が湧き起こった瞬間だった。



                    *


25日?お父さまとグループのパーティに出席する予定だけれど・・・」

 昼休みの中庭で、祥子さまと祐巳の間に「ひゅるる・・・」と音を立てて北風が吹き
ぬけた。


「何か用事?」

「い、いいえ・・・」

 小首を傾げてみせる祥子さまに、それ以上は何も言えなくて祐巳は曖昧に首を振った。

(じゃあ、プレゼントは24日に渡さなきゃ・・・)

 まぁ、提出期限が一日早まったところで特に問題はないはずだ。それにプレゼントは
イブにもらうものだし。だから、いつもなら幸せいっぱいな、薔薇の館まで二人並んで
歩く道のりが、こんなにも重々しく感じるのはそのせいじゃない。


 クリスマスは祥子さまと一緒に過ごせないんだ。

 とぼとぼと歩きながらそんなことを考えると、祥子さまが隣にいるのにとてつもなく
寂しくなった。

 そりゃ、クリスマスを一緒に過ごしたいなって、ずっと前から心に決めていたわけで
はないけれど。半ば思いつきの勢いみたいな提案ではあるけれど。一緒に過ごせないこ
とが現実に決定されてしまうと、もうどうしようもないわけで。


「・・・冬休みの宿題でもみてほしいの?」

「へ?」

 唐突な言葉に思わず間の抜けた声を出してから顔を上げると、祥子さまが先程と同じ
ようにきょとんとした顔で首を傾げていた。


「・・・・・・・・・いえ」

 これは。

「そう?ならば、どうしてもわからなくなった時は電話していらっしゃい」

「はぁ・・・」

 もしかしなくても。

「あの、お姉さま?」

「なぁに?」

 しかし、もしかしたら祐巳の思い間違いかもしれない。そう言い聞かせて祐巳はおず
おずと遠まわしに確認してみる。


「えっと・・・山百合会のクリスマス会・・・た、楽しみです、ね?」

「ええ。24日は早くいらっしゃいね」

「・・・・・・」

 やっぱりだ。
 祥子さまは祐巳の問いに何の疑いも無く、美しい微笑を浮かべて答えた。

「・・・・・・」

「あら」

 漫画の背景のようにずーんと暗い影を背負って一人落ち込んでいる祐巳には気づかな
いのに、祥子さまは頬をなでる風に気づくと天を仰いだ。


「聖歌隊かしら?」

「え・・・」

 校舎の方を振り返りながら呟く祥子さまの声に祐巳も耳を澄ませると、この間のよう
に風に乗って聖歌隊の歌声が運ばれてきた。


「どこもクリスマス一色ね」

 そう言ってくすりと笑うと祥子さまは祐巳の手をとって歩き始めた。

24日、楽しみね」

(お姉さま・・・)

 お姉さまの中では24日がクリスマスイベントの日であるらしかった。


                    *


「彼女ほしい」

「「ぶっ」」

 福沢家のリビングに、姉弟の吹き出す声がきれいに重なって響いた。

「何言ってんだ、小林」

 吹き出した際に口に含んでいた緑茶まで吹き出したらしい祐麒がスウェットの裾で口
元を拭いながら、訪問者の青年―――小林くんに突っ込んだ。


 ちなみに言えば小林くんがふらりと遊びにやってくるのは、いつものことで。約束も
なく急に思い立ったように来るのは男の子ならではといったところなのか。その上休日
の昼下がり、祐巳と祐麒がおやつを頬張っている最中を狙ったかのようなタイミングで
の訪問だ。


「ユキチよ、世間一般ではもうクリスマスシーズンなんだぞ?」

「だから?」

 祐麒と同じように緑茶を吹き出した祐巳が、鋭意製作中のブックカバーに水滴が掛か
っていないか検査していると、小林くんは続けざまにそんなことを言い出した。


「町を歩けばカップルだらけ。独り身には寂しい季節なわけ」

「つまり、お前は寂しさを紛らわすために女を作るというわけか」

 弟とその友達がなんだか男の子な会話を始めたので、祐巳はブックカバー作りを再開
しつつしっかりと聞き耳を立てた。いや、別に興味深々ってわけではないけれどこうい
う時でないと、聞けないような話であるからして。


「ノンノン。ただ、寂しいわけじゃない。クリスマスというビッグイベントを成功させ
るためには、恋人と過ごせるかどうかが重要なのさ」


(うへぇ・・・)

 坊ちゃん刈りのヘアスタイルはともかく、だぼだぼのパーカーにずるずるのジーンズ
を身にまとった小林くんがそんなことを言うと、「いかにも」って感じがしてちょっと
ひいてしまった。


(・・・だって、それじゃ彼女じゃなくて、ただのイベント道具じゃないのよ)

「本末転倒だな」

 案の定、祐麒が顔を顰めて反論した。

「クリスマスを無事やり過ごすために彼女を作るんじゃなくて、彼女がいるからクリス
マスを一緒に過ごすんだろ」


「頭固いなぁ祐麒は。祐巳ちゃんは僕の気持ち、わかってくれるよね?」

 まともに正論で返された小林くんは頭を掻きながら、あろうことか祐巳まで巻き込も
うとする。


「祐麒が正しい」

 頬の横で両手を合わせながら小首を傾げる小林くんには申し訳ないけれど、そこはき
っぱり否定。


「ほら見ろ」

「うぐ、厳しいな福沢姉弟は」

 よよよと泣き崩れるまねをする小林くんに向かって、祐麒がとどめにクッションを投
げつけるから、あっという間にプロレス一歩手前のじゃれあいが始まって、祐巳は笑い
転げてしまったけれど。

 手に持ったままのブックカバー(製作中)がじんわりと暖かくて。

『彼女がいるからクリスマスを一緒に過ごすんだろ』

 その温もりと祐麒のさっきの言葉が、祐巳の胸にぽっと小さな熱を灯した。

 クリスマスだから誰かと一緒にいたいわけじゃない。

 祥子さまとだから一緒にいたいんだ。

 その熱に応えるように心の中で呟くと、賛成の拍手が沸き起こったみたいに、そこか
ら鼓動のさざめきが全身に広がっていったのだった。



                    *


 薔薇の館の住人が鼻歌交じりなのは、期末試験が終わったからでも、冬休みが間近に
迫っているからでもない。

 会議用のテーブルに六人総出で腰掛けて、各々の手にははさみや折り紙、のりにカラーテープ。

「由乃、カラーテープ使いすぎ」

「何よ、けちくさい」

「志摩子さん、その小さいの何?」

「リースの葉よ」

「ええ?もしかして一つずつ折るの?」

 みんな気分は工作をする幼稚園児。

「去年のものもあわせたら、すごい量になりそうですね」

「いいじゃない。沢山あった方が楽しいわよ」

 山百合会の面々が熱心に工作しているのは、もうすぐ行われるクリスマス会用の飾り。
去年度も薔薇さま方が嬉々として作っていたっけ。三角帽子を頭に乗せて、にこにこ顔
でオーナメントを製作していた蓉子さまの姿が浮かんできた。


「紅薔薇さま、クリスマスはどうするんですか?」

 由乃さんがそんなことを言い出したのは、祥子さまが去年度の蓉子さまと同じように
小さな子どもみたいな顔をして、志摩子さんと一緒にリースの葉を折り始めたときだった。


「クリスマス?」

 きょとん。緑色の折り紙をつまんだまま首を傾げる祥子さま。

「ええ、イブは薔薇の館でクリスマス会をしますけど、当日はどうされるのかなと思い
まして」


 言いながら、由乃さんはちらりと祐巳の方を見た。

(よ、よしのさん・・・)

 そうか。もとはと言えばクリスマス当日を祥子さまと過ごせたらななんて思うにいた
ったのは、由乃さんの一言がきっかけなのだった。だけど、由乃さんは祐巳が玉砕した
ことを知らないわけで。


25日は家の用事があるの」

「え?」

(あちゃー・・・)

 おっとりと答える祥子さまに、由乃さんは目を見開き、祐巳は額に手を当てた。

「い、一日お家で過ごされるんですか?」

 祐巳の様子に、何かを察したらしい由乃さんは、もしかしなくても親友の情から、祐
巳の代わりに祥子さまに食い下がった。


「?いいえ、会社のパーティだから夜から出かけることになっているわ」

 祐巳に言ったと同じことを祥子さまは繰り返す。それでも由乃さんはめげずにもう一
押し。


「それじゃあ、それ以前はお家でご家族と・・・?」

 『ええ、そうよ』と続けるはずの祥子さまは、祐巳の視線の向こうで幸せそうに微笑
むと、予想とはまったく違うことを言った。


「午前中はお姉さまと約束をしているのよ」

(え?)

「蓉子さまと・・・?」

 今度は由乃さんと一緒に祐巳まで目を見開いてしまった。それなのに、祥子さまは二
人の様子に気付くこともなく、にこやかに言葉を続ける。


「ええ。せっかくクリスマスだから、一緒に昼食を取りましょうと言うことになったの」

「・・・・・・」

「予定といったらそれくらいね。冬休みになるからのんびり過ごせそうだわ」

 幸せにまどろむようにもう一度微笑んで作業を再開した祥子さまの向かい側で、由乃
さんが気まずそうに片目を瞑って見せた。祐巳も不自然にならないように笑って応えた
けれど、祥子さまはそんな二人のやり取りになんて気付かない。

 そこで何となく、クリスマスの予定についての話題は打ち切られて、お菓子の話や新
しいカフェの話なんかが黄薔薇姉妹や白薔薇姉妹の間で繰り広げられていたけれど、祐
巳はその中に入ることも無く、祥子さまの横で黙々と作業を進めた。


 リースの葉を折り紙で作りながら、胸焼けがしてきてそっとため息を吐き出す。

24日、楽しみね』

 祥子さまはそう言ってくれたけれど。

『せっかくクリスマスだから』

 なんだ、ちゃんとわかっているんじゃないか。
 そんなことを思ってしまった。
 だって。

 祥子さまは、25日がクリスマスだってきちんと自覚した上で、蓉子さまと過ごすと言
っているのだ。


 蓉子さまにやきもちを焼くなんて、おこがましいにも程があることぐらいわかってい
る。祥子さまが祐巳を大切に思ってくれていることも。だからといって、祐巳のことば
かり考えて生きているわけではないことも。それでも。


『せっかくクリスマスだから』

 どうして祐巳にはそう思ってくれないのだろう。

 ちりちりと焼ける感触を覚えて胸に手を当てると、その拍子に傍に置いていたバッグ
に腕が当たって、中身が擦れる音が微かに聞こえた気がした。



                   *


「で?祐巳ちゃんは怒って祥子と口もきいていないと」

「そんなこと・・・」

「わかってるって。実際そんなことできそうにないもんね、きみ」

「はぁ・・・」

 何で自分はこんなところにまで来て、聖さまにからかわれているんだろう。大学のカ
フェテリアで聖さまと向かい合って座ったまま、祐巳は情けなくため息を零した。

 山百合会の召集もない放課後、どちらにせよ薔薇の館へ赴くけれど、時間が決まって
いないこともあって、祐巳は少し遠回りをすることにした。いそいそと祥子さまに会い
に行く気にもなれない。実際、あの話を祥子さまがしてからというもの、祐巳は祥子さ
まとあんまりお話をしていなかった。


 腹立たしいのか、悲しいのか。どちらにせよそんな感情を祥子さまにぶつけてしまう
ことも、察せられることすら恐れ多くて、祐巳は何も言えなくなる。


 校舎と薔薇の館の間にある中庭を通る際に聞こえてくる、聖歌隊の歌声もどこか空々
しくて、殊更にそこから足を遠のかせた。

 だけど、高等部と大学の敷地の中間にある庭園を歩いていたのに深い意味等ないつも
りだった。


『祐巳ちゃん』

 それなのに、その声が聞こえた途端、祐巳は安堵のために思いっきり頬を緩めてしま
った。どこがで期待していたのかもしれない。その人に会うことを。


「どちらかというと、涙を堪えてひたすら手編みのセーターに思いを託すタイプ?涙で
編み目が見えないとか何とか」


「・・・ブックカバーです」

「あ、そう。でもさ、別にクリスマスは恋人たちがいちゃイチャする日じゃないよ。イ
エズスさまの生誕を祝う日なんだから」


 聖さまはおかしそうに笑いながらも、それ以上そのことを追求しようとはせず、優雅
にコーヒーを口に運んだ。自販機のカップだけれど十分様になっている。

 その様子を眺めながら、少しばかり後悔の念が浮かんでくる。

 結局のところ、これは愚痴なのだ。

 先輩とはいえ、たまたま通りかかっただけの聖さまに、祥子さまがクリスマスを蓉子
さまと過ごすと言っていることを話したところで、不満の垂れ流しにしかならない。


「祥子もそう言うこと気にしなさそうだもんなぁ」

「・・・ちゃんと『クリスマスだから』って言ってましたけど」

 ほら。せっかくの聖さまのフォローにすら、唇を尖らせてしまう。

「そんな顔しないの。本当にそう言うところは変わっていないね祐巳ちゃん」

 後輩の少々失礼な態度に機嫌を損ねることもなく、聖さまは人差し指で祐巳の頬っぺ
たを突っつきながら、優しく宥めてくれた。


「変なところで自信がないの、良くないと思うけどなぁ」

「だって・・・」

 だって。

 せっかくクリスマスなのに。祥子さまと過ごせない。

 それどころか、祥子さまは祐巳と過ごそうとも思ってくれていないのだ。自信のある
ないは関係ないと思う。


「・・・お姉さまは別にクリスマスを過ごすの、私とじゃなくても良いみたい」

 他の学生たちの談笑のざわめきにかき消されそうな程に小さな声でぼそぼそと呟くと、
やっぱり言った直後に後悔してしまったけれど。不満の核心はそれなのだと改めて感じ
させられるくらいに、その言葉は祐巳自身の胸に突き刺さるように返ってきた。


「ふぅん・・・」

 祐巳の声が聞こえたであろう聖さまは、気だるそうにそう呟くと、髪をかき上げなが
らゆっくりと顔を上げた。


「つまり、祐巳ちゃんはイベントを楽しみたいわけだ」

「え?」

 思わず聞き返してしまうくらいに驚いたのは。聖さまの言葉が予想もしなかったこと
であるせいだけではない。


 先ほどまでよりも幾分か冷たい感じのする声と、見覚えのある表情。

『祐巳ちゃんの自己満足に水をさすのも野暮だ』

 自分はまた何か、間違えてしまっているのだろうか。

「まぁ、それも悪くはないけどね」

急激に駆け上がっていく心音を耳の奥に感じながら、みつめあった姿勢で固まっている
と、聖さまは短く息をついて立ち上がった。


「そんなことで嫌われるなんて思いもつかないでしょうね。祥子は」

 祐巳から視線をはずした聖さまは、空になったカップを摘まんで、近くのゴミ箱へ落
としながら、そっけなく呟く。


『彼女ほしい』

 その様子を目にした瞬間、いつかの小林くんの言葉が思い出されて。

「―――・・・・・・っ」

 一気に頬へ熱が集中した。

(私・・・・・・)

 急激に襲い掛かる恥ずかしさに、戦慄きそうになる口元を押さえていると、こちらへ
向き直った聖さまとまた目が合った。


「私はね」

 聖さまは、祐巳のそんな様子を見てもまったく動じることなく、ただ静かに微笑んで
言った。


「気が付いたら『そういう日』だったって、一緒に笑い合える相手がいいな」


                    *


「祐巳、物置の荷物の確認をしたいから、手伝ってくれる?」

「あ、はい」

 クリスマス会も二日後に迫った放課後、祝日の明日はお休みだから、本格的な用意は
当日にするとしても、細かな作業は早い方がいいということで、今日の山百合会の活動
内容はイベント設営だ。


「去年使った飾りだから傷んでいるかしら?」

 楽しそうに微笑みながら、祥子さまは木製の階段を僅かに軋ませながら下りる。

 部活や委員会のない祐巳が薔薇の館へ一番乗りするのは珍しくないことで。今日も無
人の会議室の掃除を一通り終えても、誰かが来る気配はなかった。



 今は何も持っていない右腕を左手でそっと抑えると、この寒いのになんだか汗ばんで
いるような気がした。自分の足音が嫌に大きくぎしぎしと聞こえる。



 これといってすることも見当たらなくて、手持ち無沙汰になった祐巳は、いつもの席
に腰掛けると、ここ最近の習慣のように、手にしたバッグの中身を取り出した。

 聖さまに愚痴を聞いてもらってからは、それ以前よりも更にもやもやとした気持ちの
ままで、それでも手は休めずに編み続けていた。心持ち、網目がまばらに見えるのは、
気持ちの表れのような気がしないでもない。


(はぁ・・・)

 それでもやめるわけにはいかないし。
 別に誰に強制されているわけでもないのに、祐巳はまた編み棒を手にする。完成まで
あと少し。今日の夜には一応ブックカバーの形になるはずである。


『つまり祐巳ちゃんはイベントを楽しみたいわけだ』

 ゴールは目前なのに、作業に取り掛かると同時にこの間の聖さまの言葉が思い出され
て、居た堪れなさに手が止まる。


 祥子さまはどうして、クリスマスを祐巳と過ごしたいと思ってくれないんだろう。

 そんなことを考えて、拗ねていた自分が居た堪れない。
 それなのに、聖さまにそれを指摘されるまで、祥子さまへの憤りにすり替えていた自
分が恥ずかしくて仕方がない。


 だって。

『彼女ほしい』

 そう言った小林くんに反発を覚えていたはずの自分こそ、正に同じ気持ちを祥子さま
に向けていたのだから。


(・・・最低かも)

 そっとため息をつくと、一緒に涙まで零れてしまいそうになる。お姉さまへ贈るプレ
ゼントを作っているというのに、気持ちはどん底で。

 そんな風に、鬱屈とした気持ちでうなだれていたから、祐巳は階段が軋む音に気が付
かなかったのだ。


「ごきげんよう、祐巳」

「え!?うわ・・・っ」

「・・・『うわ』?』

 突然扉の向こうに現れた祥子さまに、素っ頓狂な声を上げて驚くだけならまだしも、
手にしたブックカバー(完成間近)を慌ててバッグに突っ込み後ろ手に回すという、不
審極まりない行動をとり、少しだけ白い目で見られたのだった。



「祐巳?」

「あ、は、はい!?」

 階段を降りきった扉の前で祥子さまが突然立ち止まって振り返るから、先ほどまでの
言動の一人反省会をしていた祐巳はそのままぶつかりそうになってしまった。


「どうしたの?」

「え?いえ・・・」

「そう?さっきからなんだか落ち着きがないから・・・」

 ドアノブに手をかけながら祥子さまは少し考えたように視線を遠くへ向けて、もう一
度呟く。


「さっき、というよりは最近かしら」

「え?」

 まるで天気の話でもしているかのように、さらりと言い残して祥子さまは部屋の中へ
入る。


「お姉さま?」

 身体がスーッと冷えていくような感覚を覚えながら、祐巳も慌てて後へ続くけれど。
日が落ちていく時刻の一階は、電気がついていないと薄暗くて。少し離れた位置にいる
祥子さまのお顔をはっきりと窺うことができない。


 視線の先に映る窓には、夕闇の蚊帳が張っていた。

「あの・・・」

 すぐ傍に歩み寄り、見上げた祥子さまの表情は、少しだけ翳って見えた。その表情の
まま、祥子さまがゆっくりと口を開く。


「もしかして、私のことを避けているの?」

「え・・・・・・?」

 一瞬、何を言われたのかわからなくて。

『いつから、私のことを顔も見たくないぐらい嫌いになったの』

 それなのに、自分で意識するよりも前に、以前すれ違ってしまったときの祥子さまの
言葉が頭に鳴り響いて、今がどういう状況なのかわかってしまった。


「ち、ちが・・・」

「最近はあなたと二人で話すこともないし、さっきだって、どうして私の姿を見ただけ
であんなにうろたえるのかわからない」


 祥子さまの言葉に、がたがたと足元から震えてぐらついてしまいそうだ。だけど。

『祐巳ちゃんの自己満足に水をさすのも野暮だ』

 あの時と。

『祐巳ちゃんはイベントを楽しみたいわけだ』

 今と、一体どう違うというのだろう。

 祥子さまの気持ちも考えずに。自分ひとりで思い上がって。

 祥子さまにここまで言わせてしまう自分が情けない。

 あの時と同じように、祐巳は俯き縮こまり、大切な人をぼんやりと瞳に映すしかでき
ない。


「だからといって、嫌いになったのかなんて詰め寄るつもりもないわ・・・あなたには
あなたの考えがあるのだろうし」


 それとは対照的に、祥子さまはあの頃よりもずっと穏やかな眼差しを祐巳に向けて、
静かに言葉を重ねた。


「だけど、言いたいことがあるのならおっしゃい・・・隠し事だって、私は嫌い」

 わめき散らすわけでも、ヒステリックに叫ぶわけでもなく、祥子さまはそれだけ告げ
ると、「これで話はおしまい」という風に祐巳から視線をはずした。


「お姉さま・・・」

「これは当日運ぶ方がいいかしらね」

 縋り付くような呼びかけも、祥子さまは穏やかな声で遮る。窓辺の床の上に置いた、
クリスマス用の荷物が入った段ボール箱に視線を向けたまま屈みこんだ祥子さまの横顔
が薄闇の中に溶け込んで見えて、一層胸が苦しくなった。


 どうして、自分は一年前と同じことを繰り返しているのだろう。

 祥子さまはあの頃よりもずっと落ち着いて相手の目を見られるのに。

 そんな風に。穏やかな祥子さまの横顔に、涙が滲んで溢れてしまいそうだ。

「こっちは今のうちに運んで整理しておこうかしら。祐巳、そっちを持ってくれる?」

 滲んでしまった部屋の中で、祥子さまが先ほどまでと変わらない声で、祐巳を呼ぶ。

「・・・はい」

 ひっくり返ってしまいそうな声でそれだけ答えると、祐巳は俯いたまま言われたとお
り、祥子さまが持っているのとは反対側に手をかけたけれど。


「・・・・・・っ」

 力が入らなくて。
 無理に力もうとすると間違いなく涙が出てきそうで。

 そこから動けなくなってしまった。

「祐巳?」

 箱に手を掛けたまま動かなくなった祐巳に、祥子さまは訝しそうに首を傾げた様子だ
ったけれど。気まずさから顔を上げることもできない。


「・・・ごめんなさい」

 ただそれだけ言うのがやっとで。祐巳はそう告げると力が抜けていく感覚に抗うこと
もせずに、ずるずるとその場にへたり込んでしまった。


「どうしたの」

 急に座り込んだ妹に、祥子さまは慌てて駆け寄り顔を覗き込んでくれたけれど、肩に
置かれた優しい手の感触に、一層涙腺が刺激されてしまいそうだ。


「避けてたわけじゃないです・・・」

 言いながら、情けないのと、恥ずかしいのと、申し訳ないのと、大好きと、色々な気
持ちがかき混ぜられて一気に溢れ出るみたいにやっぱり涙が零れてしまった。


「ただ、私が勝手に思い違いをしていただけで」

「思い違い?」

 目の前で急に泣き出されてしまった祥子さまは、それでもうろたえることなく、祐巳
に続きを促す。そっと涙を拭ってくれる指先は少しだけひんやりとしているのに、どこ
までも暖かかった。


「お姉さまが、クリスマスは蓉子さまと過ごすって聞いてから、それが寂しくて・・・」


 どこかから、また、聖歌隊の歌声が聞こえてくる。

『彼女欲しい』 

 冗談交じりの小林くんの言葉にあんなにも違和感を感じたのは、自分のために誰かを
利用しようとしているように思えたからで。


『どうして祐巳にはそう思ってくれないんだろう』

 そのくせ、祥子さまが一緒にクリスマスを過ごしてくれないってわかった途端、ふて
腐れて。


『つまり、祐巳ちゃんはイベントを楽しみたいわけだ』

 大切な人と、特別な日を秤に掛けた時に、特別な日の比重が重かったのは、祐巳だっ
て同じだったのだ。


「だけど、そんなこと考えていること自体本当はすごく恥ずかしいことなんだって、気
づきもしなくて、私・・・」


「・・・・・・」

 懐かしい旋律が耳を掠めて通り過ぎていくのを感じながら、まるで懺悔でもしている
かのように思えた。祥子さまは生身の人間なのに。


「・・・だから、お姉さまにまで、嫌な気持ちにさせたから」

「祐巳」

 それでも。

「ごめんなさい、お姉さま・・・」

 許してもらえなくても。
 薄闇の向こうでじっと祐巳をみつめてくれている祥子さまの瞳から、逃げたりなんて
したくなかった。


「・・・それならば、祐巳を寂しいと感じさせた私にだって、非があるわね」

 床に座り込んだまま頬を拭っていると、祥子さまは軽く息をついてから、祐巳の隣に
同じように座り込むと、ばつが悪そうにそう呟いた。


「でも、お姉さまだって私にとって大切な人だから。一緒に過ごせるのはとても幸せな
ことなの。それが特別な日だって言われたら尚更ね」


「はい」

 隣り合って座った祥子さまは、前を向いたままそう言った。まるでその視線の先に蓉
子さまが立っているかのように。


 蓉子さまは祥子さまの大切な人。

 違和感も、嫉妬も無く、その事実を自然に受け入れられる程に、祥子さまの横顔は清
らかだった。


 頭上の窓からは、夕闇の先の星明りが差し込もうとしている。それなのに、聖歌隊の
歌声は途切れながら繰り返され、また耳の横を通り過ぎていった。


 不意に、祐巳の視線に気付いたらしい祥子さまは、一瞬だけこちらを向いて非難する
ような視線を送ると、何を思ったのか崩していた膝を抱えるように座りなおした。


「?」

「それに・・・私は、そういうことに疎いみたい。その・・・恋人がいる場合は、クリ
スマスはどうするのかとか、誰と過ごすのかとか、よくわからないのよ・・・だって・
・・」


 抱えた膝に頭を乗せると、祥子さまは消え入りそうなくらいに小さな声で言った。

「それがどんな日でも、祐巳と一緒にいられるのなら、私はそれだけでうれしいから」

 言ったまま顔を上げようともせずに、祥子さまは先程よりもぎゅっと膝を抱いて黙り
込んでしまったけれど。


 みどりの黒髪の間から見える耳が、薄闇の中でもはっきりとわかるくらいに赤かった。

 どうしよう。

『私にも非があるわね』

 祥子さまはそう言ってくれたけれど。はっきり言ってそれは祐巳が勝手に拗ねていた
だけなのに。


 その上で、どうして祥子さまは、こんなにもきれいな気持ちを伝えてくれるのだろう。

 どうしよう。

 うれしすぎて、言葉にできない。

「・・・お姉さま・・・」

 何を言ったら良いのかわからなくてただ呼びかけると、祥子さまはゆっくりと顔を上
げながら、膝にまわしていた右腕を離して、床の上にある祐巳の左手にそっと指先を重
ねてくれた。


 また、歌声が聞こえてくる。

 だけど、もう通り過ぎたりなんてしない。
 繰り返される旋律が、耳から胸をめがけて流れ込んでくるように、小さな身体の中で
鐘の音のように響き渡る。

 触れ合った指先と同じように、祥子さまの唇が祐巳の唇に触れると、その歌声が一層
高らかに鳴り響いた。


 今日ほどこの歌を、優しく美しいと感じたことはない。

 指先を絡めながら。特別な日が、特別じゃなくなるくらいに、二人の優しい思い出に
なるといい。今より少しだけ大人になった時、二人して笑い会えるような、そんな日に
なればいいと、心から思った。


「祐巳」

 不意に祥子さまが唇を離して呟いた。

「・・・はい?」

 一瞬だけ離れた唇はすぐに近づいて、くすぐるように押し付けられるとまた離された。

「お姉さま?」

 キスの合間に。

 祥子さまは悪戯っぽく微笑みながら、優しく囁いた。

24日は、一緒に過ごしましょうか」



                                     END




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