Do you remember me?




「ふええええ!?」

 お母さんに呼ばれて玄関に行ってみると、そこには何と、祥子さまが立っていた。

「ごきげんよう。祐巳」

 真っ赤な薔薇の花束を抱えて。


                            


 とにかく慌ただしい週末だった。寝こけている間に温室に閉じ込められ。その上眼
が覚めるとお姉さまの腕の中で。おまけに。


『今日は何日だったかしら』

 すわ、お姉さまが物忘れとは!?なんて驚きつつも答えた祐巳の日にちこそ大間違
いだったのだ。


 つまり、祐巳は記憶をなくしていたらしい。

 らしい、とは祐巳自身には全くわからないことだからに他ならないんだけれど。

 職員室で先生方に頭を下げまくった後、迎えに来てくれた小笠原家のお車に強引に
乗せられた祐巳は、祥子さまと一緒に帰宅した。


 玄関まで迎えに来たお母さんに、祥子さまが祐巳の記憶が戻ったということを伝え
た途端、お母さんは人前だということも忘れたのか、「本当なの、祐巳ちゃん!?」
と、全く状況が理解できていない祐巳の手を取って喜んじゃったりなんかして。その
上、騒ぎを聞きつけて奥から出てきたお父さんまでが加わって何だかお祭りみたいな
ことになってしまったのだ。


『また、明日窺ってもよろしいですか』

 親子漫才が落ち着くのを見計らって、祥子さまはおっとりとした声でそう両親に尋
ねた。何でも、今日はご家族で会食の約束があるとのこと。けれど、祐巳のことが心
配なので、また、明日、様子を尋ねてもいいかとおっしゃるのだ。


 もちろん、喜びすぎてわけわからなくなっちゃってる両親が、祐巳の「お姉さま」
のお願いを拒否するわけもなく。


「ご・・・ごきげんよう」

 そんなわけで、祥子さまは今、当たり前のように祐巳の前に立っているのだった。

「ああ、祥子さん。上がって頂戴」

 呆然と突っ立っている祐巳を押しのけて、お母さんが祥子さまの前にスリッパを差
し出す。


「祐巳ちゃん。祥子さまが来てくださっているのよ」

 再度そんなことを言うお母さん。お母さんってばリリアン出身だから、娘のお姉さ
まが自宅に来るっていうシチュエーションに早くも舞い上がっている様子だ。その上、
その娘はと言えば(本人は覚えていないけれど)すっ転げて記憶をなくしたり戻した
りしているものだから、そういって確認しなければ不安なのだろう。何せ、祐巳の記
憶が戻ってからまだ一夜しか明けていないのだから。


「えっと・・・と、とりあえず、私の部屋に・・・」

「ええ」

 たどたどしく祐巳がそう提案すると、祥子さまは思わず見とれてしまうような、華
やかな頬笑みを浮かべて頷いた。それから。


「これ、受け取ってくれる?」

「ふえ?」

 祥子さまは手にした花束をそっと祐巳に差し出した。お見舞いだからなのかな。祐
巳がおずおずとそれを受け取ると、祥子さまは更に微笑みを深くする。

 玄関ホールに飾ってくれるというお母さんの言葉に、祥子さまの方を一度窺うと、
頬笑みを浮かべたまま静かに頷いてくれる。


 その瞳の中に、ずっと祐巳だけが映っている。

 おかげて、階段を上がる間中、祐巳の心臓は駆け足のように高鳴りっぱなしだった。


                            


「それで」

 折りたたみ式の机を間に挟んで、祥子さまは日のあたる窓際に、祐巳はベッドを背
にして座っていた。


「本当に覚えていないの?」

「はぁ・・・」

 そう言われても。客観的に見れば祐巳はスコーンと記憶が抜け落ちてるんだろうけ
れど。祐巳の中ではあやふやだけど何となくつながっているような気がしなくもない。
転んで頭を打った、なんてまるでマンガみたいなパターンだけれど、いかんせん、そ
の場面のことも良く覚えていないような気がする。頭をさすってみても痛くないし。
あれ、これだとやっぱりなーんにも覚えてないことになるのかな。


「私としては、薔薇の館でお姉さまとお話をしていて、・・・その後、も何だか色々
お話ししたような気がしますが・・・」


「・・・・・・そう」

 祐巳の説明を真剣な様子で聞いていた祥子さまは、しばらくすると、ふっと息をつ
いて肩を落とした。


「あの、お姉さま・・・?」

 もしかして、がっかりしたのかな。

 記憶がないとはいえ、間違いなく、祥子さまにはお世話になったのだろう。あやふ
やだけど、薔薇の館でお話しした後も、祥子さまと一緒にいたような気がしているの
は、ぼんやりと祐巳がそのことを覚えているからと言えなくもない。温室の中でも、
祥子さまに抱っこされていたわけだし・・・。


(も、もしかして、すっごい甘えちゃってたのかな・・・)

 覚えていないとはいえ。いや、覚えていないからこそ、自分がどこまで暴走したの
か(その可能性があるにもかかわらず)知る術がないわけで。


「いいの・・・。それに、頭を打った時のことも、あまり覚えていないのでしょう?」

「あ、はい」

 他のことはそうなのかなぁとか、そう言われたらそんな気もする。なんてあやふや
な感想が浮かんでくるのだけれど。お母さんや祐麒に「頭を打って、記憶がなくなっ
てた」なんて聞かされた時には「コントか!」なんて感想しか浮かばなかったわけで。


「よかったわ。怖い記憶が残らなくて」

 祥子さまは柔らかくそう言うと、祐巳の頬っぺたを優しく撫でた。

(あ・・・)

 祥子さまの手のひらが触れた瞬間、そこに熱が集中するのが自分でもわかる。でも、
ドキドキしちゃう気持ちとは裏腹に、心地よく懐かしい感覚が胸の中に湧き上がって
くるのを止められない。


「それで・・・その・・・」

 しばらくその不思議な感覚に浸っていると、珍しく、祥子さまは歯切れの悪い様子
で口ごもった。


「あなたに、・・・記憶を失っている間のことで、伝えておかなければいけないこと
があるのだけれど・・・」


「ふえ?」

 祥子さまがまた、言い難そうに口を噤むのを見て、祐巳は頭の先から血の気が引い
ていきそうになる。


(も、もしかして、私ってば、やっぱり記憶がない間にとんでもないことをしちゃっ
たとか!?)


 うすうすそんな気はしていた。だって、ただでさえお味噌な自分が、記憶をなくす
なんてことになった日には、更に空回りすることは必須。そのせいで、とてつもない
ご迷惑をおかけしたのではなかろうか。祥子さまに。


(そ、それとも・・・)

 もう一つの可能性につき当って、目の前が真っ白になる。

 もしかして。

 胸の底から叩きつけるような鼓動が、瞬く間に駆け上がってくる。

 もしかして。

 その可能性を思い浮かべてしまえば、他には何も思い当たらないとさえ考えてしまう。

 もしかして。


 祥子さまは、祐巳の気持ちを知ってしまったのだろうか。


 昨日まで、祐巳の記憶は、祥子さまと姉妹になってからのものだけが、心の奥に閉
じ込められていた。


 だから、それより前のことは、覚えていたということだ。

 それより前から、抱いていた気持ちも。

 ずっとずっと、想い続けていたことも。

「え・・・あ・・・」

 真摯で、どこか悲しげな祥子さまの瞳をみつめていると、もうそれ以外に考えられ
なくなって、思わず涙がこみ上げてしまいそうだ。


 そんなことになってしまえば、返ってくる言葉なんて決まっている。

『悪いけれど。あなたの気持ちには応えられないわ』

 そんな言葉を、祐巳の記憶が戻るまでは、自分の胸にだけ秘めていてくれたのかも
しれない。


 考え出すと、その気持ちは坂道を転がり落ちるように、どんどん悪い方へ大きく膨
らんでいく。


 祥子さまは、まだ何も言っていないのに。

 それでも、他に何も希望は浮かんでこなくて、祐巳はわななく唇をかみしめて俯いた。

「・・・なんて顔をしているの」

「え・・・」

 祥子さまの呆れたような声におずおずと顔を上げる。

「どうしたの」

「・・・・・・」

 祥子さまの瞳は先ほどと同じように、澄んだ光をたたえている。それから、今は少
しだけ、不安そうに揺らめいている。祐巳の表情をその瞳いっぱいに映したまま。


「いえ・・・あの・・・もしかして、記憶のない間、お姉さまにすごく迷惑をかけた
のではないかと思いまして・・・」


 本当は、尋ねたいのは別のことだったかもしれないのに。だけど、それ以外に言葉
は出てきてくれなくて、祐巳はたどたどしくそう呟いた。


「・・・・・・それで、いじけたような顔をしているの?」

「ふえ?い、いじけて・・・ますか?」

「・・・この顔のどこがいじけていないのよ」

 祐巳が驚きとともにそう投げかけると、祥子さまの方こそ心外だと言うように、祐
巳の鼻をきゅっと軽くつねった。


「迷惑、なんて感じるようなことは、一度だってなかったわよ。・・・ただ、私があ
なたを振り回してしまっただけ。あなたに悪い所なんて、一つもないわ」


 祐巳の鼻先から指を離すと、言い難いのだろうか、祥子さまは自分を落ち着かせる
ように短く息を吐いた。その様子にますます気持ちに影が差していく。沈黙って、な
んて重たいんだろう。黙り込んだ二人の周りに、べったりと重たい膜が張り巡らされ
ていくみたいだ。


『悪いけれど』

 祥子さまがもう一度息をのんだ時、祐巳はその言葉が吐き出されるのだと情けない
顔のまま目をギュッと閉じた。


「・・・・・・恋人になってくれていたの、祐巳が」

 重たい空気の中を通り抜けていくような声がした。祥子さまの声は部屋の中をすり
ぬけて、そのままかき消されてしまいそうで。


(・・・・・・え?)

 だから、すぐには意味が理解できなかった。いや、理解するとかしないとかではな
くて、自分が予想していた言葉以外のものが彼女の口から飛び出してきたものだから、
すぐに対処できなかったのだ。


「こ、こいびと・・・?」

 パニックになりながら、その引き金となった単語を発しながら口をパクパクとさせ
てみても、耳へと返ってきたその言葉のせいで尚更祐巳は混乱する。


「な、な、なんで・・・」

 心落ち着かせる術もないまま、それでも祐巳はそう尋ねずにはいられなかった。

 祥子さまと自分が恋人になるなんて。

 それを聞かされただけでも理解の範疇を超えている。

 それでも、そんな混乱を無理やりに抑えつけて、祐巳は努めて客観的に答えを探す。

 一時的だとしてもそんなこと考えられない。

 それ以外の解答は多分ない。それなのに、祥子さまの口からはその正反対の事象が
告げられている。もちろん、祥子さまがそんな嘘をつくなんてことは、彼女の性格上
あり得ない。


 となれば、考えられることは一つだけだ。

 記憶をなくした祐巳が、不安に耐えきれずに、祥子さまに縋りついた。

 だから、祥子さまは「姉」としてそれを受け止めてくれた。

 そう考えるより他はないだろう。

「あ、あの・・・ごめ・・・」

 その結論に打ちのめされてしまう前に、祐巳が頭を下げた、その時だった。

「祐巳に記憶がないのをいいことに、以前からすっとそうだったなんて言って。あな
たに付き合わせてしまっていたの」


 祥子さまの声がまた、小さく、けれどはっきりと祐巳へ向かって投げかけられた。

「不安で仕方がないのは祐巳の方だったのに・・・、私は、あなたに思い出してもら
えないことが怖くて、たまらなくて・・・結局あなたの混乱に乗じて自分の気持ちを
押しつけてしまったわ」


 途切れがちに紡がれる言葉に、祐巳は徐々に顔を上げた。

 目の前で、祥子さまはじっとこちらを見ていた。

 悲しそう。

 苦しそう。

 泣いちゃいそう。

 そんな感想が綯い交ぜになって、祥子さまの表情がいつもよりずっと幼く見えた。

「・・・・・・急にこんなことを聞かされても、困るわよね」

 祐巳が押し黙ったまま固まっていると、祥子さまは苦笑いのように、でも儚げに微
笑んだ。


「いえ・・・その・・・」

 でも、祐巳の意識はその微笑を超えて、別のところへと飛んでしまっていた。

 祥子さまには失礼かもしれないけれど、そんなこと、祐巳にとってはどうでもいい
のだ。祐巳が困るとか。困らないとか、そんなことは。


 それよりも。

『結局あなたの混乱に乗じて自分の気持ちを押しつけてしまったわ』

 祥子さまは確かにそう言った。

「あの、祥子さま・・・それって・・・」

 今の今まで、自分が考えていた、そして信じていた絶望的な結論とはまるでかけ離
れた祥子さまの言葉に、祐巳はそう尋ねずにはいられない。それなのに、祥子さまは
悲痛な表情のまま、けれど真剣に祐巳の目を見て、震えそうな声で言った。揺らめい
た瞳から、涙が零れ落ちてしまいそうだった。


「私は、ずっと・・・・・・あなたが、好きだったの。だから・・・」

 目には見えないはずの気持ちや、言葉が、祥子さまの唇から吐き出されると、まる
で実体があるかのように祐巳めがけてぶつかってきたかのような衝撃があった。


「お姉さま・・・」

 鋭く打ちつけられるような衝撃ではない。けれど、たしかに祐巳の身体ごと、心ご
と揺さぶるような言葉に、祐巳の方こそ声が震えるのを止められない。


「だから、ごめんなさい・・・」

 今度こそ、その美しい瞳からいくつもの涙がこぼされて、まるで絹の糸のようだと
思った。


 白い頬を伝って、薄紅色の唇も通り過ぎて、止まることなく、涙が零れ落ちていく。

「お姉さま」

 次の言葉を用意することもできずに、だけどそうせずにはいられなくて、祐巳は祥
子さまを呼ぶ。祥子さまが顔をあげてくれるまで、何度も、何度も呼んだ。


「・・・・・・」

 薄い肩に手を置いてもう一度祥子さまを呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げた。

(ああ・・・)

 涙に濡れている、ってきっとこんな顔のことだ。そう納得できるくらい、祥子さま
の瞳から零された涙のせいで、彼女の頬も顎も濡れていた。


 でも、きれいだと思った。

 さっきまで、祥子さまに見限られてしまうかもしれないという恐怖に怯えていたく
せに、今はその顔にただ見惚れている。


「あの、お姉さま、私・・・」

 勢いは弱まったものの、まだあふれてくる涙をぬぐいもせずに、祥子さまは祐巳の
言葉を待っている。少しだけ赤くなってしまった瞳は、それでもきれいで。


 祐巳はそこへ吸い込まれてしまいそうになりながら、気持ちを零してしまった。

「私も、お姉さまのことが好・・・」

 けれど、その言葉が祐巳の口から全て出てしまうのと重なるように、扉の向こうか
ら声がして、二人の間を突き抜けた。


「祐巳ちゃーん。おやつよー。もって上がって頂戴」

 まったくもって、この部屋の空気をものともしない明るさで。


                              


「・・・・・・・・・」

 居心地の悪いまま、祐巳はお母さんの手作りパイを頬張っていた。もちろん人前な
ので、小さな口でだけれども。


 用意されているのは二人分。でも、それをもそもそと口にしているのは、祐巳一人
なわけで。


「あの・・・・・・」

 おやつを用意されているもう一人のはずである祥子さまはと言えば。

「その、お姉さま・・・」

 机を挟んだ向かい側で、不貞寝していた。

「起きてください・・・」

 机に突っ伏すなんて可愛らしいものではなく、フローリングの上に倒れこむかのよ
うにうつ伏せになっている。普段の祥子さまからは考えられない光景である。あ、で
も、不貞腐れるのは珍しいことではないか。蓉子さまや聖さまに遊ばれてよく拗ねて
らっしゃるし。単にお行儀の問題なのか。


 まあ、結構いい雰囲気になっていたのは確かで。二人の誤解のようなものも解けた
ような気がするし。だけど、さっきまで祐巳は重苦しくてつぶれちゃいそうだったの
だ。だから、あのタイミングはお間抜けだけれども息抜きに放ったような気がするん
だけど。祥子さまの方は力が抜けすぎてしまったのかな。


「お姉・・・」

 再度祐巳が声をかけようとしたところで、祥子さまは少しだけ憮然とした声で言った。

「・・・・・・だって、祐巳、がほったらかすんですもの」

「はい?」

 こちらに顔を向けることもなく、祥子さまはそんなことを言う。どうやら、お母さ
んの乱入(?)が問題ではないらしい。


「おやつをもらった途端、何も言わないじゃない。さっき言いかけたことも・・・」

 まるで祐巳がお菓子に夢中で祥子さまをほっぽり出しているかのような言いようで
ある。というより、祥子さまは間違いなくそう思っているようだ。


「で、ですから・・・私は・・・その・・・お姉さまが好き、って・・・言おうと思って・・・」

 頬張っていたパイの切れ端を指でいじくりながら、祐巳はもごもごともう一度告白
した。お母さんの声にかき消されちゃいそうだったけれど、ほとんど言いきった後だ
ったのに。祥子さまには伝わっていなかったのかな。でも、確かに伝わっていたら伝
わっているで、そのまま言いっぱなしっていうのも、考えてみれば失礼な話で。


「・・・・・・どういう意味で?」

「ふえ!?」

 首を持ち上げるようにしてこちらをちらりと向いた祥子さまは、祐巳の葛藤を知っ
てか知らずか、そんな質問を重ねてくる。でも。


「どういうって・・・」

 記憶をなくしている間、恋人同士だった、なんて話があったからこそ、先ほどの祐
巳の言葉も飛び出したわけで。だから、好きの意味なんて、決まっているはずなのに。
意地悪されているのだろうか。


「そ、そういう、お姉さま、は・・・?」

 いけないとは思いつつ、質問に質問で返してしまう。悪い癖だとは思うけれど、す
ぐに明確な答えを出すことが祐巳には難しいわけで。


「・・・・・・」

 怒られちゃうかな。そう思って祐巳がそっと様子を窺うと同時に、祥子さまは静か
に立ち上がってこちらへ振り向いた。


「お姉さま?」

 先ほどの涙はもうとっくに祥子さまの持参したハンカチでぬぐわれている。頬が微
かに色付いている以外には、涙の名残は見られない静かな表情だった。


 その表情のまま、祥子さまが祐巳の目の前まで歩み寄る。

「?」

 祥子さまの行動の意味が読めなくて首をかしげていると、何を思ったのか彼女は祐
巳の脇の下あたりに両手を差し込むと、ぐっと力を入れて祐巳を絶たせた。そして。


「え?」

 一瞬、肩に強い力が込められたと感じると、すぐに背中に軽い衝撃があった。

 パサリと軽い音がして、それと同時に視界にどうしてだか天井が映った。ついでに、
手にしていたパイが床に落ちる音もする。


 祥子さまに押し倒されたのだと理解すると同時に、視界の中に祥子さまの顔が入り
込む。その美しい顔が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


「!?」

 鼻先がこすれてしまいそうな至近距離に、祐巳は反射的に目を瞑ってしまった。

(!?!?!?)

 唇に、祥子さまの吐息がかかる。

「このまま顔を近づけたら、祐巳の唇に、触れてしまうけれど」

 祥子さまが言葉を発するたびに吐息が唇にかかって。

 祥子さまの長い髪が、祐巳の頬や耳元にたくさん触れていて。

「あなたが嫌でないのなら、私はそうしたいわ。・・・・・・・私は、そういう「好
き」、なのだけれど」


 祥子さまの言葉に驚いて、目を開くと、今度は視界いっぱいに、祥子さまの瞳が映
っていた。


「祐巳は・・・?」

 また、唇にささやき声が触れる。

 音色のような問いかけに、祐巳は今度こそ慌てたりせずにそっと目を閉じた。

 吐息の次に、祐巳の唇に触れた。

 それは、柔らかい祥子さまの唇だった。


                               


「・・・記憶がなくなってた間は、恋人同士だったってことは、やっぱり、こんな風
に、その、キスしてたんですよね?」


 優しいキスの後、ギュッと抱っこしてもらうと、ドキドキしてしまったけれど、そ
れよりもずっと心地よくて。抱きしめてくれる祥子さまの腕が祐巳の身体がぴったり
と馴染んでいるみたいだ。


 そこまで考えたところでふいに思い当って祐巳は祥子さまを見上げた。

「え・・・?えっ、ええ・・・まぁ・・・」

 見上げられた祥子さまの方はと言えば、何となく気まずいような表情。

「・・・・・・」

 ぷーっと頬っぺたが膨らんでいくのが自分でもわかる。

(な、なんか、焼きもちやいちゃいそう・・・)

 記憶のあるなしにかかわらず、祐巳であることに違いはないのだから、そんなこと
思う方がおかしいのだけれど。でも少し複雑。


「・・・でも・・・」

 祥子さまは、理不尽ともいえる拗ね方をした祐巳をしばらくは困ったような顔で眺
めていたけれど。


「ひゃ・・・っ?」

 小さな声の後、どうしてだか、抱きしめた腕を解いて、手のひらを祐巳のわき腹の
あたりに這わせ始めた。


「あ、あ、あの・・・、お姉さま・・・!?」

 くすぐったさに身をよじった祐巳を逃がさないように後ろから抱きすくめると、祥
子さまはなおも両手を動かしていく。


 わき腹を撫でていた手が、ブラウスの裾から入り込んで素肌に触れる。

「っ・・・・・・」

 お腹を撫でていた手は胸元目がけてゆっくりと這いあがっていく。

「!?やっ・・・」

 胸元に到達した手が、そこを掬い上げるようにして停滞したところで、祥子さまは
ぼそりと言った。


「・・・・・・こういうことは、まだしていないわ」

「・・・・・・・・・!!!」

 まだって・・・。祐巳としては、今さっきのがファーストキスも同じなのに。その
上祥子さまはとんでもないことを言い始めた。


「祐巳が記憶がない時の自分に焼きもちやくくらいなら・・・・・・それ以上のこと、
する?」


 考える間もなく祐巳は思いっきり首を振った。もちろん横に。

 だって。だって。嫌とか、そういうことじゃなくて。

「ま、ま、まだ、心の準備が・・・っ」

 ああ、もう。もう少しスマートな言い方がないものか。ついでに仕草も。だけど、
他の方法なんて思いつかなくて。


 でも、祥子さまはなりふり構わずそんな様子を見せる祐巳に怒ったり、拗ねたりな
んてしなかった。それとは反対に、明るく、でもおかしそうに笑い声をあげた。それ
から。


「私も。まだできていないわ。心の準備」

「へ?」

 あんなに大胆なことをしておいて。思わずそううめきそうになった祐巳を、もう一
度抱きしめなおすと、祥子さまはまだ笑いの収まらないような声で言った


「今は、祐巳と気持ちが通じ合っただけで、充分だもの」

 優しい声の後、また、唇がそっと祐巳の唇に触れた。

「また、明日も」

「え?」

「明日も、キスしてもいい?」

 後ろから祐巳を抱きすくめた祥子さまが、覗き込むように祐巳をみつめながらそん
なことを言うから、照れてしまいそうになりながら頷いた。


「その次の日も?」

 くすくすと笑いながら、祥子さまが重ねて言うから、祐巳はまた頷く。

「じゃあ、ずっと?」

 頷いた祐巳の頬っぺたに小鳥みたいなキスをした祥子さまがまた覗き込んで言うから。

「はい」

 胸の奥がギュッと狭くなって。そこから押し出されてしまったみたいに、目元が緩
んだ。きっとでれでれした顔になってるんだ。


「もし、祐巳が忘れても、多分ないでしょうけれど、私が忘れたとしても、きっとま
た、同じように今みたいなお願いをしちゃうと思うわ。私」


 おでこをくっつけあって笑うと祥子さまがそんなことを言うから。

「私だって。きっと、何回記憶をなくしても、祥子さまに恋してると思いますけど」

 当たり前のようにそんな言葉が口をついて出た。

 祥子さまは祐巳の言葉に一瞬だけ目を丸くすると、どうしてだか泣き出しちゃいそ
うな顔になって。


 それから、すぐに微笑んでキスをくれた。

「ありがとう。・・・・・・私もよ」



                           END



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