Passion




 二つに結んだ髪が、微かにそよぐ風になびいて揺れる。
 ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも胸がむずがゆくなるのだろう。



「・・・んく・・・」

 腕の中で、祐巳が少し息苦しそうに身を捩った。

「ごめんなさい・・・その、苦しかった・・・?」

 祥子は慌てて抱きしめた腕を緩めて祐巳の顔を覗き込む。薔薇の館に赴く前に待ち合わ
せた温室で、少しだけのつもりだったのに、気がついたら祐巳を抱きしめたまま固まって
しまっていた。


 ああ、違う。固まってなんていない。

 抱きしめながら意識だけはしっかりと働いて、祐巳の小さな身体の感触を堪能していた
に違いないのだ。


 小さくて、柔らかくて、暖かい。

 ぎこちなく抱きしめた腕の中で、少しだけ身を強張らせていた祐巳の茶色掛かった髪か
らはふんわりと心地よく懐かしい甘い匂いがした。それは、シャンプーの匂いだろうか。
それとも、祐巳自身の匂いなのだろうか。


「・・・少し・・・」

 力を抜いて行き場をなくしてしまった右手でおずおずと髪を撫でていると、祐巳が祥子
の肩に額を寄せて小さく呟いた。


「すごく、ドキドキしているから・・・」

 言った後に、祐巳は一瞬だけ顔を上げてこちらをみつめてくれたけれど、祥子と目が合
うときょろきょろと視線を泳がせて再び俯いてしまった。


(どうして)

 ただ目があっただけなのに、そんな仕草をされるとこちらまで恥ずかしくて、居た堪れ
なくて、そわそわとしてしまう。

 それ以上に、軽くではあるけれど抱きしめあっているのに、もっともっと、触れたくな
ってしまう。


 祐巳に触れたい。

 祐巳に触れたい。

 結局、今度は祐巳が本当に苦しくて呻いてしまうくらい強く抱きしめてしまった。


                                


「寝不足?」

 合同で行う体育の授業で一緒になった令は、祥子の顔を見るなりそんなことを言った。

「・・・・・・別に」

 隣で準備運動をしながら、ぶっきらぼうにそう答える。事実寝不足なのだが、それを令
に指摘されると、悔しいような、恥ずかしいような複雑な心境だ。

 別に、最近までのように、祐巳に想いを告げられなくて眠れないなんて事ではない。た
だ、想いが通じ合ったらそうなったで、別の原因が浮上してきただけ。


 祐巳に触れたい。

 みつめ合った分だけ、強く抱きしめた分だけ、祐巳への気持ちが深くなっていく。抱き
しめたら離したくなくなるし、キスなんてした日には、家についてからも夢見心地のよう
に何も手に付かない。これだけで満足なんて思ったことなど一度もない。眠れずにおもむ
ろに布団を抱きしめたら、昼間の祐巳の感触や表情を思い出してますます眠りが遠ざかっ
ていく。だから、眠れない。

 幸せな余韻がいつまでも身体中に漂って、心がそれに浸りたがる。だから、あまり眠れ
ないのだ。


「でも、さっきあくびしてたよ」

 令が屈伸をしながら、にやにや笑って目線だけでこちらを見る。

「見間違いじゃないかしら」

「目がとろんとしてるけど」

「通常よ・・・・・・ぁふ・・・あ」

 しつこく食い下がってくる令を無視していつも以上に熱心に準備運動をしていたのに、
伸びの体勢になったところで抑えようもなく、小さなあくびが零れてしまった。


「・・・・・・」

 してやったりといった表情の令に、思わずかぁっと頬に熱が集中してしまう。それに気
を良くしたのか、令は更に調子に乗ってとんでもないことを口走った。


「祐巳ちゃんに膝枕でもしてもらったら?」

 余計眠れなくなるでしょう。


                                


(でも、これ以上何をどうしたらいいの)

 放課後の図書館はそれなりに賑わっていて、人通りのない閲覧席を探すのに苦労した。
使用頻度の低い図鑑や、目録などが陳列されてある棚の合間、窓辺に置かれた二人がけの
席を運良く発見した祥子は、滑るようにそこへ腰を下ろした。次に手にした数冊の文庫本
を伏せるようにして机に置く。


「・・・・・・」

 令が集めているものを借りても良かったけれど、それではみすみす令にからかわれる種
をまくだけだ。彩り鮮やかなものもあれば、淡いパステル画のような表紙もあるそれは、
いわゆる恋愛小説。はっきり言って今までまったく興味のなかったそれを手に取る理由な
んてわかりきっている。


 祐巳に触れたい。

 すぐ側に祐巳がいる時ですら、そんな思いに囚われる。それはきっと、祥子にとって誰
かと想いを通じ合わせるのが初めての経験で、具体的にその想いをどう表現すればよいの
かという知識がないからに違いない。そう結論付けて、わざわざ祐巳と会うことのできる
放課後の時間を削ってまで、こうして図書館へと足を運んでいるのだった。


(それにしても)

 これはいったいどこから読めば良いのか。いや、文章を読むのは慣れているのだけれど、
机に伏せた本をかわるがわる手にとってぱらぱらとめくってみても、愛情表現とは何ぞや、
なんていう表記はないわけで。


(・・・・・・!!)

 何てこと。
 もはや何冊目になるかわからない文庫本のとあるページをめくったところで、祥子は心
の中でそう呟いて固まってしまった。


(そ、そ、そんなことをしてもいいの?捕まるのではなくて?)

 顔に熱が集中していくのを自覚しながら、祥子はそう心の中で抗議する。視線はちゃっ
かりと紙面の文字を追いながら。

 はじめから読んでいるわけではないので内容なんてわからないが、そのページでは、想
いが通じ合った主人公とその相手がお互いの気持ちを確かめ合う・・・つまるところラブ
シーンが繰り広げられていた。別に、婚前であっても恋人同士の間でそういう行為が行わ
れるということ自体にまったく知識がないわけでも、ひたすら嫌悪を抱くというわけでも
ないけれど。文章にしてまざまざと表現されると、頭の中で知識として理解している以上
の衝撃を受けた。


 抱きしめて、キスをして。それから―――・・・。

(だ、だめよ、そんなこと)

 すっかりのめり込んでしまった文面では、ひたすらに愛の行為が行われていて、その上。

(キスって、唇を触れ合わせるだけじゃないの!?)

 種も仕掛けもなく、唐突に金盥か何かが落ちてきたような衝撃がまたしても祥子の頭に
走る。もちろん、そうしたいと思ったこともあるけれど、実際に行動に移す段になると、
とんでもないことをしようとしている気がして、それ以上踏み込んだことなんてなかった。
それなのに、文面では当然のようにそんなことになっている。

 恥らうように熱くなった頬を押さえていると、混乱した頭がそれでも入り込んできた文
章を即座に祐巳との行為に変換して、更に祥子の顔を熱くした。


 自分よりも頭一つ小さいくらいの祐巳を抱きしめて、唇にありったけの想いを乗せて深
いキスをする。熱が引くまで、気持ちが落ち着くまで啄ばんでから、唇を離して覗き込ん
だ祐巳の顔は、きっと真っ赤になっているはずだ。


『だ、だめです・・・お姉さま・・・』

 そう、だめよ。やっぱり。

 (頭の中の)祐巳が涙目でそう訴えるので、祥子はしゅんと肩を落とした。いくら想像
の中とはいえ、あからさま過ぎた。祥子は反省した。


(むしろこんな書物が学校にあること自体問題だわ)

 好き勝手に想像を繰り広げた挙句、罪悪感を文庫本への怒りにすり替えて祥子はそう憤
ったけれど。


 唇で、指先で、素肌で。愛しい人に触れることは、祥子の求めていた答えに遠くはない
気がした。


 ―――生物学の本でも読んだらいいのかしら。

 そんなことを思っている時点で最早重症である。


                                 


「お姉さま、紅茶のおかわりはいかがですか?」

「いただくわ」

 とぼとぼと歩いてきた薔薇の館には既に祐巳の姿があった。先程までなにやら色々な想
像をしていたこともあって、悪戯がばれたような気持ちになって妙にどぎまぎしてしまっ
たけれど。屈託のない笑顔で迎えてくれる祐巳に、すぐにそんな翳りなど吹き飛ばされて
しまった。


 シンクの前に歩いていく祐巳をそっと目で追う。ポットへお湯を注ぐ際に、少しだけ首
を傾げて中を覗き込むような仕草にまで心臓が大きく跳ねた。

 俯き加減の瞳も、開け放った窓から入ってくる風にそよぐ髪も、差し込む日差しを受け
る小さな身体も、全て恋しくて、愛しくて、触れたい。


「どうぞ、お姉さま」

 ぼんやりと見惚れていたら、紅茶を淹れ終わったらしい祐巳がいつの間にかすぐ目の前
に立っていた。


「・・・ええ・・・ありがとう」

 声が裏返ってしまいそうになって思わず目を瞬かせたけれど、祐巳は気付いた様子もな
く、にっこりと笑って祥子の隣に腰をかけた。


「おいしいわ」

 乱れた心拍数を落ち着かせるために、祥子はすぐにカップに口をつけた。口の中に広が
る芳しい香りは少しだけ、祥子に冷静さを取り戻させてくれる。それなのに。


「そう言っていただけると、うれしいです」

 隣から、はにかんだような声が聞こえた途端に、押さえつけていた胸が高鳴り始めた。

 祐巳に触れたい。

 いつものようにそんな気持ちが胸をいっぱいにして、身体の芯からくらくらと揺さぶる。

(少しだけ・・・)

 祥子はカップを机に置くと、誰に聞かせるでもなく心の中でそう言い訳をして、震えそ
うな指先を少しずつ祐巳の手に近づけた。


「あ・・・」

 祥子の指先が触れた瞬間に、祐巳が小さく声を漏らしたけれど、触れ合った指先を絡め
るようにして握ると、祐巳もおずおずと握り返してくれた。隣り合って座った椅子と椅子
の間で、目を合わせるのもなんだか恥ずかしくて、ただぎゅっと手を繋ぐ。

 触れ合った場所からとくんとくんと脈打っているように感じて。だけど、それが自分の
ものなのか祐巳のものなのかもわからないくらいに、緊張と感動で喉がからからに渇いて
しまった。


 祐巳の手はなんて柔らかくて、暖かいのだろう。

 手を繋ぐのなんて、以前からしていたことなのに。想いが通じ合ってからは、なぜだか
前以上に意識して。触れるたびに風が身体中を駆け抜けていくようなときめきを覚えた。


 それから、もっと触れたくて仕方がなくなる。

 大切な宝物を優しく包み込みたい気持ちと、壊れるくらいに強く抱きしめたい気持ちの
真ん中で揺れながら、ただ、触れたくて仕方がない。


 祐巳に触れたい。

 祐巳に触れたい。

「・・・お姉さま・・・」

 不意に、掠れたような声で祐巳が祥子を呼んだ。

「・・・・・・大好きです・・・」

 唐突に言葉の爆弾を投げつけられた祥子は一瞬身体を強張らせてしまった。遠慮がちに
自分の肩に頭を預けてくる祐巳の仕草がスローモーションのように視界に映って。額をこ
すりつけるようにされると、呼吸をするのも苦しいくらいに全身が熱を帯びた。


「祐巳・・・」

 ああ、声が震えている。

 間近にいる祐巳をそっと窺うと、二つに結んだ髪が、微かにそよぐ風になびいて揺れて
いた。

 ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも胸がむずがゆくなるのだろう。

 祐巳に触れたい。

 祐巳に触れたい。

 もうそれ以上はみつめることすら出来なくなって、祥子は前を向いたまま静かに祐巳の
頭に自分の頭を倒すようにして寄せた。


「・・・お姉さまは」

「え?」

 小さな声が聞こえて、微かに首を上げて顔を覗き込むと、息が掛かりそうなくらいな距
離で祐巳と目があった。


「・・・言ってほしいです・・・」

 震えて消え入りそうな声で呟いて恥らうように目を閉じるから、祐巳が何を言いたいの
かわかったけれど。それよりも、伏せられた瞳を縁取る睫や、朱に染まった頬や、薄紅色
の唇に釘付けられて、黙り込んでしまった。喉から唾を飲み込む音が聞こえて、殊更に自
分の状態を意識させられているような気がして身動きが取れない。

 そうやって祐巳をみつめたままいつまでも固まっていたら、小さな唇がぎこちなく開い
た。


「・・・・・・言って欲しいです・・・・・・大好きだから・・・」

 聞き取れないくらいの囁き声は、それでも祥子の中でどうにか押さえつけていた衝動の
炎を燃え上がらすには充分すぎるほどの威力を持っていた。


「・・・好き」

 祐巳をみつめたまま、唇が勝手にそう動いて。

「どれだけ言ったら、伝わるの」

 こんな言葉ではまったく足りない。そんな気持ちが口をついて出ると同時に、開かれた
祐巳の瞳に吸い寄せられるように、間近にあった唇を寄せた。


 祐巳に触れたい。

 触れ合わせた唇は、想像の中よりもずっと柔らかくて。

「・・・ふぁ・・・」

 くっつけたままの唇を僅かに開くと、祐巳が短く息継ぎをするから。それすらも貪るよ
うにぎゅっと押し付けた。

 繋いだままの指先が忙しないくらいに絡まりあってお互いを確かめる。それなのに。

 祐巳に触れたい。

 祐巳に触れたい。

 暖かな窓辺からそよぐ風の中で、その想いは膨れて募ってきりがない。

 ―――キスって、唇を触れ合わせるだけじゃないの?

 唐突に先程の疑問が頭に浮かんで、祥子は考える間もなくそれを確かめたけれど。

 それは想像していたよりもずっと、甘くて、優しくて、心地よかった。

 祐巳に触れたい。

 熱が引くまで、気持ちが落ち着くまで。

 だけど、そんなことを言っていたら終わるはずがない。

 熱に浮かされたような二人分の吐息を感じながら、祥子はそんなことを思ってしまったの
だった。




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