もう少しだけ。



 唇を離すと、『ちゅっ』て音がした。まるで、もっとして欲しいっておねだり
しているみたいだ。




 みんなして探し回ること数十分。祥子さまは図書室で安らかな寝息を立ててい
た。


(もうっ)

 心の中で祐巳が頬っぺたを膨らませていたことに、祥子さまは絶対気が付いて
いないと思う。


 そりゃ、元はと言えば寝こけていた祐巳が悪いのだ。間違いなく。そしてそれ
がなければ、みんなを先に帰して薔薇の館で二人っきりなんていうシチュエーシ
ョンだって浮かばなかったはずなのだけれども。


 でも、せっかく二人っきりになれたのに。

 祥子さまときたら、そんなことまったく関係なく、一人で図書館になんて行っ
てしまうわけで。


(揺さぶっても起きなかったのは私が悪いんだけど)

 でも、でも。

 起こしてほしかったもん。

 そんなことを考えてちょっとだけいじけてしまった。

「どうしたの」


 薔薇の館に荷物を取りに帰った二人は、一緒に探してくれたみんなよりも少し
だけ帰りが遅くなってしまった。


「え?」

 手を繋いで歩いていると、祥子さまがそう言って祐巳の顔を覗き込んだ。

「・・・拗ねた顔してる」

「・・・・・・・・・ぁぅ」

 繋いでない方の手で頬っぺたをつままれる。どうやらお見通しだったご様子で。

「ふぁ、ふぁっへ・・・」

 ぐにぐにと引っ張られて、祐巳はすぐに降参する。痛いわけじゃないけれど、
怒らせたいわけでもなく。祐巳が態度を軟化させたことを感じ取ると、祥子さま
はすぐに頬っぺたをつまんでいた手を離してくれた。


「だって・・・」

 つねられた頬っぺたを抑えながらもじもじしていると、祥子さまは耐え切れな
くなったようにぷっと笑い声を洩らした。


「さ、祥子さまが・・・起してくださらないから・・・」

「?」

 顔を真っ赤にさせながらそう抗議するけれど、祥子さまは全くわからないとい
った様子で首をかしげるから。


「・・・・・・ふたりきりがよかったのに・・・・・・」

 声に出してみると、なんて幼稚な発想。いい加減熱かった顔がさらに熱くなる。

「それって・・・」

「な、何でもないです!」

 覆水盆に返らずなんて言葉はこの際遠いところへ放り投げて、祐巳はばたばた
と両腕を振り回した。だけど、祥子さまはしっかりと祐巳の言葉を聞きとめた上
で、何かを思案するような仕草で空を仰いだ。


「じゃあ、二人きりになりましょうか」





 ライムグリーンのラグの上に折りたたみ机を置いて、ベッドとの隙間に二人で
座る。ベッドと勉強机を除いた床面積は結構狭い。これが祥子さまのお部屋なら
全くそんなことはないのだろうけれど、今日のデート場所は祐巳のお部屋なのだ。
でも。少し窮屈な感じもしたけれど、祥子さまとぴったりくっつくとそんなこと
まったく気にならない。


「ついでに予習も済ませてしまいましょう」

「えぇー・・・」

「・・・もう次から宿題手伝ってあげないわよ」

「!!!」

 低い呟き声に祐巳は慌てて鉛筆をノートへ走らせた。こういうところ、祥子さ
まは容赦ない。


「やればできるじゃない」

 祥子さまのお膝の間に座って、上目遣いでうかがうように出来上がったノート
を見せると、祥子さまは表情を和らげてそう言った。


「ありがとうございました」

 もう、にっこにこ笑顔で祐巳はそう告げる。だって、他には何も邪魔するもの
はない。祥子さまと祐巳の間を。


 そう確信して祐巳はそっと目を閉じた。祥子さまがお家に来てくださってから
ずっとお預けだったのだ。「お勉強が終わるまでは駄目」って。


「せっかちね」

 祥子さまは笑い声を洩らしながら、祐巳の前髪を撫でてくれた。

 それから、お預けしていた時間を埋めるくらい長いキスをしてくれた。それな
のに、唇を離すと、『ちゅっ』て音がした。まるで、もっとして欲しいっておね
だりしているみたいだ。


 子犬がじゃれつくみたいに頬っぺたにもキスしようとしたら、祥子さまは笑い
ながらそれを避けた。むきになって何度も顔を近づけたけど、やっぱり祥子さま
はふざけて顔を遠ざける。


「もぅ・・・」

 わざと頬っぺたを膨らませて起ったふりをすると、祥子さまはやっとこちらへ
向き直ってくれた。でも、顔には頬笑みを浮かべたまま、おかしそうに祐巳を眺
めている。


「ぷきゅ」

 仕切り直しみたいに、祐巳が目を閉じて顎を少しだけ上げると、祥子さまはキ
スしてくれる代わりに、祐巳の鼻を軽くつまんだ。


 そんなふうに、いつまででもふざけ合っていたくなるくらいのふわふわな時間
の途中で、祥子さまが唐突に、何かを思い出したみたいに言った。


「そういえば」

「?」

 後ろから祐巳を抱きすくめながら、耳元に顔をうずめた祥子さまは悪戯っぽく
囁く。


「妹はみつかった?」

「・・・・・・!?!?」

 飛び跳ねる勢いで振り返る。

「どうなの」

 祥子さまはなおもそう重ねて尋ねてくる。わざとらしく小首をかしげて。

「な、な、そ・・・・・・」

 冗談でも何でもなく額から、背中から、汗が吹き出し流れ落ちる。冷や汗って
こういうのだ。


「何を驚いているの?私はこの前も言ったはずだけれど。「妹を作りなさい」っ
て」


「そ、それは・・・」

 確かに。それは聞いた気がする。はっきりばっちりと。だけど、はいそうです
かと即行で作れるようなものではない気がする。物や何かではないのだから、妹
は。


「急に・・・そんなこと、おっしゃられても・・・・・・」

 だけど、そんなこと祥子さまには言えなくて、口ごもるようにしてそう答える
のが精いっぱいだ。


「急ではないでしょう。この手の話題をつい最近まで出さなかっただけでも、充
分猶予を与えたつもりなのだけれど」


「ぁぅ・・・・・・」

 いくら薔薇さまでも、その役職に就くには選挙で会員である生徒からの信任を
得なければならない。とはいえ、番狂わせがない限り、その蕾が次の薔薇となる
のであるからして。まさか、祐巳の代でそれを途絶えさせるなんてこと、できる
はずがない。できるはずはないのだけれども。


「・・・・・・・・・特には・・・まだ・・・」

 実を言うと。正直。ぶっちゃけ。枕詞に凝ったとしても結論はただ一つ。そん
な人いません。


「まぁ・・・」

 祐巳の言葉を聞いた祥子さまは、わざとらしく驚いた顔をしてみせる。

「それでは、あなたは私の言うことなんて、聞く耳も持たないということなのね」

「そ、そういうわけでは・・・」

 偏頭痛を起こした時みたいにこめかみを指先で押さえる仕草に、祐巳は慌てて
弁明をする。


「ですから、今すぐには、できないというか・・・」

「そんな甲斐性なしの夫みたいな台詞は聞きたくないわ」

「そんな・・・」

 明らかに祥子さまは祐巳の反応を楽しんでいる。だって、全っ然真剣な表情で
はない。きれいな瞳が、どことなく意地悪な三日月に見える。


「・・・・・・だからって、今そんなこと言わなくても・・・いいじゃないですか」

 うまく反論できなくて、拗ねてるって思われるんだろうけれど。もちろんそれ
もあるのだけれど。


 おもしろがっている祥子さまを眺めていると、なんだか無性に腹立たしくなっ
た。


 何で二人きりの時にそんなこと言うの、って。

 せっかく二人で楽しく過ごしていたのに。他の人のことなんて、言わなくても
いいのに。そんなことを思ってしまった。


「あら」

 祐巳の様子にやっと気がついてくれた祥子さまは、おかしそうな表情のまま、
祐巳の顔を覗き込んだ。


「何、拗ねているの」

「別に、拗ねていません」

「嘘おっしゃい。あなた、感情が顔に出やすい自覚がないの」

「・・・・・・」

 言われれば言われるほど、頬っぺたが食べ過ぎのりすみたいに膨らんでいくの
が自分でもわかる。その頬っぺたを、祥子さまはこの間と同じように軽くつねっ
た。


「・・・いひふぁう」

 祥子さまこそ、意地悪だって自覚、まったくない。そんな気持ちをこめてそう
吐き出したら、祥子さまは苦笑いみたいにため息をついて言った。


「確かに、今すぐに妹を作れって言うのは、少し乱暴かもしれないけれど」

「・・・少しじゃないです」

「こら。あげ足を取らないの。・・・だから、今すぐにその子が現れなくてもい
いの。あなたが妹にしたいと思えるような子でないと意味がないのだから」


「・・・・・・よく、わかりません」

 むずがるように、祐巳は俯いた。

 急かすようなことを言ったのは祥子さまなのに。今すぐじゃなくていいなんて
言われても。どうしたらいいのかなんてわからなくなる。


「今すぐにできなくても、あなたにきちんと考えてほしかったの」

 祐巳の様子に、祥子さまは優しい声で答えると、抱きしめる腕に柔らかく力を
込めた。


「あなたと私の二人だけで、学校生活を送っているわけではないでしょう?」

「・・・・・・っ・・・・・・」

 祥子さまの囁き声に、頬っぺたに熱が走った。ときめいて赤らんでいく感覚と
は違う熱。きっと、恥ずかしいからだ。


 何もかも、見透かされたみたいで、俯けた顔を上げられそうにない。

『二人っきりがよかったのに』

『二人で楽しく過ごしていたのに、他の人のことなんて、言わなくてもいいのに』

 きっと、祥子さまはわかっていたんだ。だから。

『二人だけで、学校生活を送っているわけではないでしょう?』

 祐巳も。それ位わかっている。当たり前すぎて、忘れていただけで。

 考えたくなかっただけで。

 ほとんど涙ぐみそうになった祐巳に向かって、祥子さまは静かに重ねて言った。

「祐巳は、どんな子を妹にしたいの?」

 どんな子を妹にしたいの?

 そんなこと考えたこともない。

 言い淀んで、祐巳は祥子さまを見上げる。

 髪が長いとか、肌が白いとか、笑顔が可愛いとか。そんな外見の話ではないの
だろう。かといって、優しくて、頑張り屋さんで、なんてありきたりな答えも違
うような気がした。


「・・・・・・わかりません」

 間違っていると思うことを、その場しのぎで答えることも、わかったふりをす
ることもしたくなくて、祐巳はそう答えて身体を反転させると、祥子さまにぎゅ
っと抱きついた。


 さらさらの黒髪が、頬をくすぐると、やっぱり泣きたくなった。

 祥子さまは困ったような、でも、愛おしそうな顔をして祐巳にそっと口づける
と、同じようにぎゅっと抱きしめてくれた。


「私は、祐巳が妹でよかったって、心から思っているわ」

 宥めるように、祐巳の髪をなでながらそう言った祥子さまの声が、少しだけ遠
くて。


 祥子さまの腕の中、規則正しい心音を聞きながら、もう少しだけこのままでい
させてくださいと、マリア様にお祈りした。




                         END あとがき



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