恋に落ちたら 




 冷凍うどんから、おにぎり、菓子パン、エトセトラ。蓉子さまが持ち帰った白いビニー
ル袋の中にはこれでもかというほどの食べ物が詰め込まれていたけれど。食べ物をすべて
出し終わって覗き込んだ袋の底には、他とは明らかに違うカラフルな袋に包まれたな品物
が残っていた。


「線香花火?」

 袋の中からそれをつまみ出した祥子さまは、きょとんと目を丸くした。

「線香花火、ですね」

 祐巳もつられて首を小さく傾げてしまう。

 食事を取り終わると祥子さまはすっかり元気が戻ったのか、後片付けを買ってでた。お
姉さま一人に後片付けをさせるなんて生きた心地がしないくらいに小心者な祐巳は、当然
のように祥子さまの後を追った。


「花火大会をするにしては、ずいぶんと小ぶりね」

「ええ」

 くすりと笑う祥子さまに、祐巳もつられて笑ってしまった。なによりも、線香花火だけ
では花火大会はできないだろう。


「お姉さまの私物かしらね」

 言いながら祥子さまは線香花火を手に廊下へと向かう。蓉子さまのものならば早く渡し
て差し上げないと、ということらしい。


「祐巳も、もう片付けは終わりだからリビングへ戻りましょう」

 一瞬だけこちらへ視線を向けた祥子さまの微笑みはとても優しくて。はしゃいだ子犬の
ように一も二もなく側へ駆け寄ったけれど。


 線香花火を持ったままの祥子さまの右手に、どうしてだか胸が痛んで。

「どうかして?」

 うれしそうにすり寄ってきたかと思えば隣でまごついている祐巳に、祥子さまは不思議
そうに首を傾げてみせる。


「いいえ」

 何でもありませんというように小さく首を振ると、祥子さまも別段気に留める様子もな
く歩き始めるから。ただ黙って隣を歩いた。

 だけど。
 歩きながら、ちらりと窺った祥子さまの横顔に、やっぱりちくりと胸が痛んだのだった。


                                 


「お帰りになられたの?お姉さま方・・・」

 リビングに戻るとそこにはしみじみとお茶をすするお雛さま、もとい清子小母さましか
いなかった。


「ええ、明日も早くから用事があるそうよ。優さんが送っていってくれたわ」

 お茶請けのお菓子を一口、口に含んでから、清子小母さまは明るい声でそう言って。

「でも、祐巳ちゃんは泊まっていってくれるのでしょう?」

 天使のように微笑んだ。

「へ?」

「・・・・・・」

 これには間抜けな声を上げた祐巳だけではなく、祥子さまも驚いた様子で目を軽く瞬か
せた。


「だって、せっかくお客さんがいらしたのに、すぐに帰られたらつまらないもの」

 清子小母さまはそう言って子どもみたいにぷーっと頬を膨らませてみせる。ほんとに高
校生の娘がいるとは思えないくらいに愛嬌があって可愛らしいんだ、清子小母さまは。


「それとも、祐巳ちゃんは家に泊まっていくの、嫌?」

「い、いいえ、そんなことは・・・」

 嫌?と聞かれて頷いて見せるなんて事、祐巳にはできない。むしろ嫌どころか、祥子さ
まと少しでも長く一緒にいられる願ってもいない事態だ。だけど、しばらくは家族水入ら
ずでお祖母さまとの思い出に浸る時間も欲しいんじゃないかな、祥子さま。そんなことを
思って祐巳は結構な時間、目を回していたのだけれど。


「・・・祐巳が嫌でなければ、泊まっていってくれたら良いわ」

「ええ?」

 何と、祥子さまからまでそんなお言葉。

「あ、で、でも・・・お邪魔かなって・・・」

 ごにょごにょとまごついてしまったけれど、みつめ返した祥子さまはまるでマリア様み
たいに優しくて、穏やかな微笑を浮かべていた。


「私が祐巳と一緒にいたいのよ」

 反則。反則だ、そんな殺し文句。

「はい・・・」

 そんなこと言われたら、うれしすぎてもう何もいえなくなる。茹で上がった蛸みたいに
真っ赤になって祐巳が小さく頷くと、後ろからからかうような声が聞こえてきた。

 いいわね、若い人は。って。
 それは、つい先程も清子小母さまの口から聞いた言葉だった。


                                 


「本当にするんですか?」

「ええ」

 昼間よりも少しだけ涼しくなった風がそよぐ夕闇の庭で、祥子さまはそう言った。

「必要なものならば、お姉さまは忘れて帰ったりしないでしょうし」

 どこか楽しそうに微笑む祥子さまの手には、蓉子さまが置いていった白い袋の中に残っ
ていた線香花火だった。


「祐巳は、線香花火好き?」

 水を張ったバケツのすぐ近くで、祥子さまがろうそくに火を点しながらこちらを向いて
そう言った。


「へ?・・・えっと、そうですね・・・」

 線香花火の束を一房受け取りながら、祐巳は少しまごついてしまった。

「好きか嫌いか聞いているだけでしょう?」

 返答に困った祐巳に、呆れたような顔で祥子さまが笑う。だって、改めて線香花火が好
きか嫌いかなんて聞かれたら、少し考えてしまう。


「・・・花火は好きですけど、線香花火は少し、寂しい感じがします」

「寂しい?」

 思ったままを答えると、祥子さまが不思議そうに首を傾げた。

「何と言うか・・・、線香花火って、家では全部の花火が終わった後にするので、楽しい
時間が終わってしまうみたいで。それに小さな火が静かに消えていくのも余計に寂しくな
ってしまって・・・」


 思いっきり主観が入りまくりな返答だったけれど、祥子さまは笑ったりしなかった。た
だ「そうなの」って呟いて、そっと遠くの空を見上げた。もう、夜の入り口のような色だ
った。


「でも、私は好きよ、線香花火」

 同じように祐巳もただ空を見上げていたら、不意に祥子さまが振り向いて「子どもの時
の話だけれど」と付け足しながら先程の話題を繋げた。


「小さな光なのに、一生懸命はぜて輝いて見えたわ。その時々の自分の気持ちを映してい
るかのように。だから、その気持ちがなくならない限り、線香花火の火は消えたりしない
の」


 そんなこと考えなくなるくらい、最近はめっきりしなくなったけれどね、なんて祥子さ
まははにかんだように呟いたけれど。思いがけず手渡された素直な言葉がうれしくて、そ
れから少し切なかった。


「気をつけて」

 線香花火を一つ、ろうそくに近づけた祐巳の耳に、祥子さまの優しい声が届く。

「わぁ・・・」

 寂しい感じがする、なんて言っていたくせに、ぱちぱちと色を変えながらはぜていく光
の飛沫に祐巳は素直に感嘆の声を上げた。


 夕闇が一層色を増して、暗くなった手元を微かな光が彩っていく。不意に明かりが増し
て、隣を見ると祥子さまも線香花火に火を点していた。


「きれいね」

 ゆっくりと、静かに、線香花火は輝きながら消えていく。ぱちぱちと跳ねる光の粒が小
さくなるまで火が灯ったままのものもあれば、丸い火の玉が大きく腫れて、すぐに地面に
落ちてしまうものもあったけれど。お互いの手元を、顔を、微かに色づかせながら照らす
線香花火に魅入られたみたいに、二人して次々と手を伸ばしていた。


 手元ではぜる飛沫を眺める祥子さまの横顔は、優しい色でいっぱいで。弾ける光の雫よ
りも鮮烈に祐巳の瞼に焼き付けられてしまいそうだ。


 なんてきれいなんだろう。

 そんな言葉しか浮かんでこないくらいに、いつの間にか、花火の火よりも、祥子さまの
美しい横顔だけを眺めていた。


「祐巳?」

「へ?あ、は、はい?」

 ぽけっと見惚れていたら、いつの間にか祐巳の手元の線香花火が終わっていた。

「最後の一本。祐巳にあげるわ」

 相変わらずの間抜け面な祐巳に祥子さまは飛沫の向こう側で苦笑しながら、そっと線香
花火を差し出してくれた。


「あ、いえ。どうせなら、お姉さまが」

 ここは「線香花火は寂しい」宣言をした祐巳より、「好き」と素直に言っていた祥子さ
まに譲る方が賢明な気がする。だけど。


「私はいいわ。祐巳がしているのを見ているだけで」

 そう言う祥子さまの手元の花火はもう終わっていた。

 微かな風の音と、小さな虫の音が、星が輝く前の空に響いている。

「・・・それじゃあ・・・」

 そんなこと言われたら、途中で火種を落とすなんて失敗は許されないなんて少しばかり
緊張しながら、祥子さまの指先から最後の一本を受け取る。受け取る際に一瞬だけ触れ合
った祥子さまの白い指先は、少しだけひんやりしていたのに、そこから離れた祐巳の指先
は燃えるように熱くなって、どぎまぎしてしまった。


 ろうそくに近づけると、線香花火は軽やかな音を立てながらはぜ始めて。微かに弾ける
音と一緒に、俯き加減の祥子さまの美しい顔が浮かび上がった。


 肩から落ちる黒い髪と。

 頬にかかりそうなくらいに長い睫と。

 穏やかな微笑の形を作った唇が、黄色とみどりとオレンジ色の光に照らされて。

「・・・きれいですね」

 思わず呟いてしまうと、祥子さまは優しく目元を細めて顔を上げた。

「そうね」

 祥子さまの瞳には、今日の線香花火はどんな風に映っているのだろうか。

「・・・あ・・・」

 消え入るような音と共に、静かに火が小さくなっていき、辺りを照らしていた小さな光
は闇に溶けた。

 やっぱり、線香花火って寂しい。
 光が消えてしまった手元をみつめながら、いつもよりそう強く思ったけれど。

「今日は、これでおしまい」

 悪戯っぽい囁き声に顔を上げると、夕闇の向こうの祥子さまと確かに目が合った気がし
た。


『その気持ちがなくならない限り、線香花火の火は消えたりしないの』

 二人しかいない夕闇の庭に祥子さまの声が穏やかに降り注いだかのように聞こえて、唐
突に胸が締め付けられてしまった。


 どうしよう。



 線香花火の祐巳の火は消えない。



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