Kiss mark ?



 新しく仕立てたドレスをもう一度確認してからクローゼットを閉めた。その代わり
にスケジュール帳を開く。頭に入っている予定と全く同じ文字の羅列を眺めながら、
チェックボックスに印を一つ追加した。


(教室へも連絡は入れているし)

 それぞれの連絡先に指を走らせて確認しながら、揃いのアクセサリーを思案すると、
少し楽しくなる。来月のコンサートの準備は着々と進んでいた。直前になれば練習室
に閉じこもってしまうだろうから、できることは余裕のあるうちに済ませておいた方
がいい。単独ではなく、違う分野の方々とのお仕事になるけれど、それでみちるのす
るべきことが減るわけではない。増えてしまう分―お互いのスケジュール調整等はそ
れぞれの所属している事務所が受け持ってくれるのだし。


(するべきこと・・・というよりはこだわりだけど)

 とりあえず、そのこだわりに折り合いをつければ、後は高みへと向けて音を磨いて
行くことに専念するだけ。学業との両立は時間的な余裕のなさを時折感じる程度で、
ひどく負担なわけではない。


 だから、この時点で懸念することなどあまりない。あっても解消できるだけの猶予
はある。


(そのはずなんだけど・・・)

 みちるは先ほど確認したドレスの形状を思い返しながら、何だかとても面倒くさく
なる。そしてそう言ったことほど、解決に向けて行動することを猶予なく迫られる。


(・・・・・・いや)

 はるかにそのお願いをすることを想像するだけで、何だか途方にくれそうになって
しまった。



                             


「?」

「だからね」

 濡れた髪を乾かす暇も与えられずに連れてこられた寝室で、みちるは口ごもりそう
になりながら言った。


「あまり、目立つ所に跡が付かないようにしてほしいの」

 ベッドヘッドにゆったりと背を預けてシーツの上へ脚を投げ出したはるかに引き寄
せられると、うつ伏せに身体を預けるような形になってしまう。


「何の?」

「だから、その、・・・首とか、肩とか・・・に、あまり強く、口付けないで」

 髪を撫でられながら見上げると、言葉の意味を理解したらしいはるかは少しだけ目
を丸くして、すぐに唇を尖らせた。


「えー・・・。でも、そう言うのってわざとじゃないもん。あんな理性の消えかかっ
てる時のことなんて約束できないね」


「・・・・・・」

 ―――じゃあ、しばらくはお預けね。

 すぐに口を突いて出そうになった言葉を慌てて飲み込む。

(・・・・・・・・・)

 こういう時、後先考えずに行動することのできない自分が少し恨めしい。

 けれど、自分でも守れやしない規制を設けても身体に悪いだけ。その上、自分でそ
う決めたにもかかわらず、三日もすれば、煮るなり焼くなり縛るなりしてはるかを襲
うだろう。却下だ。


「はるかだって知っているでしょう。来月にはコンサートがあるから」

「から?」

「その、胸元から開いたドレスなの。だからね・・・」

 まさか直前までことに及ぶほど飢えてはいないだろうし、余裕もないはずだから、
当日そんな恥ずかしい状態を披露することはないだろうけれど。その間には衣装を合
わせることもあるだろうし。リハーサルだって一度じゃないはず。同じものを身に付
けなくとも、似たようなイメージの方が良いかもしれない。コンシーラやファンデー
ションで隠すにしても、気が気ではない。その上、相手がいることだから、予定通り
に進行する確証はないのだ。とにかく、釘をさしておくに越したことはない。


「ねえ、お願いよ・・・」

 頬を撫でるようにして髪をかき上げるはるかの腕に両手を添わせながらそう懇願す
る。こんな風にすれば、はるかはますます面白がって言うことを聞いてくれないのが
わかっているのに。


「じゃあ、みちるも一つ我慢してよ」

「え?」

「聞いてくれたら、ちゃんと約束守るよ」

 それなのに、予想に反して、はるかは明るい調子でそんなことを言い始めた。

「・・・いいわ。何?」

 あからさまに訝しがってしまうけれど、背に腹は代えられない。とんでもなく恥ず
かしい要求をされたらぶつことにするわ。身体だけは頑丈だから大丈夫なはず。そう
身構えながら続きを促した。


「みちるも、キスマーク禁止」

「・・・?」

「だーかーら。同じように首とか、肩とかに強くキスしちゃだめなの」

「え・・・」

 思わず、顔が引きつってしまった。

「これならおあいこだから、別にいいよね」

 その反応をしっかり笑って眺めながら、はるかは悪戯っぽく首をかしげて見せる。
その上、腿に乗せた手のひらを、じれったく撫で上げてくる。


 意地悪をされているのだと言うことはわかる。けれど、今、この状況ではそれに従
うしか道が残されていないのも理解できているはず。それなのに、できればそっと、
やんわりと、それを避けたい一心で言ってしまった。


「で、でも・・・はるかはそんな、首元をあらわにするようなこと、ないでしょう?」

 はるかを楽しませるだけ。みちるがそれに従わなければいけない時間をほんの少し
先送りにするだけ。わかっているのに、どうしてねだるような言い方をしてしまうの
か。


「そりゃね。でも、制服の時だって結構苦労してるんだよ。それに、僕だけ我慢する
のって、不公平だと思うんだけどなぁ」


 案の定、はるかはのらりくらりと答えながら、こちらを眺めて笑っている。

「・・・努力するわ」

「それなら、僕も努力はするけど、うっかり吸いついちゃうかもしれないよ。おいし
そーな首とか肩とかに」


「・・・・・・」

 逃げ道を完全にふさがれて、前言を撤回するか、はるかの要求をすべて受け入れる
かの選択肢だけが残される。


「あ、もう一個あるよ」

「はい?」

 みちるの葛藤に覆いかぶさるようにしてはるかが言った。

「アタシタチ、ソレマデハ清イ関係デイマショ。とかね」

「・・・・・・・・・!!」

 完全に遊ばれている。それはわかる。だけど怒れない。

 腿から這い上がってきた手のひらが、背中の下で止まっている。頬を撫でていた指
先が、弄ぶようにして耳をくすぐっている。


「どうしよっか」

 昂ぶっていく感覚に眉をひそめると、はるかと目が合う。ずっとその様子を見られ
ていたのかと思うと、頬から火が出そうになった。でも。


「・・・・・・聞くわ。・・・だから・・・」

 戦慄くように薄く開いてそう零した唇を、同じように指先でくすぐられると、早く
理性を手放してしまいたくなる。


 軽く力を加えられて開かれた唇で、その指先を挟み込む。その姿も見られている恥
ずかしさに目を伏せたくなるのに、指先に舌を這わせるのをやめられない。


「だから、何?」

 殊の外優しい声で、けれど素っ気ない短さで、彼女がみちるを問いただす。言葉を
濁したまま何も言えなくなっていたら、唇から指先を引き抜かれてしまった。


「・・・やめないで」

 自制心がもどかしさに押しつぶされると、鼓膜にはり付いてしまいそうな甘ったる
い声が漏れてしまった。


 みちるの返答に満足したのか、はるかはにっこりと笑う。まったく邪気のない笑顔
に、尚更腹立たしくなってしまいそうだ。それなのに、小言の代わりにもれるのは熱
くなったため息だけ。


 少し大きな手のひらが、両方からみちるの頬を捕まえて上を向かせる。はるかの吐
息が、頬に当たって、耳に当たって、最後に首筋に当たった。


「・・・駄目って言われると、余計力が入っちゃうなー」

「だから、駄目なの。我慢して」

 ゆっくりと、舌が肌の上を撫で上げて行く感触に、頬を捕まえられたまま軽く首を
振った。それから、すぐ側にある手首に唇を這わす。


「あ。ほらほら、みちるも約束守ってよ」

 唇と一緒に、舌先でそっと触れていると、はるかに目ざとく見つけられる。

「キスしただけじゃない」

「でも、我慢できなくなるかもしれないだろ」

 耳朶を唇に挟みながら言うものだから、彼女が言葉を発する度にそこがくすぐられ
て、余計に熱が煽られていく。はるかの髪を撫でつけながら、彼女と同じように目の
前の耳を唇で挟みこむと、また、小さな笑い声が聞こえてくる。けれど、それを止め
ることなんてできそうもない。


 こうして抱き合っていると、みちるははるかに触れたくて仕方がなくなる。指で。
唇で。舌で。その肌にずっと触れていたい。別に与えられる感覚をやり過ごそうとし
ているわけでもなんでもない。


 口付けを浴びながら、彼女の素肌を深く味わうような、欲張りな幸福感がみちるは
好きだった。


 だから、手首や耳と言わず、鎖骨にも、腕にも、それから肩や首にも。抱き寄せら
れながらずっと触れて確かめて、何度もキスをする。


「んー・・・」

 脇に腕を差し込まれると、ふわりとした浮遊感が訪れる。上向き加減で唇を重ねて
いたから、わからないまま足場を動かした。


「あ・・・」

 唇が離れると、持ち上げられた時と同じように着地する。はるかの膝の間だった。
背中に彼女の胸がぴったりと触れているのがわかる。後ろから抱え込むようにして、
手のひらが乳房を包み込むのを感じながら、少し背伸びをして彼女の頬に口づけていた。


「みちる、キス好きだね」

 甘く呻く声がくすぐったいのだろうか。はるかがくすくすと笑う。

「・・・・・・好き」

 指先が柔らかく食い込んで、くすぐって、弾く。その痛いくらいの心地よさに、声
が甘く上擦る。


「はるかにキスするのが好き」

 夢見心地のように呟いてから、囁きかけた耳にも唇を触れさせると、はるかがくす
ぐったそうに身をよじるのがわかった。


 片方の手のひらが肌を滑り落ち始めたのはいつだったのかわからない。胸元から撫
でおろしていく腕に、自分の指をからませても、その滑らかさに溶かされてどう動い
ているのかすらわからくなる。


「あっ」

 ゆったりと彼女に預けていた身体が、思わず跳ね上がる。腿の内側へと指先が入り
込んだからだ。


 不意に訪れた感覚に戸惑いながら、それでも背中を包む温もりがなくなってしまっ
たことが物足りなくて、みちるはそっと窺うように後ろを振り返った。


「抱っこする?」

 みちると目が合ったはるかはそう言って両手を広げて見せる。腿の内側に残る熱を
もてあましながら頷くと、すぐにはるかの両手が背中を抱いた。


 また、ため息が漏れる。

 真正面でぴったりと重なる心地よさに、膝が震えて力が入らなくなる。目の前に、
肩から首筋にかけての美しい曲線が見えた。


「・・・・・・っ」

 背中を撫でおろした指が、終着点を探して円を描く。くすぐったくて、でもそれだ
けではない感覚。待ち焦がれるようにはるかの首筋に押し当てた額を擦り付ける。そ
れから。


「みちる」

「えっ、・・・?」

 押し広げられていくような感覚がすると同時に彼女が入り込んでくる。耳元には、
囁き声。


「キスマーク禁止だからね」

「・・・・・・くっ」

 今まさに、額を擦りつけていた肩に唇を押し付けた瞬間に、はるかはからかうよう
に言った。


「っ、・・・あ・・・」

 声と同じように、指先が浅くかき混ぜるようにみちるをからかう。

 脇から上へ伸ばすように背中を抱きしめながら、それでもやっぱりはるかの肩に唇
を落としたくて、できなくて。代わりに一粒涙がこぼれた。


(・・・・・・もうっ、はるかのバカ!!)

 指で。唇で、舌で。はるかの素肌にずっと触れていたい。

「・・・あ、く・・・・・・」

 だから。

「我慢できなくなった?」

 はるかの心の底から楽しそうな声が、間近に響いてこだまする。悔し紛れに首を振
って見せると、指先が急に突き上げられて、悲鳴のような声を漏らしてしまう。


「も・・・ばか・・・はるか、意地悪・・・」

「何で?一生懸命ご奉仕してるのに」

「ばか!」

 彼女の身体にずっと口づけていたいのは、与えられる感覚をやり過ごすためではない。

(ばかばかばか!!!)

 みちるは、そうしなければ治まらなかったりする。

「・・・・・・ぇ・・・っく・・・」

 文字通り、彼女の肩なり首なりに齧りつくようにして吸いついていないと、つまる
ところ到達できない。癖と言えばそれまでだけれど。

 それを知っているからこそ、はるかはこんなにも楽しそうなわけで。みちるはあん
なにも、はるかの提示した禁止を受け入れ難くしていたのである。


「・・・顔、みせてよ」

 はるかの声が聞こえたと思ったら、身構える余裕も与えられずに顎をつかんで上げ
られた。視線が重なったはるかの瞳がきれいな弧を描く。


「やらしー顔」

 髪を引っ張ってやろうかしら。頬を叩いてやろうかしら。

 そう思わずにはいられないくらいに、はるかはうれしそうにそう言って、みちるの
首筋に顔を埋めた。


「・・・・・・っん」

 首筋から耳元を、唇が何度も行き来して、最後に耳朶を噛んだ。

「泣かないでよ・・・可愛すぎて、我慢できなくなっちゃう」

 耳の後ろに舌が触れた。それから一瞬だった。

「・・・ちょ、っと・・・っ・・・」

 ぎゅうっと引っ張られるような感覚のすぐ後に、針で突かれたような痺れ。

「つけちゃった」

「・・・・・・」

 言われなくてもじんじんと脈打つ感覚に、みちるは呆気にとられてしまった。

「・・・・・・髪上げて演奏する?」

 申し訳なさそうに。でも、どこか楽しそうに、はるかが言う。

「・・・下ろしたままでするわ」

 けれど、答えたみちるの言葉に返事もないまま、はるかはまた、ゆっくりと指を沈
めて行く。


「でも、約束破っちゃったから。みちるも守んなくていいよ」

「え?」

 約束破りに怒るタイミングまで逃してしまったみちるが、声を押し殺すのも我慢で
きなくなった頃、はるかが笑い声のように言った。


「どーぞ。吸血鬼さん」

 みちるが額を押しあてている方の肩を露わにするかのようにはるかが首をかしげた。

「ほら」

「!」

 触れてくる指の感覚が増えたことに気が付くよりも先に、はるかは乱暴なくらいの
強さで突きたてる。身体ごと突き上げられていくような感覚の中で、もう我慢なんて
できない。


 きつくきつくはるかにしがみついて、その肌に口付けると、胸の中まで満たされて
いく。


 高く昇っていくような熱の中で、抱きしめる腕と同じくらいの強さで、その肩にし
がみついてしまった。



                             


「だからって、本当にかみつくことはないと思うんだよねぇ」

「・・・・・・」

「みちるが肉食系女子だってことは知ってたけど」

(・・・・・・何なのその称号は)

「あーあ。痛かったなぁ・・・。どうしよう、明日のテスト走行、痛くてできないかも」

「悪かったわよっ」

 いつまでもうらみがましく言うはるかにそう吐き捨てて、その腕の中でくるりと背
を向けた。


 確かに。歯形はさすがについていないけれど、キスマーク等という可愛いらしいも
のじゃない大きさの赤い跡が彼女の肩にはくっきりと残っていた。


「でも、はるかだって、意地悪だったわ」

 背を向けたみちるをはるかは優しく抱き寄せて笑い声を漏らすけれど、むくれてし
まいそうになる。


『我慢できなくなった?』

『やらしー顔』

 普段からからかったりはするけれど、あんな風にみちるをいじめたりすることは稀
なのだ。


「だって、僕は怒ってるんだから、仕方ないよ」

 その上、そんなことまで言う。怒っているのはみちるの方だ。そう思って振り
返ると、はるかはやっぱり笑っていた。でも、目が笑っていない。


「舞台の上でそんなドレス着て、次は一体どれだけの男を落としちゃうつもりなのか
なって」


「・・・もうっ」

 拗ねたはるかを前にして、みちるはまた、途方にくれそうになったのだった。



                           END



 結局ドレス替えたみたいですよ。



                          TEXTTOP

inserted by FC2 system