KISS




 薔薇の館へと急ぐ土曜日の正午過ぎ、昇降口で偶然祥子さまと一緒になった。

「ご、ごきげんようお姉さま・・・」

「っ・・・ごきげんよう、祐巳・・・」

 急いで薔薇の館へ行く理由なんて決まっている。もちろん、山百合会のお仕事だってあるけれど、取
り立てて急がなければいけない仕事は今のところなくて。それなのにこんなにも「早く、早く」と心が
身体を急かすのは、逢いたい人がいるからに他ならない。


 早く、祥子さまに逢いたい。

 毎日会っているのに、今更そんなに急ぐ必要なんてないだろうと笑われるかもしれないけれど。毎日
祥子さまと会って、一緒に過ごして、お家へ帰ってからも気がつけばその日に話したことや、祥子さま
の笑顔を思い出している。だけど、祐巳に触れてくれる祥子さまの温もりだけはうまく思い出せなくて、
逢いたくて仕方がなくなってしまうのだ。

 だから今日もいつものように「会いたい」と思いながら革靴を足に突っかけて、早足で薔薇の館へ向
かおうとしたところで、願いがかなったみたいに祥子さまが現れたものだから、うれしくて、だけどち
ょっぴり恥ずかしくて挨拶を交わしたきり黙りこんでしまった。

 でも、やっぱりうれしくてたまらなくなってはにかんで祥子さまをみつめると、祥子さまはなぜだか
そらしていた視線を一旦祐巳の方へ戻して、心なしか頬を染めたかと思ったらまたつんと横を向いた。
そんな仕草が余計に祐巳の胸のどきどきに拍車を掛けて、何となく手持ち無沙汰になってもじもじして
しまったけれど。祥子さまがそっぽを向いたまま手を差し伸べてくれたから、祐巳は迷うことなくその
手を取ったのだった。



「あ・・・」

 祥子さまと手を繋いで、いつもなら足早に通り過ぎる中庭をゆっくりと歩いた。ぱちぱちと胸の中で
はぜる甘酸っぱい感触にくすぐったくなって空を見上げたら、真っ青な空に大きな雲が湧き上がってい
た。綿菓子みたいなその雲は、まるで祥子さまへの祐巳の気持ちみたいにどんどん大きく膨らんで、あ
っという間に青いキャンバス目いっぱいに広がった。

 
ぽつり。

 大好きって気持ちが祐巳の中でいっぱいになって溢れる代わりに、空の中に納まりきらなくなった雫
が一粒こぼれた。


「雨だ」

 誰が見たって雨なのだけれど、落ちてくる雫を見ながら祐巳は呟いた。大きな雨の粒は、最初の一滴
を合図にして、堰を切ったみたいに瞬く間にあたり一面に叩きつけられた。


「祐巳、こっち」

 このまま思いっきり走っても良かったのだけれど、薔薇の館に着く頃には二人ともびしょ濡れになっ
てしまう。そう思って祐巳がおろおろするのと同時に祥子さまは繋いでいた祐巳の手を引っ張って近く
の建物の中へと押し込んだ。


「少し濡れてしまったわね」

 扉を閉めながら祥子さまにそう言われて、我に帰ったみたいにあたりを見回すと瑞々しい植物たちが
所狭しと生い茂っていた。ここは、古い温室だ。


「ここで、雨宿りしましょう」

 祥子さまは白いハンカチを取り出すと、まず祐巳の髪と肩に着いた水滴を拭ってくれた。

「あ、ありがとうございます」

 祐巳も同じように祥子さまの濡れた髪や肩を拭いて差し上げようとポケットに手を突っ込んでハンカ
チをまさぐったけれど、祐巳が取り出すよりも早く、祥子さまは自分でハンカチを髪に押し当てた。う
う、トロい自分が恨めしい。


「・・・通り雨かしらね」

 落胆する祐巳をよそに「すぐに止むだろうから、それまでゆっくりしましょう」と祥子さまはおっと
りとそう言った。そのまま長い黒髪を今度は丁寧にハンカチで押さえつける。


(きれいだなぁ・・・)

 さっきまで落ち込んでいたくせに祐巳は感嘆のため息を漏らしてそっとその姿に見惚れた。お顔がき
れいだから好きになったわけではないけれど、その目立ちすぎる容姿はやっぱり祐巳の胸を必要以上に
どきどきさせる。それに、怒っている時も拗ねている時も祥子さまのお顔はいつも変わらずきれいだけ
れど、今のように静かで優しい表情をしているときの祥子さまは格段に美しい。ヒステリーを発動させ
ていない時の祥子さまは本当にマリア様みたいだ。

 髪を拭き終わった祥子さまはそのまま手の甲でその髪を後ろに払った。さらさらの黒髪は一瞬だけ宙
を舞って、音もなくまっすぐに背中へと降りる。ただそれだけの光景なのにきらきらと輝いて見えるの
は、祐巳の欲目のせいではないはずだ。どきどきどきどき胸は高鳴るばっかりなのに、見惚れたままの
視線はちゃっかりと祥子さまの黒髪から形の良い眉へ移って、その次に長い睫に隠されそうな澄んだ瞳
へと移動する。だけど、高い鼻筋を辿ってその下の艶やかな唇が目に映ると、今までで一番どきりと心
臓が跳ねた。

 祥子さまの唇は、薄いわけでも厚いわけでもなく、ほどよくふっくらと柔らかそうで、本当に花びら
みたいだ。その上グロスを塗っているわけでもないだろうに、つやつやしていて、薄紅の唇が輝いて見
える。


 あの唇と、キスしているんだ。いつも。

 自分で思い出しておいて、祐巳は赤面した。
 祥子さまのキスは。
 優しく撫でてくれるみたいなキスも、照れ隠しのように触れ合わせるだけのキスも、ちょっとだけ怒
っている時の乱暴なキスも、全部祐巳をどきどきさせて、幸せな気持ちでいっぱいにする。触れ合った
唇から祐巳のどきどきが伝わってしまいそうで少しだけ恥ずかしいけれど、祥子さまの暖かい気持ちも
じんわりと伝わってきて蕩けそうになる。


 キス、したいな。

 思わず唇に手をあてたら、自分の顔が相当に緩んでいるのに気付いて祐巳は更に赤面した。思い出し
笑いでにやにやしているなんて、これじゃヘンタイさんだ。


「どうしたの?」

 百面相どころか身振り手振りつきでわたわたし始めた祐巳に気付いた祥子さまは小首をかしげた。

「ななななななんでもないです!!!」

 まるで覗き見がばれたおじさんみたいにどぎまぎする胸を押さえながら必死で首を横に振るけれど、
そんなことをしたら余計に怪しまれるって気付いても、してしまってからでは後の祭りだ。


「考え事?」

「え、ええ・・・まぁ、そんなところです・・・」

 むにゃむにゃと曖昧に答えるけれど、祥子さまは追求の手を緩めてはくれない。

「何を考えていたの?」

「うぇ?」

 そんな殺生な。まさか祥子さまとのキスを思い出して余韻に浸っていましたなんて言えるわけがない。
ごめんなさい、お姉さま。祐巳は少しだけヘンタイさんなのです。心の中でそう謝りつつ何とかこの場
をやり過ごそうと試みるけれど、目の前の祥子さまの表情はどんどん険しくなっていく。


「あ、あの・・・」

「・・・私には言いたくないのね」

 ぼそり。

「ち、ちがいます!」

 祥子さまが一度ものすごく眉をしかめて、そのまま拗ねた子どもみたいにそう言い捨てるから、祐巳
は慌てて弁解しようとするけれど、祥子さまは顔をぷいっとあさっての方向へ向けてしまった。


「お姉さまぁ・・・」

 さっきまではマリア様だったのに、今度は小さなお姫様だ。限られた人の前でしか祥子さまはこうい
う行動はしないから、祐巳の前でも甘えてくれているんだってわかってうれしいのだけれども。このま
までは祥子さまのご機嫌は今日中に直りそうにない。せっかく二人きりなのだから、甘い雰囲気までと
はいかなくても仲良くしたいのに。そう思って祥子さまのワンピースの端をちょんとつまんでみる。


「・・・何を考えていたの?」

 先程と同じ質問を祥子さまは繰り返す。どうやら祐巳が白状するまで、許してはくれないらしい。

「えっと・・・その・・・」

 祥子さまに怒られたままなんて嫌だ。だけどやっぱり恥ずかしくて言い淀んでしまうと祥子さまがお
もしろくなそうにため息をつくから。祐巳は恥ずかしさとちょっとだけ滲んでしまった涙を隠すために
目をぎゅっと瞑って、口を開いた。


「お、お姉さまと、キスできるの・・・今度はいつなのかな・・・って・・・」

 蚊の鳴くような声ってきっとこんな感じだってわかるくらい、絞り出した自分の声は小さく震えて聞
こえた。


「・・・・・・」

 二人を包む気まずい沈黙に祐巳がおどおどと様子を窺うと、祥子さまは目を丸くして固まっていた。
そのまま音もなく白くてすべすべの頬にさあっと朱色が差す。本当はそんな場合じゃないのに、祐巳は
その表情にまで見惚れてしまって何も言えなくなった。


「・・・そう思うなら・・・」

「え?」

 祥子さまはさっきの祐巳と同じように自分の唇を一瞬指先で覆ってから、小さく呟いた。

「そう思うなら、たまには祐巳からもして欲しいわ」

 今度は祐巳が目を丸くして、顔を真っ赤にする番だった。

「えっ、えっ、ええ!?」

 確かにキスしたいなって思ったけれど、改めて言われるととてつもなく恥ずかしいもののではないだ
ろうか。そういうのって何と言うか雰囲気とか空気とかそういうものが重要な気がするのだけれど。

 それなのに祥子さまは少し屈むようにして、固まってしまった祐巳の前まで顔を寄せてきて。そのま
ま「はい、どうぞ」といわんばかりに目を瞑った。

(えぇぇぇえぇ〜〜〜〜〜!?!?)

 また急速に顔に血液が集まっていく。これで今日何度目だろう。そろそろ爆発するのではないだろう
か。でも、その頬も隠せないくらいに、祥子さまの顔が間近にある。静かに瞳を閉じているそのお顔は
壮絶に美しくて、何も考えずに眺めればただただきれいなだけなのだけれど。祥子さまはただ瞳を閉じ
ているだけではないのだ。

 それに、よく考えると祐巳から祥子さまにキスすることなんてあんまりない。いつも、今の祥子さま
のように目を瞑って祥子さまの唇が触れてくれるのを待っている。というより、そういう雰囲気になる
ともう何も考えられなくなってとっさに目を閉じてしまうのだ。だから、自分からなんてどうしようも
なく恥ずかしい。その上こんな風に改めて待たれたりしたら、もうどうしたらいいのかわからない。

 祥子さまの長い睫は微かに揺れていて、唇はうっすらと開かれていて。こんなにも間近に祥子さまを
じっくり見たことがなかったから、それだけでどきどきしていつまでもこのまま見惚れてしまいそうに
なる。


「ゆみ」

 じれったいように、祥子さまが祐巳を呼ぶ。
 とりあえず、その声に押されるように手を前へ進ませたけれど、どこに触れて良いのかわからなくて
祥子さまの手を握る。だけど、祥子さまは「そうじゃない」とでも言うように小さく首を横に振ると、
祐巳の手を握り返して自分の頬に押し当てた。


「お姉さま・・・」

 祥子さまの唇は目の前にあって。
 少し顔を近づければすぐにでも触れ合わせることができるのに、なんだか恐れ多い気がしてとっさに
すぐ横の頬っぺたにキスしたら、まるで火傷したみたいに祥子さまに触れた唇が熱くなって、すぐに離
した。


「・・・・・・」

 祥子さまは、祐巳の唇が離れると目を薄く開けて、自分に触れられたのと同じ方の祐巳の頬っぺたに
キスをすると、すぐに離してまた目を閉じた。


(ま、まだ終わりじゃない!?)

 そりゃ、祐巳だって祥子さまとたくさんのキスをしたいから。いつもなら、何度も何度も唇を寄せる
けれど、今日は状況が違うのだ。おろおろと逡巡していると、祥子さまが祐巳の手を握っていない方の
手で制服の布地をきゅっと握る。祐巳は半ば勢いに任せて今度は祥子さまの鼻筋にちょっとだけ背伸び
をしてキスをした。

 だけど、祥子さまは祐巳の真似をするみたいに、今度も祐巳が触れたのと同じ鼻筋にちょんと触れる
だけのキスをする。


 もしかして。

 思いついて祥子さまの左右の目元にキスをしたら、やっぱり祥子さまは祐巳の真似をしてその通りの
キスしかくれなかった。


(やっぱり・・・)

 どうやら祥子さまは祐巳からするまで唇には触れてくれないらしい。
 祥子さまの唇は目の前にあって。
 ただそこへ触れさせたらいいだけなのに、甘い眩暈に頭がくらくらしてそこから一ミリだって動けな
くなる。

 いくらか弱まった雨音が、それでも温室の屋根に跳ね返るたびに大きく聞こえて仕方がない。

「・・・祐巳の意地悪」

 かちんこちんに固まって動けなくなった祐巳の目の前で、祥子さまはそう呟くと静かにため息を漏ら
して、瞳を開いた。


「あ・・・あの・・・」

 開かれた祥子さまの瞳は溶けてしまいそうなくらいに揺らめいていて、切なく眉を寄せた表情が泣い
ているみたいだ。祐巳をみつめていた祥子さまは開いた時と同じように唐突にまた瞳を閉じて、今度は
深いため息を漏らした。


「・・・・・・キスして」

 零れた吐息に織り交ぜるようにそう囁いた祥子さまの声が祐巳の唇を暖かく掠めると、それだけで祥
子さまにキスされたように感じて。それに勇気付けられたみたいにぎゅっと目を瞑ってから祥子さまの
唇に自分の唇を触れさせた。

 触れ合った瞬間に何もかもわからなくなって夢中でくっつけたり離したりを繰り返していると、これ
でいいのかなって思いが一瞬頭を過ぎったけれど、キスの合間に祥子さまが笑い声を漏らすから、うれ
しくなってキスしたままで抱きついた。



「わぁ・・・」

 二人して夢中でキスをしていたら、雨音が小さく消え入るのにも気付かなくて。みつめ合ったお互い
の髪が、温室のガラスの壁越しに差し込む太陽の光に照らされてきらきら光っているのを見て、やっと
雨が止んだのだとわかった。


「本当に、通り雨でしたね」

 温室から一歩出て見上げた空には雲はまだ少し残っていたけれど、午後の日差しが濡れた枝葉や石畳
の道を照らして、眩しい位にきらめいていた。


「あ」

 何事もなかったかのように温室から出てくる祥子さまを振り返ると、祐巳は急に思い出して声を上げた。

「どうしたの?」

「・・・お姉さまから、キスしていただいてないなぁって・・・」

 あれだけしておいて、どちらからも何もないだろうって自分に突っ込みを入れるけれど、何となく思
ったままのことが口をついて出てしまった。


「まぁ・・・」

 案の定祥子さまは少しだけ呆れたような顔をしたけれど、すぐに思い直したみたいに悪戯っぽく目を
細めた。


「では、祐巳。手を貸して」

「へ?」

 『お手』って感じで祥子さまが手のひらを上にして目の前に差し出すから、祐巳は条件反射のように
その上にぽんと自分の手を重ねた。

 祥子さまは。
 差し出された祐巳の手を裏返すと、その手のひらにちゅって音を立てて口付けた。

「ふぇ!?」

 びっくりして口付けられた手を引っ込めると、祥子さまがにっこり笑ってこちらを向いた。その笑顔
に思わず叫び出しそうになって口元を手で押さえたら、祥子さまは満足そうにもう一度微笑んだ。


「したわ」

「へ?」

「今、キスしたわ。祐巳に」

 自信満々に祥子さまはそう言い放つけれど、よくわからなくてもう一度唇に手をあてて考えてから、
その手のひらが熱を持っていることに気付いた。


「あ・・・」

 祐巳が自分の口元を押さえている手は、先程祥子さまに口付けられた手の方で。
 気付いた瞬間に手のひらから唇へ、唇から頬へ熱が伝わって、熱くなった顔から全身めがけてその熱
が駆け抜けた。


「さぁ、早く薔薇の館に行きましょう」

 祥子さまは口元に当てているほうとは反対側の祐巳の手を取ると、そのまま歩き出した。手のひらを
唇に当てたまま離すこともできなくて、祥子さまの方も見れなくて。きっと薔薇の館につくまで、こう
やって祥子さまとキスしたままなんだって思うと、まぶしい太陽に照らされる石畳の道よりももっとず
っと顔が熱くなっていくみたいだった。




END 

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