君にあいたくなる 4



 目が覚めたら、テーブルの上に封筒が一つ置いてあった。まるで、いなくなった彼女の
代わりのように。


(もももしかして、別れの手紙・・・っ!?)

 可愛らしい色合いの封筒を、両手で絞めつけんばかりに持ち上げながら、はるかは
うろたえる。


 何もあんな言い方しなくてもよかった。

 冷静になればそう考えられるのに、気が付くためにはひどく時間がかかる。
そのくせ、気が付いたら急速に不安になる。


「・・・・・・はぁ・・・」

 シャツを羽織っただけのだらしない格好のままため息をつくと、どこまでも落ち込
んでいきそうになった。そんなことしても中身が変わるわけでもないだろうに、その
封筒を日の光に透かしてみたりして。


「ん?」

 何だか普通の紙よりも厚みがあるようなシルエット。不思議に思いながらもやっと
のことでそれを指先で摘みあげた。


「あ・・・」

 色々な文字が刻印されたそれは、右端で切り離すことのできるようにミシン目が入
れられている。そのどちらともに、海王みちるという文字が印字されている。


 ―――演奏会があるから。

 それは、彼女からのご招待だった。


                             


「テクニックの問題じゃない。その直情径行を何とかしろ。最近ずっとだ」

 危なっかしくて見ていられないとでも言うように、目の前の彼が言った。

「すみません」

 考えごとをしていました、なんて口が裂けても言えないはるかは、見透かされてい
るのを承知で頭を下げた。


 車体が潰れてしまっているわけでも何でもない。テストで走ってみたにしては、結
構軽やかだったとさえ思っている。実際、時間に関して言えば、待ちかまえていたチ
ームメイト達には好評だった。


 けれど、そういうことじゃないんだ。彼の言いたいことは。はるかだってわかって
いる。


 アクセルを踏む足が。ハンドルを切る腕が。浮気しちゃってる。苛立ちをぶつけら
れる車体はそれでも何とか応えてくれたけれど。いつかそっぽを向かれてしまうに決
まっている。


「弄り倒しても足りないくらい愛してんだろ。だったら乗っかってる時くらい、他の
女のことなんか考えるな」


 もうほんと容赦ないなこの人。普段はへらへらしてるのに。核心の所をぐっさぐっ
さと突き刺してくる。痛いったらない。


 拗ねて、そっぽ向いて、当たり散らすだけのはるかに、彼女は怒ったりなんてしな
かった。


『・・・・・・ごめんね』

 一言だけ添えて。はるかが眠りに落ちるまで、静かに隣にいてくれた。

 二週間も会えないのに。なんで、あんな風にしちゃったんだろ。

 顔が見れなくて落ち込んで。声が聞かれなくて沈んで。触れなくて寂しすぎる。

 何で、離れなきゃわかんないのかな。

 おはようくらい言えたらよかった。

 彼女が置いて行った封筒を持ったまま、そんなことを考えて。ずっと考えて。

「一つのことしか考えられないくせに、ぐちゃぐちゃ悩んでるなよ」

 投げつけられたスポーツドリンクを受け止めながら見上げると、ヘルメットを抱え
ながら彼がパドックへと入って行くところだった。


「気になることはさっさと片付けとけよ。じゃなきゃ、今に愛想尽かされるぜ」

 親指が差す方向は、すぐ傍にある車体。手持無沙汰になりそうで、はるかはボトルを
弄るようにして蓋を開けた。


 風になりたかった。多分ずっと前から。今も。

 世界の中で、トップのレーサーになる。

 全てを超えて、それができると信じていた。

 どうして、その頃のままではいられないんだろう。

 のめり込んで、打ち込んで、それ以外には何もいらなかったはずの場所が、今では
何かの逃げ道のよう。


 ―――自分にしかできないことをする。

 その決意すらも自分を守る殻のようだ。

 置いて行かれたくないから。

 もしも、置いて行かれたとしても、傷つきたくないから。

 そんなことを考えて没頭しても、何からも逃げられるわけじゃないのに。

 ポケットのあたりに手をやると、クシャリと音がする。持ち歩くにしても、もっと
保管場所を考えれば良かった。きっと皺だらけになっているだろう。


 それを取り出して使う頃には。

 そんな心配を一瞬でもしてしまった自分を何だか笑いたくなった。


                          


 野外ホールのそこはきちんと指定席になっていた。けれどはるかはわざわざ外壁の
レールに腕をもたげて立っていた。


『気になることはさっさと片付けとけよ。じゃなきゃ、今に愛想尽かされるぜ』

 むしろどっちにも愛想尽かされるかもね。ひねくれてそんな感想を抱きそうになり
ながら、結局出てきてしまう単純さはどうしたことか。それなのに、出てきておいて
どこか落ち着かないこの小心ぶり。


 みちるの渡してくれたチケットは、かなり前の方の席で。

 彼女と目が合ってしまったらどうしよう、なんてありもしないことを考えて、それ
からそんなことを考えてしまうこと自体が馬鹿馬鹿しくて、座る気になれなかった。


 そのくせ、歓声に包まれながら、舞台の上へ彼女が現れると、急激に胸が熱くなっ
た。


 会いたいだけ。

 会えなくても、この目で見たいだけ。

 舞台の上で、彼女が優雅な仕草でヴァイオリンを構えるのを眺めながらそう納得す
る。


 他の共演者の華やかな装いも、そしてそれが霞んでしまう位に美しい演奏も、どこ
か遠くに感じてしまう。


 柔らかな白色のドレスを纏って、音色を奏でる彼女の姿しか見えない。

(・・・・・・すっごい、見えちゃうじゃん)

 こんな場所からでも彼女の表情までわかってしまう、自分の視力の良さについ恨み
言を漏らしそうになるけれど、視線を外すこともできない。


 ―――世界を破滅から救うなんて、ごめんだわ。

 嘘だ、そんなの。

 その表情を眺めながら、いつかの彼女の言葉を、否定したくて堪らなくなる。

 知ってたよ。

 でも、知らなかった。


 みちるはなんて、きれいで、優しい顔をしているんだろう。


 レールの上に投げ出していた手に、冷たい感触が落ちてきたから雨が降っているの
かと見上げた空には、わりとはっきり星が映っている。


 頬にも、顎にも同じような感触が流れて行くものだから、やっとそれが空から降っ
て来たものではないことを理解した。


 視線をさまよわせて、それでもどこを向いても冷たい感触が後からついてくる。み
っともなくて、結局視線を下へ落とした。


 ―――どんな犠牲を払っても。

 ―――もう手遅れなんじゃないだろうか。

 ―――どうせ、この手は汚れている。

 言葉で、態度で、応えてもらえなきゃ、不安で仕方がなくなるんだ。自分のしてい
ることが、彼女の気持ちが、確かなものなのか教えてもらえないと、前に進むことす
らできない。


『僕を置いて行くなよ』

 嘘でもいいから、約束してくれたら良いのに。

 音がより一層のびやかに向かってくるのを感じて顔を上げた。曲名はわからない。
でも、それは時折彼女がはるかの横で、いたずらに奏でる曲調に少し似ていた。静か
に撫でられる時のような、柔らかく抱きしめられている時のような、そんな音。


 見上げた先で、彼女は伏し目がちに、その曲と同じような表情を浮かべている。
緩やかに音が消えて行くと、彼女はどこを見るともなく、瞳を緩めて微笑んだ。

 何で僕は、自分のことしか考えられないのだろう。

 そう恥じ入りたくなるくらい、遠く向こうに立つ彼女は澄んだ微笑を湛えていた。


                             


「・・・・・・みちる」

 チケットの裏に書かれていた番号の部屋の前で止まる。控室だ。「関係者以外立ち
入り厳禁」なんてわざわざ「ここが入口です」と書いてあるような小奇麗な建物の裏
口に着くと、彼女から告げられていたのだろうか、守衛と思わしき恰幅の良い男性は、
はるかの顔を見るなりにこやかに扉を開けて中へ入るよう促した。エスコートするの
は得意だけれど、されるのは慣れない。妙にどぎまぎしてしまった。


「開いているわ」

 一応軽めにノックをすると、すぐに声が返って来る。

 扉を開けると、目の前に、彼女が立っていた。

 その後ろには、そこそこに広さのある室内が広がっている。控室なんだから、寛い
で座ってたりなんかしないのかな。そう思って鏡台へ視線を向けると、読みかけらし
い譜面が伏せられていて。スツールは彼女が振り返って立った状態なのか、背もたれ
の内側がこちらを向いていた。


「・・・・・・何だか、花嫁さんみたいな衣装だね。それ」

 はるかの声を聞きつけて駆け寄って来たのだと理解するのに、そう時間はかからな
かった。


「もしくは、お姫様とか?」

 それなのに、うまく言葉が見つからなくて、そんなことを言った。

 彼女は舞台で身に着けていたと同じ衣装のまま、はるかの前に立っていた。純白じ
ゃないけれど、淡いクリーム色のそのドレスは、手の込んだ刺繍が全身に施されてい
て、どことなく特別な感じがしないでもない。胸元はドレスと同じ素材で作られた薔
薇で縁取られていた。


「そうよ。白馬の王子様を待っていたの」

 みちるがはにかむように笑う。

「それじゃ、僕は間違って紛れこんじゃったかな」

 扉が閉まる音を後ろに感じながら、わざとらしくそう言った。

「いいえ、違わないわ」

 精一杯おどけて見せたつもりだったんだけれど、彼女が思いのほか真剣に否定する
ものだから言葉に詰まってしまった。


 みちるの指先が、はるかの右腕に触れる。ゆっくりと撫で下ろしてからそっと手を
握られたら、胸まで詰まっちゃいそうだ。


「はるか、席に座っていなかったでしょう」

「・・・・・・あ、うん・・・」

 手を握られたまま、しばらくみつめあった後で、彼女が思い出したようにそう言っ
た。少し怒ったような顔で。


(そうだよな。わざわざ招待してくれてたんだよね、あの席は・・・)

 会場の中でそこだけぽっかりと空いた席をみつけてしまったみちるの気持ちを考え
ると、今更ながらに申し訳ない気持ちになった。何だって、いつも気が付くのが遅い
んだろう。けれど、まごつき始めたはるかをみつめていたみちるはおかしそうに笑っ
てから言った。


「最初は、来てくれていないのかと思ったわ」

 驚いた。みちるははるかがただ単に控室まで迎えに来たわけではなく、会場に足を
運んでいたことを知っていたのだ。スポットライトが燦々と照りつける舞台からは、
あんな後ろの方で立っている姿なんか見えやしないはずなのに。


「あなたがいてくれたからね。とても穏やかな気持ちになれたの。ヴァイオリンと一
つになってしまいそうなくらい」


 そういって、彼女は先ほどと同じ微笑みを浮かべた。

 小さな痛みが胸を突いたみたい。ぎゅうぎゅうと締め付けられるんじゃない。ちく
んと何かを刺激するような、微かな痛み。だけど、みちるの笑顔を眺めていたら、そ
こから痛みが広がっていくような気がして、彼女に握られていた手をやんわりと離し
た。その手をポケットへ突っ込みながら、今開けたばかりのドアノブに反対の手を
掛ける。


「服、着替えてなよ。白馬じゃないけど、車、近くにつけてくるから」

「ええ」

 背中を向けちゃったら、みちるの顔が見えないじゃないか。

「はるか」

 扉を開きかけたところで、みちるが言った。

「今日は来てくれてありがとう」

 振り返ったら、君はどんな表情を浮かべているんだろう。

「・・・ううん。僕が来たかったんだ」

 笑顔だったらいい。そんなことを考えて、だけど振りかえれなくて立ち止まる。

 ―――見てたらわかるよ。

 ―――すごくいい演奏だった。

 それくらいのことが言えたなら、まだましだ。それなのに。

「でも、・・・君があんまり気持ちよさそうに演奏するから、そのままどこかへ飛ん
でっちゃうのかと思った」


『僕を置いて行くなよ』

 同じ響きを持って、そんなことしか言えない。

 だから、どうしてこう言う時、自分のことしか考えられないんだ。

 頬から耳元までを、急速な速さで熱が走る。それを見られたくなくて、はるかは止
めていた足を前へ踏み出した。それに合わせて、扉が大きく開く。


 けれど、大きく開かれた扉の外へ逃げ出すことは叶わなかった。

 みちるが上着の裾を引っ張ったからだ。

 背中に、静かに額が押し当てられる。

 それから、その仕草と同じように、彼女がそっと囁いた。

「・・・・・・そばにいるわ」

 言葉で、態度で、応えてもらえなきゃ不安になるんだ。

 みちるの気持ちが、わかっていたとしても。

 何度も何度も、耳元で囁いてもらわなきゃ安心できない。まるで子どもじゃないか。

 ―――あなたがいてくれたからね。とても穏やかな気持ちになれたの。

 素直にそう思えたらいいのに。

「・・・それって、どういう意味?」

 甘やかさないでよ。

 君みたいに強くないんだ。

 夢も、使命も、守らなきゃいけない物がたくさんあるはずなのに。君のように強く
なれない。甘やかされたらもっと弱くなる。そんなの嫌なのに。


 それなのに。そんな風に言われたら、逃げ出すこともできないじゃないか。潔く背
中を向けたままでいることも、できなくなるじゃないか。

 君と離れたくないんだ。

 そんな言葉しか浮かんでこなくなる。


「わからないの?」

 上着を引っ張る手のせいにして、はるかはゆっくりと振り返る。笑顔だったらいい、
まだ、そんなことを考えながら。

 けれど、すぐには顔を見れなかった。彼女がはるかの胸に顔を埋めるようにして抱
きついてきたからだ。


 驚いて、ドアノブから手を離してしまうと、扉がまた、静かに閉じられていく。

 その背中に腕を回すことも忘れて立ち尽くしていると、不意に胸の中で彼女は顔を
上げた。


 眉を下げて、けれど瞳を緩めて、優しく笑う。それから、はるかを諌める時のような表情を
して、彼女が言った。


「今夜は帰さないわ」

 声が掠れてるよ、お姫様。

 そうはるかが教えてあげるよりも前に、みちるが背中にまわした手に力を込めるか
ら、同じように抱きしめた。




                           END



 みちるさん、カカア天下計画完成まであと少しです。うんうん。(マテ)



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