かぜひき迷子




 季節の変わり目。暑いような涼しいようなそんな気候の九月中旬。祐巳はやっ
てしまった。学園祭に向けて忙しくて休んでいる暇なんてないって言うのに。最
初は朝起きたときの喉の違和感。二時間目が終わったあと、少しからだがだるく
て保健室で休ませてもらおうとしただけなのに、熱を測ったら38.3度。微熱
レベルではなかった。少し休むという祐巳の計画はお母さんの仕事が一段楽して
迎えに来るまで安静に寝ておくことに変更を余儀なくされてしまった。三時間目が
終わったあとで、かばんを持ってきてくれた由乃さんに「忙しいのにごめんね」
と声をかけたら、祐巳がびっくりするくらい怒った顔をされてしまった。


「ばか!私が寝込んでいる人間相手に怒るような人間に見えるの!?」

 怒ってますがな、という突っ込みは心の中に留めておくことにした。多分
由乃さんがいいたいのはこのことじゃないのだ。


「ゆっくり休んで、早く良くなって」

 祐巳さんは、いつも無理するんだから。そういって祐巳の手を握ってくれた
由乃さんの手は、いつもは祐巳と同じくらいの体温なのに少しひんやり感じられ
た気持ちよかった。


「ありがとう、由乃さん」

 由乃さんは目を詰まったままそう言う祐巳にくすり、と笑いかけると
「ごきげんよう」といって帰っていった。


                  *



 そういえば、保健室で寝るのって二回目だな。と眠っているのか起きているのか
わからない頭でぼんやりと考えた。



(あのときは・・・)

 あの時は、確かにがんばりすぎたのかもしれない。知恵熱というやつだったの
かも。そう思い至ると自然に笑みがこぼれた。次いで、あの時お見舞いに来てく
れた祥子さまの指先を思い出した。由乃さんよりひんやりとした指先。熱い祐巳
の額や頬に触れてくれる指先が優しくて、うれしくて、ちょっとだけ切なかった
っけ。


(会いたいな・・・)

 ぽつりとそう思った。

 最近は、山百合会の仕事が忙しくてお姉さまと会わない日の方が珍しかった。
今日だって、風邪さえ引かなければいつものようにお姉さまと会えるはずだった
のに。今日はもう、会えない。タイを直してもらうことも、頬に触れてもらうこ
ともきっと出来ない。毎日していただいているのに、明日、元気になればまたお
姉さまに会えるのに。今日触れてもらえないことがとてつもなく寂しい。なんて
欲張りなんだろう。でも、寂しいと認識してしまったら、その気持ちは隠しよう
もないくらい、祐巳の胸をいっぱいにしてしまった。


「・・・え・・・っく・・・」

 体調の悪さが、心にまで伝染してしまったように、不安で仕方なくなってしま
った。


「・・・うっく・・・・・・」

 まるで、小さな子どもみたいだと思った。そんな風に思える冷静な自分がいる
のに、寂しさが波のように押し寄せて、涙を止めてくれそうもない。一人で泣き
ながら、祐巳が不安な時、悲しい時優しく抱きしめてくれる大好きな人のことを
思い出して、いっそう孤独感に苛まれた。


「・・・おねえさまぁ・・・」

 涙をぬぐいながら、そう口にしたのと同時にそっと仕切りのカーテンが開かれた。

「・・・起きているの?祐巳。どうしたの?」

「お姉さま・・・っ?」

 カーテンが開け放されて、午前中の柔らかい日差しが唐突に祐巳を照らした。
光の中には恋しく求めていた人が立っていて、全身に光を浴びてこちらを見下ろ
す祥子さまの姿はまるでマリア様みたいだった。


「何、泣いているの。この子は・・・」

 少し驚いた顔をした後、お姉さまはハンカチを取り出すとそっと祐巳の頬へ押
し当ててくれた。


「・・・お姉さま」

 ハンカチ越しに感じるお姉さまの手の体温が、これが夢ではないことを教えて
くれて、また涙が溢れた。


「あらあら、本当にどうしたの。泣き虫ね・・・」

 困った子ねといいながらも、お姉さまは慈しみのこもった微笑をうかべて、空
いている左手で祐巳の髪をすいてくれた。お姉さまは、由乃さんから祐巳が熱を
出したと聞いて、保健室にお弁当を持ってお見舞いに来てくれたという。でも祐
巳が寝ていたから、カーテンの向こう側で一人椅子に座って食事をしていたのだ。


「寂しかったの?」

 髪を梳いていた手が頬へ滑ってくる。ひんやりとした感触に安心して、祐巳は
その手に両手を添えて頬擦りしながら、こくんと頷いた。


「おねえさま・・・あいたか・・・た・・・から・・・」

 涙はもう止まっているのに、喉が詰まってうまくしゃべれなかったけれど、お
姉さまには伝わっただろうか。


「・・・ばかね」

 冷たい言葉とは裏腹に、お姉さまは祐巳の頭を包み込むようにして抱きしめて
くれた。額と額をあわせるようにして、祐巳を見つめてくれるお姉さまの瞳はど
こまでも暖かかった。


「毎日、会っているじゃない」

 こくん。祐巳は素直に頷いた。

「それでも、寂しかったの?」

こくん。祐巳はまた素直に頷く。毎日会っていても、寂しい。お姉さまがいない
とすごく不安。駄々っ子のようなこんな気持ちを、いつもなら我慢できるのに。
今日はそれも出来そうにない。


「甘えん坊ね・・・」

 呆れられただろうか。そう思いつく前にお姉さまは触れるだけの口付けをくれ
た。直ぐに離れていった感触に縋りつくように、今度は祐巳から口付けたけれど。
お姉さまの唇まで冷たく感じられて、祐巳は自分が熱を出していることをようや
く思い出した。


「・・・めん、なさい・・」

 喉に痛みを感じながら、掠れた声を出すとお姉さまは不思議そうな顔をした。

「なぜ、謝るの?」

「・・・風邪・・・おねえさまに、うつしちゃう・・・」

 出来ることならずっと、触れていたいけれど。縋りついたのは自分だけれど。
お姉さまにまで風邪を移してしまっては申し訳が立たない。ここまで来ていただ
いただけで十分なのだ。そう自分を納得させる。


「・・・も、だいじょぶ、です・・・」

 しっかりと握っていたお姉さまの左手からそっと手を離した。それなのに、お
姉さまは祐巳とおでこをくっつけたまま離そうとしない。


「・・・ね、さま・・・?」

「私はそんなに祐巳を不安にさせてばっかりなのね」

 ため息のようにそう囁くと、祥子さまは苦笑いをするみたいな声を漏らした。

「ちが・・・違います・・・そんなこと、ない」

 お姉さまがいないと寂しい。

お姉さまがいないと不安。

 その気持ちは偽りようもないけれど、そう感じてしまうのは祐巳の問題であっ
て祥子さまのせいなんかじゃないのに。目の前にいる祥子さまの瞳が悲しそうに
揺れていて、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。


 お姉さまにこんな顔をさせたいわけじゃないのに。

 いつも笑っていてもらいたいのに。

「・・・違わないわ」

 祐巳の必死な声を優しく遮ると、祥子さまは襟口からそっと指先を滑らせた。

「あ・・・え・・・?」

 肌の上を微かな温もりが通り過ぎて、微かな金属音があたりに響く。するする
と襟口から引き出された指先は、祐巳の肌になじんだロザリオを携えていた。


「どうしてそんなにも不安になるのか・・・祐巳だって本当はわかっているので
しょう?」


 くっつけていたおでこを離して、祐巳との間に僅かな距離を作った祥子さまは、
二人の間でそのロザリオを揺らしてみせる。


 姉妹である証のロザリオ。

 祐巳と祥子さまを繋ぐ、目に見える絆。

 妹へと引き継がれていく、形ある絆。

「お姉さま・・・」

「・・・私が離れていくわけではないのに」

「だって」

 だって、お姉さまは卒業しちゃう。

 例えば祐巳が、妹をつくらず、そのロザリオを所有し続けたとしても。定めら
れた日時を境にして、祥子さまは祐巳のいる学園からいなくなる。


 巣立って行く、なんて、大人は簡単に言うけれど。残された雛は、祐巳は、じ
ゃあ、どうしたらいいの?


 巣立っていった祥子さまを想いながら蹲ったままの自分が、あまりにも容易に
想像できて、喉もとが締め付けられる。 


 絆の抜け殻のようなロザリオを握りしめたまま、祐巳は何日も、何か月も、祥
子さまを想って、過ごしていくのだろうと、だただた、暗澹たる気持ちになる。


 祥子さま。

 祥子さま。

 いつから、心の中が、こんなにも祥子さまばかりになってしまったのだろう。

「・・・・・・信用がないのね、私は」

「へ?」

 祥子さまの首元にまとわりついてぐずぐずと鼻を鳴らしていると、本当に唐突
に祥子さまが呟いた。


「遠距離恋愛目前のカップルってこんな感じなのかしら・・・」

「・・・・・・」

 何と言うか。まったく、全然、とんでもなく、不似合いな科白を口にして、祥
子さまは大きなため息を吐き出した。


「え、えっと・・・あの・・・?」

 そりゃ、祐巳と祥子さまは、女の子同士だけれども、大好きで、キスも、それ
以上のことも、一応は経験しているわけだから、カップルに違いはない。ないけ
れども。


「もしかしなくとも、浮気するとでも思われているのね?」

「お、思っていません!」

 間違いなく、間違いな疑問を投げかけられた祐巳は、思いっきり頭を左右に振
りまわす。


 そうしたら、祥子さまは先ほどまでの芝居がかった、消沈した表情を一変させ、
「ふふっ」と笑い声を洩らしたのだった。


「お、お姉さま・・・?」

 突然な祥子さまの代わりように、目を白黒させていると、祥子さまは笑い顔の
まま言った。


「あながち間違いではないでしょう?」

 祥子さまが開け放ったのを最後にまた、静かに下ろされたままのカーテンの向
こう側に、薄く日差しが差し込んでいるのが見える。


「祐巳自身も、それから私も、それからどうなるのかがわからなくて、先のこと
がわからなくて。だから、不安になるのでしょう?」


 祥子さまが手にしていたロザリオを祐巳の胸元に戻すと、かちゃりと金属の触
れ合う音が微かに聞こえた。


 そのロザリオを、祥子さまは今度は、指先でそっとなぞり始めた。

「ねえ、もしも、これが今なくなったら、どうする?」

「えっ・・・」

 言われた文章を頭が理解したと同時に、つま先の底まで血の気が引いて行くの
がわかる。


 そんなこと。

 祥子さまとの姉妹の証を失くすなんてこと。

 何があってもそれだけはしないと、自分自身にきつく戒めているのに、唐突に
そう投げつけられると、急激に身が縮こまる。


 それなのに、祥子さまはそんな祐巳の様子をおかしそうに眺めた後で、そよ風
のように呟いた。


「私は、それでも構わないと、思っているわ」

 澄んだ瞳のまま、その言葉以外の意味なんてないかのように、祥子さまは紡ぐ。

「まぁ、あなたがそれを失くすなんて考えられないけれど・・・そうね、例えば
お家に置いてきたとか、後は、妹ができたとか。そんなタイミングで、あなたの
胸元に、ロザリオが飾られなくなることだって、あるわよね」


 何も言わない祐巳に、しかめっ面をすることなく、祥子さまは滑らかに続けた。

「それをみつけてしまったら、きっと、一瞬、寂しさを感じてしまうだろうけれ
ど。でも、それでもいいのよ」


 透き通るように真っ白な祥子さまの手がまた、祐巳の頬を撫でる。

「それがなくても。私は祐巳に愛されているって、自惚れているもの、私」

 言い切った後で、祥子さまは赤くなってしまった頬を隠すように、祐巳の頬に
口づけて、そのままシーツに顔を埋めた。


「祐巳もそう思ってくれたら、うれしい、けど」

 耳元で、照れ隠しの時のような、祥子さまの声がした。

 だから、くすぐったくって、言葉に詰まった。

 だって、噤んでいる唇を緩めたら、きっと、何もかも吹き出しちゃいそうだっ
たから。


 くすぐったさとか。笑い声とか。うれし涙とか。大好きとか。

 全部綯い交ぜにしたら、やっぱり泣き声になっちゃいそうだから。祐巳は大げ
さに、何度も頷いて見せた。


 胸元に光るロザリオは、確かに祥子さまとの絆を形にしたもので。彼女の愛情
や慈悲深さまで詰め込まれていることに間違いはなくて。


 でも。

 悪戯っ子みたいな笑顔や。拗ねた横顔や。ぶっきらぼうな愛の言葉も。そこに
映し出されるわけではない。


 そんなの、わかりきったことなのに。

 形だけを残して、祥子さまがどこかへ行ってしまうな気がして怖くて。

 それなのに、それに縋りつくしかない気がしてた。

 祥子さまは、ここにいるのに。

 不意に、大きなチャイムがどこからか聞こえてくる。

「あら」

「あ」

 二人同時に声を上げて、みつめあってしまった。予令が鳴ったのだ。

「そろそろ・・・」

 言い淀むように、祐巳から切り出した。離れたくなんてないけれど、引きとめ
て、授業に祥子さまを遅刻させるなんてこと、出来っこない。それなのに。


「うん」

 言ったきり、祥子さまはまた、祐巳の首元に顔をうずめて力を抜いた。

「後、五分だけ・・・」

 まるで、寝起きの悪い子どもみたいなことを口にする。それより何より、後五
分したら、本令が鳴る。瞬間移動でもして教室へ戻るつもりなのだろうか。


「・・・・・・お姉さま?」

 いつか感じたことのある、眠りの落ちる前の呼吸音が耳朶を掠めていた。

 それはすぐに、ゆったりとした吐息に変わる。

 笑い声を抑えきれなくて、ふっと息をもらすと、祐巳の身体の力も抜けていく。

 きっと、お母さんの迎えに来た声で目が覚めるのだろう。そんなことを考えな
がら、瞼が下がっていく。


 目が覚めた時、祥子さまはここへいるのだろうか。それとも、慌てて教室へ帰
った後なのだろうか。


 うつらうつらとしながら、どちらでも構わないと思った。

 目が覚めた時にも。

 今感じている温もりを、きっと自分の手のひらは覚えているだろうから。

 目を閉じたまま、途切れゆく意識の中で、どうしてだか自信たっぷりにそう確
信すると、祐巳は祥子さまの背中以外の全てを意識から手放した。


 陽だまりでまどろむ子猫ってこんな感じなのかな。

 微熱で覆われたままの頭の中でそんなことを考えると、無意識に頬が緩んでい
くようだった。




                           END



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