Is it love



 窓ガラスの向こう側には青空が広がっているのだろう。瞼を通り抜けて差し込んで
くる淡い日差しがそっと意識を揺り起こす。


 真っ白な波間から抜け出すように起き上がると、自分の髪が肩に落ちる。素肌をく
すぐる感触に、みちるは何も身に着けていないことを思い出した。


(・・・・・・夢?)

 顔にかかる前髪をかき上げても尚冴えない思考。ぼんやりと視線を左右へ移すと、
すぐ隣で寝息を立てている彼女が映る。


(・・・ではないようね)

 昨夜の記憶をたどりながら、だけどうまく思い出せない。それでも全身に残された
余韻から、満たされて過ごしたことだけはわかった。


 淡い色の髪を軽く撫でてから、本格的に目覚めようと脚をフローリングへ向けて伸
ばした。


「?」

 ところが、着地直前でみちるの動きは止まってしまう。

「・・・・・・」

 シーツの中で、ごそごそと動き回る体温。

「・・・・・・はるか?」

 起きているの、そう尋ねようとしたところで、裸の腰に腕をまわされて、思わず震
えてしまった。


「ちょ・・・何・・・」

 その上、指先が背筋をなで上げ始めるものだから、考えるよりも前に頬が熱くなる。

「何って、せっかくこんな気持ちのいい朝なんだし。明るい時に、もう一度確かめ合
いたいんだけどな」


「・・・・・・」

  シーツから出てきたのは眩しい笑顔。でも。

「・・・嘘でしょう。だって、昨日・・・」

 時折、時計の針を眺めたような気もするが、最後に確認したのはいつだっただろう。
けれど、今朝、こんなにも起きる上がるのが気だるいのは、多分にその夜更かしのせ
いだ。


「そんなに寝ていないでしょう、あなた」

「そうだけど。ほら。はるかちゃんはやりたい盛りなお年頃だしー。・・・可愛いで
しょ?」


「・・・・・・」

「いた、痛いっ」

 思わず顔を叩いてしまった。

「冗談言わないで。私はあなたほど体力に自信、ないもの」

 とりあえず放っておいても問題はないと判断して背を向ける。この分では、いつも
より相当に遅い起床のはずだ。大きな予定はないけれど、だからこそ済ませておいた
方が良いことはたくさんある。ベッドサイドに置いたスツールに腕を伸ばして、手探
りでガウンを探した。けれど、それをつかんだ瞬間に、みちる自身がシーツに包まれ
てしまった。


「!?」

 シーツの淡い感触が頬や肩や腕、いたるところの肌を掠めるのと同時に、背中に柔
らかな素肌の感触がある。


「・・・は、はるか・・・ふざけるのはやめて」

 シーツを軽く握りしめたままの恰好のはるかに後ろから抱きすくめられたのだと気
が付くよりも前に、その膝の間に座らされるようにして再びベッドに戻されてしまった


「僕を放っていくからだろ」

 みちるの驚き固まる様子がおかしかったのか、はるかは笑いを噛み殺したような声
で言った。


「他にしなきゃいけないことなんてあるの」

 からかうような声。

「色々、しておいた方が良いことがあるもの」

「それって、僕より大切?」

 口ごもりそうになりながら言うみちるの声に被せるようにはるかが言う。

「・・・はるかだってあるでしょ。お休みの日なんだから」

 質問に取り合うかどうかを一瞬ためらってから、当たり障りなくそう答えてみる。
だけど、そういった返答で、はるかを黙らせたためしがない。


「ないよ。あっても、みちるの方が優先」

「・・・・・・っ」

 あっけらかんと答えられて、結局黙りんでしまうのはみちるの方だ。耳まで熱く
なってしまう。


「だから、離してあげないよ」

 柔らかな感触に包まれながら、鼓動だけが早く強くなっていく。首筋にはるかの唇
を感じてそっと目を閉じた。


 −−−それって僕より大切?

 はるかより大切なものなんてない。

 だからこの距離は、みちるこそが望んだもので、与えられなければきっと飢えてし
まう。


 でも。

 優しくされると、うれしいのに、苦しくなる。

 大切にされると、不安になる。

 離れていくかもしれないなんて、そんな幸せな気持ちじゃない。

 もっと、足場から溶けて崩れてしまいそうな、恐怖にも近い。

 −−−みちるの方が優先。

 そんなこと、言わないでほしい。

 だけど、それを言葉にするなんてできなくて、唇を滑らせて行くはるかの髪を指先
で追いかけて絡め取る。


 伸びあがりながら口付けをせがまれると、逃れることもできなくなる。

 甘くて苦い毒のようだ。

 舌が絡まる感触に、ぼんやりとそんなことを思った。


                             


「うーわー、キモチワルー・・・・・・」

「ふざけないで」

 仕事の合間に軽口を叩くはるかを諌めながら、置かれた状況を観察する。目の前に
いる大型車程度の物体以外には、こちらへ殺気を向けるものはない。つまり、敵は一
体だけのようだ。


「よくもまぁ、次から次へとこんなへんてこなもん作れるな」

 眼前に立ちふさがる物体の異様さに顔をしかめながらはるかが言う。一括りに言っ
てしまえば怪物だから、その気持ちは分からないでもない。ただ、その異形が、生物
実験の結果、もしくは犠牲、と思うと、少しやるせない気持ちになる。元は何らかの
生命体であったはず。最近は、人である確率が高い。


(・・・・・・言い始めたらきりがないわ)

 湧き上がりそうになる気持ちに気づくよりも前に、みちるは感情に蓋をした。抑え
込んだり、押し殺したりしていては、駄目だ。それよりももっと前に切り捨てるか、
見えないところに置いておかないと。


「さっさと片付けて帰ろ」

 隣ではるかがぼそりとそう呟くと同時に、みちるの髪が風に巻き上げられた。ヒュ
という音が聞こえたかと思ったら、遥か前方に彼女がいる。


 爆発するような音。鈍重な衝突音。赤黒い飛沫。一瞬の中にそれらが繰り広げられ
るのを確認しながら、彼女の対角線上に回る。彼女に引きつけられているうちに、後
ろから力を加えれば良い。その判断はきっと正しかっただろう。


「・・・・・・っ・・・」

 何らかの反撃があるだろう。その予測もたっている。避けるか、それとも相殺させ
るだけの一手を繰り出すか。その次の行動パターンも難しいものではないはずだ。

 けれど、力の差を詳細に把握することができていなかった。俊敏さに長けている生
物だと思っていなかった。


 迂闊だった。それに尽きる。

「・・・っあ・・・・・・」

 元は脚なのか、それとも腕なのか、今さらそんなことが分かったところでどうしよ
うもないけれど。弾丸のように伸びてきたそれの感触に、嫌悪が渦巻いて駆け抜ける。
上半身を一括りに締め上げられる圧迫感に吐き気がする。はるかが最初に漏らした感
想は間違いではなかったようだ。ひどく粘着質な感触と、鋭い針が突き刺さるような
痛みが同時に与えられるこの感覚は確かに気持ちが悪い。

 徐々に締め付ける力が強くなると、ぎしぎしと音を立て始めたのがどこなのかもわ
からなくなりそうで。けれど。


(・・・腕が・・・)

 骨が軋む音に、一瞬にして血の気が引いた。

 脚でも、首でも、胸でもなく。腕が軋んでいく感覚に、みちるは恐怖を抱いた。そ
してそのことに気が付いて、胸が焼けそうになる。


 こんな時にまで。それを恐怖だと感じる自分の感覚が、ひどく滑稽だ。

 そしてまた、緊迫感の中で感情に蓋をする。見えないし。存在しない。そんな風に。
そして冷静になった頭の中で、止めを刺すなら今だとわかって、彼女に目配せをする。
みちるが確信するよりも前に、それに気が付いたであろう彼女が腕を振り下ろそうと
しているのが遠方に見えた。


「え・・・っ?」

 狙いが外れたとしか思えない角度から、光の洪水が近づいてくる。目の前でそれが
弾けると、腕に感じていた圧力が消えさる。その次に、浮遊感。それから、背中に地
面が叩きつけられる感覚。


「・・・みちる!」 

 この場で呼ばれることのない名前に顔を上げると、遠方にいたはずの彼女がすぐ目
の前にいた。


「何を・・・」

 何をしているの。

 その感情が沸き上がるのと同時に、目の前の異物が矛先を変えた。目視では間に合
わない。闇雲ともいえる性急さで右手を振りかざすと、一面が水沫に包まれた。


 はるかの目を見開く表情と、水色の向こう側でもがく影が、一度に視界へと押し入
ってくる。


 はるかは。

 水の引いた景色の中、崩れ落ちた音に一度だけ振り返り、すぐにまた視線をみちる
へと戻した。


 彼女の肩の向こうに、倒れた人影が見える。

 ひどい嘔吐感がこみ上げてきそうになりながら、それでもはるかの肩越しに見える
人影を凝視した。わずかに身動ぎし、寝息のような呼吸をしているのを確認すると、
崩れ落ちてしまいそうになった。


 耐えるように地面に手を突くと、そっとそこへ手のひらが重ねられる。

「・・・・・・大丈夫?みちる」

 優しい声。

「・・・・・・」

 顔を上げると、心配そうにこちらをみつめつづけるはるかと目が合った。

 まるで、それが引き金のように。渦巻いていた感情が噴き出しそうになる。

「・・・・・・にを」

「え?」

 その表情に。その声に。明確に怒りを感じざるを得なくて、声が震える。

 それ以上に、甘やかな気持ちになってしまう自分が許せなくて、少女の姿に戻る前
に言った。


「何をしているの」

 先ほどこみ上げた言葉を投げつけると、はるかは戸惑ったように瞳を揺らめかす。

「どうして、私に構うの。私のことよりも先に、するべきことがあったでしょう」

 例えば、それが真に心に響かなかったとしても、否定さえしてくれなければ、みち
るはそれ以上追及する必要なんてなかったのに。


「君にもしものことがあったらどうするんだ。腕が千切れていたかもしれないんだぞ」

「−−−・・・・・・っ」

 −−−みちるの方が優先。

 いつかの彼女の言葉が鮮明に蘇ると、みちるは血液が逆流していくのを抑えられな
くなってしまった。


「そんなこと考えている場合じゃないって、どうしてわからないの!」

 喚き散らしたみちるの前で、はるかは目を見開いて、それからわずかに肩を落とす。

 微かに唇をかむ仕草に、胸が痛む。

 琥珀色の瞳が、傷つけられた心のように揺れていた。


                               


「・・・・・・ありがとう」

 彼女に抱きかかえられるようにして部屋へ帰ってきてから、どれくらいの時間が立
ったのだろう。


 すぐに横にならせようと寝室へ進む彼女を押しとどめて、みちるはソファへと身体
を沈めていた。


 多少は傷むけれど、骨や内臓までひどく損傷を負っている様子はない。腕の傷も、
出血の量に比べれば深いものではなかった。鎮痛剤で数日ごまかしていればなんとか
なる。それならば、まずはこの汚れごと、洗い流してしまいたかった。寝室にまでこ
の血なまぐさい臭いが移ってしまうのは耐えられない。


 そう訴えるみちるに、はるかも大丈夫だろうと判断したらしい。素直にみちるをソ
ファへと下ろしてくれた。


 けれど、一人でシャワーを浴びに行くことまでは許してくれなかった。

 というよりも動くなと言いたいらしい。ふらりとリビングから出て行ったと思うと、
みちるの着替えと、熱めのお湯を張った洗面器を手に帰ってきた。


『嫌よ』

『僕だってやーだよ』

 どれだけみちるが嫌がってもはるかは頑として譲らなかった。
 柔らかく絞られたタオルで素肌を拭われると羞恥心で震えあがりそうになる。けれ
ど、傷ついているみちるの腕を、殊の外優しく拭う彼女に、それ以上不満をぶつける
ことは憚られた。


「どういたしまして」

 思ったよりもずっと素直にお礼を述べると、はるかはうれしそうに笑う。

「じゃあ、もう寝室へ連れて行ってもいいかな、お姫様」

 元々そのつもりだったのだろう。はるかが持ってきてくれていた着替えはフレアな
ワンピースだった。部屋で過ごす際に良く身に着けていたのを覚えてくれていたのだ。


「うん・・・」

 けれど、みちるは曖昧に言葉を濁した。みちるを寝室へと運んでくれた後、はるか
はどうするのだろう。もしかしたら、今日は帰ってしまうかもしれない。いや、今日
は帰ってしまうだろう。どことなくぎくしゃくした部屋の空気は、彼女の優しげな物
腰のおかげでかろうじて強張らずに済んでいるだけなのだ。


『そんなこと考えている場合じゃないって、どうしてわからないの!』

 傷つけたのは自分で。この気まずさを作り出したのも自分なのだ。

 それなのに、彼女が離れてしまいそうになると、自分から身体を押し付ける。その
強欲さに気がついても、彼女の腕に頬を擦りよせるのをやめられない。


「離れるの嫌?」

 擦り寄ってきたみちるを抱きとめながらはるかが尋ねる。一瞬の躊躇いの後に頷く
と、すぐにふわりと抱き上げられた。


「じゃあ、みちるが眠くなるまでこうしてる」

 いつかの朝と同じように、膝の間に座らされて後ろから抱きすくめられると、すぐ
耳元に、はるかの穏やかな呼吸を感じる。


「・・・・・・痛み、少しはおさまったかな」

 はるかの声に、みちるはまた素直に頷いて見せる。薬でごまかしているようなもの
だけれど、ごまかされてくれる程度の傷だともいえる。


 頷いたみちるの髪が揺れる音。それからまた、はるかの呼吸する音。その後に、彼
女は言った。


「・・・・・・・・・みちるの腕が、無事で良かった」

 静かな声と同じように、はるかの唇が肩口にそっと触れた。

「――――――・・・」

 その言葉を耳にした瞬間、また、あの気持ちが沸き上がる。

『そんなことを考えている場合じゃないって、どうしてわからないの!』

 けれどもう、口から勢いよく飛び出す言葉なんてない。声すら、あげられそうにな
かった。


 振り返ると、はるかの瞳はあの時と同じように揺らめいている。

 みちるのために。

 どれだけ不安だったのか。どれだけ胸を痛めたのか。聞かなくてもわかるくらいに。

 はるかはまったく後ろを確認しなかった。慌てたみちるが手を振りかざしても。大
きな破裂音が聞こえてきても。最後に一度だけ振り向いても、そこに何の興味も示さ
なかった。


 じっと、みちるをみつめていたのだ。今と同じ瞳で。

「ご主人様に構ってもらえなくなったら、ヴァイオリンもかわいそうだし」

 言葉を失うみちるの前で、はるかは慌てたように、おどけて言葉を付け加えたけど。

「ねえ、みち・・・」

 それ以上は聞いてもいられないからなのか。それとも、ただ単に欲求に突き動かさ
れたのか。わからないまま、みちるは唇を寄せた。重ね合わせるだけのものだったけ
れど、離しては触れさせるのを何度も繰り返すと、そこから柔らかく溶けだしてしま
いそうだ。


「・・・どうしたの」

 腕の中で動き出したみちるに、はるかは少しだけ戸惑ったような声をあげたけれど。

「甘えたくなった?」

 すぐに穏やかな声で聞きなおしてくれた。

 でも。

 向かい合うように座りなおして背中を抱き寄せられると、彼女の顔がよく見えた。
声と同じように戸惑いに揺れている。それなのに、覗き込んだ瞳が一層優しげに濡れ
ている。


 いつもいつも。

 はるかはすぐに怒って。不貞腐れて。わがままな子どものように振る舞うのに。

 こんな時にだけ優しくするなんてずるい。

 そんな感情が沸き上がるのを感じながら、柔らかな腕の中で少しだけ起き上がって
みる。膝で立つようにしてみつめると、それに合わせて彼女が顔を上げた。慣れない
角度だと思う。彼女を見下ろすことなんてあまりない。爪を立てるようにシャツの上
に手を置くと、首からそっとかき抱かれるのがわかった。胸元から掻き毟るように移
動させた指先でタイを捕まえてそっと引き寄せる。人差し指で中心を抜きとりながら
手のひらでそれを引っ張ると、つられて彼女の首が緩くそれる。そのまま薄く笑いな
がら、彼女が顎を少しだけつき出す。唇が、僅かに開いていた。


 それをみつけてしまうと、自分の衝動をもう抑えられなくなる。

 覆いかぶさるように彼女に唇を重ねた。触れさせるだけでは足りそうもない。立た
せた膝が震えるのを感じながら、彼女の頬を両手で捕まえて、口元が濡れて行くのに
も構っていられない。


 浅ましいと思う。いやらしいと心底思う。

 けれどその感情は、突き動かされた身体の中に飲み込まれてしまった。

 唇が離れると、苦しげな息が吐き出されて混ざり合う。

「・・・・・・きて」

 忙しない呼吸の合間に、掠れた声が零れ落ちる。まるで、自分のものではないかの
ような。


「・・・傷に悪いんじゃない?痛いだろ」

 零れ落ちた声を拾い上げて、はるかが笑った。困るよ、顔にそう書いてある。けれ
ど、はるかを思いやる余裕が、今はない。


「痛くない・・・」

 痛くてもいい。痛い方がいい。

 それでもいいから、彼女がほしい。

 みちるが首を振る様子を眺めていたはるかは、少し考え込む仕草を見せてから、呆
れたようにため息をついた。


「・・・仰せのままに」

 苦笑いが浮かんで消えて、顔も見えないくらい近くに抱き寄せられた。ゆっくり、
羽のように。


 その柔らかな抱き寄せ方に、彼女の背中に爪を立てて答えた。


                             


 穏やかな寝顔を眺めながら、はるかの前髪を指先で梳くと、夜の闇の中でそれが柔
らかに光った。


 眠れないのは、腕の傷のせいだろうか。鎮痛剤のおかげで、ひどく傷むわけでは
ない。ただ鈍い熱が脈拍とともに繰り返される違和感があった。そのせいなのか、身
体は疲れていると言うのに、目は冴えていた。


 それなのに、はるかの寝顔を眺めていると、冴えていたはずの目元が熱く緩く、溶
けだしていきそうになる。


『そんなのとは関係なく、みちるが好きなんだ』

 あれはいつだっただろうか。桜が散って、日差しがまぶしくなって。ブレザーが煩
わしく感じてしまうような季節だった。


 前世の記憶がほとんどないとも言っていた。

 あの夏に出会ったみちるを好きだと言った。

 強い腕に抱きしめられながら。うれしかった。それから、泣きたくなったのを良く
覚えている。


 みちるには、前世の記憶が彼女よりは鮮明に残っていた。はるかのことをその人だ
と、きちんと知っていた


 それは、覚醒してからのことだ。

 目覚めるよりも前に、夢の中で、誰かが呼びかけている姿を見たこともある。でも、
その人の顔なんて見えやしない。


 そんな曖昧な記憶のずっと先に、その感情は芽生えていた。

 出会った時と同じように、半袖の制服に身を包んでいた頃だっただろうか。友人に
付き添って出向いた競技場で彼女を見た。


 一瞬の風のように遠く駆け抜けて行くその人に、一目で惹かれてしまった。少年と
見まごうような仕草を見せるその子が、女の子であることにはすぐに気がついたけれ
ど。


 だから、何だって言うの。

 驚いた自分に反発するかのように、心がそう声を上げる。

 あの人の名前は。

 声は。

 瞳に映るものは。

 その全てを自分のものにできたなら。

 幼い胸の中に湧き上がるその感情の大きさに、毎日のように涙がこぼれた。それが
恋だとわかる頃、あの夢が、みちるの夜に忍び込んできた。


 だからだろう。

 初めはただ身がすくむ思いで眺めていた夢のその人に、みちるははるかを重ねるよ
うになっていた。


 はっきりと眼が覚めて、記憶の扉が開かれると、自分の願望がそう見せているので
はないかと不安になるくらい鮮やかに、みちるの記憶の全てに彼女がいた。


「―――・・・・・・っ」

 運命なんて、信じていない。

『僕のことを勝手に調べるのはやめてくれないか』

 この人を、巻き込みたくなんてない。罪悪感に苛まれ続ける日々に突き落とすよう
な真似、許されるはずがない。心のどこかではわかっていた。それなのに。


『私、ずっとあなたを見ていたわ』

 ずっとずっとみつめていた。幼い夏の日にみつけたあなたを。

 だから、前世の記憶も。使命も。全て、彼女を縛り付けるために利用した。なりふ
り構わず。浅はかな女だと、今ならわかる。


 ―――みちるの方が優先。

 ―――大丈夫?みちる。

 みちるの選んだ道の中で、彼女がこちらへ振り向いてくれたのだとしたら、それは
当然起こりうる事態だと、少し考えればわかるはずだったのに。


「・・・みちる?」

 目元に重い熱がこみ上げてくるのを指先で抑えたその時、ふいに声がした。

「眠れない?痛いの?」

 みちるがその声に顔を上げると、先ほどまで眠っていたはずのはるかは、慌てたよ
うに半身を起した。


「大丈夫?」

 ―――大丈夫?みちる。

 あの時の彼女が重なると、あの憤りの泡が激しさを増して湧き上がりそうだ。

 けれど、わかっている。

 この憤りこそが。自分勝手で醜いみちるの本心だと言うことを。

「大丈夫。目が覚めただけよ」

 片手をついて半身を支えながら、みちるの手をそっと握るはるかにそれだけ答えた。

 大丈夫だから。

 自分よりも私を大切になんてしないで。

 みつめていたら。手を握っていたら。この気持ちは伝わるのだろうか。

「目が覚めたからって、歩き回ったりしないでよ。気が気じゃない」

「心配性ね」

 そんなはずないわ。

 どこまでもみちるを気遣うはるかの姿を眺めながら、そっと吐き捨てた。

 伝わらない。きっと、はるかにはわからない。

 周りが見えないほどに。見えていても厭わないほどに。まっすぐみちるをみつめて
くる彼女には。伝えたとしても、一笑に付されるだけだろう。


「ねえ、はるか」

「?」

 耐えられない。

「歩き回ったりしないから。お願い、聞いてほしいわ」

「えー。またみちるのわがままが始まったの」

「あなたにそんな風に言われるのは心外よ」

「はいはい。で、何?」

 子猫のようにじゃれあいながら二人して横になると、はるかはおかしそうに笑う。

「約束してほしいの」

 その笑顔を眺めながら、幸せに満ち足りて行く自分は何て恥知らずなんだろう。

「これから先、何があっても。もう私を助けたりしないで」

 耐えられない。

 前世の記憶で。使命で。彼女を縛り付けて尚、耐えられない。

 彼女が傷つくことも、倒れることも。それを受け入れる苦しみに耐えられない。

「何言ってんの」 

 みちるの言葉に、はるかは今日初めて、瞳に怒りの色をにじませた。

「突拍子のないことでもなんでもないわ。私たちには、使命があるはずよ。共倒れな
んて許されない」


 その色を眺めながら、安堵する。

「・・・それは、そうだけど」

「だから、私が倒れたなら、あなただけでもそれを果たして」

 みちるのことで悲しむくらいならいっそ、腹を立てるくらいの方がちょうどいい。

「だけど・・・」

 感情の入りいる隙もないくらいに並べたてられた言葉に、はるかがむずがるように
声を漏らすから。みちるはあられもない本心のまま言った。


「あなたと心中するつもりはないわ」

 後を追うなんてことすら考えたくない。

 私より先にあなたが倒れることも。

 あなたより先に倒れた私を追うことも。


 絶対に許さない。


「それがみちるのご希望なわけ」

 不貞腐れたままの声。

 ―――それって僕より大切なこと?

 全身でそう言っている。

「そうよ」

 そうよ。

 あなた以外に、大切なものなんてない。

 あなたの他に、守りたいものなんてない。

 睨み合うような時間だった。先に耐えられなくなったのははるかだ。

「・・・わかった。じゃあ、みちるも約束してよ」

 相変わらず不貞腐れたままの声。シーツの波間にさらわれていきそうな格好ではる
かは言った。


「みちるも、僕を助けたりなんてしないでほしいな。庇われると沈んじゃうし」

 言われた瞬間、息をのむ。

 みつめあう距離のせいだろうか、その音ははるかにまで聞こえてしまったらしい。

「どう?」

 幾分か機嫌が上を向いたかのような表情だ。

 ここで「嫌だ」と言えば、きっと彼女はいつものおどけた様子で優しくみちるを抱
きしめてくれるのだろう。


 ―――だったら、そんなこと言うなよ。

 そう言って、みちるの言葉ごと、なかったことにするつもりなのだろう。

 はるかの指先がこちらへそっと伸ばされる。

 抱きしめられたらきっと、その手に甘えてしまう。

 だから。

「・・・・・・わかったわ」

 一言だけ口上に乗せた。思ったよりも、胸は痛まない。

 嘘をつくことに罪悪感を感じてしまえるような人間ではなかったと、思いだして笑
いだしそうになる。


 一瞬だけ、はるかの目が見開かれたのを、きちんと見ていた。

 それでも、苦しくはならなかった。

 いつの間にか、感情に蓋をするのがうまくなっていたようだった。

「他には?」

「え?」

 それなのに、目の前のはるかは思いもよらない言葉を投げつけてくる。一瞬だけ見
開かれた瞳が、今は静かに細められていた。


 どうして、はるかが苦しそうにするのだろうか。

「他にしてほしいことないの。今なら何でもしてあげるよ」

「どうして?」

 わからなくて首をかしげると、彼女は泣き出しそうな声で言った。

「・・・何でもしてあげるから。泣かないでよ。みちる」



                            END



 うーん。はるかさんが初チューやらなんやらで浮かれている裏でみちるさんは色々考えていた
ようですが。基本ハンターなので、多分この後はるかさんは狩られます(マテよ)



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