ほしにねがいを




 毎日毎日、胸が苦しい。

 不安に押しつぶされるのとは違う。

 それは、胸がぎゅっと狭くなるような、息苦しさ。


                         


「お姉さまは、どんな願い事をされるのですか?」

 梅雨明け目前の、日差しの眩しい午後。祐巳は氷を入れたグラスを祥子に
差し出しながら、そんなことを言った。


「願い事?」

 肌にまとわりつくような暑さに、お腹にそう余裕もないのに、祥子は受け
取ったグラスを一度にあおった。


 しばらく顔を出していなかったせいで、整理しなければならない書類が山
のように溜まっていた。もちろん、きちんと山百合会の活動に出席していな
かった自分に非があるのはわかっている。けれど、わざわざ祥子の分の書類
整理だけをあえて残しておくなんていう、令の心遣いは、どちらかといえば
嫌がらせの類にはいるのではないだろうか。


「はい。もうすぐ七夕ですから。令さまと由乃さんが笹の枝を用意してくれ
たんです」


 また、令は余計な雑事を増やして。そう言い掛けてやめたのは、祥子のす
ぐ隣に腰をかけた祐巳がそう言ってうれしそうに微笑んだからだ。鞄から、
短冊と思われる用紙を取り出しながら。


「ふぅん・・・」

 しかし、うれしそうに問われても、すぐには何も返すことができない。
 星に願いをかけたり、サンタクロースに願い事をしたり。そういった行為
自体を否定する気持ちはないけれど、遊びとはいえそれらに積極的に参加で
きるほど柔軟な人間でもないことを、祥子は正しく自覚していた。


「・・・・・・祐巳は?」

「え!?」

「?」

 答えに窮した祥子が、何気なく問いかけると、祐巳はこちらが驚いてしま
うくらいに、大きく反応した。


「見せて」

 けれど、そんな反応をされれば却って気になるわけだ。祥子は祐巳の手元
を覗き込むようにして、短冊に指先を伸ばす。


「だ、だめです!」

 それなのに、祐巳は恥ずかしそうにまごつくと、彼女にしては珍しく嫌が
るようにこちらに背を向けた。


「・・・・・・あなたから話をふってきたのでしょう」

 絶対に、祐巳の短冊が見たいわけじゃなかった。だけど、背中を向けられ
た瞬間に、胸に鋭い痛みが走って、それから逃れるように、祥子は尖った声
でそう言った。


「だって、お星さまにだけ見てもらうようにしないと、叶わないかもしれな
いでしょう?」


「何言っているの」

 慌てた様子でそう説明する祐巳の姿は可愛らしかったけれど。

 祥子は拗ねたように祐巳の方から顔を背けた。

「お姉さま?」

 祥子がそっぽを向くと、祐巳は不安そうな声でこちらを窺うけれど、しば
らくは機嫌の悪いふりをしていたほうが懸命な気がする。

 ほんの少しだけ、気まずい空気が流れた。それでも。

 涙の滲んだ瞳を見られるより、数倍もましだった。


                           


 祐巳が手を差し伸べてくれたあの瞬間まで。雨はずっと降り続けると思っ
ていた。


 もういらないと、背を向けられたのだと、本気で思っていた。

 そこだけ普段と変わらなくきれいに整えられたシーツの上に、お祖母さま
の温もりを探しながら、絶望と、自分がこれからどうなってしまうのかわか
らない不安で、胸が張り裂けそうだった。それでも。


『私も、お姉さまが大好きです』

 その声で、胸の痛みを、ただお祖母さまへの想いに昇華することができた。
きっと、そこから溢れんばかりに詰め込まれていた雑音を、清らかな声が消
し去ってくれたのだ。

 だけど、それは一瞬だった。消え去ったはずの胸の痛みは、気がつけばず
っと奥まで入り込んでいた。


 毎日毎日、胸が苦しい。

『お姉さま』

 声を聞くと、胸が苦しくて。

 顔を見ると、胸の痛みに泣きそうになる。

 だけどそれは、あの梅雨のように、押しつぶされて、張り裂けるような、
追い詰められた痛みじゃない。


 胸の真ん中にある心ごと、締め付けられて、狭くなってしまうような。た
め息が漏れてしまう、そんな、柔らかな痛みだった。


「どうしたの、祥子さん。元気がないみたい」

 日直で一緒になった美冬さんが、教材を運んでいる最中にそんなことを言
った。


「そう?」

 日本史の授業で使う古地図は、レプリカだからそう神経を使うものではな
い。ただ、不必要なくらいに大きく、丸めて運ぶにしても、数があれば人数
も必要になる。一人三本、計六本を二人並んで運びながら、祥子はあくびを
かみ締めるふりをした。


「寝不足かしらね。最近暑いから」

「まぁ。これからどんどん暑くなるのに」

 肩を揺らして、ころころと笑う美冬さんの姿は、少しだけ祐巳に似ていた。
 不安定な精神状態はまったくよろしくない。それを言い当てられただけで、
涙腺が刺激されてしまうのだから。


 目尻の涙は、美冬さんにはきっと、あくびのせいだと思われるのだ。

 それでいい。


                            


「今日は、晴れてるね。よかった」

「?」

 昼休みの渡り廊下を歩きながら、令がふにゃりとした声でそう言った。

「何か、晴れていないとできないような行事があったかしら」

 今日は体育もないし。放課後にどこかの運動部が練習試合なんて予定表も
上がってきていない。


「七夕じゃないの、今日は。薔薇の館にも笹の枝、飾ってあるでしょう」

「ああ・・・」

 そういえば、そんなものが飾ってあった。ついでに、祐巳に子どもっぽく
当り散らしたことも思い出した。


「あれ、由乃のアイディアなんだよ」

 祥子のもの言いげな視線を、勘違いして受け止めたらしい令はぱっと顔を
華やかせた。別に褒め称えているわけではないのだけれど、あえてそれを指
摘するのも億劫だ。


「志摩子と祐巳ちゃんも乗ってくれて、ちょっとしたお茶会をしたいねって
話してたんだよ」


 こういう時、令の穏やかでお人よしな性質は実にありがたい。こちらが黙
っていても、気分を害することなく話を続けてくれるのだから。


「ふぅん、初耳だわ」

「あれ?祐巳ちゃんは笹の枝を用意していることは伝えてるって言っていた
けど」


「・・・・・・ああ」

 だけど、結局は元の話に戻るらしい。この間のことを言っているのだ。

『どんな願い事をされるんですか?』

 きっとあの時、今日のお茶会の話をするつもりだったのだろう。それなの
に途中で祥子がへそを曲げてしまったから、話が最後まで到達しなかったの
だ。


「思い出したわ」

「そう?志摩子の委員会が終わってからだから、放課後すぐにって訳じゃな
いけど。忘れちゃ駄目だよ」


「わかっているわよ」

 令が初等部の子どもに言い聞かせるような口調でいうものだから、祥子は
思わず顔を顰めてしまった。ついでに、ふいと横を向いてしまう。悪い癖だ。


 だけど、その瞬間に、目の端にあるものが映って、祥子は足を止めた。

「祥子?」

 それに気付いた令が数歩遅れて、足を止める。

「・・・ごめんなさい、教室に忘れ物をしてしまったわ」

「?」

 首を傾げる令にそれだけ言い残すと、祥子はシスターに眉を顰められてし
まう程の足取りで、今しがた歩いてきた道を引き返した。


 渡り廊下から見える中庭は、教室に面した廊下の窓からも眺めることがで
きた。ただ、三年生の教室がある階からは、下を歩く人間を間近に見ること
ができない。その代わりに、こちらに気付かれることなく、その人が通り過
ぎる間中眺めることが可能なのだった。


 中庭を、祐巳が歩いていた。

 由乃ちゃんと、志摩子と並んで。朗らかな笑顔を浮かべて歩いている。

 その姿を捉えた瞬間に、また、胸が苦しくなった。

 自分から、祐巳の姿を追いかけてきたのに。

「・・・祐巳」

 届くはずもないのに。昼休みの雑踏に紛れて、かき消されてしまうような、
小さな声で祐巳の名前を呼ぶ。


 祐巳。

 ただ二文字の音なのに。

 声に出して呼ぶと、心の中で呟くよりも一層、涙がこみ上げそうだった。
 少しずつ霞んでいく視界の向こうで、祐巳の背中はどんどん小さくなる。
 後数分もすれば、薔薇の館で会うことができるだろうに。たとえすれ違っ
たとしても、数時間後には間違いなく視線を交わすことになるのに。


 今、確実に広がっていく自分と祐巳の距離が、もどかしくて堪らなかった。
それなのに、そこから目を離せない。


「・・・・・・」

 食い入るようにみつめたつもりはなかったのに、いつの間にか窓ガラスに
右手を押し当てていたことに気がついて、祥子は笑い声のようなため息を一
つ漏らして、手を離した。

 下ろした右手を、今度は胸に押し当てると、やっぱり疼くような痛みがし
た。


 祐巳の姿を眺めていると、うれしい。だけど、苦しい。

 その考えに行き着くと、自嘲的に唇を上げかけて、途中で止めた。

 どうしよう。

 心の奥底から溢れてくる気持ちに立ちすくんで、もう、作り笑いもできそ
うにない。


 どうしよう。

 恋してしまったなんて、とても言えそうになかった。


                            


『放課後すぐにって訳じゃないけど』

 そういえば令がそんな事を言っていた気がする。だけど、誰もいない薔薇
の館にやってきてから気付いても、もう遅いようだった。


 こんな風に。一人で薔薇の館にいることは珍しいことではない。最後まで
一人でいる時もあるが、大概は遅いか早いかの違いで、誰かしらと会うこと
になる。だから、たまにできる、薔薇の館での一人の時間が、祥子は嫌いで
はなかった。


 それなのに、今日は何だか落ち着かない。

 遅くても、三十分足らずで祐巳はここへ来る。その予想は外れないと思う。
だから、落ち着かない。

 すぐに他の人が来るのに、一人分のお茶を用意するのも億劫で、祥子はた
だ、いつもの席に腰掛けた。

 肘を突いて、右手に頬を乗せると、すぐ左隣の空席が、視界に入る。

 そこは、いつも祐巳が座る席だった。

『お姉さま?』

 そういえば、七夕の話をしてからこっち、あまり二人きりで話していない。
気まずいままで別れてしまったから、もしかしたら、祐巳はまだ気に病んで
いるかもしれない。こんなことなら、意地を張って拗ねたりするのではなか
った。心の中では、こんなにも素直に反省も謝罪もできるのに。


 そんなことを考えると、急に心許なくなって、祐巳の頭を撫でるように、
椅子の背をそっと撫でた。それから。


 いつも、こんなに近くでみつめているのに。

 どうして、気持ちは伝わらないのだろう。

 そんなことを考えてしまった。
 情けなくため息を漏らすと、頬に押し当てていた手のひらに当たって返っ
てくるものだから、尚更に気分が滅入った。


 だからだろう。気分を切り替えるつもりで、落としていた視線を上げると、
窓辺に笹の枝が見えた。

 枝には、祐巳や由乃ちゃんたちが飾ったのであろう折り紙でできた、星や
ら天の川が見えた。それから、いくつかの短冊。


(そういえば)

『どんな願い事をされるのですか?』

 ふいに祐巳の言葉を思い出して、祥子はおもむろに席を立ち上がって、窓
辺に近づいた。


『お星さまにだけ見てもらうようにしないと、叶わないかもしれないでしょ
う?』


 少し舌足らずな祐巳の声が聞こえた気がして、祥子は思わず苦笑した。
 こんなに早くからぶら下げていては、お星さまにだけ見てもらうも何もな
いだろうに。

 ふとした悪戯心が湧いて、祥子は近くにある短冊から順番に眺めていく。

『打倒、令ちゃん』

 丸っこい字でそう書いているのは由乃ちゃんだろうか。しかし、これが剣
道の腕ならあと何年掛かるのだろう。


『文化祭に向けて、惜しまぬ努力』

 教科書に印字されているような整った字で、乃梨子ちゃんは願い事だか、
意気込みだかわからないことを書いているけれど、生真面目な性格が現れて
いるようで、微笑ましかった。


 横に視線をずらすと、見慣れた字が並んでいた。

『今年も山百合会のみんなと一緒にがんばりたいです』

 こちらもどちらかといえば抱負のようなことを書いている。でも、祐巳ら
しい願い事だった。


 これなら、拗ねたりせずに、祐巳と一緒に書けばよかった。

 祐巳の書いた短冊を、指先でそっと撫でると、そんな気持ちが湧き上がる。
どうしていつも、後になって気付くのだろう。


 融通の利かない、そのくせ天邪鬼な性質に、祥子は眉を下げて、笑いたい
ような、泣きたいような気分になった。


 その時だ、指先でつまんだ短冊の後ろに、隠れるようにつるされている、
もう一枚を見つけたのは。


「?」

 隠されているものをわざわざ探り出してまで暴くような趣味はない。ただ、
それまでの流れで反射的にそれを手に取っただけ。多分、令が慌ててつけた
のか、志摩子が早いうちから飾って隠れてしまったのか。その程度のことだ
と思っていた。それなのに。


『お姉さまと、ずっと仲良しでいられますように』

 見慣れた字が、そこにはあった。

「・・・・・・っ」

 こんなことなら、一緒に書けばよかった。拗ねた顔なんて見せるのではな
かった。

 どんなに、強く思っていても、伝えられないのなら。せめて、祐巳の言う
星になって、その日も願いを叶えてやれば良かった。


 毎日毎日、胸が苦しい。

 滲みかけた涙を拭うように、そよいでいった風に、窓の外へ視線を遣ると、
中庭に祐巳と志摩子が歩いてくるのが見えた。


 祐巳の姿を眺めていると、うれしい。だけど、苦しい。

 ふとこちらに気付いた祐巳が、小さく手を振る。

「ゆみ・・・」

 届かないだろう、こんな小さな声では。だけど、呼ばずにはいられなかっ
た。それから、情けない顔を取り繕うように、小さく手を振って返す。


 遠くに、祐巳のうれしそうな顔が見えて、やっぱり涙が溢れそうになって
しまったから。祥子は空を見上げるふりをして、涙が零れないようにした。


―――本当は。

 まだ星のない空を見上げながら、本人には決して言えないような言葉を心
の中で囁いた。


 本当は。

 ずっと好きだったの。

 祐巳に届けばいいのに。自分の意気地のなさを棚に上げて、本気でそう願
った。


 涙が零れないように、慎重に目を閉じる。瞼の裏に広がっていく熱を、早
く冷ましたかった。

 一階の玄関の扉が開く音がする。

 階段を軋ませて、ゆっくりと上がってくる祐巳の願いが叶いますように。

 そう願いながら、祥子は口元を無理やり上げる。
 姉妹のままで、作り笑いを浮かべるなんて、もう限界だと思った。
 それでも。

 星に願いをかける祐巳の笑顔が見たくて。ただ微笑むしかできない。

「ごきげんよう、お姉さま」

 扉を開けて、祐巳が微笑む。

 もう少しだけ、このままで。

 まだ見えない星に、心からそう祈った。



                           END



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