陽だまりの庭




 
くせっ毛を弄んで通り抜けていく秋風は、日を追うごとに冷たくなっていくのに、熱く
なった祐巳の頬を冷やしてなんてくれやしない。


「ご、ごきげんよう・・・っ、お、お、おね・・・おねえ、さま!!」

「・・・・・・ごきげんよう」

 勢いあまって前のめりになりながら朝の挨拶をする祐巳に、祥子さまは呆れたような、
驚いたような顔をしながらも挨拶を返してくれたけれど、それ以上は祥子さまの美しいお
顔を仰ぎ見ることも出来なくて。視線を地面に落としたまま、首だけを激しく上下させて
祥子さまの声が聞こえていることを伝えた。


 ああ、恥ずかしい。

 マリア様の前で、その言葉の耳の後ろがこそばゆくなる様な感覚に、祥子さまがみつめ
てくれているのに祐巳は真っ赤になって立ちすくんでしまったのだった。



                                 



「何へたれているの」

 そんな呆れた声とともに、パシャリというシャッターを切る音が聞こえて、祐巳は机に
突っ伏したまま、顔だけを横に向けた。


「・・・蔦子さん」

 ちらりと視線を上げるとそこには声と同様に呆れた顔をした蔦子さんが立っていた。

「せっかく朝から祥子さまに逢えたのに、どうしてそんな浮かない顔なのかしら」

「な、なぜそれを!?」

 思いがけない蔦子さんの言葉に勢いよく身体を机から持ち上げた祐巳の顔の前には一枚
の写真。近すぎてぼんやりとかすんでしまった表面を徐々に眼前から離していくとそこに
は麗しの祥子さま。と情けない顔で俯いている祐巳。


「なんで・・・なんて聞く必要もなさそうね・・・」

「そうよ、私を誰だと思っているの?」

 写真部のエース、武嶋蔦子さんでしたね。今度は祐巳が呆れた顔をしてため息をつくと、
蔦子さんはさも楽しそうに言葉を重ねる。


「祐巳さんにそんな顔をさせているのは、祥子さま・・・というよりこの写真の状況かしら」

「・・・正解です」

 相変わらず、勘が鋭い。というより写真を撮っていたってことはその場の雰囲気も何と
なく読めるということなのか。


「ふぅん・・・でも、祥子さまと会うの、そんなに緊張するわけ?」

「そうじゃないけれど・・・」

 
確かに、ずっと憧れていた祥子さまに普通に話しかけてもらえること自体、今までの日
常とはかけ離れていて、なんとも緊張してしまうことにかわりはないのだけれど。どうや
ら盗撮している蔦子さんには音声までは伝わっていないらしい。


「・・・・・・お姉さまってうまく呼べないの・・・」

「・・・あら」

 むにゃむにゃと呟くと蔦子さんはきょとんと目を丸くした。

「でも、もう姉妹でしょうが」

 そんなこと言われなくても、おかしいこと言っているってわかっているけど、やっぱり
他の人にもそう映るのだと認識するとなんだか落ち込んでしまった。


「だって・・・」

「慣れない?」

「ん・・・」

 蔦子さんの言葉に祐巳は曖昧に頷いた。
 慣れない。
 そう、須く祐巳には慣れない事ばっかりだ。
 祥子さまの隣も、祥子さまの祐巳を呼ぶ優しい声も、祐巳をみつめてくれるきれいな瞳
も、それにたどたどしく応える自分も。何もかも祥子さまに慣れない。

 だけど、どうしてそうなってしまうのかを考えると、今よりもっと落ち込みそうで。

 私なんかが祥子さまの妹でいいのかな。

 卑屈だって自分でも思う。祐巳を選んでくれたのは祥子さまで、一生懸命ついていこう
って決めたのは祐巳なのに。気がつくとそんなことを考えてしまう自分がいて。そのこと
に囚われた心が祥子さまを「お姉さま」って呼ぼうとする唇に歯止めを掛けてしまうみた
いだ。


「まぁ、今の祐巳さんはスターと結婚したようなもんだからね」

 思っていることをぽつぽつ漏らすと、蔦子さんは痒くもないだろうに頭をぽりぽりとか
きながら天井を仰いだ。


「だけどいくらスターでも、祥子さまは普通の高校生の女の子でしょうに」

「へ?」

 蔦子さんが唐突にそんなことを言うから、祐巳は間の抜けた声を上げてしまった。確か
に祥子さまは高校生の女の子だけど、あの紅薔薇の蕾で、小笠原グループのお嬢さまで。
そんなことよりなにより、祐巳は「お姉さま」って言葉について悶々としていたわけなの
だけれど。蔦子さんの言葉はどこか全然別のところへ行ってしまいそうだ。

 そうやって、顔中にはてなマークを浮かべている祐巳に、蔦子さんは少しだけ真面目な
顔を作って囁いた。


「姉妹だって、基本は人間関係だってこと」

 蔦子さんはそれ以上はその話題を振ってこなかったけれど、なんだかそこに答えのよう
な物が隠されている気がした。だけど、正解を蔦子さんから教えてもらうって言うのは何
か間違っている気もして。祐巳もそれ以上はぐちぐちとは言わなかった。


 とにかく慣れなきゃ。

 授業の終わりと同時に気持ちを切り替えて。靴箱で頬っぺたを両手で軽く叩いて自分に
気合を入れる。そのまま革靴を引っ掛けて昼休みの中庭を早足で通り抜けてゆくと、朝と
同じように涼しげな風が髪を揺らして、しぼみかけていた気持ちがしゃんとするみたいに
感じられた。

 薔薇の館を開ける前に大きく一度、深呼吸をする。

(大丈夫、大丈夫)

 自分で自分に言い聞かせながら、祐巳はそのまま館の中へ入り込んで、古い木製の階段
を揺らすように軽快なステップで駆け上がる。

 勢い。とりあえず勢いが大事。そんな風に思いながら、ビスケットの扉に手を掛けて力
いっぱい引き開けると祐巳はその勢いが緩まないように一気に言い切った。


「ごきげんよう!お姉さま!」

 言い放ったその部屋の中には。
 ぽかんと口を開けた白薔薇さまと。それに遅れること数瞬、書類から不思議そうに目線
を上げる紅薔薇さま。頬杖をついたまま視線だけをこちらに向ける黄薔薇さま。


 リリアン女学園高等部生徒会長、麗しの薔薇さま三人が揃い踏みしている光景が広がっ
ていたのだった。



                                 


「はぁ・・・」

 放課後の中庭を、祐巳は昼休みとはまったく違う気持ちで歩いていた。歩調もそれにあ
わせるかのようにとぼとぼと。

 まぁ、薔薇の館には何も祥子さまだけがいるわけじゃないってことぐらいは、わかって
いるのだけれども。

 あの後、薔薇さまたちは大口を開けて笑うというお嬢さまらしからぬ迎え方をしてくれ
たのだけれど。それこそ床板をはがして地面に入り込みたくなるくらい居た堪れなくて。
恥ずかしくて真っ赤になって目を回している祐巳に、聖さまなんて目に涙をためて受けて
いるものだから恥ずかしいったらなかった。その上。


「本当、祐巳ちゃんは祥子のことが大好きなんだねぇ」

 息も絶え絶えといった様子で聖さまは無邪気にそう言ってくれて。確かにそれは本当の
ことなのだけれども、その大好きな祥子さまの妹がこんなお味噌でいいのかなんて思って
しまったのだった。

 ぎしぎしと足を乗せるたびに軋む薔薇の館の階段の様子はお昼とまったく同じものなの
に、まるでしぼんでしまった祐巳の気持ちのように重く苦しげに感じられた。手を掛けて
引くビスケットの扉も、なんだかずっと重く感じられる。


「あら、祐巳ちゃん」

「え?」

 俯いたまま部屋の中へ入ろうとした祐巳の耳に先に部屋へ入っていた人の声が届いて、
一瞬驚いて目を見開いてしまった。


「あ・・・ごきげんよう、紅薔薇さま」

 上げた視線の先には、昼下がりの柔らかい日差しを背中に受けた紅薔薇さまの華やかな
微笑があった。


「はい、ごきげんよう」

 ふわりと微笑んでそう応えてくれる紅薔薇さまにほっとしながらも、お昼休みのことを
思い出すと急激に恥ずかしさがこみ上げてきて、祐巳はその場でもじもじと立ちすくんで
しまった。


「どうしたの、祐巳ちゃん。こっちへいらっしゃいな」

 意味不明な祐巳の行動に首を傾げつつも、紅薔薇さまは優しげな声でそう重ねて、「お
いで、おいで」と手招きする。居た堪れなさは相変わらず拭えないけれど、紅薔薇さまに
そうされては、突っ立ったままでいるわけにもいかない。顔を上げてもう一度紅薔薇さま
が優しげに微笑んでいるのを確認してやっと安心した祐巳は、気持ち小走りになってその
側に近づく。


「本当に、今日の祐巳ちゃんはどうしちゃったのかしら」

「う・・・っ」

 やっとのことで近づいてきた子狸に、紅薔薇さまが「やれやれ」といった様子で息をつ
いて見せるから、やっぱりおかしく見えるのだと改めて認識して、傷んでもいない床の間
にめり込みそうになってしまった。


「やっぱり、変、ですか?」

「え?」

 耐え切れなくなって、涙を零す代わりにぽつりと呟くと紅薔薇さまは一瞬目を丸くした。
その様子に、一瞬だけブレーキがかかりそうになったけれど、それよりも前に言葉が口を
ついて出てしまった。


「お昼休みとか、その前も・・・私、おろおろするばっかりで・・・」

 何が言いたいのか自分でもよくわからなくなりそうで、祐巳はそこで言葉に詰まってし
まった。だけど、紅薔薇さまはそんな祐巳の様子に苛立つようなそぶりも見せずに、柔ら
かく質問を続ける。


「・・・私が聞きたいのは、どうして祐巳ちゃんがそんな苦しそうな顔をしているのかと
いうことなのだけれど」


「え・・・」

 椅子に腰掛けたまま、紅薔薇さまは傍らに突っ立っている祐巳の手をそっと握り、反対
の手で宥めるように結んだ髪の先を撫でながら、続きを促すようにもう一度首を傾げるか
ら。その優しげな仕草に、目の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、祐巳は噤んでい
た唇を開いた。


「・・・・・・だって・・・」

 祥子さまのことをお姉さまって上手に呼べないことが情けなくて。

 だけど、うまくしようとすればするほど空回って。

 そのことで余計に落ち込んで。

 ぐるぐるぐるぐる悪循環を繰り返す自分は相当にどうしようもない気がする。

「・・・祥子さまのこと、お姉さまって呼べないから・・・上手に呼べないから、私・・・」

 言いながら、目元がゆるゆると滲んでくるのを感じながら、祐巳はそうじゃないって思
った。


 上手に呼べないのは、自信がないことの現われで。

 薔薇の館に来るたびに、志摩子さんや由乃さんや他の人たちには当たり前のようにでき
ることが、祐巳にはできないことをまざまざと感じてしまう。書類をきちんと作るのも、
お茶を淹れて差し上げるのだって、お姉さまたちに喜んでもらえるようなことが、祐巳に
は上手にできなくて。

 お姉さまと呼びなさい。祥子さまはいつもいつもそう言ってくれるのに。そう呼んでも
いいのって心が叫ぶ。

 祥子さまが大好きなのに。大好きだから。もっと祥子さまにふさわしい自分になりたい
のに。そうなれないかもしれない不安が、祐巳にうまく言葉を紡がせてはくれない。


「祥子さま、きっと呆れてる・・・」

 ぽつりと漏れた自分の呟きが耳に返ってくると、こんなこと聞かされる紅薔薇さまだっ
て呆れるに違いないのにって思った。それなのに紅薔薇さまは祐巳がぐちぐちと言ってい
る間、ずっと手を握ってくれていて。言葉に詰まってそれ以上何もいえなくなった祐巳の
手をもう一度やんわりと握り締めてくれると、小さく声を漏らして笑った。


「祐巳ちゃんは本当に祥子が好きなのね」

 紅薔薇さまは、お昼休みに白薔薇さまが言ったのと同じことを言った。

「え?」

「でも、まぁ慣れの問題もあるかしらね・・・練習してみる?」

 優しげだった紅薔薇さまの微笑がほんのちょっとだけ悪戯っぽいものに変わったと思っ
たら、唐突にそんなことを言うから何のことだかわからなくて。目を瞬かせていると、紅
薔薇さまは言い聞かせるように囁いた。


「『お姉さま』って、言ってみて?」

「・・・・・・ふぇ!?」

 おねだりするみたいにちょこんと小首を傾げて見せる紅薔薇さまに、気のせいじゃなく
瞬時に顔が真っ赤になって。突然の出来事にさっきまでの切ない気持ちまでも一瞬飛んで
いってしまいそうになった。


「ろ、紅薔薇さま!?」

 いつの間にか、祐巳の髪を撫でていた方の手も、しっかりと祐巳の手を握っていて。紅
薔薇さまがちょっと力を込めて引き寄せたら、抱きしめられちゃうんじゃないだろうかっ
てくらいの至近距離にどきどきする。


「だって、そんなに気に病むくらいなら、練習して慣れておいた方がいいでしょう?」

「え、えっと・・・」

「あら、私は祐巳ちゃんのお祖母ちゃんなのだから、遠慮なんてしなくていいのよ?」

 確かに気に病んでいることに違いはないけど、これってそう言う問題なのだろうか。場
数を踏めばいいということではない様な・・・。それなのに。


「言って」

 相変わらず声色は優しいままだけれども明らかに命令としか思えないタイミングで紅薔
薇さまがもう一度囁くから。


「・・・・・・おねえさま」

 紅薔薇さまのきれいな瞳をみつめながらそれに引き寄せられるように、祐巳はその単語
を口にした。


 お姉さま。

 あんなにも言えなかった言葉が、まるで英単語の復習をしている時みたいにすんなりと
口から出てくる。


「そうよ、上手」

 褒めてくれる紅薔薇さまの声を聞きながら、祥子さまには上手に言えないのに、どうし
て他の人相手にはこんなにすんなり言えるんだろうって思った。それから、優しい誰かが
見守っていてくれたらもしかして、祥子さまにもこんな風に上手に言えるのかな、なんて
子どもみたいなことまで思ってしまった。紅薔薇さまは祐巳の先生やお母さんでもないのに。


「もう一度」

 縋りつくように呆然とその瞳をみつめていたら、まるで呪文のように紅薔薇さまがそう
言うから。


「お姉さま」

 それにすい込まれるみたいに、今度は躊躇なく祐巳は同じ言葉を繰り返した。だけど。

「・・・・・・え?」

 祐巳が『お姉さま』と呟くと同時にビスケットの扉が開けられて、向こう側には正にそ
の人が立っていた。


「え・・・っ?あ、祥・・・お、おね・・・っ!?」

「・・・・・・」

 紅薔薇様と手を握り合って向かい合う祐巳と、それをビスケット扉の向こう側で見つけ
た祥子さまは、お互いをみつめたまま固まってしまった。


「あ、いえ、その」

 これには浅いような深いような事情がありまして―――。おろおろとうろたえまくりな
がら祐巳は弁明しようとするけれど、口がまったくついてこない。だけどパニックを起こ
したみたいな祐巳を他所に紅薔薇さまはまったく動じた様子もなく華やかに微笑んだ。


「あら、ごきげんよう。祥子」

「・・・・・・・・・ごきげんよう、お姉さま」

 扉の前で固まっていた祥子さまは、紅薔薇さまの声を聞くと我に返ったみたいに一瞬目
を見開いて、それから明らかに不機嫌そうな表情を浮かべて定番の挨拶を口にした。

 だけど、祥子さまはその場に立ち尽くしたみたいに動かなくて、しばらく難しそうな顔
をしていたかと思うと、そのまま思いっきり眉を顰めて横を向いた。


(お、怒った?怒ってる?)

 むしろ、間違いなく怒っているのだろうけれども。祥子さまというお姉さまがいるにも
かかわらず、他の人と手を握りあってみつめあいながらその相手を『お姉さま』なんて呼
んでいるのだ。しかもその相手は祥子さまのお姉さまで。不快でないはずがない。


「あの、祥子さま・・・」

 この場でぬけぬけと祥子さまを『お姉さま』と呼ぶことも居た堪れなくて、祐巳が以前
のように呼びかけると同時に、扉の向こうから新たな声が聞こえてきた。


「ごきげんよう・・・おや、紅薔薇さまが祐巳ちゃんを口説いてる」

「ろ、白薔薇さまっ」

 にやにや笑いで部屋に入ってきたのは白薔薇さま。おまけに親父なリップサービス。こ
の場合、白薔薇さまにはまったく罪はないんだけど、タイミングが悪すぎるそのおどけた
様子に祐巳は気のせいじゃなく涙がにじみそうになった。それなのに。


「あら、だってかわいいのだもの。祐巳ちゃん」

「・・・・・・!」

 紅薔薇さままで。
 別に浮気心なんてないけれど、なんだかやましい気持ちでいっぱいになった祐巳を他所
に三年生二人は明らかに場を悪転させるかのようにおどけあっている。それから、祥子さ
まはというと。


「・・・・・・」

 三年生二人がそんな会話をはじめだしたのを聞くと、ますます腹立たしそうに唇をかみ
締めていて。もしかしなくても祐巳に愛想をつかせそうな雰囲気だ。


「それで?そのせいで、お姫様はこんなにも機嫌が悪いのね」

 いったん祥子さまの脇を抜けて部屋の中に入ってきていた白薔薇さまは、わざわざ振り
返って祥子さまの顔を覗き込むみたいにその顎に指をかけた。


「知りません」

 『ぷいっ』という擬音がぴったりな仕草で白薔薇さまの指から逃げた祥子さまは、その
まま滑るように部屋の中に入ってシンクの前に立った。


「あ、私が・・・」

「結構よ」

 徐にティーカップの用意を始めた祥子さまに、下っ端の自覚がある祐巳は立ち上がろう
としたけれど。祥子さまは取り付く島もないくらいのそっけない態度で。踏み出そうとし
た足が中途半端に止まって、結局元の位置へ戻る。


「祥子、私も喉乾いたぁ」

「・・・ダージリンでよければ」

「オッケー」

 祐巳と祥子さまの間の冷たい空気なんてものともせず、白薔薇さまは明るい声で今度は
祥子さまにじゃれついている。『おいしく淹れてね』なんて言いながら黒髪に恭しく口付
ける仕草までつけるものだからたまったもんじゃない。祥子さまだって始終むっすりとし
たお顔だけど、纏わりついている白薔薇さまを振り払うようなことまではしない。

 ちくり。
 じゃれあう二人をみつめる祐巳の胸に、微かだけれど確かに痛みが走って。自分は紅薔
薇さまにあんなに甘えていたくせに、白薔薇さまと仲睦まじい距離にいる祥子さまに間違
いなく悲しくなってしまった。


「やきもち妬かせてしまったかしら?」

 微かな嫉妬と、身勝手な自分の情けなさに俯きかけた祐巳の耳に、相変わらずおっとり
とした声で紅薔薇さまがそう囁いた。


 やきもち?

 それはどっちがですかって思わず聞き返しそうになる。

 祐巳が、祥子さまと仲良くしている白薔薇さまに?

 それとも祥子さまが、紅薔薇さまに甘えていた祐巳に対して?

 どちらにしても、それは祥子さまの祐巳への執着でないことだけは確かな気がして、余
計に胸が痛くなったのだった。



                                


「祥子、これクラブハウスまでお願い」

 書類を整理する音しか聞こえない静かな部屋の中に、紅薔薇さまの透き通るような声が
響いた。


「はい」

「あ、わ、私も・・・っ」

 祥子さまが紅薔薇さまから書類を受け取るのと同時に、祐巳は勢いよく立ち上がった。
先ほどお茶を淹れて差し上げられなかった代わりではないけれど、祥子さまに肉体労働さ
せておいて、お味噌な自分が館に残っていても作業の速度は変わらない気がした。それな
らば、お使いくらいこの私が。そう意気込んで立ち上がった祐巳に祥子さまはものすごく
渋そうな顔をした。


(う・・・)

 その視線にひるみそうになるけれど、祐巳が涙を滲ませるよりも早く、白薔薇さまが言
った。


「そうね、これから祐巳ちゃんにもお願いすることもあるだろうし。どうせだから祥子と
一緒に言って覚えておいで」


「あ、はい」

 さらりとそう言ってくれちゃう白薔薇さまに感謝しながら祐巳が立ち上がろうとすると、
祥子さまはそれよりも早く立ち上がって、こちらになんて目もくれずさっさと歩き出した。


「ぐずぐずしないで」

 そう一言だけ残すと、本当にとろい祐巳なんて放っておいて部屋の外へ消えていこうと
する。


「い、今すぐ・・・っ」

 椅子の足に膝をぶつけそうになりながら、祐巳も慌ててその後を追う。

「よろしくね、祐巳ちゃん」

 背後から優しげな声が聞こえて振り返ると、白薔薇さまがアイドル顔負けのウインクを
投げかけてくる。それから、隣にいた紅薔薇さまも祐巳と目が合うとにっこりと笑って、
唇だけを動かした。


「は、はい」

 なんだかよくわからない二人の声援にしどろもどろで返事をしながら、今度こそ本当に
見失ってしまいそうな祥子さまの後を追った。

 だけど、どうしたらいいのかなって、階段を小走りで下りながら祐巳は首をひねった。

『がんばってね』

 紅薔薇さまは確かにそう言ってくれたけど、それはお仕事のことなのか、祥子さまとの
ことなのか。とうとう見失ってしまった祥子さまを探しながらそのどちらもできないよう
な気がして祐巳は深くため息をついたのだった。



                                


 校舎の入り口近くの中庭でやっと追いついた祐巳を、祥子さまはちらりと一瞥しただけ
で、無言のまま目的のクラブハウスへ向かっていった。


(お姉さま)

 そう呼びかけたら、祥子さまは振り向いてくれるのだろうか。
 一瞬芽生えた希望に俯きかけた顔を上げるけれど、きれいな黒髪が冷ややかに揺れてい
るのを見ると、拒絶された時の恐怖に身がすくんですぐにそんな思いは挫かれてしまった。


 お姉さまって上手に呼べなくて、苛々させて。

 紅薔薇さまにまで甘えて、不快にさせて。

 薔薇の館のお仕事だって満足にお手伝いできなくて、呆れさせて。

 そのくせ、自信がないのに祥子さまが他の人と仲睦まじくしていると、悲しくなる。

 一人で勝手に落ち込んで、祥子さまに話しかけることすらできない。
 さらさらの黒髪は相変わらず祥子さまが動くたび規則正しく揺れていているのに、ずっ
とみつめていたらその光景自体がじわじわと揺れてきて、祐巳はまた俯いてしまった。


「・・・祐巳?」

 かすんできた景色が溶けて零れ落ちてしまわないように何度も何度も目を瞬かせていた
ら、いつの間にか祐巳はぐずぐずと立ち止まってしまって。止まってしまった祐巳に気付
いた祥子さまは振り返ると、今日はじめて祐巳の名前を呼んでくれた。


「どうしたの」

 いつもと違う様子の祐巳を不思議に感じたのか、祥子さまは今までそっぽを向いて歩い
ていたことも忘れたみたいに、すぐに駆け寄ってきてくれた。


「祐巳、どうかして?」

 優しい声で、祥子さまがもう一度、祐巳を呼ぶ。自分より下の位置にある顔を覗き込む
ように、心配そうに祐巳を見る。


 祥子さまは。

 どんなに腹を立てていても、どれだけヒステリーを起こしたって、やっぱり優しいお姉
さまで。


 どうして祥子さまは、自分のことをきちんと『お姉さま』とも呼べない妹を、こんなに
大切にしてくれるのだろう。


 それにきちんと応えることも出来ない自分は、何て不甲斐ないんだろう。

 そんな風に思うと、もう我慢もできなくなって、堪えていた涙がぽろりとこぼれてしま
った。


「・・・・・・少し、休憩しましょう」

 祥子さまは、小さく息をつくとそう言って、今度は離れてしまわないように手を引いて
歩いてくれた。


「・・・ごめんなさい・・・」

 校舎を抜けて、クラブハウスの裏に位置する中庭まで来ると、祥子さまが祐巳の手を引
いたままベンチに腰を掛けるから、自然にそれにつられるみたいに祐巳も隣に腰をかけた。

 前を向いたまま、祥子さまの方も見られなくて、だけど申し訳ない気持ちでいっぱいに
なって、祐巳は一言そう漏らすので精一杯だった。


「どうして、祐巳が謝るの」

 祥子さまは一瞬こちらを向いたけれど、すぐにまた前を向いてなんだか拗ねたような声
でそう答える。

 腰掛けたベンチから眺める中庭には、晩秋に彩を添えるかのように芝が一面に広がって
いて。風が吹き抜けて祥子さまと祐巳の髪を弄ぶたびにその青も波のように揺れた。


「・・・紅薔薇さまは、・・・祥子さまのお姉さまなのにべたべた甘えていたこと、とか
・・・」


 とりあえず、今日一番の失態がそのことだというのは間違いない気がする。後は不審な
挙動か。それなのに、祥子さまは。


「お姉さまと?・・・ああ、・・・自分の姉と妹が仲たがいするよりはよっぽどいいこと
だと思うけれど・・・?」


 今度ははっきりとこちらをみつめてくれた祥子さまのお顔は、よくわからないという風
な表情をしていて。その事を祐巳が口にしたことに素直に驚いているようだった。だけど、
そのことがお怒りの原因ではないのなら、日々の祐巳の粗相の積み重ねこそが原因なのだ
ろうかって余計に落ち込みそうになってしまう。


「でも、あの・・・紅薔薇さまに・・・「お姉さま」と言っていたのは、その・・・」

 ぽそぽそと祐巳が重ねると、祥子さまは少しだけ眉を顰めてため息をついた。

「・・・そうね・・・どうして、紅薔薇さまに「お姉さま」なんて言っていたのかは、わ
からないわね、私には」


「あっ、違うんです。紅薔薇さまに「お姉さま」って言っていたのは、その、練習で・・
・紅薔薇さまはそれに付き合ってくださっていただけなんです、だから・・・」


 薔薇の館にいたときほどではないにしろ、不機嫌そうな祥子さまの声を聞いた祐巳は、
慌てて早口でそうまくし立てた。とりあえず何か誤解があったならそれだけは解いておか
ないと。それなのに、祐巳が言い終わると祥子さまはもう一度、今度は盛大なため息をつ
いた。


「・・・そんなに私は頼りない姉なのかしら」

 そよぐような風に乗って、消え入りそうな声が耳に届く。

「え?」

「『練習』をしなければいけないほど、私を「お姉さま」と呼ぶには抵抗があるの?」

「そんなこと!」

 その声色と、思いもしなかったその意味に弾けるように祥子さまに向き直ると、俯き加
減な横顔があって。不機嫌ではなく、お怒りでもないその表情は、なんだかとっても傷つ
いているみたいに見えた。


「ちがう・・・ちがうんです・・・」

 そうじゃない。祥子さまにこんな顔をさせたいわけじゃないのに。祥子さま以外に「お
姉さま」と呼べる人なんて祐巳にはいないのに。だけど、それを伝える言葉を捜しあぐね
て、祐巳はそこで詰まってしまった。

 慣れないとか、緊張するとか、ことはそんなに単純じゃなくて。だけど、それよりもも
っと明確で。祥子さまを「お姉さま」って呼ぶ自信が、祐巳にはない。


 私なんかが妹でいいのかな。

 卑屈な考えがまた頭に浮かんで。でもそれが自分の本心なのだと自覚すると、堰を切っ
たみたいにその思いが胸の中を何度も巡って身体中をかき乱す。

 祐巳を選んでくれたのは祥子さまで。祥子さまと姉妹になりたいって望んだのは祐巳で。
だけど、現実はそう甘いものではなかったのだ。

 怒ることや拗ねることはあっても、やっぱり祥子さまは全校生徒の憧れと称されても不
思議はない素敵な女性だった。それなのに妹に選んでもらった祐巳はといえば、何もかも
に自信がなくて。そのくせ、独占欲ばかり膨らんで。


「・・・祥子さまの妹にふさわしいのかなって・・・志摩子さんや由乃さんみたいにそつ
なく仕事もできなくて、令さまみたいにお姉さまたちに美味しいお茶も淹れて差し上げら
れないし・・・私、そうじゃないかもしれないって・・・だから・・・」


 だから、上手に呼べない。

 そう続けようとした瞬間、少し強めの風が二人の間を通り抜けて、消え入りそうだった
祐巳の声はかき消されてしまった。

 二つに結った髪が散散に舞って、煩わしさに僅かに首を振ると回転する視界に今度こそ
怒った顔の祥子さまが映った。


「そんなこと、誰が決めるの」

「え?」

 真剣な怒りの表情に、頬にまとわりつく髪の煩わしささえ忘れて固まった祐巳に、祥子
さまはもう一度同じ言葉を重ねた。


「ふさわしいとかそうでないとか、そんなこと。誰が決めるの。」

 抑揚のない声はその怒りが一層深いことを感じさせて、祥子さまをここまで怒らせてし
まった自分にますます居た堪れなくなる。眉一つ動かさず、まっすぐこちらへ視線を向け
る祥子さまのきれいな顔をみつめ返すこともできない。


「あなたが私の妹であることに、一体誰の許可がいるというの」

 俯いてしまった祐巳に祥子さまは幾分か柔らかい声色でそう言うと、頬にかかった髪を
そっと梳いてくれた。

 指先で丁寧に払われた髪はそのまま耳に掛けられて。一瞬だけ指先が離されたかと思っ
たら今度は手のひらが頬を包みこんだ。


「私はあなたに「お姉さま」と呼んでもらいたいの」

 やさしい手の感触に安心して顔を上げた祐巳と目があった祥子さまは、一瞬もその瞳を
逸らすことなくきっぱりとそう言い切った。


「計算が速いことや、お茶を上手に淹れることだってもちろん素敵なことだけれど。それ
ができたからといって、そうしてくれるのが祐巳でなければ私には何の意味もないわ」


 二人の間にまた風が吹いて、祥子さまのさらさらの黒髪を撫で上げていくけれど、澄ん
だ声はかき消されることなくまっすぐ祐巳の胸に届いて響く。


「それとも、私がそつなく仕事をこなせなければ、祐巳は私のことを嫌いになるのかしら」


 誘導尋問だって思った。だけど、祥子さまだってそんな事有得ないのだと言ってくれて
いるのだってわかって、思いっきり首を横に振りながら涙が後から後からあふれてくるの
を止められなくなってしまった。


 祐巳のお姉さまは。

 祐巳が「お姉さま」と心からそう呼びたいのは。

 世界でたった一人、小笠原祥子さまだけだ。

「私にはあなたが必要で、あなたがそれに応えてくれるのならば。必要なのはお互いを大
切にする気持ちでしょう」


 頬を包んだ手のひらが祐巳の涙で濡れていくのに。祥子さまはもう片方の手も反対側の
頬に添えて、両手で祐巳の頬を包み込んでくれる。


「私は、祐巳に「お姉さま」と呼んでもらいたいのよ」

 まっすぐに祐巳に届かせるように、祥子さまはもう一度はっきりとそう言った。どこま
でも澄んだ声は、やっぱりそよぐ風にもかき消されることなんてなくて。


「はい、お姉さま」

 あんなにももどかしく喉元に絡まっていた言葉が、祥子さまの優しい瞳だけをまっすぐ
にみつめ返した瞬間に、解き放たれるみたいに唇に乗せられて声になる。


「ええ、祐巳」

 自分を呼ぶ声に祥子さまはふわりと柔らかな微笑を浮かべて、当たり前のように祐巳の
名前を呼ぶ。きれいな微笑とともに贈られる声に、やっぱり涙がこぼれてしまった。

 みつめあった大切な人が自分を呼んでくれることがこんなにもうれしいなんて、祐巳は
今日はじめて知った。


「お姉さま」

 胸に染み渡る喜びをかみ締めるように繰り返すと、祥子さまが先程までと変わらず優し
く微笑んで頷いてくれるから。


 うれしくて、だけど照れくさくて、そっと視線を中庭に向けると。


 
真っ赤になってどきどきし始めた祐巳の胸の中みたいに、陽だまりの庭に柔らかな風が
そよいで、空から零れ落とされたかのような光の波がいつまでも芝の上で揺れていたのだ
った。




END

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