春がくるよ




「ふえ・・・?」


 呼び出されたカフェのボックス席で、祐巳は相変わらずの間抜けた声を上げた。

「だから・・・」

 だけど、祥子さまはそんな祐巳の様子なんてものともせず、というよりまったく眼
中にない様子で。どうしてだか思い詰めた表情で言葉を吐きだした。


「・・・・・・祐巳が、よかったら、だけど・・・」

 目の前には、多分旅行会社からもらってきたのであろう、テーマパークのパンフレット。

「一緒に、旅行へ行かない?」

 さらりとしたその言葉とは裏腹に、祥子さまの頬っぺたは薄く色づいていた。


                               


 世界最長級のジェットコースターだとか。かなり大規模な観覧車とその中心に据え
られたデジタル時計だとか。その場所への予備知識は、祥子さまの持ってきてくださ
ったパンフレットや、二人で調べた雑誌やホームページで大体は入手できた。


「でも、お姉さま」

「?」

「ジェットコースターには乗らないんじゃなかったですか?」

 グリーン席で隣り合って座った位置から祥子さまを覗き込むけれど、彼女は面倒く
さそうに外の景色へ視線を向けた。


「乗らないわ。祐巳がどうしてもというのなら、あなたがアトラクションへ乗ってい
る間はその姿を眺めておくことにする」


「・・・・・・」

 ちなみにこの席は祥子さまが取ってくださったもので。結構なすったもんだがあっ
たのだけれど、祐巳が折れる(?)形で無事収拾がついていた。


(どうしてかなぁ・・・)

 テーマパーク、自体は嫌いではないのだろうけれど。今回行く場所は、どちらかと
いうと祥子さまの嫌いなアトラクションをメインに据えているところだ。それをどう
して行く気になったのか。もちろんそこだけに行くわけではないけれど。そもそも卒
業旅行とも言っていい時期の旅行同行者に、何故あえて祐巳を選んでくださったのか。
祐巳にはわからないことばかりだった。


 強いてあげるなら、その旅行中に、祐巳は十八歳の誕生日を迎えるけれど。

(・・・誕生日って言ってもねぇ・・・)

『ホワイトデーのお返しと、誕生日プレゼントと一緒になってしまうけれど』

 いつかどこかで聞いたようなことも言っていたっけ。そう言えば、行き先もあの時
に約束したものと違わない。だけど、祥子さまケーキ食べさせてくれるって言ってた
な。いや、祐巳が食べたいって言ったんだっけ。


「・・・・・・もういいでしょう。ジェットコースターが目当てではないのだし」

 しつこくまとわりつく祐巳を一蹴するかのように吐き捨てると、祥子さまはブラン
ケットを肩まで羽織ってタヌキ寝入りを決め込んだ。


「お姉さまぁ」

「・・・着いたら起こしてちょうだい」

 あからさまな拒絶の態度に祐巳は涙目になりながら声をかけるけれど、祥子さまは頑
として目を閉じたまま。


 ちょっとだけ切ない気持ちになりながら、でも、以前にもこんなことがあったかも
しれないと思いだす。


 あれは、夏だった。

 眠りにつく祥子さまの横で、祐巳もそっと目を閉じた。

 冷房の利いた車内の窓は閉め切られているのに、どこからか夏のにおいが運ばれて
くる。


 うつらうつらと夢の中に落ちて行きながら、頬が祥子さまの肩に当たるのを感じて、
ひどく胸が高鳴っていた。眠りにつこうとする身体は思うようには動かなくて。それ
を押しとどめることなんてできやしない。ただただ、息苦しさにも似た高鳴りを感じ
ながら、祐巳は祥子さまに寄り添うようにして眠った。


 祥子さまは寝ていたから、きっと覚えてなんていないだろうけど。

(でも・・・二人して寝過ごしちゃったら・・・)

 目的の駅までおよそ二時間。祥子さまがどうか知らないけれど、祐巳は一度寝入っ
てしまうと、中々目が覚めない。ちょっとしたお昼寝が本格的な睡眠に入っちゃうこ
ともしばしば。


(祥子さま、多分酔い止めを飲んでいらっしゃるだろうし・・・)

 つまり、二人とも目的駅前に目覚める確証がない。まさか車掌さんに「駅に着いた
ら起こしてください」なんて言えるわけもない。


「・・・おねえさま・・・」

 ちょっとだけ、甘えた声で祥子さまを呼ぶ。けれど、すでに本格的な睡眠に突入さ
れた模様の祥子さまの瞳が開かれる様子は全くない。


「・・・・・・もう・・・っ」

 拗ねちゃいそうな気持ちのままそう呟いて。だけど祥子さま相手に怒ったりなんて
できなくて。


 不貞腐れるかわりにその肩へ頬を寄せた。

(うわぁ・・・)

 自分でそうしておきながら、祐巳はその間近な距離に狼狽した。

 息がかかりそうな距離。瞼が頬に影を落としていることまでわかる距離。祥子さま
の寝息がすぐ近くに聞こえてくる距離。


 胸の奥底から打ちつけてくるような音が聞こえる。

 痛くて、苦しい。

 だけど悲しいわけではない、この胸の音の意味を、祐巳はきちんとわかっていた。

「・・・・・・・・・」

 これは、いつものことだった。

 夏の、あの高鳴りも元をたどれば同じものだろう。

 祥子さまの隣で過ごした時間の中で、この痛みを感じなかったことなどない。隣で
過ごすよりもずっと以前、彼女を一目見たあの瞬間から。その人のことを眺める時、
その仕草を思い出す時、祐巳はいつもこんな痛みを胸に感じていた。


 そして、これまでと同じように、今感じているそれがひどく懐かしいもののように
思えてため息が出る。


 卒業式から数えて、もう何日になるのだろう。

 祥子さまからお誘いしてもらった日から数えても、結構な時間が経過しているだろ
う。そして経過しているその時間の全てが、祥子さまと会えない時間だった。


 窓の外には、めまぐるしく流れゆく景色。

 不意に、目的地はどこだっただろうかと、疑問が浮かんだ。

 もちろん、物忘れの類ではない。出発駅も、終着駅も、切符を見ればすぐにわかる。

 けれど、二人の乗った電車の行きつく先が、心の中に浮かんでこなくて不安になる。

(あー、だめだめ!楽しい旅行にしようって決めたんだから!)

 湧き上がりそうになった気持ちに無理やり蓋をするかのように、祐巳は心の中でそ
う喚いた。


 楽しい思い出を作りに行くのだ。祥子さまと。

 だから、こんな風に気持ちを滅入らせていては、損ではないか。

 そう半ば無理やり自分を納得させて、祐巳は祥子さまに寄り添わせていた身体を起
こして、背もたれに預けた。


 それでも、祥子さまの穏やかな吐息は、電車の音にかき消されることなく、祐巳の
耳に届く。


 それを遮ることもできなくて、また、窓の外へ視線を向ける。

 無機質な色合いが、少しずつ緑に溶け込んでいくのが見えて、なんだかほっとした。


                             


「・・・・・・緊張しますね」

「失礼ね」

「あ、いえ、そういう意味ではなくて・・・」

 隣り合った祥子さまに視線だけで睨まれて、祐巳は震えあがった。もちろんその雰
囲気にだけ気圧されてしまったのではない。


 車内の狭い空間が、より一層祐巳を緊張させていることは間違いない。

「以前、祐巳を乗せた時から言えば、かなり乗りこんでいるのだから心配はないわ」

「そうですが・・・。初心者マークの方は、そもそもレンタカーを利用できるのですか?」

「・・・・・・。個人的に知人のものを借りているの。でも、私の技術に問題はない
はずよ」


「・・・・・・・・・」

 どうやら、祥子さまはご自分のドライビングテクニックに、祐巳が不安を感じてい
ると思っていらっしゃるようだ。そりゃ、この前の遊園地デートの時にはひどくどぎ
まぎしてしまったけれど。それは祥子さまが他人を同乗しての初運転と聞かされたこ
とが多分に関係ある。事実、駅前のパーキングを出てから今現在までの祥子さまの運
転はとても穏やかで、危なげな要素が見上がらない。まさに安全、安心なドライブ。


 だから、祐巳の「緊張」は不安や恐れから来るものではないのだ。

(・・・・・・小さくはないんだけど)

 祥子さまに以前乗せていただいた車に比べれば多少小さく見えなくもないけれど。
今乗っているパステルカラーの普通乗用車も、広い空間が確保されている。それでも、
車内に二人きりという状況が、祐巳をいつも以上に緊張させる。


(祥子さまはそうじゃないんだろうなぁ・・・)

 だからこその「失礼ね」という返答なのだろう。

 今だって、怒ったような口調で祐巳に言い聞かせていた祥子さまの横顔はとても優
しい。祐巳のように緊張してうろたえたり、落ち着きがないなんてそぶりを見せるこ
とがない。


 ―――楽しい思い出を作りに行くのだ。

 電車の中、無理やり自分に言い聞かせたあの言葉が、祥子さまの胸には自然に浮か
んでいるのだろうか。


 そこまで考えつくと、何だかおかしくなった。

 変に意識しているのは、きっと祐巳だけなのだ。

 それから、そんな結論に至ると少しだけ気恥かしくなる。

 祥子さまの目に、今の祐巳の姿はどんなふうに映っているのだろう。

 前方に延々と続く車道を眺めながら、熱くなった耳を抑えると、鼻の奥がつんとし
た。



                              


「わぁ・・・」

 冷たい外気が気管を抜けていく感覚に、祐巳は大きくため息を漏らした。

「すぐ近くにあるんですね」

「ええ。でも、敷地の中は広いわよ」

 目の前の風景を見上げながら祥子さまと並んで歩く。

 二泊三日のこの旅行。ジェットコースターには乗らないと公言している祥子さまが
連日テーマパークに赴く等あろうはずもない。祐巳も楽しい乗り物は好きだけれど、
連日通い詰めるほど特別テーマパーク好きというわけではない。


 そんな二人が旅行をするわけだから、それぞれ目的地を組み合わせた日程に沿って
旅することになる。それでもって、そういう目的地にリストアップしやすいのは、有
名どころ。パンフレットやトラベル雑誌に引っ張りだこな名所、史跡。


「来られたことがあるんですか」

 どこかひんやりとした空気に満ちた中、祐巳は地面を踏みしめるようにして歩く。
何だか、厳かな気持ちになってくる。


「父や祖父と何度かね」

 そういって、隣の祥子さまは肩にかかった髪を払った。しんとした空気が、そこだ
け和らいだみたいに、さらさらと音がする。


 酷く混雑しているわけではないけれど、祐巳たちの前にも後ろにも、親子連れやカ
ップルや、卒業旅行の団体が見えた。


「な、何か緊張してきました・・・」

「???」

 歩くたびに、どことなく湿った地面が微かに鳴る。その度に、緊張と、高揚感が入
り混じって何だかドキドキする。


「あなた、そんなに緊張ばかりしていて疲れない?」

「だ、だって・・・」

 唐突に佇まいを直し始めた祐巳を訝しげに眺めながら祥子さまがそう尋ねるけれど、
こういう緊張感って、自分の意思でコントロールできるものでもないような。


 美しく背筋を伸ばして歩く祥子さまの隣で、固くなった背中を無理やり伸ばして、
けれど祐巳は目を輝かせた。


 二人が今歩いている場所は、一生に一度はお参りになんてフレーズでおなじみのお
宮だったりする。


「神様がいるんですよ」

「それならしっかり合格祈願でもしなさい」

「うっ・・・」

 敷地の中を歩きながら、何だか敬虔な気持ちになっていた所で、祥子さまがぐっさ
りと突っ込んだ。こういう所、本当に祥子さまは容赦ないと思う。


「せっかく忘れていたのに・・・」

「忘れちゃ駄目でしょう」

「そうですけれど・・・」

 ほら。楽しい旅行なのだから、日々のしがらみを一時忘れ去るくらいは許されると
思う。そんな気持ちを込めて祥子さまを見上げるけれど、反ってお小言をいただく羽
目になってしまった。


「祐巳はリリアンを受験するのでしょう?」

「はい」

 尋ねられるまま、祐巳は頷いた。

 将来のことを何も考えていないわけじゃないけど、明確に突き進む道が決まってい
るわけではなかった。それよりも、幼稚舎から在籍していたリリアンの大学に進むこ
との方がずっと、祐巳の中では確かに決まっていることだった。優先入学の枠にはい
られるかどうかは難しいところだから、他校の生徒に比べれば苦しくはないものの、
それなりに試験勉強をしなければいけないことに変わりはない。


「そう・・・。それなら、ますます身を入れて勉強してもらわなければ困るわ」

 頷く祐巳を眺めながら、祥子さまは凛とした声で言った。

「私はあなたと同じ学校に通えることを楽しみにしているのだから」

 見上げる角度のせいなのだろうか、声と同様凛とした表情でそんなことを言う祥子
さまは、何だかとても楽しそうだ。


「それとも、祐巳は楽しみにしてくれていないから、勉強もおろそかになるのかしら」

「そんな。違います、ちゃんと勉強してますし。楽しみじゃないわけないじゃないで
すか」


「あら。それならどうして、忘れていたなんて言うのかしら。まるで私のことを忘れ
ているみたいで何だか傷つくわ」


 ころころと笑いながらあしらわれてようやく遊ばれていると気が付く。本当、祥子
さまは年々蓉子さまに似てきている。すぐ下の祐巳はそのどちらともに似ることもな
く、お味噌街道まっしぐらだけど。


「ん?」

 祥子さまに遊ばれながら順路を歩いていると、ふと整備されているけれど何もない
場所が視界に入って、祐巳は首をかしげた。


「どうしたの?」

 そのまま止まってしまったものだから、祥子さまも数歩遅れて立ち止まる。祐巳の
視線を追って、祥子さまが屈むようにして覗き込むと、数歩離れているはずなのにひ
どく近づいたように感じて息が詰まった。


「・・・ああ。あれは、次にあの建物が建てられる場所」

 髪をおろしておいてよかった。わざわざ手を当てて確かめなくてもわかるくらい耳
が熱い。そんなことを考えて祐巳が黙りこみそうになっていると、祥子さまはさらり
といつものボリュームでそう言った。


「同じものを建てるのですか?」

 顔を上げると、祥子さまは隣接した場所にある建物へと視線を向けて見せた。

「そう。決まった年数毎に。そうすることで清浄さを保っているそうよ」

 何世紀も前から。そう付け加えられた祥子さまの言葉に、祐巳は感嘆のため息のよ
うに呟いた。


「すごい。新しくなっても、未来までずっと変わらない姿なんですね」

 あまり大きな反応を期待していなかったらしい祥子さまは、隣の祐巳がはしゃぐよ
うにそう言ったものだから、小さく目を見張った。けれど、すぐに微笑むと、そっと
息をつくように言葉を繋いだ。


「・・・本当。こういう永遠もあるのね」

 一瞬だけ眩しそうに目を細めた祥子さまの顔は微笑んでいるようにも、どこか寂し
そうにも見えた。


 祥子さまと一緒にいた時間は、決して長すぎるものじゃない。けれど浮かべる表情
でいくらかはその感情を推し量ることができる位にはなっていたはずなのに。すぐ傍
に立つ祥子さまが何を思っているのか、その表情がどちらのものかもわからなくて、
彼女の声に応えることはできなくなる。


「行きましょうか」

 祥子さまの指先が霞めるように触れる。その感覚に振り返ると、祥子さまはこちら
へ向けた視線をゆっくりと前方へ向けて、祐巳を促した。


 それを受けて祐巳もまた足を踏み出した。

 祥子さまの隣で歩きながら、もう一度だけその何もない場所へと視線を戻すと、ど
うしてだか、うらやましいと思った。


 壊して、また作りなおして。

 その時、祐巳と祥子さまの距離は、今と変わらないのだろうか。

 それとも、遠くなるのだろうか。

 けれど、願っても近くなることはないような気がして、祐巳はそれ以上考えること
を止めた。


 壊れて元に戻らなくなるくらいなら、このままの距離の方がずっといい。

 触れ合うことのない距離で歩く祥子さまを右側に感じながら、祐巳は誰に言うとも
なく、心の中で呟いた。



                             


 同じサイズのはずの浴衣なのに。祥子さまが身につけるとあつらえたようにぴった
りで、祐巳が包まると縦幅が微妙に長い。悲しい。


(旅館なんて、子どもの時以来だなぁ)

 お温につかって、食事をして、すっかり緩まった頭の中で祐巳はぼけーっとそんな
ことを考えた。修学旅行は過去三回ともホテルだったような気がする。家族で旅行す
るにしてもしかり。ずっと幼いころに泊ったことがあるようなないような。そんな曖
昧な記憶でごめんなさい、お父さん、お母さん。


「お待たせ」

 祐巳が一人、両手を合わせてここにはいない両親に懺悔し始めた所で、洗面台の方
から祥子さまが声をかけた。


「祐巳はいいの?」

「?はい」

「そう・・・?遠慮しているわけじゃないのならいいけど」

「???はあ・・・?」

 ちなみに、二人ともお風呂は部屋付きのものではなく、露天になっている温泉を利
用していた。


(夜景見てる場合じゃなかったけど・・・)

 下方に灯された薄明かりの中、見上げた夜空には眩く星が瞬いていた。はずである。
けれど、隣の祥子さまの麗しすぎる肢体に卒倒しそうな祐巳に、それを楽しむ余裕な
んてあるはずもなく。


『のぼせちゃった?』

 赤くなったまま俯く祐巳を、心優しくも覗き込む祥子さま。高く結わえていた髪か
ら、蒸気でできた滴が一粒落ちて行くのを眺めたのを最後に、祐巳の記憶は途切れた。


 さすがに倒れたりはしなかったけれど、そこからこの部屋までどうやって帰って来
たのかわからないくらい、祐巳は毎度のプチパニックに輪をかけて、わけがわからな
くなっていたのだった。


「あ。髪は乾かしてますし、スキンケアも最初にお風呂から出た時に済ませてますから」

 祐巳の言葉に、祥子さまはもう一度「そう?」と言って、納得したように笑った。

 薄れゆく意識の中で、そう言えば、祥子さまは温泉から出た後も、髪やら肌やらの
お手入れに結構な時間をかけていた気がしないでもない。夕食を取り終わった後も、
祥子さまは一度祐巳に断ってから、洗面室にこもった。祐巳はと言えば、お風呂から
上がって、がーっと髪を乾かして。一通りお肌の手入れをしたらそれで終了。だから、
祥子さまを待っている間もテレビを見たり、両親に懺悔したりとその他のことをして
いたのだ。価値観の違いなのか生活習慣の違いなのか。何にせよ、祥子さまは旅行中
も普段と変わりなく過ごしたい派のようだから、祐巳もそのように振る舞っているつ
もりなんだけどな。


「ねえ、今日撮った写真を見る?」

 とりあえず、今更だけどストレッチでもしようかなと考え始めた所で、祥子さまは
そう言ってバッグを持ち上げた。


「あ、はいっ」

 祥子さまの提案に、日課でも何でもないストレッチのことなんてさっさと忘れて
祐巳は頷いた。


「・・・何か、食べてる所ばっかりですね」

「いいじゃない。祐巳らしくて」

「それってどういう意味ですかっ」

 額を寄せ合うようにして液晶を眺める距離に、最初こそはどぎまぎしたけれど、写
真を巻き戻すたびに祥子さまがおかしそうに笑うものだから、祐巳もつられて笑う。
そのおかげだろう、緊張感よりもはしゃいだ気持ちに心の振り幅が大きく傾いてしま
ったのは。編集機能でへんてこな落書きを写真の顔にされそうになった時にはさすが
に泣きついたけれど。


 祥子さまって不思議だ。

『そんなに緊張ばかりしてて疲れない?』

 祥子さまがそうさせるのに。喉元まで出かけた言葉の通りに、祐巳は緊張していた。
旅行に出発してからどころじゃない。出発する前から。二人で旅行へ行こうと祥子さ
まに誘われた瞬間から。身体が固くなっちゃったみたいに、ずっと緊張して。それな
のに、固まってなんていない胸の奥はずっと高鳴りを訴え続けていた。


 うれしくて、苦しい。祐巳をこんな気持ちにさせるのは、祥子さまだけだ。

 その全く違う二つの気持ちの中で、バラバラになりそうな祐巳を引き上げて、笑顔
にしてくれるのも、祥子さまだけだった。


 祥子さまがいたずらに、レンズをこちらへ向けるから、笑いが止まらないままでそ
れを腕で遮って見せる。すると祥子さまはそれとは別の方向からシャッターを切ろう
とするものだから、それをよけながら祥子さまの手を抑えた。じゃれあうみたいなお
互いの仕草に、ますます笑い声が止まらなくなりそうだった。


 零れた声の余韻の中で、祥子さまはどうしてもファインダーに何かを映したいのか、
カメラを構えたまま、ぐるりと周囲へ視線を巡らせた。


「・・・夜景って何もきらびやかなものだけを言うのではないのよね。夜の景色なの
だから」


 窓の方へとレンズを向けた祥子さまは、視線を外へと向けたまま、カメラを下ろした。

「そうですね。だんだん暗くなっていくと、何だか寂しい感じもしますけど」

 手入れの行きとどいた広い庭には、それぞれの部屋から漏れる明かりと、電燈の薄
い明りが渡り廊下や石畳へ控え目に落とされている。視線を少し上げると、夜色の空
が広がっていた。


「そうね。・・・でも・・・」

 言いながら、祥子さまがゆっくりとこちらへ視線を戻した。

「あなたと一緒だと、暗がりの風景も優しく見えるわ。・・・どうしてかしらね」

 何か答えようと、唇を動かしかけて言葉に詰まる。目の前にある柔らかな微笑に、
胸の奥がつんと痛む。


 きれいな人だ。

 いつ見ても、どんな距離で眺めても、最初にその言葉が浮かんでくる。

 初めはきっと、その造形の美しさを讃えるだけの言葉だった。けれど、彼女のこと
を知れば知る程、二人の距離が縮まる度に、その印象はより一層深まっていった。


 きれいな人だ。

 目の前の微笑だけじゃない。どんな表情を浮かべていたとしても。どんな気持ちの
中にあろうとも。この人の姿は、なんて美しいのだろう。


「・・・それはきっと、祥子さまが優しいからですよ」

「・・・?それをいうなら、あなたの方でしょう」

 不思議そうに、首を微かに傾けてから祥子さまは静かに微笑んだ。

 祥子さまは、優しい。多分、祐巳は誰よりもそのことを知っていると思う。

 だから。自分にそれを向けられるのが苦しくてたまらない。

 そんな風に優しくしないでほしい。優しい言葉を、手渡さないでほしい。祥子さま
の紡ぐ言葉の一つ一つに反応して、喜んで、落ち込んで、また立ち直る、そんなこと
を繰り返している自分が滑稽なのだと言うことは十分わかっている。けれど、いや、
だからこそ、期待するような言葉を投げかけられると、祐巳は一瞬だけ舞い上がる。
それからすぐにどこか深い所へと突き落されたような気持ちになった。


 きっと、祐巳が欲しいのは優しさじゃない。

 わがままだなぁと、気が付いた自分の気持ちに少しだけ笑みが零れそうになってい
ると、祥子さまがこちらをみつめたまま、小さな微笑みをまた一つ零して言った。


「それなら、明日の朝は元気になれるような空を見に行きましょうか」


                             


「・・・・・・眩しい。目が痛いわ」

「・・・・・・」

 そう言えば祥子さまは低血圧だったっけ。と、運転席を横目に見ながら、祐巳はそ
んなことを思い出した。普段は目ざまのよい祐巳も、少しだけ瞼が重たい。


(日の出前起床だもんなぁ・・・)

 モーニングコールにプラスして、それぞれの携帯電話のアラーム機能までフル活用。
それなのに、祥子さまは鳴り響くアラーム音の中でも、僅かに顔をしかめるだけで熟
睡していた。


「大丈夫ですか?その、運転も・・・昨日もずっとしていただいていたし・・・」

 先に起きた方が、相手を起こすようにと約束していた手前、祐巳は眠り続ける祥子
さまの肩をゆすり、毛布をはがしと、やっとのことで出発の準備を済ませたけれど。
低血圧云々ではなく、疲れもあるから起きにくかったのだろうと、隣でハンドルを握
る祥子さまを今度ははっきりと見上げて言った。


「大丈夫。少し眠たかっただけ。もう目は覚めているわ」

 けれど祐巳に問いかけられた祥子さまは、どうしてだかその途端に、元々伸ばされ
ていた背筋をより一層伸ばして見せると、先ほどとは打って変わって、しゃっきりと
した声でそう返す。


「・・・そうですか・・・?」

「ええ」

「・・・・・・でも、すみません。私も運転できたら良かったんですけど」

 言いながら、それはそれで安全の保証ができそうにないことに気が付いた。そもそ
も運転免許証を取得していないから、不可能なことなんだけれど。今後自分が車を運
転する姿を想像すると、自分のことながら冷や汗が流れそうだ。祥子さまを気遣って
いたはずが、何だか恐怖のどん底に落とされた気分。


「そんなこと。考えもつかなかったわ」

 案の定、祥子さまは前方をみつめながら考えるように一度口をつぐんでそう言った。

「それに、もしあなたが免許を取っても、二人で車に乗る時には私が運転するもの」

「・・・確かにそっちの方が安全かもしれませんが」

 自分ですら不安を覚えるのだから、祥子さまにしてみれば至極当然の結論なのだろ
うけど、ちょっと傷つくかも。そんな風に祐巳が唇を尖らせると、祥子さまは短く笑
った。


「怖いとかじゃないわよ。・・・全くそんな気持ちがないわけじゃないけど」

「ほら、やっぱり!」

「だから。運転しているあなたを見るのもいいだろうけれど。私はあなたが隣で笑っ
てくれたり、おしゃべりしてくれている方が落ち着くもの、きっと」


 不貞腐れそうな声に被せるようにして、祥子さまの笑い声が聞こえてくると、祐巳
はそれ以上は何も言えなくなった。


(・・・・・・ずるいよ、祥子さま)

 フロントガラスの向こう側に、白みかかった空が広がっている。徐々に高く昇って
いくその色を眺めながら、黙り込んでしまっていたら、祐巳が拗ねたと思ったのだろ
う、祥子さまの左手が、一瞬だけ祐巳の髪を撫でた。


「ほら。今から楽しみにいくのに、そんな顔していたら駄目よ」

「・・・・・・!」

 宥めるような優しい声が、窓ガラスに流れていく景色のように、急速に祐巳の胸へ
と注ぎこまれると、やっぱり何も言えなくてただ頷いた。


 ずるい、ずるい。祥子さま。

 言葉にすることもできない声を胸の中で何度も繰り返しながら、隣にある横顔を仰
ぎ見た。


 柔らかな表情だった。


                                


 良かった、間に合って。

 運転席の扉を開けながら、祥子さまはほっと胸をなでおろすように息をついた。

「わぁ・・・」

 車から降りてすぐに、自分の口から思わず出てしまった声を聞きながら、祥子さま
が言ったことの意味がわかった。


 車にもたれるようにして立っている祥子さまの隣に向かいながら、じっと眺めたそ
の先には、彼方から光のさしこむ海が広がっていた。


 海岸沿いの港も、手前に見える島も、波も、全てを照らしながら、その光が大きく
湧き上がってくる。


「・・・きれい」

「ね。同じきれいな空でも、こちらだと何だか元気が出るような気がするでしょう?」

 夕闇は寂しいと言った祥子さまの目に、この朝焼けは温もりに満ちて映っているの
だろう。


「私はこっちの方が好きだわ」

 起きられないから、中々見る機会なんてないけれど。そう付け加えて笑ってから、
祥子さまがこちらへ視線を向けた。感想を尋ねられているのかなと思いながら、祐巳
は少しだけ考えてから、けれど素直な気持ちで答えた。


「私は昨日の夜の空も、今日の朝焼けの海も、どちらも好きです」

「そう?」

 せっかく連れてきたのに、なんて顔をするわけでもなく祥子さまが微笑みを浮かべ
たままだったからだろう。そこへ引き寄せられるように祐巳は呟いていた。


「はい。祥子さまの隣だと、いつもよりももっと、きれいに見えるみたい」

 どうしてだろう。

 祐巳の声を聞いた祥子さまは、一瞬だけ、その表情を変えた。

 柔らかな微笑が消えて。眉を下げたその表情は、泣き出しそうなものだった。

「あの・・・」

 けれど、祐巳が声をかけるよりも前に、それは消えてしまった。

 柔らかな表情へと戻った祥子さまは、それ以上は何も言わずに海の彼方を瞳に映し
ていた。


 水平線から朝日が離れてしまうまで。言葉もなく、二人してじっとそこを眺めていた。


                             


『チェックアウト一時間前に起こして』

 そう言うと同時に、祥子さまは再度お布団の国の住人になった。元々食に執着の薄
い祥子さまは、さっさと朝食を放棄したのだ。もちろん、祐巳に尋ねてからだけど。
育ち盛りもそろそろ落ち着こうよと思わなくもない祐巳も、めったにない早起きのせ
いか、そこまでお腹もすいていない。二つ返事で祥子さまのお願いを了承して、緑茶
なんて啜ってみたら、結構満足したり。


(・・・眠たかったんだろうなぁ)

 茶碗を口元へ運びながら隣の部屋で眠る祥子さまのお顔を眺める。すやすや、ぐっ
すり、という言葉がぴったりな位、祥子さまは安らかに眠っていた。


『もう目は覚めているわ』

 そう言った時のあの仕草は、強がりなのか、それとも気遣いなのか。どちらにして
も、心配する祐巳の為にそう振る舞ってくれたのだと思うと、胸がじんわりと温かく
なった。それに、何だか可愛らしかったな。思い出してついつい笑ってしまうと、視
線の先で、祥子さまがわずかに眉をしかめた。


 ずっと眺めていられたらいいのに。

 昨日の夜に感じた切なさとは少し違う、けれど愛しい気持ちが募っていくような感
情に、祐巳は笑顔を苦笑いに変えて、約束の時間まで祥子さまを眺めていた。



                              


 朝焼け前と同じく、祥子さまが一度声をかけただけでは目覚めないものだから、祐
巳は途方にくれそうになりながら、延々と声をかけ続けた。


 それでも何とかチェックアウトには間に合った。

 しかし。元々申請していた退出時間はかなり遅いものだったから、手続きをしたり、
荷物を運んだりしていたら、出発する頃にはお昼ご飯の時間になっていた。


「嫌よ。それにもうすっかり日が沈んだし。ジェットコースターなんて寒いだけよ」

「・・・・・・」

 確信犯のはずである。アトラクションが電飾に彩られて光り輝く中で、祥子さまは
しれっとそう言った。


 旅行前に二人でチェックしていたカフェで遅めの昼食を済ませてから、今夜泊まる
ホテルへチェックイン。それだけでも結構なお時間のはずなんだけれど、どうしてだ
かスパを利用したりして。湯ざめの心配もなくなった頃、祥子さまと祐巳は出かけた
のだった。


 が。

「・・・素直に怖いとおっしゃってください」

「・・・・・・」

 そこへ着いてからも、まっすぐ遊園地には入らず、祥子さまはふらふらとアウトレ
ットモールの方向へと歩いて行った。まあ、物珍しさもあるんだろうななんて思いな
がら一緒に歩いていたから気付かなかったのだ。祥子さまが、何とかしてジェットコ
ースターから逃れようとしていることに。


「あなた、最近本当に反抗的だわ。そりゃ、あなたは今年度の紅薔薇なのだから、多
少の威厳は必要だけれど。姉の前で位可愛らしく振る舞っても良いのに」


「それとこれとは話が別です」

「何ですって?」

 腕を組んで斜に構える祥子さまに負けじと応戦してみる。

「・・・遊園地、楽しみにしてたのに」

「うっ・・・」

 わざとらしく悲しげな顔をして見せると、祥子さまは罪悪感に苛まれたように、目
に見えて表情を曇らせた。


「そうよね・・・いくら私の好きでないものだとはいえ、あなたの意見を尊重してい
なかったわ」


 その上、こちらが予想していたよりもはるかに素直に引き下がるものだから祐巳の
方が慌ててしまった。


「い、いいえっ。その、冗談ですっ。それにアトラクションはまだ動いていますし」

「そうね・・・でも・・・」

「ジェットコースターに乗れなくても、充分楽しいはずですから!私、別に乗りたく
て仕方なかったわけじゃないし」


 慌てた勢いで祐巳がそう言い連ねていると、目の前の祥子さまは俯かせていた顔を
そっと手のひらで覆った。それから。


「?」

 もしかして、泣き出しちゃったとか?

 まさか。あの高ビーで傲慢でプライドの高い祥子さまが、軽い口喧嘩しただけで泣
きだすなんて。そんな風に祐巳がいよいよ青ざめ始めると同時に、声をこらえている
ような音が聞こえてきた。


「くっ・・・くく・・・」

「え?」

「言ったわね」

「は」

 青ざめてぱっくりと口を開けたまま固まる祐巳の目の前で、祥子さまは顔を上げた。

 満面の笑みを浮かべて。

「じゃあ、乗らないでもいいわね。ジェットコースター。他にもたくさん乗り物はあ
るのだし。それで決まりね」


(あーーーーーーー!!!)

 はめられた、気付いてからじゃ遅すぎる。

 真っ白けでたたずむ祐巳を後目に、さっきまで項垂れていたはずの祥子さまは嬉々
として園内案内パンフレットを広げ始めたのだった。



                             


(夜でも人が結構いるなぁ・・・)

 きらびやかな電飾の中を歩きながらふと周りを見渡すと、大混雑という程ではない
けれど、家族ずれからカップルさん、それから学生グループ等などが歩いている。春
休み期間中で開園時間が延長されているから尚更なのだろうか。後一時間もすれば日
にちが変わってしまうのに、すれ違う人たちは皆一様に笑顔を輝かせてはしゃいでい
た。遠くからどこか楽しげな
BGMが聞こえてくる。

「祐巳、疲れちゃった?」

「へ?いいえ」

 きょろきょろと落ち着きのない祐巳の様子を不審に思ったらしい。祥子さまが心配
そうな顔でこちらを覗き込んでいた。


「いいえ。ただ、深夜なのに結構人がいるなぁと思って」

「そうね。日付が変わる頃まで開園しているみたいだから。長く楽しみたい人は残っ
ているのではないの」


 祐巳の言葉に一度周囲を見渡してから、祥子さまはさらりとそう答えた。そのまま
軽く伸びをする。祥子さまもそれなりにお疲れなんじゃないかな。


「他に乗りたいものはある?ジェットコースターはもう乗れないけれどね」

 どこか嬉しそうに付け加えながら祥子さまが小首を傾げた。ジェットコースターや
カートのようなアトラクションは数時間前にその運転を終えているのだ。


「ええっと・・・」

 尋ねられて、遊んだアトラクションを思い返してみるけれど、スピードの出るもの
以外はほとんど乗り終えた気がする。カートくらいならと、運転終了間際に祥子さま
が付き合って下さったし。コーヒーカップもぐるぐる回したし。


(メリーゴーラウンドも乗ったもんね)

 お子様に混じって、お姉さんやお兄さんもちらほらと乗っていたから、祐巳と祥子
さまもあまり躊躇いなくお馬さんにまたがったりした。


 そういえば、前にもこんな風に祥子さまと一緒に、メリーゴーラウンドに乗った。

 あの時と同じく、いつまでも縮まらない距離。きらきらと輝く光の中で、少し離れ
た距離のまま、時折祥子さまと目が合って、笑いあう。


 この距離がちょうどいい。

 どうしてそんなことを思えたのだろう。

 それとも、知らない間に自分は欲張りになったのだろうか。

 手を伸ばせば触れ合うような距離が、もどかしい。

 そのくせ、壊れるのは怖い。


 ふと気を抜けば、そんなことばかり考える自分に呆れながら、けれど祥子さまが笑
いかけてくれると、胸の痛みを上まって、うれしい気持ちでいっぱいになった。


「あ」

 うーん、と大きく周りを見渡してみて、祐巳は気がついた。

「お姉さま。あれは―――」

「あら。本当。忘れていたわ、メインなのに」

 祐巳の視線に気がついて、祥子さまも口元に手を当ててそう言った。わざわざ指な
んて差さなくても視界に入ってくる。


 夜空の中で、他のどのアトラクションよりもカラフルに輝いている丸いそれは、確
かに祥子さまの言う通り、ジェットコースターと並んで遊園地のメイン。


 観覧車だ。


                                


 高いところも好きではない祥子さまは、それでもさすがに祐巳一人で観覧車に乗っ
てくるようにとは言わなかった。


 乗り込む際の浮遊感に、祥子さまは一瞬顔をこわばらせたけれど。二人して向かい
合ってベンチに座ると、窓の外に広がる景色に目を輝かせていた。


「そういえば、この旅行から帰ったら、小笠原の家から出るの」

「へっ!?」

 しばらく夜景を楽しんだ後、明日の予定でも確認するかのように、祥子さまはあっ
さりとした口調でそんな報告をした。


「・・・別に喧嘩とかじゃないわよ。一人暮らし。大学進学を機に、って、結構使い
まわしのきく言葉なのね。敷地は高等部と一緒なのに」


「一人暮らしされるんですか?」

「あら、別に珍しいことじゃないわ。他にも高校を卒業して独り暮らしする人なんて
たくさんいるじゃない」


「そうですけど・・・」

 よくお家の方が許したな、なんて思ってしまうのは多分祐巳だけじゃないと思う。
何と言っても、祥子さまは超がつく程のお嬢さまなわけで。自炊とか、洗濯とか、そ
う言った以前の問題で、中々に難しいのではなかろうかと。それから、やっぱり。


「・・・寂しくなりますね」

 受験が終わるどころかやっと準備を始めようと言う所の祐巳ではあるが、一年後の
自分が家族と離れて生活するなんて考えたこともなかった。


「そうねぇ。お母さまと毎日顔を合わせないなんて、何だか想像できないわね」

 そう考えるとやっぱり寂しいかもしれないわと、風に乗せるような声で祥子さまが
言うから、とっさに祐巳は返していた。


「じゃあ、私、伺ってもいいですか?」

「え?」

「・・・いえ、えっと・・・その、気がまぎれるかなって・・・」

 何でこうも、言っちゃった後にならないと気がつかないのか。顔から火が出そうだ。
図々しいかも、とか、ご迷惑にならないかな、とか、他にもたくさん考えなきゃいけ
ないことはあるだろうにと、後になればさっきまでの自分に言ってあげられるのに。


「馬鹿ね」

 穴を掘ろうにも空中ではどうしようもないと一人膝を抱えたくなった祐巳に、祥子
さまは素直な感想を述べられた。ぐっさり。


 情けないまま、のろのろと顔を上げると、祥子さまは苦笑いとはまた違う、眉を下
げて、少し困ったような顔で微笑んでいた。


「あなたが来てくれたら、気が紛れるどころじゃないわ。うれしくて、はしゃいでし
まいそう」


 静かな声が、観覧車の小さな空間の中で響いているみたいだ。

 楽しい旅行にするんだ。祥子さまだってきっとそう思って下さっている。

 そう自分に言い聞かせているのに。

 向かい合ってみつめると、心の決壊が崩れてしまいそうになる。何か返さなきゃと
思っても、口がうまく動かない。


 何とか息を吐きだして、声が追いつかないまま祐巳は何度も頷いた。

「祐巳」

 頷いたまま、視線を落としてしまうと、それを見咎めたように祥子さまが言った。
けれど。


「はい。お疲れさまでーす」

 妙に明るく突き抜けるような声と共に、唐突に扉が開かれた。

「・・・・・・」

 呆然と降り立った出口で二人してしばし佇んでしまった。拍子抜けするって、今み
たいな時に使うんだろうな。


「・・・そろそろ出ましょうか」

 ぽつりと声が零されて見上げると、祥子さまはおかしそうに苦笑いを浮かべていた。
祐巳が頷くと、祥子さまはもう一度、ため息のような笑い声を吐き出してから歩き始
める。


(・・・明日が最終日かぁ・・・)

 祥子さまの隣を歩きながらふと思い出すと、目の前に白い息が吐き出された。春先
なのに、夜半は気温が下がるらしい。それとも色付いてしまう程、身体の中に溜まっ
て暖められていたのだろうか。


 それが掠れて消えていくのを眺めていたら、その先に、夜空が見える。

 星が瞬くのを見つけて、アトラクションの電飾が落とされ始めたのを知った。閉園
時間のようだ。耳を澄ませば、遠く聞こえていた楽しげな
BGMは、しっとりとした静
かなものへと変わっていた。


 お別れのような曲調の中、明日にはそれぞれの家へと帰ることを思い出す。

 そんなこと、祥子さまの在学中であっても当たり前だったのに。もちろん、寂しく
ないわけじゃなかったけれど。明日もまた会える確証なんてどこにも見当たらない今
の方がずっと、そのことが心を沈ませた。


 隣を歩くその人を、そっと窺うと、先ほどまでのような苦笑いは浮かべていなかっ
たけれど、穏やかな横顔だった。規則正しく、口元に微かな白い息が零されては消え
ていく。


 離れたくない。

 肩先が、触れてしまいそうで、けれど決して触れはしない。

 隣を歩くこの距離が、離れ離れになったとしても。

 好きですと伝える勇気があったなら、心は繋がっていられるのだろうか。

 胸の中に浮かびあがった疑問が、瞬く間に身体中を駆け廻って、もう祥子さまを覗
き見ることもできない。


 駆け抜けて、胸へと帰ってきた言葉は、疑問ですらなかった。

 祥子さまが好き。

 気を緩めたら、口から想いがあふれ出てしまいそうで、祐巳は俯いてしまった。

『祐巳』

 あの時、祥子さまは何を言おうとしたの。


                              


「明日はどこへ行きたい?」

「はい?」

 ゲートをくぐり抜けると、祥子さまは鞄から車の鍵を取り出しながらそう尋ねてき
た。


「あなた、自分の誕生日忘れたの?」

「あっ」

「あなたがケーキを食べたいと言ったんでしょう」

 そう言えば、そうだった。やっぱり祐巳がお願いしたのか。ケーキ。

「祐巳がまだ観光したければ、こっちで探しても良いし。お目当てのお店があるのな
ら、向こうへ早く着くようにするわ」


 鍵を手のひらで弄ぶようにしながら、祥子さまがそう尋ねる。

「祥子さまは、どこか行きたい所はないんですか?」

 尋ねられた祐巳も質問で帰してしまってから、悪い癖だと思い直す。

「特に何も決めていないのよ。だって、もしかしたらあなたがケーキの食べ歩きをし
たいと言うかもしれないじゃないの」


「だから、なんで食べてばっかりなんですか・・・」

 けれど、さして気分を害していない様子の祥子さまがさらりと酷いことを言うもの
だから、思わず脱力してしまった。というか落ち込んだ。きっと、祥子さまの目に、
祐巳はいつも何か頬張っている子狸として映っているに違いなかった。


 そんな子狸を見下ろしながら、祥子さまはくすくす笑っている。

 それから、祥子さまはそっと祐巳の頭を撫でてくれた。拗ねた妹をなだめるような
優しさで。


「でも、帰ってもそんなに一緒にいたら、反って離れるのが寂しくなっちゃいそう、
です・・・」


 だけど、そうされた祐巳の胸は、ぎゅうぎゅうと音を立てて狭まっていく。優しく
されたらうれしくて、苦しいんだ。だから、むずがるような響きでそう答えてしまう。


「そうね」

 祐巳の声を聞き流すように、祥子さまは静かに息を吐いた。

「でも、そのうち慣れるわよ」

 そのあまりの静けさに、祐巳が足を止めると、祥子さまは数歩進んでからそれに気
づいて足を止めた。


 振り返った祥子さまのお顔が、暗くてよく見えない。

「お互いの生活で楽しいことや、努力しなければならないことはたくさんあるだろう
し。その中で大切な人だって増えていくはずよ。だからきっと、寂しいばかりじゃな
いわ」


 笑顔のままなのだろう。紡がれる言葉は最後まで穏やかだ。

 その声と同じように、祥子さまの胸の中はきっとかき乱されてなんていない。その
ことに思い至ると、向かい合う祥子さまの様子とは正反対に、落ち着いてなんかいら
れなくななる。


「・・・そんなことないです」

 振り絞るように吐き出した声が、震えたまま微かに色付く。

「祥子さまはそうかもしれないけど・・・っ、私はそんなことない」

 まるで悲鳴みたいだ。

 ぎゅっと手を握りしめて、足を踏ん張って。

 突然駄々をこね始めた祐巳の前で、祥子さまは黙って立っていた。暗くて見えなく
とも、そのお顔が先ほど観覧車から降りた時のように、呆然としているだろうことは
容易に想像できた。


 それなのに。

 楽しい旅行にするんだって、ずっとずっと我慢してたのに。

「だって、私は・・・」

 だって、私は。祥子さまのことが。

 抑えようとしても、止められなくなりそうな言葉を言いきろうとした。その時だ。

「あ、いけないわ」

 唐突に、それまでの流れをぶった切ると、祥子さまはそう言って、左手の時計に視
線を落とした。


「へ?」

「ちょっと、急いで、祐巳」

「はぁ?」

 不意に訪れたシャットダウンに混乱する祐巳の腕をつかむと、祥子さまは「用意」
も告げずに走りだした。


 駐車場のアスファルトの上、並んで止まってある車たちを横切って、全速力で走る
祥子さまに引きずられるようにして、もつれながら祐巳も走る。


 白く形になる暇もないくらいに、二人の浅い呼吸が後ろへ流れていく。

(じ、持久走なら、もう少しゆっくりして!)

 ひとつ目の角を曲がったところで祐巳は涙ぐみそうになる。無意味に走りまわるこ
とは多いけれど、別に好きなわけではない。それでも祥子さまが祐巳の腕を離すこと
なく走り続けるものだから付いて行くしかない。


 遊園地の外周を半分くらい走った頃、祥子さまは緩やかに失速した。足音なのか心
音なのか分からない音が耳の奥で鳴り響いている。


「・・・な、・・・っ、何なんですか・・・っ・・・」

 倒れ込みそうになりながら立ち止まると、気管が泣き喚いているような呼吸音がす
る。その合間、途切れ途切れになりながらも、とりあえずは祥子さまに抗議した。何
故に走らせるのですかと。


「・・・ほら、シンデレラだって、その時間を過ぎたらいけないから、急いで走って
いたじゃない」


 祐巳と同じく息を弾ませていたはずの祥子さまは、しゃべりながらも少しずつ呼吸
が穏やかになっていく。肺活量にも体力にも、もちろん極力にも、結構な差があるら
しい。祐巳はまだぜーぜー言っている。


「何ですか・・・それ・・・」

 脈絡なくそんなことを言われているにも関わらず、思考の飛びやすい祐巳はもう一
度彼女に問いただしながら、ふと一年生の頃にした、山百合会の劇を思い出していた。
もしかしたら、祥子さまもそのことを思い出していたのだろうか。


 お互いの呼吸が完全に整った頃、祥子さまは言った。

「きっと慣れるわ。離れていることに。でも・・・」

 言葉が途切れると、その代わりのように祥子さまの手が、こちらへ向かって伸ばさ
れる。


 手のひらがそっと、祐巳の肩を押した。力の入らない身体は、その手に抗うことな
く、後ろへ数歩下がる。まるで、今すぐにでも、慣れるようにと言うように、祥子さ
まとの間の距離が開いた。


 今度は、祐巳が呆然とする番だった。

 ぼんやりと霞んでいく視界の中に、祥子さまが立っていた。

 これじゃ、もっと、祥子さまのお顔が見えなくなるよ。

 暗がりの中、膜をはられたような視線の先をじっとみつめながら、そう言いたかっ
た。


「え?」

 だけど、祐巳がそれを言葉にするよりも前に、視界が晴れた。

「・・・っ・・・?」

 いや、晴れたと言うよりは、光り輝いている。

 放射線状に輝く光を背に祥子さまが立っている。一瞬、目の錯覚かと思えるほどに
きらびやかなそれは、丸く縁取られて大きな円になる。


(観覧車・・・?)

 確かにそれは、先ほどまで乗っていた観覧車だった。閉園を告げる音楽と共に、電
飾が落とされていたはずなのに、と眩くみつめた先の中心に数字が見えた。


 000

「こんな風に、あなたの誕生日を一番に祝えるくらいには側にいるつもりだけれど」

 いつの間にか、さっきまでの出来事は昨日のことになっていた。それから、もう、
今日が始まっている。今日は、祐巳の誕生日だ。


「・・・これからも?」

 どうにか吐き出した声が掠れている。

「そうよ」

「ずっとですか・・・?」

「あなたがもうやめてって言うまではね」

 だけどそれに応えてくれる祥子さまの声は、笑いを含んだ柔らかい声だった。霞ん
でいく視界の中できらきらと輝く光が零れ落ちそうになる。


 その余韻を残したまま、不意に電飾が消えた。

 残照と、祥子さまの声が、目の前に漂っているようだ。

「・・・困ったわ・・・。色々考えていたのだけれど、もうストックがなくなってし
まったわ」


「え?」

 もしかして、時報だったのかな。さっきの。再び薄暗闇に包まれながら気がつくと、
その中に紛れるような静かな声がした。


「あなたが。・・・・・・いいえ・・・」

 夜の空の下で紛れて、途切れて、消えそうな声は、震えているのだろうか。

 さっきの、祐巳の声と同じように。

 もしも、そうだとしたら。どうして。

 その疑問の答えを出すことに、躊躇する祐巳に向かって、祥子さまは震えそうな声
のまま、言葉を投げかけた。


「私が、祐巳のことを想っていると、・・・どうしたら伝わるのかしら。あなた、何
か良い方法を思いつかないの?」


 こちらへ向かって投げられた声を、どう受け止めたらよいのだろうか。

「じゃあ、祥子さまには、どうしたら私の気持ちが伝わるんですか?」

「・・・それは、私の気持ちとは反対のもの?」

「わかりません・・・」

 困ったわと、祥子さまはもう一度言った。

 暗がりの中、一歩一歩近づいてくる祥子さまの姿を、立ちすくむようにして眺めて
いた。


 逃げられない。

 何から?と問われても、きっと走り去ることじゃない。自分の気持ちから?と自問
しても答えは浮かんでこない。


 じゃり、とアスファルトの上に散らばった砂塵を踏みしめるような音と共に、祥子
さまは祐巳のすぐ目の前で立ち止まった。


「・・・知っていると思うけれど私は臆病者なのよ、本当は。・・・それなのに、ど
うしてあなたの一言一言に期待してしまうのかしら」


 息がかかりそうなくらい近くなって初めて、祥子さまの浮かべる表情を見ることが
できた。


 それは、あの朝焼けの海辺で、一瞬だけ見えたものと同じ、泣き出しそうな顔。

「・・・私の好きと、あなたの気持ちは、同じものかしら」

 受け止めても受け止めても投げつけられる言葉をもてあましてしまうよりも前に、
ぎゅっと抱きしめると、喉元に留まったままだった言葉が、瞼から零れ落ちていく滴
と同じように、止まらなくなりそうだ。


「いいえ・・・」

 息をのむような音が微かに聞こえた。

「きっと、私の方がずっと・・・」

 俯きそうになると、涙も、言葉も、ぽたぽたと下へ向かって落ちていく。

 でも、その言葉は、地面に消えるようにと落としたいんじゃない。ずっと、ずっと、
祥子さまに手渡したかった。例え受け取ってもらえなくても。


「ずっと、祥子さまが好きです」

 そっと差し出すように、そう言った。震えないように、声を振り絞ったのに、小さ
くなってしまったけれど。


 顔を上げてみつめると、祥子さまはさっきまでと同じ表情を浮かべていて。けれど、
祐巳が何か言おうと唇を動かすよりも前に、怒ったように眉をしかめてしまった。


「・・・何よ。それならどうして気がつかないの」

 その表情と同じように、祥子さまの声は腹立ちまぎれの時のような音色だ。

 怒って、次に横を向いて拗ねたような顔になる。そのまま俯いて。

「私がこれだけ口説いているのに。・・・あの時だってそうよ。姉妹になるとか、な
らないとか。私があれだけ言い寄っていても、あなた、まったく相手にしなかったじ
ゃないの。・・・私はずっと、あなたが好きだったのに」


 だけど、そっぽを向いたまま、祥子さまは祐巳と同じように、差し出した言葉を抱
きしめてくれた。


「・・・それは祥子さまがお鈍さんだから、わからなかっただけです」

 膝が抜けそうになりながら、泣き出しちゃいそうだと思っていたのに、耳に聞こえ
る自分の声は、隠しようもないくらいに喜びに染まっている。


「あなたに言われたくないわ」

 笑い声の後、祥子さまは上を向いて、それから手のひらで顔を覆った。


                            


「じゃあ、どこへ行きましょうか」

 乗りこんだ車のエンジンをかけながら、祥子さまははしゃいだように言った。

 フロントガラスのむこう側には青空が広がっている。今日もばっちり旅行日和であ
る。最終日だって言うのが、残念なことこの上ないけれど。


 もう帰っちゃうのかな。それとも、もう少し寄り道しながら余韻を楽しむのかな。

 そんなことを考えながら隣を窺うと、運転席の祥子さまもこちらを眺めていたらし
く、ぴったりと視線が重なった。祐巳の視線を受け止めた祥子さまがにっこりと笑う。


「もう寂しくなんてないでしょう?」

「え?」

 ギアに伸ばされようとしていた手が、不意に方向を変えて祐巳の頬を包む。

「これから始まるのだから」

 唇に一瞬だけ掠めるような感触を落としてから、祥子さまはそう言ってはにかんだ。



                            END






[あとがき]

 祥子さま、ごめん。
 そんなことを呟きながらごきげんよう。
 どれだけアピールしても、スルー、寸止め、めった刺し。でも両想いで片想いな二人も好きなんだも
のっ・・・!(言い逃げ)



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