Goin`home 4



 お互いに不機嫌なまま背中合わせで眠る日だってある。けれど別に、いつまでも腹
を立てているわけではない。


 こんな時、はるかは往々にして謝罪の言葉を口にしなかった。みちるも然り。

 そのくせ彼女がいつも以上にべたべたと甘えてくるものだから、こちらも結局は根
負けしてしまうのが常だ。流れに身を任せることは好きではないのに、はるかに流さ
れてしまうことは嫌いではなかった。


 だから、あの夜を引きずっているつもりなんて全くなかったのに。

 控室の椅子に腰かけながら、みちるは重苦しくなりそうでため息を吐きだした。ひ
どく緊張しているわけではない。むしろ、程良い緊張感はいつも持ち続けていたいと
思う。


 どちらかと言えばこれは、緊張が途切れた状態なのだ。はるかのことを思い出した
から。


 彼女のことをふいに思い出して切なくなったり、胸が高鳴るのは珍しいことではな
いけれど、今この場で思い出してしまうのは、そう言った気持ちとは違う気がする。


 恨めしく思うわけではないけれど、今日彼女がこのホールに来てくれないことを思
い出して、みちるはため息をつく。寂しくて仕方がないわけではなくて。その後の諸
々までが順を追って蘇ってきたからだ。


『演奏会も見に行けないから』

 あんな風に、二人して不貞腐れあった後も、はるかは事あるごとにそう言って、み
ちるを構いたがった。


 けれどそんな風に甘やかた分だけ、彼女が来てくれないことに落胆する。

 舞台の袖にいてくれるわけでも、側に寄り添ってもらえるわけでもないけれど、ひ
どく切ないような気がしてまた、ため息をつきそうになる。それが、あの夜に感じた
切なさと似ているような気がすると、ますます胸の奥が狭まっていきそうで、みちる
はその時と同じように、額に手を押し当てた。


「・・・・・・」

 きっと少し前までの自分なら、どんなに苦しくとも、こんな感情をもっと上手く処
理していたに違いない。揺れる気持ちに振り回されたりしないように。それが良いこ
となのかそうでないのかは別にして、懐かしい感覚を思い出そうとみちるは頭をめぐ
らせた。


 幼い自分を微笑ましく思い返すことは出来るけれど、その頃の自分が今の姿を眺め
たとしてもきっと笑い出すに違いない。


 はるかのことを考えると、それだけで滑稽なくらいに揺れ動く。

 その答えを見つけると、みちるは一人、小さく笑った。

 もう一度、そっと息を吐く。

 軽くなった身体で椅子から立ち上がると、それと同時に扉が叩かれて振り返った。

 開演の時間は、もうすぐだった。


                             


 照りつけるような眩さに慣れてはいるけれど、舞台に脚を踏み出すと一瞬だけ目を
細めそうになる。けれど踏み出してしまえば、目の前に広がるいくつもの視線に触れ
ることを知っている。だから、眩しさにではなく、その人々がこちらへ向けてくれる
期待に対して、柔らかく目元を緩めて微笑み返した。


 舞台を引き立てる為の照明はこちら側にだけ向けられている。照明の落とされた向
こう側は強い光に対する影のようにひっそりと静まって、その様子を目で確かめるこ
とはできない。


 だから、一つ空いた席があるだろうとわかってはいても、それを確認することはで
きないはずだと、すんなりと納得してその疑問を忘れ去った。


 ヴァイオリンを構えながら薄く目を伏せるのは、自分の奏でる音と、それを受け止
める人たちの息遣いを感じたいからだろうか。


 高く低く突き抜けていく音に乗って、心まで飛んでいきそうになるこの感覚が堪ら
なく好きだ。


 どこまでも漂っていけそうな心地よさの中で、不意に甘やかな気持ちになってしま
ったのは、そのせいだろうか。


『寂しくなったら、はるかを想って演奏するわ』

 それともそんな言葉を思い出したからだろうか。

 そのどちらにしても、弾んでいく気持ちは止められない。

 穏やかな風に抱かれている時のように、温かい光に包まれて、みちるは軽やかに腕
を滑らせ続けた。



                            


 手配した車は、着替えている間には到着するだろう。そんなことを考えながら、み
ちるは控え室へと向かっていた。

 おなじみの黄色い車、ではなく料金が掛かる方のものだ。忙しく走り回っている彼
女をわざわざ送り迎えの為にだけ呼び出すなんて事は考えられなかった。その上、こ
のビルの下まで迎えに来てもらっても、みちるはまっすぐ家に帰るわけでもない。だ
からといって、共演者やスタッフとの打ち上げに彼女を連れて行くと言う構図も間違
いなく場違いである。


「?」

 部屋の扉が近くなると、そこに立てかけられるかのように置かれているものに気が
ついた。


「あら・・・」

 扉の前に立つと、そこには一輪の薔薇が置かれている。投げ捨てられたような佇ま
いではない。一輪だがしっかりとレースやリボンで飾られたそれは、きちんとした贈
り物の風貌だった。


(誰かしら?)

 それを丁寧に拾い上げながらみちるは首を傾げた。演奏会が始まる前に届けられた
ものは、即日自宅へ届くように既に手続きを終えていた。だからこれはその後に届け
られたものなのだろう。


 不思議に思いながら扉を開くと、照明の落とされた部屋の中で、ちかちかと点滅す
るような小さな光が見える。


「?」

 バッグから漏れているものだと気がついて、みちるはそこへ仕舞っていた携帯電話
を取り出した。


「・・・はるか?」

 開いて覗き込んだ液晶に映し出される文字を追いながら、みちるはますます首を傾
げてしまった。


 04/01 2118
 from.はるか
 sub.下にいるよ。
 text.とりあえず荷物になるから一本だけ。残りも渡したいから降りてきてね。


                             


 エレベーターの静かな下降速度に焦れながら、みちるは駆け出したい気持ちを抑え
てフロアへ降りた。通常の入り口なのか、それとも後方の通用口なのか迷ったけれど、
地下駐車場から上がってくるのであれば、本来の入り口の方が近い。そちらへ向かい
ながら、けれどわざわざ控え室まで彼女が足を運んでいるのなら、裏手へ通されてい
る可能性だってあると思いつく。


「みちる」

 もう一度迷いそうになって、引き返すべきかしらと立ち止まったところで、耳慣れ
た声がした。


「・・・?」

 顔を上げたみちるの視界に飛び込んできた彼女の姿に、「はるか」と呼びかけよう
として止まる。


「・・・はるか・・・?」

 最初に呼びかけようとした時とは違う、疑問のような響きを持って彼女を呼んだ。

「お疲れ」

 けれど疑問符を投げかけられているはずのはるかは、それを受け流して微笑む。

「どうしたの、その格好・・・」

 多分、ここで疑問に思う自分の感覚に間違いはないと思う。二階部分まで高く吹き
抜けになったエントランスフロアに立つはるかは、ドレスコードをわきまえたかのよ
うに正装をしていた。黒色の床と同色の深い色身の中で、彼女の手にした花束がいっ
そう赤く映えていた。


「そりゃ、お姫様にお呼ばれしているのに、ボロなんて着てこられないじゃない」

 みちるの言葉にはるかはあっさりとそう答える。けれど、お伽噺ではお呼ばれする
のは大概お姫様の方だ。


(・・・そうじゃないわ)

 のらりくらりとしたはるかの様子に、わきあがった疑問が無秩序に頭の中で回り始
めそうになって、みちるは慌てて自分の思考にストップをかけた。


 そうではなくて。

 どうして、はるかはここにいるのだろう。

 何故、先ほどのホールに集まっていた人たちのような身なりで、目の前に立ってい
るのだろう。


「そのドレスもいいけど、最初に着ていた青色のドレスもみちるに良く似合ってたよ」

 心の中でまとまりきらずに浮かび上がった疑問に答えるかのように、はるかが言った。

「・・・・・・来てたの?」

 その声を聞いてやっと、みちるは自分の尋ねたかったことが言葉にできた。

「うん」


「・・・来られないって、言って・・・」

 けれどみちるの声はすぐに、とりとめもなく、また次の疑問の形になる。

 戸惑ったままみつめていると、はるかははっきりと笑みを濃くした。微笑んでいる
のとは違う、はしゃいだ子どものようなものだとみちるが思い当たったところで、は
るかは首を傾けるようにしてこちらを覗き込む。


「今日の日付は?」

「・・・四月一日だけれど・・・」

 唐突に投げかけられた疑問に答える途中で、みちるは目を見開いた。

 それから、どちらかといえば面倒なことが苦手な彼女に、こんな手の込んだ悪戯を
されるなんて思いもよらなかったみちるは、悔しさに唇をかみ締めそうになった。


「・・・普通は当日にだけ許されるのではないの?」

 今更素直に納得して見せることも出来なくて、ついそう噛み付いてしまう。けれど、
悪戯が成功したはるかは上機嫌のまま笑っている。


「当日中に種明かししたらいいんじゃないの?予選前なのは本当だし。途中でアクシ
デントもあったから、やっぱり止めようかなって思ったんだけど」


 途中のアクシデント、と聞いて、みちるはあの夜のことを思い出した。彼女が言っ
ているのは昼間のことだろうけれど。確かにあんな気まずい空気は、故意には作り出
せないはずである。


「・・・それは嘘?それとも本当?」

「・・・さぁ。でも本気にするんなら、明日の朝、指さして笑ってあげるよ」

 そう言ったはるかの笑顔が、ゆっくりと優しげなものへ変わっていくのをみつめな
がら、今日までの恨み言をぶつけるかのように、もう一度彼女に噛み付いた。


「・・・大体、それならもっと可愛らしい嘘をつくべきよ」

「例えばどんな?」

「わかった時に、騙された方も喜べるようなものよ」

『演奏会も見に行けないから』

 わかっている。彼女がそれを理由にして、いつも以上にみちるを大切に扱ってくれ
ていたことを。驚いた顔を見るまでの間、その為にみちるを傷つけようとしたことな
んて、一度だってなかったことも。


 言いながら、瞼が熱くなっていく。堪えようと考えてから、涙が溢れそうなのだと
気がついた。けれどそれは、腹が立ったからでも、悔しいからでもない。


「だから」

 片手をポケットへ入れたままのはるかは、それでも斜にかまえるような仕草で笑う
と、そっとその花束をみちるの胸元へと押し付けた。


「今、うれしいだろ?」

 言い当てられると、溢れ出てくる感覚を止められなくなってしまったから。両手で
受け止めた花束のせいにして、彼女から顔を隠した。


「・・・もう嫌いよ。はるかなんて」

 泣き顔を見られるのを避けようと、何とか考え付いた言葉は負け惜しみにすらなら
ない。


「うれしいな」

 案の定、はるかは驚いた様子を見せることもなく、そんなことを言った。

「・・・どうして」

 見透かされるのは気恥ずかしくて、好きではないのに。こちらへ伸びてくるはるか
の指先に逆らえなくて、顎を優しく捕まえられるまま、顔を上げた。


「だって」

 視線を上げたみちるの表情に、はるかは一瞬だけ目を見開いて。

「・・・本当は大好きってことだもんね、今日は」

 次にゆっくりと目元を緩ませながら、愛してると囁く時のような声で、静かにそう
告げたのだった。




                            END



 ビルの真ん中で皆に見られていることなんて気にしないはるかさんは、このあとみちるさんに縛り
あげられるわけで(殴)



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