合宿二日目




「これなーんだ」

「「な・・・!」」

 キッチンで痺れるくらいにたっぷり抱きしめてもらってほくほく顔の祐巳と、澄まし
顔の祥子さまが仲良く手を繋いで居間に戻ると、にやにや顔の聖さまと江利子さまが一
枚の紙切れを高々と掲げてみせた。


「祥子ってば、もしかして屋敷の至る所に飾っているの?これ」

「な、な、な・・・」

 聖さまがうれしげにずずいと二人の前に掲げたのは写真。

「よっぽどお気にいりなのねぇ」

 聖さまの横でいつもの様子とは打って変わっていきいきとした表情の江利子さまが可
愛らしく小首を傾げる。


「どうして・・・」

 気のせいじゃないくらいに頬を紅潮させた祥子さまの口からはそんな言葉しか出てこ
ない。だって、祥子さまはキッチンへ洗い物を持っていく前に、聖さまと江利子さまが
自分の私物を漁っていたのをしっかりと見ているのだ。どうしても何もない。


「祐巳ちゃんもお部屋に飾ってあったりする?これ」

「あ、は、はいっ、もちろんです!」

「祐巳!」

「きゃん!」

 正直に答えたら、隣の祥子さまは真っ赤な顔のまま眉を思いっきり吊り上げて雷を落
とした。


 聖さまが持っている写真には、祥子さまと祐巳が写っていたりする。それは、避暑地
に行ったときのものでも、学校行事のついでに撮ったものでもない。


 祥子さまと祐巳が初めて出逢った日。

 祥子さまが祐巳のタイを直してくれる瞬間を納めた、蔦子さん作「躾」写真なのだった。

「怒らなくてもいいじゃない。二人の大切な思い出なんだから。かわいい祐巳ちゃんが
大事にしていないわけないでしょう」


「・・・・・・」

 かわいいと大事にするの共通点がわかりません、聖さま。

「なんで、わざわざ居間に飾ってあるの?」

「・・・別に、たまたまです。持っているのはそれ一枚ですから、屋敷中に飾ったりも
していませんわ」


 ここは反論するだけ不利になると判断したのか、祥子さまはそれだけ言い捨てるとぷ
いっとそっぽを向いた。可愛い。様子を眺めていた蓉子さまも片手で顔を押さえて肩を
震わせている。


「ふぅん、じゃあ片時も離れたくなくて、肌身離さず持ち歩いているのね」

 うんうんと勝手に納得する江利子さま。そのにやけた顔がたまりません。

「そんなこと・・・っ」

 対する祥子さまはというと、怒りからか、恥じらいからか・・・多分両方から顔を真
っ赤にして、唇を戦慄かせている。久々にくるかもしれない。特大級のヒステリー。由
乃さんや志摩子さんも、お姉さま方に遊ばれる祥子さまを見るのは久しぶりのことなの
で、おろおろ半分、おかしさ半分でただ黙って状況を見守っているようだ。令さまは完
全に面白がっているようだけど。祥子さま、どうするんだろう・・・。


 なんだかよくわからないけれど、はらはらと状況を眺めていると、焦った様子の祥子
さまが痛恨の一撃を口走った。


「祐巳が家へくるのだから、今日はそんなことする必要ありませんから・・・っ」

「―――・・・・・・!!」

 沈黙。

 頭に血が上った状態の祥子さまはすぐには気づかない。その沈黙が自分の放った言葉
によるものだということも。そしてそれは嵐の前の静けさだと言うことも。


「?」

 やっと周囲の沈黙に気づいた祥子さまが小さく首を傾げた瞬間。

「ふ、ふふふっ・・・あはははは!!」

 聖さまが空気の漏れるような音を立てながら笑い出すと、堰を切ったような笑いの渦
が瞬く間に広がった。


「な、なん・・・?」

 祥子さまは突然の轟音に再度目を丸くしたけれど、なぜこうなってしまったかにはま
だ気が付いていないようで。察しの悪い祐巳ですら、祥子さまの手痛いミスだけはわか
った。それなのに笑っていないのは、それが祐巳にとってはうれしい告白だったからだ
けなんだけど。

 おろおろドキドキしながら真っ赤になって俯く祐巳に代わって、ひとしきり笑い転げ
ていた聖さまが、目に溜まった涙を拭いながら言った。


「祥子、いつもは持ち歩いているのね」


                               


「合宿二日目のプログラムその1、昼食作り」

「なぜ?」

 みんなの前で日常の過ごし方を露呈させられた祥子さまの落ち込みようは凄まじく、
一時祐巳は祥子さまの視界から完全に消されたりなんかした。少し空気が和らいだのを
感じてすり寄ろうとすればあからさまに距離をとられるし、祐巳に声をかけるのも他の
人づて(主に令さま)で。

 だから聖さまが脈絡なくそんなことを言い出したのは、祐巳にとってはある意味幸運
だった。


「だってもう、十一時過ぎよ?いくら朝食をとったのが遅いとはいえ、今から作ってい
たら一時は回るわ。お腹もちょうど良いだろうし、何よりもこういうのが合宿の醍醐味
でしょう」


 聖さまはからからと笑いながら身の回りを簡単に整理する。すぐにでもキッチンへ向
かいそうだ。あろうことか蓉子さままで「それもそうね」なんていいながら後ろに続く
し。江利子さまにいたっては、聖さまを追い越してしまいそうなくらい浮き足立っている。


「ほら、祥子。案内して」

 蓉子さまが振り向き際にそう微笑む。

「・・・・・・」

 まだ幾分か険のある表情だったけれど、蓉子さまにそう言われては動かないわけには
いかないらしい。祥子さまは思いっきり「不機嫌です」という顔のまま蓉子さまの隣に
歩み寄ったけれど。自然に差し出された左腕に何も言わずにしな垂れかかる。まるで、
お母さんを見つけた時の迷子の子どもみたいに。


「あら、祥子が甘えてる」

 江利子さまがくすくす笑いながら拗ねた横顔を撫でると、祥子さまはぷいっと反対方
向へ顔を背ける。そうすると、今度は蓉子さままでおかしそうに笑うものだから、祥子
さまはとうとう顔を真っ赤にしてしなだれかかった腕に顔を埋めてぎゅっと抱きついた。


 祐巳はといえば、そんな光景をただ黙って眺めるばかり。その上。

(か、可愛いぃぃ・・・)

 愛しの祥子さまが他の方と仲睦まじくしているのだから、嫉妬の一つ位しても罰は当
たらないと思う。けれども、重度の祥子さま病で筋金入りの祥子さまファンの祐巳にと
ってその光景は美しい絵画も同じ。姉妹になって間もない頃であれば、祥子さまが蓉子
さまと仲睦まじくしている姿なんて拝んだ日には、羨望と不安で少しばかり目に涙が滲
んだりもしたけれど。今は、祥子さまが笑っているならそれで良いかと思える自分がい
たりする。それにヒステリーを爆発させられるよりは、大人しくしてくれているほうが
良いような気もするし。


 だけど。

 欲を言うなら、隣で甘える相手は祐巳だけにしてほしい。

 それはきっと、妹としての感想じゃないんだろうな。そんなことを考えながら、祐巳
は少しだけ赤くなった頬を指先で押さえて。ぽてぽてと祥子さまたちの後ろへ続いたの
だった。



                                


「蒸し器は、お持ちですか?」

「あると思うけれど・・・何を作るつもりなの?」

「茶碗蒸しです」

「・・・・・・」

 朗らかに微笑む志摩子さんの向かい側で、祥子さまは青ざめたまま固まっている。そ
んな様子をひやひやしながら眺めていたら、すぐ側の聖さまからお小言が。


「ほらほら、祐巳ちゃん。祥子の方ばっかり気にしなくていいから。手が止まってる」

「す、すみません」

 素直に謝ってから、祐巳は葱を細かく切る作業に専念する。

 大人数では動きにくいということで、それぞれ分かれて昼食作りをすることに決めた
までは良かったんだけど。何がどうなったのか、いつの間にか二人一組で一品ずつ出し
合うという、当初の予定とは少々違う方向へと流れていた。


 ちなみにペアはというと。

「うわ!ものすっごいミンチが手にくっついて丸めるどころでは・・・」

「手にほんの少しだけ油を塗ってから丸めるといいのよ、由乃ちゃん」

「私はパスタが食べたいわ、令」

「はい」

「トマトも入れて。それから、暑いのだから冷たいものにしましょう」

「はぁ・・・」

 蓉子さまと由乃さんという珍しい組み合わせに、江利子さまと令さまという姉妹ペア。
それでもって祐巳はといえば。


「祐巳ちゃ〜ん。キャベツは微塵切りじゃなくて、千切りでお願いね」

「はぁい」

 器用にウィンクしてみせる聖さまに、こっちもなんだか浮かれ気分で返事をしてみた
りする。祐巳のお相手はスーパーマンこと聖さま。なんだかんだで、祐巳にとってはし
っくり来る組み合わせだ。残るは。


「・・・志摩子、茶碗蒸しは昼食には向いていないと思うの」

「そうでしょうか?」

「ええ・・・その、時間もかかるし。どちらかというとお夕食といった印象が強いと思
うわ」


「・・・・・・」

「無言で卵を解かないで」

 昨夜に引き続き麗しの祥子さま、志摩子さんペア。ほんとに花のある組み合わせなん
だけど、二人の嗜好は間逆に近いくらい方向が違うらしい。何を作るかという話し合い
から、まったく持って進んでいない。まぁ、それも仕方がないといえなくもない。だっ
て、志摩子さんの好きなものは、どちらかといえば祥子さまの嫌いなものだ。銀杏なん
て正にその筆頭。そして、多分志摩子さんはそれを使った料理を作りたくて仕方がない。
だけど、祥子さまの嫌いな銀杏をわざわざ冷蔵庫に入れておくかな。大概のものは揃っ
ているみたいだけれど。


「痛・・・っ」

 突然指先に走った痛みに祐巳は小さな悲鳴を上げた。ああでもない、こうでもないと
考えつつ包丁を握っていたのが良くなかったらしい。


「切っちゃった・・・」

 深くはないけれど、左手の人差し指にスーッと血が滲んだ。

「ありゃ、大丈夫?祐巳ちゃん」

 向かい側で小麦粉と格闘していた聖さまは、のんびりとそう言うと、ひょいと祐巳の
左手を摘み上げた。その上。


「わひゃ!?」

 思いもよらない感覚が指先に走って、祐巳は今度こそ怪獣の子のような悲鳴を上げた。
何を思ったのか、聖さまは怪我をした祐巳の指をためらいもなく口に含んだのだ。


「な、なん・・・」

「あー、大丈夫、大丈夫。ほら、すぐに血が止まったから」

 にっこり笑って、口に含んでいた指をこちらへ見せる聖さまに、祐巳は真っ赤になっ
たまま固まってしまう。そりゃ、親父でたらしな聖さまにとっては、こんな行為は本当
に応急手当みたいなものなのだろうけど。一般的にはなんとなーくあれな雰囲気を帯び
ていると思うわけで。


(せ、聖さま・・・そんなことしたら)

 そんなことしたら。

 すぐ近くにある活火山が爆発してしまう。

 胸が異様にどきどきしているのは、聖さまの桜色の唇が指先に触れたからでも、温か
な感触に癒されたからでもない。噴火の恐怖に身体がサイレンを鳴らしているようなも
のなのだ。


 おそるおそる、祥子さまの方を窺うとやっぱりと言うか、当然と言うか祥子さまと目
が合う。けれど。


(あれ・・・?)

 祐巳と目があった祥子さまは、別段眉を吊り上げているわけでもなく、忌々しげにそ
っぽを向いたりすることもない。


 ただ、重なったときと同じく自然に祐巳から視線を外した。

(・・・・・・お姉さま?)

 別に雷を落としてもらいたいわけじゃないけど、意外な反応に祐巳は思わず首を傾げ
てしまう。


「どしたの、祐巳ちゃん」

「あ、いえ・・・」

 聖さまの声に曖昧に首を振ってまた調理を再開するけれど。

 視線を外した一瞬、祥子さまの瞳が悲しそうに揺れていたのは祐巳の思い違いだろうか。


 そんなことを考えていたら、今度は野菜を机から落としてしまった


                               


「これ、おいしいよ。さすが令!」

 口からはみ出してしまいそうなくらいにパスタを頬張りながら、聖さまがにこにこ顔
で令さまのお料理を褒めた。


「当たり前よ」

 ふふんと勝気に答えているのは、味見係に徹したらしい江利子さま。

「本当においしいです、令さま」

「ありがと、祐巳ちゃん」

 祐巳も聖さまに負けじと頬張りつつそんな感想を素直に口にする。冷たいパスタなん
てはじめて食べた。冷やし中華みたいなものを想像していたんだけど、ちゃんとパスタ
料理。あっさりしているから、ついつい食べ過ぎてしまいそうなくらいおいしい。


「これ、由乃が丸めたんでしょ」

「そうよっ、悪い?」

「いやいや、初心者らしくて素朴な感じがいいんじゃない」

「あ、何かその言い方腹が立つわ」

 隣では、由乃さんがぷーっと頬っぺたを膨らませてその向こう側の令さまの肩を叩い
ている。


「下ごしらえは全部蓉子がしたわけ?」

「大体は。でも由乃ちゃんも奮闘したわよ。たまねぎのみじん切りとか」

「あははっ、だから途中で泣いていたのね。由乃ちゃん」

 反対側では何やら聖さまと蓉子さまがひそひそしつつ、なぜか爆笑。こちらの蓉子さ
ま、由乃さんペアは由乃さんの強烈な推薦によってハンバーグを製作したようで。人目
で誰がどれを丸めたかわかるような形がなんともおもしろい。


「で、聖は?屋台の真似事でもしたかったの?」

「だって夏だもの。気分だけでも縁日をみんなに味わってもらいたくて。ね、祐巳ちゃん」

「はぁ」

 唇の端に着いたソースをぺろりと舐めとってから江利子さまが漏らした感想に、聖さ
まは満足そうに頷いた。


 縁日を連想させるような聖さま、祐巳ペアの一品。お好み焼き。

「たこ焼きでも良かったんだけど、たこ焼き器がないんだもの。ここ」

「さすがに置いてないでしょう。ねぇ、祥子」

 江利子さまがからからと笑いながら水を向けると、今まさにそれを口に含んだ瞬間だ
った祥子さまは、お箸をくわえたままこくんと小さく頷いた。


「祥子は、祐巳ちゃんが作ってくれたものなら何でもおいしいわよね」

「お、何それ。言っておくけれど、これはそういう雑念を差し引いても充分おいしいわ
よ。私が作ったのだから」


「はいはい」

 お姉さま方の掛け合い漫才を聞き流しつつ、ちろりと祥子さまを盗み見たけれど、目
は合わなかった。


(・・・・・・くすん)

 昨晩のように拗ねられるのも困るけれど、ここまで興味のなさそうな素振りをされる
とそれはそれで悲しいわけで。


「志摩子さんのところのも、おいしいわ」

「・・・ありがとう」

 口をもごもごと動かしながらうな垂れていると、由乃さんのお褒めの言葉に、なんだ
か曖昧に答える志摩子さんの声が聞こえてきた。


「でも、どうしてプリンなの?」

 デザートまで食べられるからうれしいけれど、と付け加えながら由乃さん。

「だって、志摩子が勝手に卵を解くから・・・」

 由乃さんの疑問に、志摩子さんの代わりに祥子さまが不満そうな声で答えてぶーたれ
た。そういえばそんなやり取りをしていたような気もする。


「志摩子は何を作ろうと思ったの?」

 今度は聖さまが不思議そうにそう尋ねる。

「茶碗蒸しです」

 こちらも、珍しく少しばかり不満そうな様子で呟く志摩子さん。が。

「・・・・・・あー・・・」

 この返答に、二人以外の全員が「納得」と言う風にため息のような声を漏らした。

 まぁ、銀杏が大嫌いな祥子さまがそんなものをつくろうはずもなく。おいしいプリン
は二人の嗜好の食い違いと妥協の結果製作されたものなのだった。


「んー、でもおいしいよ。祐巳ちゃんも甘いの好きだもんね」

「あ、はい」

 幸せそうにプリンを頬張る聖さま。ここまでおいしそうに食べてくれるんだから、作
る方も満足なはずだ。なんというか得する性格である。聖さまは。

 そんなことを思いつつ、祐巳も何とか祥子さまに話しかけたくて、二人の方をじっと
眺めたけれど。


(あ・・・・・・)

 祥子さまとは当然のように目が合わなかった。その上。
 祥子さまは志摩子さんを宥めるように、そっと肩に手を置いて、優しげに微笑みかけ
ている。それに答えて、志摩子さんも柔らかく微笑む。


「・・・・・・」

 なんでだろう。
 蓉子さまと祥子さまがじゃれあっている時はまったくそんなことなかったのに。

 その光景は、なぜだか必要以上に祐巳の胸に重く沈んでいった。


                              


「・・・・・・」

 祥子さまと隣り合って、二人して無言でバスタイルをひたすら擦る。

 本日の合宿プログラムその2、お掃除。のためである。

 これまた二人一組で、廊下やトイレ居間などをくまなく清掃する。『自分が使わせて
いただいているのだから、きれいにして返すのは当たり前』と言う蓉子さまのお言葉の
元、およそ一時間に渡って予定されている、一大プログラムである。


 幸か不幸か。こんな時に限って、なんだか気まずい相手とペアになったりするもので。
別に祥子さまが嫌だとかではなく、何となく、今は気まずいのであった。


「あ、あの・・・・・・」

 だからといって、恋人(強調)と一時間も無言でいるのなんて堪えられそうにもない。
タイルをスポンジで擦る音に紛らせながら、祐巳はおずおずと祥子さまの様子を窺った。
けれど、祥子さまはそれには気づかない様子で、じっと下を向いたまま。おもむろに口
を開いた。


「・・・・・・指」

「え・・・っ?」

 どきっと、心臓が高鳴ったのがわかる。ときめくような感じではなく、やましいよう
な居た堪れないような重苦しい音。


「大丈夫?切れたのでしょう」

 下を向いたままそう呟く祥子さまをみつめながら、核心を疲れた祐巳は早くなってい
く鼓動を押さえられなかった。


『でも、聖さまに手当てしてもらったのだから、平気でしょうけれど』

 そんなお言葉がすぐにでも聞こえてきそうな予感に、どぎまぎしながら祐巳は固唾を
呑む。けれど。


「・・・・・・気をつけなさい」

 祥子さまはやっぱり下を向いたまま、だけど、優しい声でそう言った。

 それでも。みつめた先の瞳は、悲しそうに揺れていて。

「あ、あの・・・」

 祥子さまにそんなお顔を見せられちゃったら、祐巳はおろおろするしか出来ない。拗
ねられたり、怒られたりするのは怖いけれど。祐巳のせいで祥子さまに悲しい顔をされ
るほうが、よっぽど胸に堪えるわけで。


 それなのに、縋り付くような勢いで声を上げると、苦しそうな顔のままの祥子さまと
目が合うから、余計に胸が詰まりそうだ。


「大丈夫です。すぐに血は止まったし・・・その、聖さまが手当てをしてくれたから・
・・」


 しどろもどろの言葉に祥子さまが苦笑するように、だけど優しく微笑んでくれる。

「も、もちろん優しくしていただいて、感謝はしていますけど・・・えっと、だから。
だからといって、私が本当にそうして欲しいのは祥子さまで・・・ああ、だから・・・」


 だけど、そんな風に気遣われると尚更焦る。ただただ重ねられていく自分の声を聞き
ながら、本当は、伝えたいのはそんなことではないのに。そんな焦燥感が後から後から
追いかけてくる。


「祐巳」

 もうわかったから。そんな声が聞こえてきそうなくらいに優しい声で祥子さまが祐巳
を呼ぶ。

 でも、きっとそれは「気にしなくてもいい」という意味に近いはずで。
 それじゃだめなんだ。言いよどんで、うろたえて。もういいよって優しくされても、
ちっとも胸のつかえは取れやしない。


 だって、祥子さまのお顔は全然晴れていないもの。

「祐・・・」

「だから、あの・・・っ」

 また、祥子さまの優しい声が聞こえてくるから、祐巳は慌ててそれを押しとめる。

「あの・・・」

 だけど、軽く目を見張った祥子さまと視線が重なると、耳の奥にまで胸の早鐘が響い
て頭の中が真っ白になってしまった。


 だから、一番伝えたいことは。

「だ、大好きですから、ね・・・」

 間抜けなぐらいぽかーんと口を開けたまま、祥子さまと見詰め合うこと数十秒。もご
もごと口を開けると祐巳はやっとのことでそれだけ呟いた。何言っているんだか。


「何言っているの・・・」

 案の定、祥子さまからは予想通りのお答え。

 だけど。

 祥子さまはそう言ったっきり、黙り込んで。口を噤んだままのお顔に音もなくさあっ
と朱色がさしていった。


「・・・何言っているの・・・」

 祥子さまはまた、同じ言葉を繰り返す。どこか怒ったような顔をして、次につんと横
を向いて。最後に両手で顔を覆った。


「・・・ばかなんだから」

「はい」

 とげとげしい言葉なのに、祐巳は頬が緩んでいくのを止められない。だって。

 手のひらで隠されていない祥子さまの耳は真っ赤だった。

「でも、お姉さま」

 もう一押し。というわけではないけれど。可愛らしい様子に、祐巳がつい調子に乗り
かけたところで、祥子さまが顔を上げた。


「―――・・・」

 こちらを見据える祥子さまの瞳に、また、胸が突き上げられるような感覚がこみあげ
てきたけれど。それはさっきまでの重苦しいものではなかった。


 祥子さまのきれいな瞳に恋して悶えている、悲鳴のような心の音だ。

『祐巳』

 声もなく、祥子さまが瞳で祐巳を呼ぶ。それなのに、応えるよりも早く、火がついた
ように頬に熱が集まってしまう


 どうしよう。

 耳まで熱い。

 とっさに俯きかけたけれど、すぐに白い指先に顎を捕まえられてしまった。

「・・・だめよ、下を向いたら・・・きちんと私を見なさい」

 掠れているのに、甘く響くような声に、痺れが喉元から競りあがって呻いてしまいそ
うだ。


「おねえさま」

 熱を帯びた吐息が恥ずかしくて、とっさに祥子さまを呼んだ。だけど、吐き出される
熱いため息よりももっと甘ったるい声が浴室に響いて、余計に居た堪れなくなった。


 ごめんなさい、祥子さま。

 痺れていく頭の中で、そんな言葉を思い浮かべながら。祐巳は目を閉じた。
 だって、祥子さまのきれいな顔が眼前に迫って、とてもじゃないけれど「きちんと見
ている」なんてこと、できそうにもなかった。


 確か。

 祐巳は祥子さまと一緒にいるのがなんだか気まずくて。

 でもそれは、祐巳が祥子さまに悲しい顔をさせているからで。

 だから、何とか仲直りがしたくて。

「・・・ふ、ぁん・・・・・・」

 これって、仲直りできたってことなのかな。

 柔らかい唇を感じながら、そんなことを考えてしまった。

 だけど、祥子さまが手のひらで祐巳の肩を優しく抱いて。もう片方の手のひらで頬を
包まれた瞬間に、唇が触れ合う湿った音が浴室に響いたから。


 弾け飛んでいくみたいに何も考えられなくなってしまった。

 吐息なのか、呻きなのか、それともまったく別の声なのか。濡れたような音が途切れ
がちに浴室に響く。縋りつくように祥子さまにしがみつくと、それは一層大きくなって
いく。


「・・・ゆみ」

 ほんの少し唇を離した祥子さまが祐巳を呼ぶから。

「おねえ・・・」

 一瞬だけ目を開けて、すぐに閉じながらそれに応えようとした。その瞬間だった。

「祥子ー」

「・・・・・・っ!」

 唐突に飛び込んできた聖さまの声に、「ひっ」だか「っ」だか。とにかく声にならな
い悲鳴を二人同時に漏らして、瞬時にお互いにしがみついた。


(うわ、うわ、うわ・・・)

 忘れかけていたけれど。今は合宿中で。お掃除の真っ最中で。すぐ近くの脱衣所にも、
当たり前のように聖さまや蓉子さまがいるのだった。


「・・・何でしょうか?」

 祐巳を庇うように胸に抱きしめた祥子さまが、努めて冷静に応えた。だけど、心なし
か声が震えている。


「ちりとりどこー?」

 すりガラスの扉の向こうからは、聖さまのおっとりとした声が聞こえてくるだけなのに。


「南の廊下の奥にある物置に」

 祐巳を抱きしめる祥子さまの腕に力が込められて、痛いくらいだ。祐巳も祥子さまの
胸に顔を押し付けながら、黒いシャツに皺がついてしまいそうなくらいにぎゅっと握り
締めた。


 どっ、どっ、どっ・・・・・・。

 頬を押し付けた祥子さまの胸から、はちきれそうな心臓の音が聞こえてくる。

「わかった」

 短く応えた聖さまの足音が遠ざかっていき、脱衣所の扉が開けられる音が小さく聞こ
えた。静かに扉が閉められる音が聞こえると、祥子さまと祐巳は大げさなくらいに息を
吐き出しながら、ふにゃふにゃと脱力してしまった。


「あの、お姉さま・・・」

 乾いたタイルの上に、二人同時に座り込んで、しばらくそのままでいると幾分か落ち
着きを取り戻せたけれど。祐巳を抱きしめたままの祥子さまの腕に気付いて、小さな声
で呼びかけた。


「・・・私も」

「え?」

 相変わらず祥子さまの腕に力が込められていたから、顔を上げることもできなくて。
少しだけ身を捩ると、掠れた声が耳に届いた。


「私も、あなたが好き」

 祥子さまのその声は、注意していなければ聞き逃してしまいそうなくらい小さなもの
だったけれど。


 どっ、どっ、どっ・・・・・・。

 顔を押し付けたままの胸からは、先程と同じように、はちきれそうに早い心臓の音が
聞こえていた。



                               


 ぱちぱちぱち。

 はぜていく音と共に、光の飛沫が円を描きながら弾けていく。

「で、これが合宿プログラムの3なわけ?」

「だって、夏にせずにいつするのよ」

 からからと笑いながら聖さまは超人的な速さで複数の花火に着火していく。

「たーまやー」

「・・・そういうにはずいぶんと規模が小さい気もしますが」

「細かいわね、令は」

「はぁ」

 両手に二本ずつ持った花火を振り回してはしゃぐ聖さまと江利子さまを、特大手持ち
花火を持った由乃さんが追いかけ、さらにその由乃さんを令さまがおろおろと追いかけ
ている。それを指差して笑う蓉子さま。つられて微笑む志摩子さん。・・・とりあえず
、合宿プログラムその
3、花火大会も大盛況である。

「結局、今回の合宿の趣旨は何だったのでしょうか」

 由乃さんを追いかけていた令さまが反対に追いかけられているのを、眺めながら祥子
さまがポツリと呟いた。


「趣旨?」

 数本の花火を手にした蓉子さまが小首を傾げつつ、こちらを振り向いた。

「だから、言ったでしょう。祐巳ちゃんと祥子ばっかりずるいって。みんなで遊びまし
ょうって、それだけ。仲良く遊ぶのに理由なんているの」


 言いながら、蓉子さまは祥子さまと祐巳にそれぞれ手持ち用の花火を手渡してくれた。


 ちなみに、これは前薔薇さまお三方が用意してくださったものである。聖さまはどう
してもロケット花火を買いたがっていたけれど、いくら大きくても個人宅で騒音を上げ
るのは望ましくないと言うことで、すげなく蓉子さまに却下されたとのことだった。


「楽しくなかったの?祥子」

 蓉子さまはまずご自分の花火に火をつけてから、それを祥子さまのものに移す。

「まさか。お姉さま方と会える機会なんて、滅多にありませんもの」

 蓉子さまから分けられた火ではぜていく花火をみつめながら、祥子さまは屈託なく笑
った。いつもよりずっと幼い笑顔が、花火のせいだけじゃなく、光り輝いているようだ
った。


「そう?いつでもお呼ばれするわよ。ねえ、祐巳ちゃん」

「はいっ」

 穏やかな笑顔を浮かべたままの蓉子さまにそういわれて、祐巳は一も二なく大きく頷
いた。


 祥子さまとすれ違いかけたり、なんだかドキドキしてしまったりしたけれど。最後に
は笑顔になれたのは、みんなとの楽しい時間があったからなわけで。


 笑顔のまま眺めた先に、今度は志摩子さんと仲良さげに線香花火をしている聖さまが
見える。すぐ横に(ちょっと危ないけれど)花火で打ち合いをしている由乃さんと江利
子さま、相変わらずおろおろ止めている令さまの黄薔薇さんちも見えたりで。


『仲良く遊ぶのに理由なんているの』

 そっか。
 蓉子さまや、聖さまや、江利子さまはもう卒業されているから、一年前のように当た
り前に一日を一緒に過ごすことはできない。今の山百合会のみんなとも離れ離れになる
日も否応なしにいつかはやってくるはずで。だけど、こうして笑顔を交わすのは何も難
しいことじゃない。

 そんなふうに、少しばかり感傷的な事を考えてしまうこんな日は、殊更に「仲間って
いいな」なんて思えたりするのだった。


「ほら、祐巳」

 ふにゃふにゃと切ないような暖かいような気持ちで、聖さまたちを眺めていると、祥
子さまが手にした花火をほんの少しだけ、祐巳の方へ差し出していた。


「火、着けないの?」

「あっ、ありがとうございます」

 火が灯った祥子さまの花火に、慌てて自分の花火を近づける。

 ぱちぱちぱち。

 軽快な音を響かせて、祥子さまから祐巳へ、色鮮やかな花火の火が移される。

 蓉子さまから祥子さまへ。祥子さまから祐巳へ燈される光は色とりどりの光の粒とな
って円を描く。


 ぱちぱちぱち。

 花火のはぜる音は、まるで沸きあがる喜びの拍手のようだ。
 眩い飛沫に細めた目のまま見上げると、穏やかな微笑を浮かべる祥子さまと目があった。

 来年の夏も、こんな風にすごせたらいい。

 そう願いを込めて笑いかけると。

 花火の光でめいっぱい照らされた祥子さまが一層微笑みを深くして。優しく一つ、頷
いてくれたのだった。




                               END



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