For you.



「・・・・・・はるか・・・」

 彼女の額に口付けて、頬まで唇を滑らせる。首筋に顔を埋めて見せてから、もう一
度覗きこむと、何故か不思議に感じてそう呟いていた。


「なに?」

 みちるの髪を撫でながら、はるかは歯を零して笑った。

「・・・・・・何でも、ないの・・・」

 歯切れの悪い自分の返答にもどかしくなりながら、それでもはるかに抱きすくめら
れるとそれとは別のざわめきが胸の中に広がって行く。


「ふうん?もしかして、見惚れてたとか?」

「・・・・・・!」

 素肌が溶け合っていくような感覚の中で、はるかの声だけがいやに生々しく響いて
頬が熱くなる。


「自惚れ屋さんね」

 短く答えると、はるかはさして気にする様子もなく、また笑い声を零してから唇を
重ねてくれた。


 ―――見惚れてたとか?

 見透かされてしまうと、みちるは少しぶっきらぼうになる。はるかは気付いていな
いのだろうか。



                              


 今まで。みちるははるかしか見ていなかった。今も、あまり変わりはしないのだろ
うけれど。


 世界が消えてしまうかもしれない焦りや。

 誰かを踏みつけてしまわなければならない恐怖や。

 他の全てを諦めなければいけない虚無感。

 自分が自分でなくならなければならない現実。

 それら全てを原型もわからない程に綯い交ぜにして、それでも彼女を愛していた。

 はるかさえ生きていてくれれば、他には何も望むことなんてないと思っていた。

 今だって、その気持ちに変わりはない。きっとこれから先、変わることもないのだ
ろうと自分でも半ば諦めている。


 だけど。

 胸を覆う閉そく感が晴れ渡ってしまうと、瞳の中に飛び込んでくる彼女の姿が、ひ
どく鮮明に感じられて仕方がない。


 そこから動きだしそうもない思考を中断させるかのように、みちるは短く息を吐き
だして、譜面を机に伏せた。


 窓の外には、薄く霞んでいるような、柔らかな青色の空が広がっている。その下で、
はしゃぐ声を上げているのは、背の高い彼女と、小さな、愛しい愛しい女の子。


「スランプですか?」

 コトン、と小さな音がした方へ視線を落とすと、湯気をほのかに立ち上らせるカッ
プが置かれていた。


「まさか」

 黒髪をさらさらとこぼしながら、こちらへ屈みこむ彼女に苦笑してしまった。

 そう言った場面に陥ることは珍しくないけれど、今回に限って言えば、そういった
状況にはなりそうにもない。伏せた譜面を指でなぞってみても、楽しい気持ちしか浮
かんでこないのだから。


 簡単な曲調だから、と言うのもある。けれどそれだけではない。

 これは、はるかの為の曲だった。

 正確に言えば、彼女の誕生日に贈る曲。

 思いの丈を乗せたのなら、きっと何度も高ぶりやら静けさやらが絡み合って大変な
ことになっていたかもしれない。けれどそう言ったことを省いて、喜びだけを組み合
わせたら、いたってシンプルにまとまった。伴奏を務めるのがほたるであることも影
響しているのかもしれない。


「あら。それならどうしてため息なんて」

「わからないわ」

 どうやら、彼女はしっかりと先ほどの様子を眺めていたらしい。不意に、せつなは
口元ごと、笑い声を指の背で覆った。


「なぁに?」

「いえ。でも確かに深刻ではなさそうですね」

 口元から離された手のひらが、今度は柔らかくみちるの髪を撫でた。

「むしろ、生き生きとしていてよろしい」

 彼女には、気取られているのだろうか。

 際限なくせり上がって、何度も唇から零れ落ちるそれが。

 初々しいような、色付いた熱であることを。


                             


「まーた、そうやって顔隠す。腕退けてよ」

「・・・嫌よ」

 顔を覆う右腕を、はるかの左手が掴む。

「あっ・・・」

 抗うようにそこに力を込めて、頬を枕に押し付けたけれど、呆気ない程簡単に暴か
れてしまった。


「力で僕に勝てるわけないだろ」

「はるかの悪趣味っ、意地悪!」

 精一杯の力を込めて睨みつけて見せたけれど、目の前のはるかはおかしそうに笑っ
ているだけだ。


「意地悪はそっちの方じゃん。悪口ばっかり」

 唇の端を上げたまま、はるかは見せつけるようにみちるの両腕を持ち上げてから、
きつくシーツへ押し付けてしまった。これでは顔や素肌を隠すどころか、身動き一つ
取れない。


「・・・そんなに、じっと見て、何が楽しいの・・・?」

 肌の上を、彼女の視線が滑って行くのがわかって、身の置き場もない。悔し紛れに
目元を滲ませて吐き捨てたら、はるかはまた笑い声を漏らして、首筋に噛みついた。


「楽しーし、うれしーよ。後、すっごい幸せ」

「何が」

 貪るような仕草で、素肌に歯を立てながら、彼女の唇が這いあがってくる。みちる
の腕を掴んでいた彼女の手が離されて、指先が腿の脇を撫でていく。けれどもう、押
さえつけられていた場所から、腕を離すこともできなくて、その代わりに指先で布地
をぎゅっと掴んだ。


 撫でて、弾いて、また滑って行く指先と、何度も噛みついてくる唇に、思わず喉が
鳴る。抑えつけられるような、苛まれるような。反発するような反応しか示せないく
せに、本当は、はるかにこんな風に扱われるのが、たまらなく好きだ。


 みちるの上で漂っていた彼女が、不意に顔を上げて、間近へと伸び上がって来た。

「みちるのこういう顔、僕しか知らないんだなーって思って」

「!」

 笑いを噛み殺しながらこちらを見下ろすはるかの瞳は、その声色と比べると、不釣
り合いな程に優しい色をしていた。


「何言って・・・」

 語尾が震えている。けれど泣き出したいのは、悲しいからなんて理由ではない。

「・・・めちゃくちゃいじめたくなるよ」

「・・・・・・っはる、・・・」

 耳元で囁かれると、足の先から痺れていくようで。はるかにしがみ付かずにはいら
れなくなる。


「・・・で、ものすっごい甘やかしたくなるんだけど」

 彼女の肩に齧りついたまま、曖昧に首を振って見せたけれど、優しい腕にそっと閉
じ込められると、痛いくらいに胸が高鳴って、やっぱり涙が零れそうになる。


 それはまるで、初めて彼女と言葉を交わした日のように、甘くて、痛くて、苦しい
ような。


 胸一杯に広がって行くその味に、溺れてしまいそうだ。

 それなのに、喘ぐ吐息は、息苦しさのせいだけではない。

「みちる」

 甘い声に何度も囁かれて、もう何も考えられそうにない。


                            


「はるかパパ。絶対のゼッタイに、次の木曜日はお家にいてね」

 みちるの膝の上で甘えながら、はるかの手を握る仕草の器用さに、思わず苦笑する。

「わかったわかった。それで、その日は何かいいことがあるのかな?」

 答えるはるかも、右腕でみちるの肩を抱きながら、左手をほたるの小さな手のひら
に重ね合わせて笑っている。ほたるの愛嬌の振りまき方は、どことなくはるかに似て
いないでもない。そんなことに思い至ると、みちるはため息をつかずにはいられなく
なる。


「秘密だよー」

 パッとはるかの手のひらから遠ざかると、ほたるはみちるの胸元へ顔を埋めて笑った。

「あら、私にも秘密なのかしら」

「みちるママには教えてあげる」

 みちるの声に、顔を上げて笑うほたるが可愛らしくて、何度もその黒髪を撫でてし
まった。


「おい、そりゃ意地悪だろ、ほたる」

「パパには内緒にしておきたいことだってあるわよねえ」

「ねー」

 こちらの首元へ腕をからませて擦り寄るほたるの頬を、はるかの指先が戯れのよう
に軽くつねる。弾けるような、愛らしい笑い声と共に、ほたるはみちるの膝の上から
降りて、はるかの指からも逃げだした。


「はるかパパ、約束だよ」

 膝に感じていた重みがなくなったことに、少しだけ寂しくなったけれど、リビング
の扉を閉めかけて、もう一度顔をのぞかせて笑うその様子に、思わず頬が緩んでしま
った。


「可愛いわね」

 パタンと静かに閉められた扉の向こうから、階段を駆け上がって行く小さな足音が
聞こえてくる。次はせつなを陥落させに向かったらしい。明日までにまとめておかな
ければならない案件があると言っていたのに、ご愁傷様。


「みちるもね」

 笑いかけたみちるに、同じように笑顔で応えながら、はるかは抱いていたみちるの
肩を引き寄せた。


「ほたるを独り占めしたくて仕方ないんだろ。僕と取り合いみたいにしちゃってさ」

「あなたこそ」

「僕は君を独り占めできたら、それで充分なんだけどな」

 先ほどまでほたると重ね合わせていた右手が、みちるの顎を捕まえる。その途端に、
そこが艶を増したように感じられて、強く一度、心臓が鳴った。それと同時に、きつ
く目を閉じてしまったみちるの唇に、彼女の熱が灯される。


「どうしたの」

 けれど、触れ合った瞬間にみちるが勢いよくソファから立ち上がったものだから、
はるかは呆気にとられたように目を見開いていた。


「何でも、ないわ・・・」

 驚いたのは、みちるだって同じだ。はるかの唇が重ねられたからではない。触れ合
った瞬間に、また、いつかと同じような風味が、胸のざわめきに向かって流し込まれ
たからだ。


「前も似たようなこと言ってたけど?」

「本当よ・・・っ。何もないったら」

「?」

 はるかから逃れるように、みちるはそっと背を向けた。足早にキッチンへと逃げ込
みながら、指先で耳元へ触れるとひどく熱い。


 どうして。

 せり上がって行く心拍音が、そう畳みかけている。だけどどうしたら良いのかわか
らない。


「みちる」

 追いかけて来たらしいはるかの声に、比喩でも何でもなく、心臓が飛び出してしま
いそうになる。


「・・・っ何・・・?」

 振り向きもせず、そう問いかけると、彼女はどこか苛立ったようにため息をついた。

「僕、何か君の気に障るようなことしたかな?」

 努めて柔らかく、はるかが問いかける。苛立ちを爆発させる直前の静けさだ。

「はるかは何もしていないわ」

「じゃあ、どうしてそんな避けるみたいにするの」

 それでも背を向けたままでいたら、案の定、彼女は力任せにみちるの肩を掴んで、
無理やり身体を反転させた。


「こっち向けよ」

「・・・もうっ」

 ああ、また、馬鹿みたいに視界が滲んでいく。悲しいわけでも、泣きたいわけでも
ないのは、自分でも十分わかっている。


 高鳴って、満たされて、溢れてしまいそうな気持ちが、耐えきれなくて瞳から零れ
落ちていくだけ。


「私だって、考え込むことぐらいあるわ」

 きっと、はるかはわかってなんていないだろうけれど。

 見透かされたら。どうしたらいいのかわからなくてぶっきらぼうになる。

 わからないまま吐き捨てたら、先ほどまでの苛立ちをどこかへ忘れ去ったかのよう
に、はるかは目を丸くして、それから唇の端を意地悪く上げた。


「へえ、・・・あ、もしかして僕の誕生日プレゼントのこととか?」

「・・・・・・」

 内緒だよ、なんて言っていたほたるの前では、にこやかにわからないふりをしてい
たくせに。しっかりと周囲の落ち着きのなさの原因を理解しているらしいはるかがそ
う問いかける。


「そうよ」

 違うわ、なんて答えることもできないまま頷いた。

 違うけど、違わない。

 だって。

 はるかのことを考えて、はるかが目の前にいるだけで、こんな風になってしまう。
だから、うまく説明することも、他の言い訳を考えることすらできなくなる。


 胸の奥から、早すぎる足音みたいに響いてくる。

 どこを向いても、手で覆っても、隠しきれない程に、頬も耳元も、全て熱く火照っ
て行く。


 今更のようで、口になんて出せるわけない。

 初めてみつけた、あの瞬間と同じように。

 あなたに恋しているだなんて。

 こんな素敵な人、世界に二人といないわ。そんな風に、いつまでも見惚れてしまう
なんて。


「えーっと、じゃあ、何にもいらないから、とりあえず今までしたことない体位でし
たぅぐっ・・・」


 どうやら、みちるの葛藤を救おうとしてくれているらしいはるかの口を、自分の為
に手のひらで押さえつけた。


「もう決めてあるもの」

 皆まで言わせてしまう前に、みちるはそう告げる。

「それは楽しみ」

 ついでに頬を抓り上げて見せたけれど、まったくめげそうにもない彼女はにこやか
なまま、そう言ってこちらへ唇を寄せた。


「でもさ」

 小鳥のようなキスの合間に紛らせて、呟く彼女の声にまで、頬や耳が色付いて行く。

「君が傍にいてくれたら、それだけでうれしくて堪んないんだけど?」



                            END



 もうみちるさんは毎日はるかさんにときめいてたらいいよと言う妄想。



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