Door to tomorrow



「・・・きれい」


 隣を歩く祐巳が、白い息を零しながら呟いた。

 昼食を済ませてから二人でウィンドウショッピングをするのは珍しいことじゃない。
だけど時折頬を撫でていく風が冷たくて、祥子は早々に車のキーを手に取った。それ
を見た祐巳も、いつものことと言った風に軽く微笑んで、祥子に手を引かれるまま並
んで歩く。


 陽が沈むのが随分と早くなった。そんなことをぼんやり考えていたら、
隣で祐巳が
そう言ったのだった。


「少し眺めていく?」

 足早に歩いていたけれど、急いで帰らなければならない予定があるわけでもない。
ただ少し寒かったから。部屋に帰って祐巳を抱きしめられたらいい。その程度のわが
ままだ。はしゃいだように頷く彼女を眺めていたら、冷えていたはずの頬に熱が差し
た。


「デートみたい]

 砂浜になっている所まで下りていくと、祐巳は祥子を追い越して、向こう側にある
吊橋を見上げながら声を上げた。


「何よ。「みたい」って」

「だって、」

 追いついて、言いかけた祐巳を少し力の入った腕で抱き寄せた。

「ほら、やっぱり」

 何がやっぱりなのか、一人納得した様子の祐巳が笑い声の後で、抱き寄せられた祥
子の肩に額を押し当てた。


「デートのよう、ではないわ。あなたを連れ出す時には私はいつもそう思っているの
だから」


 反対に納得できていない祥子がむきになってそう言い返すと、祐巳はまた声を上げ
て笑った。


 街と、海の向こう側に、沈んでいく夕陽が、赤々と光り輝いて波打っている。

「もう少ししたら、ライトアップされますかね」

 その下を客船がゆっくりと通り過ぎていく吊橋を眺めながら祐巳が呟いた。

「夜景も見ていきましょうか?」

 先ほどまでの寒さゆえの不機嫌も忘れて祥子がちらりと横目で盗み見ると、祐巳は
はにかんだように笑って見せてから祥子の左肩に両手を乗せた。


 そこに一瞬だけ力がかかって、背伸びした祐巳の唇が祥子の頬に触れる。

「ゆ・・・」

 視線を合わせようとした祥子を遮るように、祐巳は首筋に額を擦り付けた。照れ隠しの
ような、可愛らしい笑い声と一緒に。


 肩をすくめると、祐巳の髪が頬に触れてくすぐったい。そのまま頭を預けると、祥
子にまで彼女のはにかみ笑いが伝染してしまいそうで、誰が見ているわけでもないだ
ろうに祥子は緩んでいく下唇をそっと噛んだ。



                              


 出会いは衝撃とともにやってきた。心を打ち抜かれるとか、彼女を一目見て身体に
電流が走ったように感じるとか、そういったことでなく、物理的な衝撃が祥子の身体
に与えられたというだけの代物である。


「あ」

 祥子の首元に腕を絡ませながら、思い出したように祐巳が呟いた。

「なぁに?」


「懐かしいなと思って」

「?」

 肩から落ちてしまった横髪を祥子の耳へ掛けた指が、そのまま優しく頬をつつく。
夕方彼女が口付けたのと同じ場所だった。


「祥子さま、姉妹になる前のあの日もこんな風に私を見下ろしていたんですよ」

「・・・とりあえず、この体勢であなたが一番に思い出すのは、そのことなのね」

 あの頃よりも少し短くなった髪をそれでも愛おしそうに撫でられると、その時の気
持ちまで蘇ってきそうだ。


「だって、あんなに近くで祥子さまのお顔を見ることなんて、それまでなかったですもん」

 少々むくれながら頬や額に唇を寄せていると祐巳はさも当然と言った風に反論して
くる。確かに日常生活で見知らぬ相手と間近に顔を突き合わせることは稀だろう。そ
れにしても、こういった状況で彼女は度々その時のことを思い出しているのかと思う
と、何とも複雑な気分である。もっと他に思い出してもよさそうなものなのにと、ふ
っくらとした唇を指先で撫でて見せた。


「遠くから見ても近くで見ても、きれいな人なんだって再認識しましたしっ」

「・・・・・・そう」

 やけに力のこもった声で述べられると、何だか肩から脱力していきそうだ。けれど、
遠くからも見ていたことがあるような言葉にふと思いついて言った。


「じゃあ、あなたはそれ以前から私を知っていたと言うことよね」

 が。

「・・・やっぱり祥子さまは意地悪です」

「は」

「その上すっごくお鈍さんです」

「ちょっと」

 正にぷいっといった様子で祐巳がくるりと身体を反転させた。そのまま祥子の枕を
抱きかかえて唇を尖らせる。


「だから、初めて出逢った時のことも全っ然覚えていないなんて言うんです」

「・・・・・・」

 そんな直截な言い方はしていないと思う。と自分を擁護しかけて祥子は思い直した。

(・・・まあ、確かに意地悪には違いないわ)

 悪戯を必死に隠しながら、どこか満足している子どものような感覚と言えなくもな
い。そう確か。彼女と向かい合った姿を撮った写真を見せられた時に祥子は言ったの
だ。「知らない」と。その後に、彼女に念押しのように確認された時にも、朝はぼん
やりしているから覚えていないとうそぶいた。祥子としては姉妹の申し込みを断られ
たことに対する、ほんのちょっとした意地悪のつもりだった。けれど効果は絶大なよ
うだ。何年も経っていると言うのに、これだけ根に持たれているのだから。いっその
ことさっさと白状してしまえば良いのだろうけれど、彼女がそれを覚えている間に種
明かしをするのはもったいような気がする。


「もっと他にも「初めて」はあったでしょう?」

 どこか楽しいような気持ちを抑えつけながら、祥子はまた、祐巳の唇を指でなぞる。
身体は反転させたまま、顔だけをこちらに向けた彼女の仕草は、小さな動物のようで
可愛らしかった。


 目が合うと、彼女が笑う。さっきまで拗ねていたくせに。額を重ねて、同じように
唇も重ね合わそうとしたら、悪戯っ子のように彼女が顎引く。追いかけて口付けてか
ら、今度は祥子が素早く顎を引いてみせると、祐巳も同じようにキスをした。それか
らふと気がつく。


 そういう祥子の方も、初めてのキス、はあまり覚えていない。

 ひどく緊張したような気もするし、叫び出したくなる程にうれしかったと思う。た
だはっきりと思いだせるのはその感覚だけで、詳細な風景までは思い出せない。


 だけど。

『お姉さま』

 ふと思い出すような場面の中に、まだお互いにたどたどしくみつめあっていた時期
のものもあった。



                               

 温室のベンチに並んで腰かけた祥子さまは、ずっと祐巳の肩を抱いていてくれた。
いつもお互いにどこかぎこちない仕草なのに、今祐巳の肩を抱く祥子さまの手のひら
は温かく柔らかで、まるで祐巳の全身を優しく包み込んでくれているみたいだった。


 一年前も、こんな風に二人並んでこのベンチに座っていた。

 あの時、祐巳は恐れ多くも祥子さまをあやすように抱きしめていたっけ。そんなこ
とまで思い出す。


 でも今日は、それとはまったく反対に、祐巳は泣き腫らした顔を隠しもせず、祥子
さまの腕の中で守られて、かさかさになった心を癒していた。


 潤んで霞んでしまった視界に、ぼんやりと可南子ちゃんの出て行ったドアが映った。

 失敗しちゃうことなんて今までだってたくさんあった。これからだってそんな瞬間
は何度でも訪れるはずだ。つまずいて転んで、だけど立ち上がらなきゃ、前には進め
ない。イメージでしかないけれど、それはとても大切なことだって頭の片隅で理解は
できているんだ。でも。


 転んで蹲っていたら、何だかかさぶただらけのように思えてしまう。治りかけてい
た傷まで開いて、隙間ばかりになってしまうみたいに。


 それなのに、どうしてかな。

「大丈夫よ」

 静かに囁いた祥子さまが、そっと祐巳の頭に自分の頭を寄せた。

 それだけで、埋まらないと思っていたひび割れが塞がれていく。水をいっぱいに吸
い込んだ土のように、雨をたくさん浴びた草花のように。かさかさだった胸の奥が膨
らんでいく。


「お姉さま」

 視線に合わせて顔を動かしたら、覗き込むようにしてみつめてくれる祥子さまが微
笑んでいたから、つられて祐巳も笑ってしまった。祥子さまのきれいな笑顔の足元に
も及ばないだろうけれど。それは心の底からこみあげてきたものだった。


 祥子さまが抱きしめてくれたから、転んで泣いてもちゃんと立ち上がれたんだよ。

 俯いていた顔を上げて、またすぐ笑うことができたんだよ。

「・・・ありがとう」

 額を重ね合わせると、吐息よりも先にその言葉が零れ落ちた。それを拾い上げた祥
子さまはにっこりと笑って、微かに触れるだけのようなキスをくれた。


 優しい気持ちがゆっくりと流れ込んでくるような口付けを交わしながら、


                              


「覚えています・・・」

 キスをねだる祥子の髪を梳きながら、祐巳が言った。

「初めても、それから先も、祥子さまがくれたキスはちゃんと覚えています」

 見上げると、思いの他、力強い瞳で彼女がそう言うものだから、身の置き場がなくなってしまいそうになる。

「どうかしら。あなたは少し忘れっぽいところがあるし」


「祥子さまには忘れっぽいなんて言われたくないです」

「まあ。本当、年々反抗的になっていくわね、あなた」

「鍛えられましたから」

「・・・ふうん」

 言葉遊びでむきになるのは悪い癖だとわかっている。

「ひゃ・・・っ?」

 けれど、それを改められるのかと問われれば、素直に頷くことはできないわけだ。


「もうっ、何ですか」

「鍛えられたのでしょう?ならば、今更構える必要はないじゃない」

「そ、そういうことじゃ・・・」

 仰向かせた彼女に覆いかぶさっていた身体を起こして、乱暴になりすぎない程度の
力でその両方の手首を押さえつけた。夜半でも仄かな明かりの下で眠ることを好む彼
女のおかげで、ぼんやりとではあるが、朱色がさした頬や、柔らかな素肌が、浮かび
上がって見えた。


「・・・それに私は意地悪だし」

 言葉通り、意地悪く口元をあげて見せると、祐巳はほんの少し悔しそうに唇を尖ら
せた。その唇を撫でた指先で顎から首筋、胸の間へと撫で下ろしていく。暖かな息遣
いが指先から伝わってくる。起こしていた上半身を再び倒していくと、触れるよりも
前から、彼女の体温が祥子を包み込んだ。


(・・・鍛えられたのは私も同じかしら)

 ぴったりと重なり合って、その温もりに漂いながらふとそんなことを考える。首筋
に顔をうずめたら、祐巳の匂いが鼻先いっぱいに広がって、眉間からその奥へと眩暈
が駆け抜けていく。例えば、これが二人の話している初めて、の頃であれば、それだ
けで腰砕けて何も考えられなくなっていただろうけれど。沈溺しそうになりながら、
それでも今はもう少し余裕がある。少なくとも、愛しい気持ちに駆り立てられるだけ
で、頭が真っ白になってしまったり、どうしたらいいか考えることすらできなくなる、
等ということはない。


「・・・さちこさま・・・」

 素肌を滑らて彼女を背中から抱きしめると、震えているような、詰まっているよう
な声がする。その後に、上ずった長い溜息。それから最後に祐巳はくったりと祥子に
背中を預けた。


 指で触れて、口付けて、祐巳を目いっぱい感じたい。できるなら祐巳にもたくさん
心地よくなってほしい。それから。祥子は祐巳の素肌と触れ合う感触が好きだった。
こんな風に抱きしめて、足を絡めて、しがみついて。こちらへ振り返った祐巳の唇を
啄みながら、柔らかな膨らみや、可愛らしいお腹、滑らかな脚を飽きることなく手の
平で撫でていくのが好き。その度に、祐巳の身体から力が抜けて、祥子の身体と溶け
合うように、全身を委ねてくる感覚が堪らなく好きだ。


 初めての少し前は、祐巳に触れるのが怖かった。触れたくて仕方なくて、けれど拒
絶されてしまったらと思うと指ひとつ動かせなくなる。


 奥深くまで触れ合うと、もっと、ずっと触れていたいと思うようになった。

 何度も肌を重ねてからは、他の誰にも祐巳を触れさせたくなくて、心が詰まってい
くようだった。



                                 

 祥子さまが椅子へ腰掛ける。流れるような動作で、音もなく静かに。ゆったりと背
を預ける動きに合わせて黒髪が揺れた。


 指先をガラステーブルへ滑らせて、置いてあった雑誌を手にとる。それと同時に視
線を落とした祥子さまは、ふと訝しげに眉を顰めてから顔を上げた。


「・・・・・・どうかして?」

「へっ・・・?」

 不意に目があってしまった祐巳は、大袈裟に肩を上下させていつも通りの声をあげ
てしまう。


「い、いいえっ・・・何も・・・」

「そう?急に黙り込むから、具合が悪いのかと思うじゃない」

「いえ、その・・・」

 不思議に思うまま首を傾げる祥子さまに、明瞭な返答すらできない。だって。

(だってだって・・・きれいなんだもん・・・!)

 つまるところ、祐巳はいつも通りに、祥子さまに見惚れていただけなのだ。でれっ
でれに頬っぺたを緩めまくって。

「おかしな子ね」


 苦笑の形に眉を下げてから、祥子さまはまた雑誌に視線を落とした。その仕草にす
ら腰砕けになっているのだから、もはや重症である。けれど、いつまでたっても祥子
さまに見惚れちゃうのと同じように、祥子さまだって、いつまでたっても祐巳がそん
な風にみつめていることに慣れていない。というよりも、気が付いてすらいないご様
子。


「お茶、淹れますね・・・」

 そそくさと立ち上がると、祐巳は足早にキッチンカウンターの後ろへ廻った。祥子
さまのお部屋に来るのは初めてじゃないどころか、週のほとんどをここで過ごすよう
になっていた。「お邪魔します」が祥子さまの言いつけで「ただいま」になったのも
随分と前のことだった。ケトルの位置も、グラスの置き場所も、もう探さなくてもわ
かっていた。


「この前お姉さまが持って帰ってきて下さった茶葉で良いですか?」

 だから、ケトルを火にかけながら口にした言葉は、特に意識したものではなかった
はずだった。


「・・・・・・」

 広いお部屋だけれど、こちらの声が聞こえない程遠く離れているわけじゃないのに、
祥子さまからの返答はない。もしかしたら、早々に読書に没頭されているのかもしれ
ない、そう思った祐巳が、もう一度尋ねようと顔を上げると、祥子さまもまた、視線
を上げたところだった。


「?」

 顔を上げて、まっすぐ前をみつめている横顔に、祐巳は首を傾げてしまう。考えご
とだろうか。


 祐巳が傾けていた頭を元に戻すのと、祥子さまがこちらへ顔を向けたのはほぼ同時。
二人のゆっくりした動作が、視線の重なった位置で止まった。


「!?!?」

 それでもって祐巳はそのまま時間を止めた。というより凍りついた。

(おおおお怒り!?)

 一体全体、先ほどの「おかしな子ね」の穏やかな表情から今までのごくわずかな時
間の間に何が起こったと言うのか。とにもかくにも、祥子さまは不機嫌な表情を隠し
もせずにこちらを凝視していらっしゃる。


「お、お姉さま・・・?」

 恐る恐るという表現がぴたりと当てはまる怯えようで祐巳は尋ねたけれど。

(はう・・・!!)

 涙目の祐巳をみつめ返す祥子さまは、更にその眉間のしわを深くされたのである。
何故。


「・・・それ、やめて頂戴」

「・・・へ?」

 おろおろしていた祐巳の動きが止まる。瞳は相変わらずうろたえたままだったけれ
ど、一生懸命視線を祥子さまに合わせると、彼女はむすっと唇をとがらせて目を下へ
とそらした。


「もう、高等部は卒業しているでしょう?」

「へ?」

「そ、れに・・・もう姉妹じゃないのに」

「え?」

 珍しく口ごもるような話し方をするものだから、祐巳は近づきながら何度も聞き返
してしまった。


 一歩、二歩、三歩。
 もう一歩踏み出すと、ソファへ座る祥子さまの目の前だった。それと同時に祥子さ
まが思いつめたようにキッと視線をこちらへ射った。


「それとも、祐巳は私のこと、恋人だとは思ってくれていないの?」

「そそそそんなことないですっ・・・!」

 またどうして。祥子さまはそんな結論を導き出したのか。いったん停止していたは
ずの狼狽が先ほどよりも強度を増して祐巳を揺さぶった。何とかそれと一緒に首を横
へ目いっぱい振る。


「じゃあ、どうしていつまでも名前で呼んでくれないの」

 どうやら、祥子さまのお怒りの原因は、祐巳の呼びかけ方にあったらしい。つまり
祐巳が原因と。・・・泣きたい。


 確かに、姉妹制度はリリアンの高等部独特の伝統であり、お互いが高等部を卒業し
た今となっては、あえてその呼び方にこだわる必要はない。その上、祥子さまがおっ
しゃる通り、二人は現在恋人同士なのだ。それは姉妹とは違う、対等な関係だった。
だ け ど。


(慣れないんです!)

 祥子さまに不満があるわけでも、委縮しているわけでも(多分)ないと思う。生ま
れてから今までの祐巳の人生の中で祥子さまと姉妹だった時期は1年と少しで、決し
て長い期間ではない。けれど、恋人となってからはそれよりもまだ少し日が浅い。そ
の上、見も知りもしない先輩後輩同士だったならともかく、始まりの形は姉妹なのだ。
直しましょう、はいそうですか、なんてことにはならなかったりする。


「・・・他の人は名前で呼んでいるのに」

「へ?」

 しかしながら、祐巳の心の叫びが祥子さまに届こうはずもない。

「この前だって、学外講習で知り合った子たちと、すぐに仲良くなったみたいだし・・・」

「・・・えっと、そりゃ、グループ講義でしたし」

「すぐに下の名前で呼んだりして」

「それこそ高等部の頃と変わらないと思いますが・・・」

「なら尚更、他の方に出来て私には出来ないなんて、・・・」

「で、ですから・・・その」

 目の前に放られる言葉をどれだけ否定して見せたって、祥子さまのお顔が晴れる様
子はない。


 わかってる。慣れないから。照れちゃうから。そんな理由で、祥子さまに悲しい顔
をさせるなんて言語道断だってことくらい。


 視線が、祥子さまの顎から、肩、指先、足元へと落ちて、そのままフローリングの
上を漂っていく。


 しんとした空気が耳に痛い。

 二人して黙り込むと、この部屋はこんなに静かになるんだ。

「・・・ちこ・・・」

 それが堪らなくて、祐巳が上げた声は、部屋の中に吸い込まれていきそうになる。

「・・・聞こえないわ」

 うつむいたままの祐巳の目の前で、祥子さまが言う。きっと、すねたように顔を横
に向けているのだろう。すぐ近くなのに、遠いような声だった。


 心臓の音が、秒針のように聞こえてくるから、そっと顔を上げてみる。

 フローリングのオークから、祥子さまの白い横顔へと急速に変わっていく色彩に視
界が揺れてしまいそうだ。


「・・・さちこ、・・・さま・・・」

 恐る恐る口にする。けれど、それは世界で一番愛しい人の名前だった。

 祥子さまが、落としていた視線をゆっくりと上げる。目の高さで一度止まると、そ
の瞳がまっすぐこちらをみつめていた。ひとつひとつが絵画のような仕草を目に焼き
付けながら、祥子さまの瞳は、引き寄せるようなきれいな黒色なのだと気が付いた。


「それじゃ及第点ね」

 そう言って、祥子さまはその美しい瞳をもう一度ゆるりと苦笑の形に潤ませた。


                     *



 抱きしめて、その後は。髪に触れたい。頬に触れたい。肩にも、腕にも、背中にも。
でも多分、その頃の気持ちとはイコールではない気がする。


「・・・祥子さまは、優しいです」

 隣り合うように横になったまま抱き寄せて、柔らかな脚に指先を這わせていたら、
祐巳が慈しむように囁いた。


「そう?」

 おおよそ自分に似つかわしくない言葉を手渡されて、どう返したら良いのかわから
なくなる。


「そうです」

 それなのに、祐巳がきっぱりと力を込めて頷くものだから、祥子は苦笑するしかな
かった。優しいという言葉が似合うのは、彼女の方に違いないだろうに。


 腿の外側へ滑らせていた指を、柔らかさを増す内側へと進ませると、彼女の素肌が
より一層熱を帯びていくようで、喉が乾いてくる。


「・・・でも、今考えていることはやっぱり意地悪なことだわ」

 熱い、触れた指先が痛くなる程。けれど痺れていきそうな感覚と一緒に湧き上がっ
てくるのは、あの頃のような焦燥感や衝動とは対岸にあるような気持ちかもしれない。


「・・・どんなこと・・・?」

 入り込むと、祐巳は鼻にかかった、吐息のような声で尋ねてくる。

 爆ぜて、弾けて、持て余してしまいそうだった甘い気持ちが、祐巳の声と溶け合っ
て祥子の鼓膜を揺さぶるようだ。


「教えない」

 呼吸が上がってくる。祐巳と、自分の素肌の上を粒のような汗が滑っていく。吐息
が混ざり合うと、それでも、ひどく穏やかな気持ちになった。



                                


「緊張しますね」

 それはもう、自分のための言葉だ。祐巳はがちがちに緊張しちゃって、歩き方まで
ぎこちなくなる始末。


「そうね」

 だけど隣を歩く祥子さまはその言葉とは裏腹に、いつもと変わらぬ涼やかな表情だ
った。そのお顔のまま、くすりと笑って祐巳の頭を撫でてくれた。あやされているみ
たいな感覚がくすぐったくて、うれしくて。頭を撫でる祥子さまの手を取って繋ぐ。


 二人してくすくす笑っていたら、その後に続いて白い息が後ろへと流れていく。

 昨日は雪が降っていたっけ。濡れて輝く道路を眺めながら、そんなことを思い出す。
積もる程ではなかったけれど、陽の当たっていない場所にはうっすらと白い名残があった。


「でも、祐巳も緊張するの?」

「ど、どういう意味ですかっ」

 ちょんと祐巳の頭に額をくっつけながら歩く祥子さまがそんなことをいうものだか
ら全身で飛び上がってしまった。


「だって、挨拶するのは私の方でしょう?」

 祥子さまはそう言って、今度は祐巳の前へ回り込むようにして覗き込んだ。

「そりゃ、そうですけれど」

 言いよどみながらこの後に訪れる場面を想像して、祐巳はポッと頬を赤らめた。

 祐巳より一年早く社会人になった祥子さまは、一年も経たないうちに祐巳よりもず
っと大人びた女性になっていた。元々の造形からして違うことは百も承知である。


『そろそろ、小父さまや小母さまにきちんとご挨拶しておきたいの』

 祥子さまがそんなことを呟いたのは、祐巳の内定も決まった、肌寒くなり始めた季
節だった。


 二人で一緒にいる時間が日増しに長くなっていくことは、自分でもきちんとわかっ
ていたし、お父さんは別として、お母さんははっきりと察していたと思う。


『あ、あの・・・』

 祥子さまの呟きに答えた祐巳の声は自信なく震えていた。

『私、祥子さまが大好きです。でも・・・』

『でも?』

 言い淀んでしまった祐巳に、祥子さまがゆっくりと尋ねなおした。

 怖いのは。祥子さまとの関係を家族に知られてしまうことじゃない。受け入れても
らえるかもしれないし、驚かれるかもしれない。もしかしたら、考え直すように言わ
れることもあるかもしれない。だけど、お父さんも、お母さんも、祐麒も、きっとわ
かりあおうとしてくれるのだろうと思っていた。返ってきた言葉がどんなものだった
としても、嫌いになることなんてできないってわかっていた。


 だから、不安なのは、そこじゃないんだ。

『私、これから、きっと色々な人に迷惑をかけます。・・・祥子さまにも。もちろん、
それに甘えてしまいたくはないんですけど・・・』


 隣り合って座ったソファの上で、祥子さまの腕の中、祐巳は身体が強張っていくの
を指先から感じていた。


 祥子さまの腕が、柔らかなままぎゅっと祐巳を抱きしめてくれた。

 一年よりもほんの少しだけ前にリリアン女子大を卒業していった祥子さまは、どん
なことを思っていたのだろう。


 眩しさに目を細めるようにして眺めていた自分が、同じ場所に立っている。

『祥子さまが大好きなのに、・・・私、自分のことも、できないかもしれないのに、
きちんと支えること、できるのかな・・・』


 お仕事で逢えなくなることなんてしょっちゅうだった。逢えても、祥子さまが少し
沈んだ様子だった日も、一度や二度じゃない。それでも、祥子さまは祐巳を力いっぱ
い抱きしめてくれた。転んで泣いている祐巳を、何度だって抱き上げてくれた。


 私は、そんな風に、なれるのかな。

 膝の上で固まっている祐巳の手の甲に、祥子さまの掌が触れた。

『ねえ。だから、私はあなたと一緒にいたいのよ』

 耳元で囁くように言った祥子さまは、すぐにいつもの照れ隠しみたいにつんと横を
向いたけれど。


「私だって緊張するわ、でも」

 言葉をそこで一旦切ると、何を思ったのか祥子さまは、勢いよく繋いだ手をお遊戯
みたいにぶんぶんと振り回し始めた。


「祐巳が隣にいてくれるのでしょう?」

 揺れる方の向こうに、祥子さまの楽しそうな横顔がはっきりと見える。

「それなら、大丈夫よ」

 解けた雪の濡らすアスファルトが、午前中の暖かな日差しの中で輝いている。だけ
ど、その中で照らされた祥子さまの横顔は、その何倍も輝いて見えた。



                               


 追いつめて、上り詰めて、それでも足りなくて。思い出したそれが少し懐かしい感
覚のように思えたのは、額を重ねあった祐巳と軽く触れるだけの口づけを交わしてか
らだ。

「なぁに?」


 余韻に浸ろうとしたところで彼女が笑い声を上げ始めるものだから、思わず問いた
だしてしまった。


「ううん。私、やっぱり祥子さまが大好きなんだなって思って」

 くっつけていた身体を離して顔を覗き込もうとしている最中に、祐巳はそう言って
素早く祥子の首筋に顔をうずめた。それから。


「何だか、いっぱい思い出しちゃって」

 祐巳が言葉を紡ぐたびに、唇が首筋に触れていく。

「祥子さま、拗ねてる顔がすっごく可愛いんですよ」

「・・・うれしくないわ」

 感極まったように吐き出す彼女に、祥子はげんなりと肩を落とした。その肩を、何
故だか祐巳が慰めるように撫でるものだから、むすっとしたまま言ってやった。


「私も色々と思い出したわ」

「えっ」

 先ほども尋ねてきた彼女に「教えない」なんて返答をしたにもかかわらず、相変わ
らず「どんなこと?」なんてさらに迫ってくるものだから、思わずむくれていたこと
も忘れて笑ってしまった。


「色々と言ったでしょ。全部、あなたのことよ」

 きらきら輝く宝石みたいに。そこまでは、付け加えなかったけれど。言った端から
祐巳が頬を赤らめてにっこりと笑うから、やっぱりうれしくなって祥子も笑った。


 カーテンの向こうは、まだ薄暗闇だろうか。

 そんなことを考えて窓辺に視線を向けた祥子の肩に、祐巳がそっと毛布を掛けてく
れた。それと同時に、切なくなるような優しい彼女の匂いがふわりと祥子を包む。


 静かに視線を戻すと、当たり前のように彼女と目が合うから。

「ずっと一緒にいましょう」

 そう。ずっと、ずっと。胸の中にあった言葉が、唐突に口をついて出た。

 思っていなかった言葉より、思い続けていた言葉が零れ落ちた時の方が、頭が真っ
白になる。彼女の澄んだ瞳をみつめかえしながら、そう思った。


 それから。

 その声に、彼女が頷いてくれると涙が出る。

 はにかみながら頷く彼女が、とても愛しい。

 声にならないままみつめていたら、祐巳はそっと、瞳をぬぐってくれた。



                            END



 とりあえずあのほっぺにちゅ♪なPVが大好きです。(何)



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