I`m in love



「どうしたの?」

 じっとみつめていたら、願いが通じたようにみちるが振り返った。

「・・・・・・ううん」

 視線が自分に注がれると、胸が跳ねてぎゅっと締まる。きっとうれしくてたまらな
いはずなのに、はるかはぎこちなく視線を外して遠くへ投げた。四月に下ろした制服
が、小さくかさりと音を立てる。


「・・・今日は、普通に部屋へ送ったらいいよね」

 無意味にポケットへ手を突っ込んだら、バイクの鍵が指先に触れて、思いついたよ
うに言った。


 だけど、みちるはその様子を眺めたまま、どこか不満そうに眉を下げる。

「用事がある?」

 小さな仕草にすら動揺を隠せなくなりそうで、俯き加減で彼女の表情を窺ってしま
う。ついでに両手をポケットへ突っ込んでしまった。丸まった背中がなんだか情けな
い。彼女もそう思ったのだろう、今度ははっきりと眉をしかめて、はるかの右腕を取
った。引っ張られた手が、そのまま布地を滑って外気に触れる。その感覚が少し冷た
くて背筋が伸びた。


「・・・送り届けるだけ?」

 はるかの右手を両手で握りなおすと、みちるは俯いてそう呟く。

「上がり込んで困らせてもいいけど」

 傷ついて、疲れて、倒れ込んで。そんな日常なのに、投げやりになんてならない彼
女は、忙しくて仕方がない。送り届けたその後は、きっと部屋に籠って自分の世界に
入り込むんだ。ヴァイオリンか、キャンバスか。それとも水の中で漂っているのかも
しれない。それなのに、なんでそんなこと尋ねるのと、はるかよりも小さな身体を見
下ろしながら、切なくなりそうで突き放してしまった。


「困らないわ」

 けれど低めの体温が縋りつくみたいに擦り寄せられると、身体の内側から熱くなっ
てしまいそう。


「言うこと聞いてあげないよ?」

 おどけながら吐き出された軽口に、みちるは戸惑ったような表情を浮かべてから頷
いた。


「泣かせちゃっても良い?」

 違うよ。本当は、うれしい気持ちでいっぱいにしてあげたいだけなのに。

「・・・泣かないもの」

 はるかの制服の腕を握って俯く角度のせいだ。

「ふーん・・・じゃあ、意地悪ばっかりするよ」

 困った顔が見たくて反対の言葉ばかり出てくる。

「どうして?」

 意地悪く笑い声を落とすはるかを見上げた彼女の瞳が揺れている。

 不貞腐れてしまいそうだ。可愛すぎて。うれしすぎて。何で、こんな簡単にはるか
を喜ばせることができるんだろう。


「泣いた顔も可愛いから」

 思いの外素直に白状したら、みちるは目を丸くしたけれど。

「・・・ばかね」

 ぎゅっと握ったままだった腕に、彼女が額を寄せる。触れ合う個所が増えると、そ
の分だけ、はるかの熱は上がっていく。どこまでも。


「もし涙が出たとしても、それは悲しいからじゃないわ」

 ちょっとだけ掠れた声が、癖になりそうだった。


                              


 窓辺に置いた椅子に腰かけて、はるかは窓の外を眺めていた。滑り落ちていきそう
な体勢のまま背凭れに身体を預けて、気だるそうに脚を組んだまま。こちらへ視線を
向ける様子もない。これが彼女の部屋だったとしても、リビングの出窓に腰かけて、
同じようにガラスの向こう側を眺めているのだろうと思いつくと、笑い声が漏れてし
まった。


「・・・何?」

 その声でみちるが自分の様子を眺めていることに気がついたのか彼女が振り返る。

「外ばかり眺めているのだもの」

 鏡の前で腰かけたスツールから立ち上がると、同じ部屋の中の距離でさえも、もど
かしくなる。


「あれ。それって笑う所?」

「だって、珍しいものをみつけた猫みたいじゃない」

 深い色の空か。それともそこに輝く月か。彼女の視線の先にあるものに思いを巡ら
せると切なくなりそうだったけれど、それは自分の痛みではない気がした。


「普通は拗ねたりするんじゃないの?」

「どうして?」

 急いてしまいそうな足取りを押さえつけてすぐ側に寄り添うと、彼女こそが不服そ
うな顔をしてこちらを見上げている。


「・・・私を見て、とか思わない?」

 組んでいた脚を折りたたむように上げて、踵を椅子へ乗せる仕草を眺めていたら、
はるかはそう呟いたくせに、視線を床へ落とした。


「そう思わせたくて、いつも窓辺に座っているのかしら」

 みちると比べるとやや幅の広い肩に両方の手のひらを乗せて額を擦りよせる。みち
るの髪がかかるそこは、見た目から受ける印象よりもずっと薄くて華奢だ。


「・・・・・別に。みちるがこっち見てるなんて思わなかった」

 言いながら、少しずつこちらへ視線を向けてくれていることが、近づいてくる声で
わかる。


「鈍感ね」

 肩から胸元へ流れたみちるの髪を、指先が捕まえる。何度か撫でるように弄んでか
ら、はるかはみちるの頭を撫でた。


 額を離して顔を上げると、視線がはるかの瞳に触れる。

 でも好きよ。

 唇だけで囁くと、はるかの腕に捕まって、背中が軋む程に抱きしめられた。


                             


「ねえ、いつになったら上がってくるの?」

 飛び込み台にうつ伏せたまま水面を見下ろすと、自分の声が跳ね返って聞こえてき
た。漂う影が浮かび上がるとパシャリと跳ねたような水音がする。


「もう少ししたらね」

 そこから顔をのぞかせた彼女が濡れた髪を掻き上げて笑った。ガラス窓から差し込
む日差しに、水の滴る毛先がきらきらと輝いている。


(・・・人魚姫って、こんななんだろうな)

 仰向けで水の中を漂う姿を目で追いながら、そんなことを思う。ふわりふわりとい
つまでも水と戯れている彼女を見るのは嫌いじゃない。だけど、あんまりうれしそう
にされると、ついついその中に割り込みたくなる。


「さっきもそう言った」

 プールサイドに響く自分の声がひどく子ども染みている。だけどそれに気がついて
いるのははるかだけみたいだ。みちるはその声を軽く受け流して、振り返ろうともし
ない。


「水の中って、そんなに気持ちいい?」

「ええ」

 上を向いていた身体がくるりと回されて、また水の中へ入っていこうとする。

「僕の腕の中よりも?」

 まるで彼女を奪われてしまうかのように感じて、尋ねる声が焦っているみたいだ。

 飛び込み台の縁を両手で握ったまま、じっと下を眺めて待っていたら、はるかの声
が届いたのか、みちるは緩やかに動きを止めた。水の底に足をついて、こちらへ振り
返る。見下ろしたままのはるかと目が合うと、彼女はおかしそうに笑った。


「比べるようなものではないでしょう」

 軽く握った右手を唇に押し当てて、笑い声を抑えようと苦労している様子が、こと
さらにはるかの気持ちをかき乱していく。


 わかってるよ。

 心の中で呟いて、睨みつけるようにみつめたら、笑いをこらえたままのみちるとも
う一度目が合う。


「わかってるよ」

 今度は声に出してそう告げた。でも、最後までは音にならなかった。

 みちるの笑顔が、こらえているようなものではない、優しげなものに変わったから。
口の中に消えてしまった声の代わりに、水滴が頬から滑り落ちた。はるかはプールへ
浸かっているわけでもないのに。それは音もなく水面に吸い込まれていく。


 彼女は小さく跳ねた水沫と微かな漣をみつめてから、顔を上げて静かに言った。

「・・・それに、ここははるかの帰ってくる所よ」

 みちるが笑ってくれるとどうして涙が出るんだろう。


                           


「やっぱり、冷えてるじゃないか」

 はるかはそう言って、みちるの髪を拭くタオルを持つ手に力を込めた。

「はるかの体温が高いのよ」

 大雑把に身体を拭かれながら、時折触れる手の温もりに、みちるは笑みを零す。

「違うね。唇だって、色、変わってるよ」

 彼女の指先に顎を捉えられると確かにいつもよりも温かく感じて、水の中にいた自
分の身体が思った以上に冷えていることがわかった。長居してしまったようだ。


「構わないわ。後で温めてもらえるもの」

「・・・今すぐでもいい?」

 口付けていたはるかが、舌先で唇に触れてから呟いた。頬に触れる吐息までが熱く
感じてくすぐったくなる。


「服が濡れるわよ」

 抱き寄せる腕がこの前よりも随分と慎重でもどかしい。けれど、こちらの方がいつ
も通りの力加減だったと思い出して苦笑した。


「すぐ脱いじゃうんだから、別にいいよ」

 片方の手のひらでみちるの頭を抱き寄せて、反対の腕が背中にそっと添わされる。
濡れた髪のままで肩口に頬を擦りよせると、はるかは静かにみちるの髪へ額を寄せた。


 優しいはるか。

 しかめて見せる顔も、不貞腐れたような姿も、力任せの仕草も。柔らかな心がそう
させるのだと知っている。本当はこんなにも、穏やかな腕なのに。でも、だからこそ、
昂ぶるまま扱われることも好きだ。


 頬を擦りよせたまま視線を上げると、覗き込むはるかのものとぶつかる。目元が少
し腫れているように感じて指先で触れると、滲んでいくような熱が広がった。


「泣き虫ね」

 ふと先ほどの水面を思い出して、喉元が狭まる。辛くもないし、悲しくもない。け
れど息苦しくなっていくように感じてしまう理由は、きっとあの時のはるかと同じだ。


「君のせいだ」

 寝起きのような掠れた声ではるかが言う。その声を聞きながらまどろむように彼女
の胸元へ手を這わせたら、みちるのものよりも少しだけ大きな手のひらが重ねられて、
はるかの心音が聞こえてくる気がした。


 声にならないまま、震えるような溜息を吐きだす。

 ―――君のせいだ。

 愛しくて抑えきれなくなる。

 指を絡ませて、手のひらを合わせて、同じように自分の胸元へとその手を引き寄せ
たら、はるかにも聞こえるだろうか。


 凍えた胸の奥から溶けだしていくような、規則正しく溢れだす感情の音が。

「・・・だから、今すぐあっためさせて」

 みちるが返事をするよりも前に唇が触れる。離れることもなく深くなっていく口付
けに背中に腕をまわして答えたら、はるかは同じ強さで抱き返してくれた。




                            END



 二人は毎日ベタベタしてたらいいよっ、と毎日妄想している私の病状は多分末期。



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