バスが来るまで




「会いたいと思っていたのは、私だけではなかったのね」


 祥子さまはそう言い残して、足早に薔薇の館の中へ入っていってしまった。

「お姉さま・・・」

 祥子さまの言ってくれたことを頭の中で何度も復唱してかみ締めるように目を瞑ると、
幸せな気持ちとか、切なさとか愛しさとか、色んな感情が湧き上がって溢れ出るように泣
きたくなって、慌ててその後を追った。


「お姉さま」

 少しだけ乱暴な動作で扉を開けて階段へ歩み寄ると、すでに階段を上り終えてステンド
グラスの前で立ち止まってこちらを振り返る祥子さまと目が合った。


「なぁに?」

 少し歩いたおかげで落ち着いたのか、祥子さまはさっきまでの照れ隠しの怒ったような
表情ではなく、穏やかな顔で祐巳の呼びかけに応えて首をかしげた。


「もう一度、言ってください」

 ステンドグラス越しの色鮮やかな日差しを背にした祥子さまは本当にマリア様みたいに
輝いていて、このままその光の中で溶けてしまいそうにすら感じられた。だから、そんな
ことあるはずもないのに急激に不安になって、はしたないけれど段とばかしで階段を駆け
上がり祥子さまの腕にしがみつくと同時にそう小さく叫んでしまった。


「もう一度?」

「さっき仰ってくださったことです」

「・・・何度も言うことではないわ」

 アンコールをお願いすると祥子さまはやっぱり照れ隠しのようにつんと横を向いたけれ
ど、祐巳は素直にそれに従うことができなくて駄々っ子みたいに首を振ってさっきよりも
いっそう力をこめて祥子さまの腕にしがみついた。


「どうしたの?」

 いつもと少し違う祐巳の反応に訝しそうに祥子さまはまた首を傾げた。

「私は、会いたかったです」

「え・・・?」

「お姉さまに会いたかったです、ずっと・・・」

 イタリア旅行はとっても楽しくて、新鮮で、きっと一生の思い出になるような素敵な時
間だった。でも、祥子さまに会えない寂しさだけは、どんな旅の喜びですら埋めることは
できなくて。帰国してからもう一週間も経っていて、その間に祥子さまと過ごす時間はい
っぱいあった。もちろん、この一週間だってたっぷり甘えさせてもらったけれど、改めて
「会いたかった」なんて言ってもらったら、うれしさと同時にその時の寂しい気持ちまで
蘇ってしまってどうしようもなくなってしまったのだ。

 ものさしでは図ることのできない二人の距離に、堪らなく不安になる。
 見えないその不安に足元を取られて、一人では立っていられない。
 そんな気持ちで胸がいっぱいになって、祐巳はここから歩けなくなってしまった。

「・・・祐巳」

 自分にまとわりついたまま固まってしまった祐巳の髪を撫でながら、祥子さまはどうし
たものかとでも言う風に天を仰いで息を吐いた。その様子を見た途端、急速に頭から血が
引いていって、その代わりに後悔や居た堪れなさが怒涛のように足元から湧き上がってく
る。困らせたいわけじゃないのに、どうしてこんな風にしかできないのだろう。


「・・・あの・・・」

 祥子さまが離れていくかもしれないという漠然とした不安と、今この瞬間、呆れられて
いるかもしれないという不安が胸の中でぐちゃぐちゃとかき混ぜられて、結局、祐巳は立
ち尽くすしかできない。涙で目元が滲んでいくのを感じながら、この不安を祥子さまにど
うにかして欲しいなんて思っている自分はなんてずるいのだろうって思った。


「わかったわ」

「へ?」

 俯いて立ち尽くしていると、唐突に祥子さまがそう言い放った。先ほどまでの重々しい
空気を一蹴するかのようにやけに颯爽と。何がわかったのかとか、どうしてそんなに満面
の笑みを浮かべているのかとか、うじうじ虫はいったん蚊帳の外に置いといて、祐巳が頭
の中に浮かんだ疑問を選んで口に出す前に祥子さまは結論だけを述べた。


「次の日曜日、いつもの駅に10時集合ね」


                                


「ごきげんよう、祐巳」

「ごきげんよう、お姉さま・・・」

 その日は少しだけ湿気がまとわり付くような空気だけれども晴れ間が広がる好天で、約
束の時間より若干早く駅の改札口に着いた祐巳の目に、すでにしばらく待っていましたと
いう感じの祥子さまの姿が映った。


「あの、遅くなってごめんなさい。お待たせしたみたいで・・・」

「あら、遅れてなんていないわ。時間より早いくらいよ」

 縮こまる祐巳に「私も今来たところなのよ」とお約束な言葉をかけてくれる祥子さまの
様子に、初めてのデートの待ち合わせみたいだなぁなんて、ちょっと的外れなことを考え
てしまった。祥子さまとのデートは初めてではないけれど、こうやって待ち合わせをして
どこかへいくのは久しぶりで、少しのことにも妙にどきどきしてしまう。


「では、行きましょうか」

「え?あ・・・っ」

 祥子さまがにっこり笑ってから当たり前のように祐巳の手をとるから、やっぱりどきど
きしてしまう。

 祥子さまはまったく動揺した様子なんてなくて、それとは逆に祐巳はそわそわどきどき
落ち着かなくて。正反対な様子の二人はそれでもしっかりと手を繋いで人ごみを掻き分け
て歩いていく。


「乗るわよ」

 駅を出てそのままバスのロータリーまで来ると祥子さまは当たり前のようにそう言って、
祐巳が利用したことのない乗り場に停車しているバスに乗り込む。祥子さまに促されるま
ま、いつもの学校から駅まで利用するバスと同じように一番後ろの席に二人して腰を掛け
たところで扉が閉じられて、バスは滑らかに発車した。


「あの、お姉さま・・・」

「何?」

「これから、どちらへ?」

 なんだかよくわからないままバスに乗り込んだまではいいけれど、祐巳は今日の予定を
まったく聞かされていない。駅に集合してバスに乗っているのだからどこかへ行くのだと
いうことだけはわかるのだけれども。そう思って詳細を尋ねると、祥子さまはきょとんと
小首をかしげた。


「さぁ?」

「はい?」

 もしかしてからかわれているのではないだろうかと思って祐巳も同じように首を傾げて
見せるが、祥子さまは真面目な顔をして「わからないわ」と続けた。


「だって、乗ったことないもの。この路線」


                                  


 前方の料金表示ランプの『560』の部分が点灯したところで、祥子さまは降車ボタンを押
した。


「お姉さま、本当にここがどこだかわからないんですか?」

「ええ、初めて見る風景ね」

「・・・・・・」

 ちなみに今日のデート資金はなぜかバレンタインデートの時と同じく二人で3000円。そ
れなのに往復の交通費だけでも結構な出費だ。


「えっと・・・その、これからどうしましょう?」

 辺りを見回すと、閑静な住宅街といったら聞こえはいいけれど、実際のところここは本
当に東京都内なのだろうかと思ってしまうような静かな川辺で。数えるほどの住宅が点在
しているだけだ。


「デートするのでしょう?」

「は、はぁ・・・」

 デートと言っても、ここではショッピングどころかちょっとした名所観光すらできなさ
そうなのだけれど。祥子さまは構わず祐巳の手を引いて歩き始めた。


「とりあえず、お散歩しましょう」

「・・・はい」

 行く当てもないけれど、祥子さまにそう言われてしまっては歩かないわけには行かない。
ぶらぶらと祥子さまに手を引かれるまま何もない道をぼんやりと歩く。

 祥子さまは。祐巳の手を引きながら、道に沿って植えられている背の低い木や、小さな
花や、道沿いの少し古風な住宅の壁の色、それから川の水の匂い、それらのことをとりと
めもなく、時には指をさしたり、立ち止まったりしながら話してくれる。よくわからない
状況に変わりはないけれど、祥子さまのそんな様子を見ていたら、何をしているわけでも
ないけれど、なんだか楽しい気持ちになってくるから不思議だ。

 木や花や、色や匂いや音や風。それらの自然の風景は、祥子さまの澄んだ瞳にどう映っ
ているのだろうか。

 そう思って、穏やかな表情の祥子さまの横顔をみつめていると突然、きれいに舗装され
ていない路肩に足を取られてしまった。


「きゃっ」

 転んでしまいそうになった身体は無意識に繋いでいた祥子さまの腕に手を伸ばしていて。
祥子さまはその手を力強く握り返すと、反対側の手で素早く祐巳の身体を支えてくれた。


「大丈夫?」

「あっ、は、はい」

「そそっかしいわね・・・きちんとつかまってなさい」

 祥子さまは呆れた顔でそういうと、軽く繋いでいただけの手を、指と指が絡むように繋
ぎなおした。


「お姉さま・・・」

 相変わらず祥子さまは前を向いていてやっぱりそのまま歩き続けるけれど、祐巳の手を
握ってくれる力はさっきまでよりもほんのちょっとだけ強くなっているみたいだ。祥子さ
まの少しだけ冷たい指先の感覚は、それでも祐巳の小さな胸をぽかぽかと暖めてくれるか
ら、うれしくなって繋いだ手をそのままに腕を絡めるように寄り添って祥子さまの腕に頬
っぺたをすり寄せた。


「重いでしょ」

「えへへ」

 祥子さまのいつも通りのそっけない言い方に、今日はなんだか安心してしまう。歩いて
いく道の先には相変わらず何もないけれど、祥子さまと寄り添って進む知らない道に、と
ってもどきどきしてそれからわくわくした。






 コンビニでお昼ご飯を買った。コンビニと言っても日本全国どこでも見られる緑の看板
や青いマークのあのコンビニではなくて、いかにも個人商店といった感じの小さなお店だ。
サンドイッチとジュース、二人あわせて
575円也。帰りのバス代を考えるとぎりぎりの金額
だった。


「ねぇ、祐巳。ここを通る?」

「え」

 お昼ご飯を買ったまではいいけれど、さすがにコンビニの前に座り込んで食べるような
真似はできなくて、どこか適当な場所を探そうと祥子さまと祐巳はまたしてもぽちぽちと
歩いていた。


「ここ、ですか?」

 まぁ、バスから降りてからここまでも私有地につながっていない公道らしき道は今歩い
ている一本だけで。どこかいい場所を探して歩いていくならここを通らないといけないわ
けだけれども。

 そこは短いトンネルだった。高架下のような感じではなく本当にあの丸い入り口のトン
ネルのミニバージョンだ。おまけにいかにも何か出てきそうな雰囲気の古めかしい作り。


「怖い?」

「・・・少し」

 実際のところ何が出てくるわけでもないだろうけれど、祐巳はあまりお化け系統は得意
ではないのだ。だから、お化け屋敷とか、ホラーとか、一般的に恐怖を煽るようなものは
全般的にさけて通りたい。


「では、走りましょうか」

「へ?・・・ってお姉さまっ!?」

 祐巳がいいとも悪いとも言っていないうちに、祥子さまは繋いでいた祐巳の手を引っ張
るように走り出した。

 二人分の弾むような足音と、祥子さまの楽しそうな笑い声と、つられて笑う祐巳の声と
が一緒になって、トンネルの壁にあたって跳ね返って大きく響く。短いトンネルはそれで
もそこを通り抜けた時の外の日差しが眩しく目に飛び込んでくるようだった。


「もう・・・っ、お姉さまったら・・・!」

 走りぬけたトンネルの出口で、祐巳は肩で息をしながら祥子さまに抗議の声を上げるけ
れど、祥子さまはこの程度の距離を走ったくらいではなんともないとでも言うように涼し
げな顔をしていた。


「あら、でも怖くはなかったでしょう?」

「・・・・・・」

 ころころと笑って見せる祥子さまに思わず脱力してしまう。

「ほら祐巳、早く行きましょう」

 祥子さまはにこにこ顔のまま、もうトンネルは抜けたというのに足早に祐巳を引きずっ
ていく。


「ま、待って下さい、お姉さま。もう少しゆっくり・・・」

 全力疾走が祟った祐巳はすぐには走り出せないのに、祥子さまは構わず足早で。だけど
絶対に繋いだ手は離さないでいてくれるから。祐巳はお腹に力を入れて、少しだけ小走り
になって祥子さまのすぐ隣に追いついたのだった。



                                  


「きゃっ!」

 プシュっという炭酸が弾ける音と同時に祥子さまが小さく悲鳴を上げた。

 トンネルを抜けた先を二人でスキップするみたいに軽快な足取りで進んでいたら、川と
は反対側の道沿いに公園というには小さすぎるけれど、木製のベンチとテーブルが何組か
置かれているテラスのような場所を発見したのだ。地面もそこだけアスファルトではなく
石畳が敷かれていてちょっとした庭園みたいだ。せっかくだからここでお昼にしましょう
かと祥子さまが言いかけたところで、お腹のかえるがタイミングよく鳴きだしたものだか
ら、祐巳は一も二もなく同意したのだった。


「お姉さま、これを」

 祥子さまがサンドイッチのお供に選んだ飲み物は、普段の祥子さまなら選びそうにもな
い、夏には大人気の黒色のあの炭酸飲料だった。しかし、いつもと違うものにチャレンジ
したまではよかったけれど、トンネルからこっち炭酸飲料に刺激を与えるような運動をし
てしまったため、ピンを抜くと同時に抗議よろしくそれは盛大に弾けたのだった。


「・・・べたべたするわ」

 吹き零れる缶を持ったまま呆然としている祥子さまの手をハンカチで拭いて差し上げた
けれど、乾いた布では糖分までは拭えず、祥子さまは眉を顰めた。


「じゃあ、これで拭きましょうね」

 なんだかお母さんみたいだななんて思いながら、祐巳はバッグからウェットティッシュ
を取り出した。いつも持ち歩いているわけではないけれど、ちょっとした遠出の時には持
ってくるようにしておいて正解だった。唇を尖らせて拗ねている小学生みたいな顔をした
祥子さまにちょっとだけ苦笑しながら、祐巳はその手を取ってもう一度丁寧に拭いていく。
祥子さまは祐巳に拭かれるまま素直にきれいな手を差し出してくれていた。


「はい、これでもう大丈夫です」

「ありがとう」

 拭き終わった手を軽く撫でて見せると、祥子さまは両方の手のひらを広げてみてからに
っこりと笑った。

 そうしてやっと広げたサンドイッチは、コンビニで買ったものなのにいつもの食べるも
のよりも少しだけ美味しい気がした。別々の種類のサンドイッチを買った祐巳と祥子さま
はお互いに食べさせあったりして。うまく噛みつけなくて、ちょっとだけ唇の端にソース
がこぼれることすらおかしくて、二人してずっと笑ってしまった。そうやって祥子さまに
口の周りをティッシュで拭いてもらってもまだくすくす笑っていたら、近くを日傘をさし
た老夫婦が通りかかって。目が合うと微笑みながら会釈をしてくれるものだから、祐巳と
祥子さまも照れ隠しのように会釈を返した。

 そうしたら、今度は胸が暖かくなって。緩んだ目元を祥子さまの肩にこすりつけたら、
祥子さまもやっぱり声を漏らして笑っていた。



                                 


 冬の天気は予測がつかない。
 さっきまでは晴れていたのに、いきなり空の向こうから大きな雲の塊がやってきて、あ
たりに大粒の雨を落とし始めた。どうやら朝感じた湿気がこんなところにまでやってきて
しまったらしい。


「すぐに止むといいわね」

 空いているのか閉まっているのかわからない小さな商店の軒下で、濡れてしまった祐巳
の髪を拭いてくれながら祥子さまが他人事のように呟く。


「止まなかったらどうしましょう?」

「ずっとここにいるしかないわね」

 それも構わないといった風に祥子さまはふわりと微笑んだ。
 二人で肩を寄せ合って、そのまま軒下から見上げた空の向こう側には晴れ間が見え隠れ
するのに、あたりを打ちつける雨はしばらくは止みそうにない。


「・・・っしゅん」

 気温はそんなに低くないのに、雨に濡れてしまった身体は少しだけ冷えているようで、
寒気を感じると同時にくしゃみが出てしまった。そのまますんすんと鼻を鳴らしていると、
祥子さまがコートの前を開けてその中に抱き入れてくれた。


「だ、大丈夫ですからっ、あの・・・」

「こうしていた方が暖かいもの。祐巳も私も」

「・・・・・・」

 確かに、コートの布一枚分だけなのにそれがなくなっただけで、抱き寄せてくれる祥子
さまの体温がぐんと近くに感じられて、とっても暖かかった。

 雨の音は相変わらずうるさいぐらいに辺りを包んでいるのに、それよりも近くに祥子さ
まの規則正しい鼓動が聞こえてくる。


 とくとくとくとく。

 祐巳を安心させるメトロノームのような心臓の音に目を閉じると、それだけで祥子さま
に包み込まれて守られているみたいだ。


 雨が止まなければいいのに。

 そうしたら、いつまでもこうやって祥子さまに抱きしめていてもらえるかもしれないから。
 そんなことを考えながら愛しい人をそっと見上げると、その人は雨に降られているとい
うのにやっぱり楽しそうな微笑を浮かべていたのだった。



                                  


 雨上がりの空にはまだ少しだけ雲が残っていたけれど、その合間からは傾きかけている
太陽が見えて、夕刻が近いことを知らせていた。

 祐巳と祥子さまは手を繋いで、来た道をまた引き返す。同じ道のはずなのに、雨上がり
の道はそれだけでまったく違うものに見えて新鮮だった。小さな公園を横目に、繋いだ手
を無意味に大きく振りながら。お化けの出そうなトンネルは来た時と同じように全力で走
り抜けて。祥子さまと二人、家路へと向かう。二人でお昼ご飯を買った商店を通り過ぎた
あたりで、さっき会った老夫婦が二人で寄り添って雨上がりの川原を眺めていた。水面に
反射する夕日を同じように瞳に映し佇む老夫婦は、とても穏やかな表情をしていて。今度
はこちらから挨拶をすると、二人はやっぱりさっきと同じようににこやかに会釈をしてく
れた。


「こういうこともあるのね」

「そうみたいですね・・・」

 やっとバス停に着いた頃には、辺りはすっかり茜色になっていて。二人が乗った路線バ
スは結構希少なダイヤ構成だったらしく、三十分に一本の駅行きのバスは二人がそこへつ
く五分前に発車したらしかった。


「でも、しばらくゆっくりできるわね」

 祥子さまは前向きにそう言うと、小さな屋根つきのバス停の濡れていないベンチに腰を
掛けた。それに倣って祐巳も同じように隣に腰を掛けると、祥子さまは当たり前のように
肩を抱いてくれた。


 バスが来るまで。

 祐巳を優しく抱いてくれる祥子さまの肩に寄りかかって目を閉じる。

 バスなんて来なければいいのに。

 二人を日常へと連れて帰ってくれるバスはまるで、祐巳の幸せな時間から祥子さまだけ
を切り取るために迎えに来るかのように感じられて。


 これが夢なら、覚めないで欲しい。

 そうでなければ、時間が止まってしまえばいいのに。

 もうすぐバスが来る。

「・・・楽しかったわね」

「え?」

 不意に祥子さまがそう言ったので、祐巳は現実に引き戻されたかのようにはっと顔を上
げた。


「まったく知らないところだったけれど、祐巳と一緒だったから楽しかったわ」

「・・・・・・」

 私もです。そう続けたかったけれど、今声を出すと涙まで一緒にこぼれそうになって言
葉に詰まってしまった。


「でも一日中歩き回ったから、帰ったらゆっくり休みなさいね」

「・・・・・・帰りたくないです」

 祐巳を抱きしめてくれながら優しくそう言ってくれる祥子さまに、突然悲しい気持ちに
なって、思わず本音が漏れた。その上予想していた通り、声を出すと連鎖反応みたいに涙
がぽつぽつ落ちてくる。


「帰りたくない・・・お姉さまと、ずっと一緒にいたい。ずっとこのままがいいんです・
・・っ」


 どこだっていい。祥子さまと離れずにすむのなら、ずっとその場所にとどまっていたい
のに。祥子さまは抱きしめてくれていた身体を少しだけ離すと、静かな表情で祐巳をみつ
めた。


「・・・私は早く家に帰って休みたいのだけど」

「・・・・・・」

 漫画みたいにパカーンってバス停の屋根が落ちてきたのかと思った。思わずあふれてい
た涙まで引っ込んだ。離れるのが寂しくて悲しくて、祐巳は辛くて仕方がないのに、祥子
さまはそうは思ってくれていないどころか、さっさとお家に帰りたいとでも仰りたいのだ
ろうか。なんだか片思いみたいで、本当に悲しくなってきた。だけど、祥子さまは優しげ
な微笑を浮かべたまま、思いもよらない言葉を口にした。


「早く眠って、起きて、学校へ行って。明日も祐巳に会うの」

「え・・・」

 祥子さまが囁いた瞬間、少しだけ冷たい風が祐巳の髪をなぶるように吹き抜けて、頬を
掠めた。


「ここにずっといたら、祐巳との明日が来ないもの。私はそんなの嫌よ」

「お姉さま・・・」

 言い終わった祥子さまは祐巳と目が合うと、照れたように俯いて小さく笑った。

「ねぇ、祐巳」

 祥子さまは俯いていた顔を上げるとまっすぐ前を見たまま、こつんと祐巳の頭に自分の
頭を当てた。


「私はね、あなたと一緒にいると、わからないことも、つらいことも、もちろんうれしい
ことも楽しくて仕方がないの。でも、あなたと一緒にいない時でも、やっぱり同じよ・・
・なぜだかわかる?」


「・・・・・・?」

 祥子さまの言葉の真意を測りかねて祐巳が小さく身じろぎをすると、祥子さまは祐巳の
耳に一瞬だけのキスをして、小さく、だけどはっきりと囁いた。


「どの時間も全部、あなたとの明日へ続いているんですもの」

 わからないことも、つらいことも、うれしいことも。祥子さまと一緒だから楽しいって
祐巳はずっと思っていた。でも、それは、身体の距離だけじゃないんだって今祥子さまは
言ってくれたのだ。

 濡れた木々は薄く光っていて。小さな花たちは雨に降られた後も美しく咲き誇っていて。
夕日に照らされた街は赤く光り輝き。雨上がりの風は濡れた土の匂いを運んでくる。その
どれもこれも、バスから降りた時とは違っていて。祐巳の目に映る物全てが移り変わって
いて。


 祥子さまの瞳にも同じように移り変わった景色が映っているのだろうか。

「お姉さま」

 わからない街を歩いている時も、祥子さまと一緒だからうれしくて楽しくて、微笑まず
にはいられなかった。


 雨に降られた時も、祥子さまと一緒だから暖かくて幸せで、胸がいっぱいになった。

 穏やかな老夫婦の佇む静かな風景も、なんて美しいのだろうかと目の奥が熱くなった。

 祥子さまと歩いていく道にあるもの全てに、間違いなく心の底から感動していた。

 例えば身体が離れていたとして。それでも祐巳のすぐ側に祥子さまの心は寄り添ってい
るから。一人悩む日も、心細い日も、全部全部、それは祥子さまとの明日に続いている目
に見えない未来への道で。

 だから、きっと。そこには胸を優しく満たすような、ふたりの時間であふれている筈だ。
 今日の日のような、きらめく宝物。


「だから私は、明日が待ち遠しいのよ」

 もうすぐバスが来る。

 だけど、目からあふれる涙は、きっとさっきまでと同じ色じゃない。

 二人を迎えに来るバスは、鈍行の各駅停車の未来行き。

「はい、お姉さま」

 バスが来るまで。

 もう少しだけ、祐巳と祥子さまは寄り添って、二人の距離を確かめ合う。みつめあって、
寄り添って、微笑みあう。

 みつめた先の祥子さまの微笑みは、いつもと同じようにきれいで。明日にも、同じよう
に自分をみつめてくれる微笑があるのだと思ったら、明日が待ち遠しい気がした。


 早くバスが来てもいい。

 バスが来るまで。晴れやかな雨上がりの輝きは、祐巳と祥子さまの背中をずっと照らし
てくれているみたいだった。




 

END 

あとがき TEXTTOP 

inserted by FC2 system