You are beautiful




「お姉さま、しっかり」

 真夏の青空に祐巳の悲鳴が響き渡る。

 祥子さまの男嫌い克服作戦、略して「OK作戦」は、祐巳の寝返りにより瓦解した。そ
こまでは良かったんだ。お姉さまに隠し事をせずに済んだし、だまし討ち未遂について
も許してもらえたし。


『私に良い考えがあるのだけれど』

 そう言った時の祥子さまの顔は本当に楽しそうで。

「ちょっと、祥子。祥子ってば」

 だからまさかこんな事態になるなんて思っても見なかったんだ。

「・・・・・・」

 令さまが慌てた様子で祥子さまの肩を揺するけれど、反応はない。
 貧血を起こしたようにふらふらと祐巳の肩にしなだれかかった祥子さまは。

 間違いなく気絶していた。


                              


「あ・・・」

 自主登校という名の薔薇の館への休日出勤は、夏休み後半の今となっては毎日のこと
になっていた。午前中にもかかわらず、太陽は既に高いところから眩しいくらいに地面
を照らして、体感温度を上昇させる。


 暑い。

 じりじりと焼かれるような感覚に、気を抜けばその場でだれてしまいそうだ。おまけ
に深い色の制服は光やら熱やらを吸収しやすいらしく、まるでサウナスーツでも着てい
るみたいだ。・・・着たことないけど。

 それでも、祐巳がだれることもなく毎日元気に登校するのは、愛しの祥子さまに逢う
ため、いやいや、文化祭へ向けておしりに火がついた状態の山百合会の活動のためであ
った。


「・・・上履きを忘れてしまったわ」

 暑いけれども、それを耐えた先に待つのは祥子さま。そんなことを思いながら汗をか
きかき鼻歌交じりで登校すると、駅のバス停で願ったとおり祥子さまと出会えてしまっ
た。家を出る前にテレビで見た今日の運勢占いは当たっているようだ。祐巳の星座は本
日の運勢一位なのだった。


「来客用のものを貸してもらえるかしら」

「多分・・・」

 だけど、一緒に登校した祥子さまはといえば、なんだか浮かない表情で。祐巳が話し
かけても上の空。涼しいバスの中で隣にぴったりくっついていたけれど、祥子さまはい
つものようにぎゅってしてくれなかった。


 多分、祥子さまが落ち込んでいるのは、この間の花寺との打ち合わせがご破算になっ
たせい。


 祥子さまは男嫌い。山百合会のみんなもそのことは重々承知している。そのことで昨
年度もその前も、祥子さまは花寺の学園祭に行っていないことも。だからこそ「
OK作戦」
なんてものまで図って、花寺との打ち合わせを実現させようとしたわけだ。結局は祐巳
の自白によりそれは実行されなかったけれど。


 祥子さまは自分の意思で、逃げることなく花寺の生徒会役員と会うことを選んだ。
 それなのに、いざ目の前に様々な種類の珍獣、もとい花寺の生徒たちが現れた途端に、
意識が途切れてしまったのだ。

 あの後、祐麒と話を付け、打ち合わせはまた後日と言うことで話は落ち着いたのだけ
れど、祥子さまの意識は途切れたままで、何とか呼び起こした後も朦朧としていたのだ。
それを祐巳が何とか宥めている間に、令さまが小笠原の家に連絡して迎えに来てもらう
羽目になった。


 逃げることは大嫌い。

 常々そう言っている祥子さまが、敵を前に、逃げるどころか戦闘不能になってしまっ
たのだ。そのダメージは計り知れない。


 祥子さまはそれはそれはプライドが高いのであった。

「・・・借りてくるわ」

「あ、じゃ、じゃあ私も」

 薔薇の館へと続く中庭で、祥子さまがそう言って早々と踵を返すものだから、祐巳は
慌ててそれに倣う。


「?祐巳はきちんと持ってきたのでしょう?」

 先に言ってくれていて良いわよ、なんて弱弱しく微笑む祥子さまを放って置けるはず
がない。それに。


「で、でも・・・」

「?」

 追いついた先、背中の制服を祐巳がきゅっと握ると、祥子さまは怪訝そうな顔をして
振り向いたけれど。


「・・・お姉さまと一緒にいたい・・・」

 暑さでとろとろに溶けてしまった脳内でろ過されることなく、本音が口をついて出て
しまった。


「・・・・・・」

 黙りこんだ二人の周りで、短い夏を惜しむかのように鳴く蝉の声が響いている。

「ばかね」

 祥子さまは呆れた声でそう言うと、祐巳と目もあわせずに背中を向けたまま歩き出した。

 背中に纏わりついていた祐巳の手を取って。

 煩わしいほどに蝉の声が響いている。でも。

「・・・・・・えへへ」

 汗ばみそうな陽気の中、握り返した祥子さまの手はいつもよりずっと熱くて、ふにゃ
ふにゃと笑い声が零れてしまった。祐巳と目を合わさないように前を向いて足早に歩く
祥子さまの後ろを、はにかむようにして付いていく。


『ばかね』

 それでこそ、祥子さま。

 夏の暑さのせいだけでなく、祐巳の脳みそは溶けきっているようだった。


                               


「白薔薇さんちは明日デートだそうよ」

 文化祭用冊子のレイアウトやら、各部への発注やらを、黙々と完了していく作業に飽
きたのか、グラスの麦茶を飲み干した由乃さんがそんな話題を切り出した。同時に、由
乃さんと同じように麦茶で喉を潤していた乃梨子ちゃんが「ぶっ」と言う奇妙な音を出
しながらむせた。


「な、なん・・・」

「ええ?いいなぁ・・・姉妹でデート。私もしたいなぁ・・・」

 口をパクパクさせている乃梨子ちゃんを余所に祐巳が思わず本音を呟くと、今度はす
ぐ隣から先程乃梨子ちゃんが発したのと同じ奇妙な音が聞こえてきた。


「お姉さま?」

「・・・・・・」

 よくわからないけれど、祥子さまがそ知らぬ顔して白いハンカチで口元を押さえていた。

「楽しみね、志摩子さん」

 まるで聖さまが乗り移ったみたいなにへら笑いを浮かべながら、由乃さんが志摩子さ
んを肘で突っつく。「憎いね、この」という感じに。


「そうね」

 だけど、志摩子さんは動じることなく天使の微笑を浮かべてそう一言。

(わぁ・・・)

 うれしそうに微笑む志摩子さんに、こちらが照れてしまった。こんな風に惚気る志摩
子さんも珍しい。反対に、乃梨子ちゃんは顔を真っ赤にして、しどろもどろで由乃さん
に講義する。


「あ、で、でもデートじゃないですよ、タクヤくんもいるし・・・」

「タクヤくん?」

 祥子さまの眉がぴくりと動いた。

「・・・・・・それって」

 そんなことには気付かない由乃さんが興味津々といった感じで身を乗り出すと、乃梨
子ちゃんはあたふたと首を振る。祐巳も気持ち身を乗り出す。


「ち、ちがいます!あの・・・」

「乃梨子のボーイフレンドよ」

「し、志摩子さん!?」

「・・・?仏像愛好の友人でしょう?」

 きょとん、と首を傾げて目をぱちくりさせる志摩子さんに、乃梨子ちゃんは長いため
息をつきながら机に突っ伏し、二人プラス祥子さま以外の人たちは「なーんだ」と肩を
すくめた。


「ま、なんにせよ、乃梨子ちゃんにとっては大好きなお姉さまと一緒に大好きな仏像が
見られる最高のデートコースってことね」


 ごちそうさまと両手を合わせた令さまの言葉に、みんなして笑いあった。

 祥子さま以外は。


                                 


「この書類だけ仕上げておきたいから私は残るわ。皆さんは先にお帰りになって結構よ」

 昼食後も黙々と作業に励んだおかげか、三時をまわった頃には一通り今日のノルマは
達成していた。


『そろそろお開きにしましょうか』

 だから、令さまのそんな提案にみんな一も二も無く賛成した。正直、集中力も限界に
達しそうだったのだ。しかし、どうやら祥子さまは人並みはずれて集中力を持続させら
れるらしい。というより、途中止めという行為自体が許せないのだろう。その上。


「祥子は言い出したら聞かないんだから・・・」

 みんなで取り掛かれば早く済むという令さまの提案も「私が気になるだけだから」と
固く拒否。自分が几帳面だからといって、それに他人を巻き込む気はないらしい。令さ
まはやれやれと大げさに肩をすくめて見せると、後輩三人をつれて薔薇の館を後にした。
「ほどほどにね」という言葉を残して。


「お姉さま、何か手伝うことはありませんか?」

 しかし、だ。妹である祐巳はお姉さま一人残して帰宅なんてできないわけで。「帰っ
ても良いと言ったでしょう」と雷が落ちるかもしれないなんて、びくびくしながら祥子
さまの側に歩み寄った。


「書類自体はもう終わるから、お茶を淹れてくれる?」

 紙面に視線を落としたまま、祥子さまはそう答えた。

「はいっ」

 それが、「ここにいてもいい」というサインのように感じて、祐巳はほっと胸を撫で
下ろしつつ、急いでシンクへとまわった。


 祥子さまと二人っきりだ。

 不謹慎にも程があるのは承知の上で祐巳はにんまりと頬を緩ませた。残業のためであ
っても、祥子さまの側にいられるのだから。やっぱりうれしい。


「どうぞ、お姉さま」

 さすがに暑いので、熱い紅茶ではなく、冷蔵庫に常備してある麦茶をグラスに淹れて
差し出す。「もう終わる」という言葉の通り、冷蔵庫を開けてグラスに注ぐだけの作業
の間に、祥子さまは書類を整えて、ファイルに閉じ終わっていた。


「ありがとう」

 冷たいグラスを手渡すと、祥子さまが柔らかく微笑む。さっきまでの仏頂面が嘘みた
いに穏やかな顔。・・・・・・ん?


(仏頂面・・・?)

 なんでそんなこと思ったんだろうか。でも、祥子さまの笑顔を見ると、安心したよう
なほっとしたような気がするわけで。


(ええっと・・・)

−−−タクヤくん?

(あ・・・・・・)

 そういえば、そんな単語、もとい人名が出てきたような気がする。その時の祥子さま
の表情といえば、眉がピクリと動いたくらいで、激怒しているという風ではない。でも、
上機嫌でもない。無表情といったほうが正しいだろうか。


(でも、いくら男嫌いだからって、男の子の名前が出てきただけで嫌なのかな?)

 それにどちらかというと、祥子さまのそれは、嫌悪症というよりは恐怖症に近い気も
するんだけど。まぁ、どちらにしても苦手なことには変わりないか。だけど、幼い頃か
らの社交の場での訓練と、生来の負けず嫌いのおかげで、それを露骨に表情に出すこと
はないし。


「・・・落ち着かないわね」

「へ?」

 突っ立ったまま、あーでもないこーでもないと考えていると、すぐ側の祥子さまが呆
れたような声で言った。


「顔よ。百面相しているわ」

「うわぁ!」

 慌てて両手で顔を隠すが手遅れらしい。祥子さまってば、思いっきりため息ついてい
る。本当に、考えていることがすぐに顔に出る癖、どうにかならないかな。


「何?」

 ほら。案の定祐巳が何か言いたげなのを察知したらしい祥子さまから、どことなく責
めるような視線を向けられた。


「いえ・・・」

 だけど、タクヤって名前が出たから不機嫌だったんでしょうか?なんて質問できるは
ずもない。


 カラン、とグラスの中で氷が溶けて崩れる音がした。

「・・・・・・悪かったわ、不機嫌にするつもりなんてなかったのだけれど」

「え・・・」

 祥子さまはちょっとだけ拗ねたような表情を作ってからそう言うと、ゆっくりと顔を
上げた。窓の向こうから、蝉の声がかすかに聞こえてくる。


「でも別に、男性の名前が出てきたから腹が立ったわけではないわよ」

 祐巳の後れ毛をそっと耳にかけると、祥子さまは苦笑しながら少しだけ俯いた。
 どうやら、祥子さまは祐巳が考え事をしていることだけではなく、その内容までもお
見通しだったらしい。それほどまでに自分の表情がわかりやすいのか、祥子さまの洞察
力が鋭いのか。


「でも、じゃあやっぱりお姉さま、「タクヤくん」の名前が出てから、あまり元気がな
かったんですか?・・・・・・あ、や、その・・・」


 もごもご。言えるはずないもんな、なんて思っておきながら、ついつい口をついてし
まう迂闊さに自分でも呆れてしまう。


「そうね」

 だけど、祥子さまは怒ったりなんてしなかった。それどころか、唇の端を軽く上げて、
祐巳の言葉を優しく肯定する。


「ちょっとだけ、悔しかったのよ」

「え?」

「乃梨子ちゃんも、それから志摩子も。当たり前だけれど、普通に男性と接することが
できるのだと思うと、ますます自分が不甲斐ない気がして・・・だから、ただの八つ当
たりね」


 ふっと、祥子さまは静かに崩れ落ちていくような儚げな微笑を浮かべた。

「お姉さま・・・」

 見下ろす角度からみつめると、祥子さまの表情はより一層切なく見えた。

 かすかに聞こえていた蝉の鳴き声が、今は煩わしいくらいに耳にこびりつく。

 祥子さまはそう言ったきり、俯いてしまった。それなのに、言葉一つ探せない。向か
い合ったまま、視線はお互いを捉えない。


 じりじりじりじり。夏の熱と、蝉の声と、二人の沈黙が耳にこびりつく。

『当たり前だけれど』

 そう口にするのは、本当はどれだけ苦々しいことなのだろう。

 逃げることは大嫌い。いつだって祥子さまはそう言って前に進んできた。まるで自分
に言い聞かせるように、奮い立たせるように。


 だからこそ、他の人には普通にできることが自分には難しいと認めることは、できる
ならば目を逸らしてしまいたくなるくらいに、歯痒くて痛々しい。きっと、祥子さまに
は何倍も。


 だけど。

 俯いたまま、膝の上で組まれた祥子さまの両手に、一瞬だけ指先を伸ばしかけてぎゅ
っと閉じた。


 大切な人がもがいているのに、ただ黙っていることしかできない自分の方が、今はよ
っぽど歯痒かった。


「あ、あの・・・っ!」

「?」

 堪らなくなって声を上げると、どうやらこの場には不自然なくらいに大きな声だった
らしい。祥子さまが弾けるように顔を上げるのを見て、祐巳は慌てて口元を押さえた。


「・・・なぁに?」

 それでも、破られた沈黙に眉を顰めることもなく、祥子さまは柔らかく微笑んだ。

「・・・その、そう言うのって、慣れだと思います」

「慣れ?」

「ええ。だから別に不慣れだからといって、恥ずかしいことじゃないって言うか・・・」


 何か考えがあったわけでもない。上手い言葉がみつけられていないのは百も承知。だ
けど、ただ、祥子さまに笑ってほしくて、元気になってほしくて、祐巳はもつれそうに
なりながら必死で訴えた。


「お姉さまはいつだって、他の方のことも考えて行動できるし、私みたいにポカばっか
りやらかさないし、きれいで頭も良いし・・・えっと、だから何が言いたいかと言うと
、お姉さまは最後にはきちんと相手に向かい合うことができるから。それは、素晴らし
いことだって、胸を張っていいことだって、私はそこら中の人に自慢して回りたいです!
・・・ってあれ?」


 しどろもどろで言っていたら、いつの間にか思いの丈を披露してしまった。祥子さま
も目を丸くしている。恥ずかしすぎる。

 だけど、祐巳が恥ずかしさに縮こまる前に、祥子さまは見開いていた目を優しく細め
て。届かなかった祐巳の指先に手を伸ばすと、そっと握ってくれた。


「ありがとう、祐巳」

 うれしそうに笑ってくれる祥子さまに、心の奥がよじれていくみたいに、胸が締め付
けられる。それは、お母さんに褒められた子どものような誇らしさと、迷子になってし
まった時の寂しさが、かき回されて胸いっぱいに注がれたような苦しさで。涙が滲んで
しまいそうな気持ちになった。


 けれど、ひんやりとした指先の感触にとくんとくんと心臓が音を奏でる。心の音に後
押しされるように祥子さまをみつめると、こちらをみつめてくれていた祥子さまと自然
に視線が重なった。


 祥子さまに、笑ってほしい。元気になってほしい。儚い微笑よりも、心からの笑顔で
いてほしい。


 祥子さまの視線を受け止めた瞬間、切なさで満たされていた心に、そんな気持ちが湧
き上がってきた。戦慄いてしまいそうだった唇をきゅっと結ぶ。それから。


「練習しましょう!」

 またしても、祐巳はこの場に不釣合いな大声を上げてしまった。だけど、もう恥ずか
しいだなんて思っている余裕もない。


「練習?」

 祥子さまはといえば本日二度目の大声に、再び目をまん丸に見開いていた。そのまま
きょとんと小首を傾げる。その仕草に、ぱちんと心の弦がはじかれて、抱きしめてしま
いそうになる自分を何とか抑えて続ける。


「そうです」

 つまり、慣れればいいのだから。場数をこなせばいいのだ。すぐに慣れるというもの
でもないだろうにという、どこかからの突っ込みはとりあえず脇に置いておく。


「今から私は祐巳ではありません、男の子だと思ってください。祐麒でもいいです」

 この際柏木さんでもよかったけれど、なんとなく腑に落ちないので却下。それにいと
こ同士だと感慨も新鮮味もないし。


「えっと・・・ごきげんよう、お姉さ・・・じゃない、祥子、さ・・・ま」

 祐麒をお手本にしようとして「祥子さん」と言いかけたところで、あんまりにも恐れ
多い気がして慌てて言い直した。祐麒め。何たる無礼者。


「男の子は『ごきげんよう』とは言わないのではなくて?」

 祐巳が心の中で毒ついていると、祥子さまから冷静な突込みが入った。確かに、ごき
げんようなんて言葉、少なくとも祐麒は使っていない。


「じゃ、じゃあ、こんにちは」

「こんにちは」

「き、奇遇ですね・・・」

 気が付けば、この間の「略してOK作戦」に使われるはずだった、小林くんのへっぽこ
脚本(祐麒評)を拝借していた。


「もしよければ、今からお茶でも、い、いかが?」

 しかしこの脚本。何というか、生徒会役員同士の顔合わせに使われるような、お堅い
ものではない気がする。


「初対面なのに、ずいぶんと気さくなのね」

「うっ」

 案の定、祥子さまは微苦笑しながら当たり前の疑問を口にした。そりゃそうだ。知り
もしない狸顔が現れて、いきなりこんなことを口にしたら、祥子さまでなくても変だと
思うはずだ。どこからどう見てもきれいなお嬢様をナンパしているようにしか見えない。


「ええっと・・・じゃぁ・・・」

 お姉さまの練習台になるはずだったのに、鋭い突っ込みの前に敢え無く撃沈しそうだ。
祥子さまはくすくす笑いっぱなしだし。


「お姉さまぁ・・・」

 手を繋いだまま、目の前で自分を見ながら笑われて、結局言葉に詰まって祐巳は情け
ない声を上げてしまった。おかしいことこの上ないけれども、そんなに笑わなくてもい
いのに。でも。


「ふふ・・・ごめんなさい」

 笑いすぎて目じりに溜まった涙を指先で拭いながら、祥子さまがにっこり笑ってくれ
たから。ま、いいか。なんてつられて笑ってしまった。


「大丈夫だから」

 不意に、祥子さまが言った。

「え?」

「次は大丈夫よ、きっとね」

 軽く握りなおされた指先に一瞬だけ視線を落としてから顔を上げると、祥子さまはに
っこりと笑いかけてくれた。


「私は逃げたりなんてしないし、放り出したりもしないわ」

 何がどう転んでうまくいったのか、それともまったく変わらないのか、それすらもわ
からず、祐巳は祥子さまの言葉を待つしかできなくて。二つの体の真ん中で手を握り合
ったまま、ただみつめあう。


「でも、どうしてかしら・・・そう思うのは「負けたくないから」ではないの・・・も
ちろん、目の前のことから逃げ出したり、負けてしまうことは恥ずかしいけれど。別に
私は花寺の方たちと戦いに行くわけではないもの。以前のように、戦わなければいけな
いとか、みくびられたくないとか。そういうこだわりからじゃないみたい」


 自分の中で咀嚼するように、ゆっくりと紡がれていた祥子さまの言葉は、いつしか力
強く、自信に満ちた声となって祐巳の耳にはっきりと届く。


 ガラス越しの真夏の日差しが、祥子さまの高い鼻筋や、艶やかな唇にきらきらと惜し
みなく降り注いで、眩しいくらいにきれいだった。


 そんな風に、半ば見惚れながらお姉さまの言葉に耳を傾けていたから、みつめた先の
表情が不意に緩んだのにすぐには気付けなかったんだ。


「・・・私はただ、あなたの隣に立つのにふさわしい人間になりたい。祐巳に寄りかか
ってではなく、自分の足で立って、前へ進めるように。だから、逃げたくないのよ。ど
んなことからも」


「え・・・」

「それにね。祐巳が祐麒さんとお話しているの、とても楽しそうだったわ。そのお友達
とも。それはきっと、祐麒さんが祐巳にとって、祐麒さんにとってはそのお友達が大切
な人だからでしょう?そう考えると、怖がる必要なんてないんじゃないかって、思える
ようになったのよ」


 完全な不意打ちに祐巳がおろおろとうろたえるのを見ると、祥子さまは少しだけ気ま
ずそうに視線をそらせて、唇を尖らせたけれど。


「だから、さっきまでのは単なる愚痴よ・・・いえ、弱音かしら」

 もう一度祐巳の方へ視線を戻すと、ふっと優しく目を細めて。

「聞いてくれて、ありがとう」

 小さく囁くようにそう言うと、祥子さまはもう一度ぎゅっと祐巳の手を握ってからこ
ちらへ軽く身を乗り出した。


「ふえ!?」

 頬に暖かい吐息が当たると同時に、一瞬だけ柔らかい温もりが訪れる。

「お、お姉さま・・・!?」

 すぐに唇を離した祥子さまが、それでもさっきまでよりもずっと近くで、はにかんで
いるから。頬っぺたにキスされて真っ赤になった顔を隠すこともできずに、更に紅潮さ
せてしまった。


 目線を泳がせると、視界に映った窓も床もシンクも壁も。全てが午後の日差しを受け
止めて、眩暈がするくらいに光り輝いていた。


 だから、こんなにドキドキして、うれしくて仕方がないのに、鼻の奥がつんとしちゃ
うんだ。


『私はただ、あなたの隣に立つのにふさわしい人間になりたい』

 それは何て、誇らしい言葉なんだろう。

 あなたさえいてくれたら良いと言われるより、ずっと側にいて欲しいと言われるより、
祐巳の胸をいっぱいに締め付けて、目の奥をぐんと熱くさせる。


『自分の足で立って、前へ進めるように』

 きっぱりとそう言い切った時の祥子さまの清らかで美しい顔を、自分はきっと生涯忘
れない。


 逃げることは大嫌い。
 祥子さまはいつもそう言って、前に進んできた。負けないように、戦いながら。

 でも、今。祥子さまは澄んだ目で、ただまっすぐに前を見ている。色づきを増した世
界の空気を胸いっぱいに吸い込むように、自信に満ちた表情で。

 祥子さまにそんな表情をさせたのが自分なのだと思うと、いても立ってもいられない
くらいの歓喜の衝撃が全身を駆け抜ける。


 祐巳には祥子さまがいて。祥子さまには祐巳がいて。

 想いあう事で、自分たちは強く、優しくなっていく。

 それは何て、誇らしいことなんだろう。

 涙ぐみそうになった目元に指先を押し当てると頬の熱を感じて。そこがさっき祥子さ
まの唇が触れたところなのだと思い出して、急激にドキドキした。何か言いたいのに、
うれしくてぐちゃぐちゃになった頭では何も上手い言葉が浮かばなくて、祐巳は縋るよ
うに祥子さまはみつめたけれど。重なり合った視線の先で、祥子さまは優しく目を細め
たまま、そっと囁いてくれた。


「大好きよ、祐巳」



                              END

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